「鶴見祐輔」の版間の差分
細 (→外部リンク) |
|||
23行目: | 23行目: | ||
== 外部リンク == | == 外部リンク == | ||
− | *[http://gos.but.jp/turumi.htm 鶴見家系図] | + | * [http://gos.but.jp/turumi.htm 鶴見家系図] |
− | *[http://www.ndl.go.jp/jp/data/kensei_shiryo/kensei/tsurumiyuusuke.html 国立国会図書館 憲政資料室 鶴見祐輔関係文書] | + | * [http://www.ndl.go.jp/jp/data/kensei_shiryo/kensei/tsurumiyuusuke.html 国立国会図書館 憲政資料室 鶴見祐輔関係文書] |
{{先代次代|[[日本進歩党|日本進歩党幹事長]]| |(結成)|[[犬養健]]}} | {{先代次代|[[日本進歩党|日本進歩党幹事長]]| |(結成)|[[犬養健]]}} | ||
{{先代次代|[[厚生大臣]]|第29代:1954年-1955年|[[草葉隆圓]]|[[川崎秀二]]}} | {{先代次代|[[厚生大臣]]|第29代:1954年-1955年|[[草葉隆圓]]|[[川崎秀二]]}} | ||
− | |||
{{DEFAULTSORT:つるみ ゆうすけ}} | {{DEFAULTSORT:つるみ ゆうすけ}} |
2012年3月31日 (土) 16:31時点における版
鶴見 祐輔(つるみ ゆうすけ、1885年1月3日 - 1973年11月1日)は、日本の官僚・政治家・著述家。岡山県(群馬県出身という説もある)生まれ。衆議院議員総選挙第16、19、20、21回当選。参議院議員選挙第3回当選。
来歴・人物
岡山中学、旧制一高、東京帝国大学法科大学(現在の東京大学法学部)を卒業。内閣拓殖局、鉄道省運輸局総務課長を経て、1924年に退官。その後、1928年の第16回衆議院議員総選挙に旧岡山1区から無所属で立候補して衆議院議員に当選。小山邦太郎らとともに明正会結成に参画した。
1930年の第17回衆議院議員総選挙に落選したが、1936年に選挙区を旧岩手2区に移して立憲民政党公認で第19回衆議院議員総選挙に立候補して当選し、政界に返り咲く。以降政党解消まで民政党に所属した。米内内閣で内務政務次官に就任。翼賛政治会および大日本政治会の顧問としても活動。この間、太平洋問題調査会日本支部の中心メンバーとして、日米間の民間外交に大きく貢献、また1938年に設立された国策機関・太平洋協会においても運営の中心となった。国際会議で難しい内容の議論でさえ通訳は無用とされた英語の達者な人物でありスケールの大きな率直な人柄は周囲の信頼を集めた。第二次世界大戦後、日本進歩党幹事長に就任するも、公職追放の憂き目に遭う。
追放解除後、旧民政党系政治家が結集した民政旧友会の結成に参加。民政旧友会の分裂後は新政クラブに所属。1953年に第3回参議院議員通常選挙に全国区から改進党公認で立候補して当選し1期務めた。改進党内では旧民政党系左派の松村謙三・中村三之丞・松浦周太郎らと行動をともにし、その後日本民主党の結成に参加。第1次鳩山一郎内閣では厚生大臣に就任した。保守合同で自由民主党が結成されてからは松村・三木派に所属した。
家族
妻・愛子は後藤新平の娘であり、愛子との間に鶴見和子(社会学者)・俊輔(哲学者)姉弟がいる。歴史学者の鶴見太郎は孫(俊輔の子)。弟の憲は外交官となり、その子(祐輔からみると甥)が鶴見良行(人類学者)である。
主要な著書
- 訳書
関連書籍
外部リンク
|
|
|
|
|