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2019年8月28日 (水) 16:00時点における版
仙台市(せんだいし)は宮城県の県庁所在地で、東北地方の中心都市である。「古代」
仙台の地に、鎮守府兼陸奥国府の多賀城の前身に当たる郡山城が置かれた。当時はまだ九州に大宰府は存在せず、郡山城は飛鳥の都に次ぐ“副首都格”の国府であった。簡単に言えば、仙台は“もともと日本の副首都”であった。
聖武天皇の時代、仙台の地に、“七重の塔”を擁する陸奥国分寺と陸奥国分尼寺が造られた。
「中世」
平安時代、郡山城が仙台市の隣の多賀城市に移転し、多賀城が鎮守府兼陸奥国府として東北地方を支配した。
鎌倉時代、源頼朝の側近・伊澤家景が仙台市の隣・利府町に移り住み、多賀城の留守所長官として東北地方を支配した。その子孫も代々、留守所長官として東北地方を支配し、留守氏と呼ばれるようになった。
戦国時代、戦国大名・国分氏の居城が置かれた。国分氏はやがて伊達氏の家臣となる。
「伊達政宗と仙台開府」
1601年、“奥州王”こと伊達政宗が仙台城(通称・青葉城)と城下町・仙台をつくる。当時は江戸(東京)に匹敵する規模を誇った。仙台藩62万石(実際には(実高は)200万石)の中心地であった。
1613年、伊達政宗は徳川家康から“外交権を獲得”し、“西洋への日本初の外交使節”である慶長遣欧使節団を、スペイン、ローマ法王庁などへ派遣した。このようなことができた大名は日本全国で伊達政宗の他にはおらず、これは伊達政宗が“副将軍格”であった事実を示している。
伊達政宗は仙台城下で大名屋敷を中心に植林政策を推進した。その結果、仙台はのちに“杜(もり)の都”と呼ばれるほど緑豊かな都市になった。
「幕末と明治」
幕末には、仙台藩は“北海道の約半分”を領地とした。戊辰戦争で奥羽越列藩同盟(同盟政府)の盟主となる。戦いに敗れて北海道の領地を没収されたうえ、領地を28万石まで削減される。戦後、北海道の開拓を行い、明治政府と共に札幌市を開拓し、単独で伊達市などを開拓し、北海道の開拓史に偉大な功績を残した。
戦後、仙台には陸軍・第二師団(第一師団は東京)が置かれた。そのため仙台は「軍都」と呼ばれた。 同じく第二帝国大学(第一帝国大学は東京)が置かれた。そのため仙台は「学都」と呼ばれた。
仙台に第二師団と第二帝国大学が置かれたことは、当時の仙台の地位の高さを示すものである。
「現在」
第二次世界大戦でアメリカ軍の空襲を受け(仙台空襲)、仙台市は焼け野原になった。国宝をはじめとする様々な文化遺産も焼失した。ここに伊達政宗以来の美しい“杜の都”は消滅した。
戦後、仙台市は市の中心部にけやきの木を街路樹として植え、それが成長して仙台は再び“杜の都”と呼ばれる美しい都市になった。
現在の人口は100万人。政令指定都市でもある。
特産品・名物は、仙台平、仙台箪笥、堤人形、仙台味噌、笹かまぼこ、仙台駄菓子、牛タン焼き。フィギュアスケートと牛タンと冷やし中華の発祥の地。
プロ野球・楽天ゴールデンイーグルスの本拠地。サッカー・ベガルタ仙台の本拠地。バスケットボール・仙台エイティーナイラーズの本拠地。
2011年3月11日、東日本大震災で仙台市の若林区(太平洋側)が大津波の被害を受け、約800人の死者・行方不明者をだした。