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2011年4月16日 (土) 22:27時点における最新版
田岡 一雄(たおか かずお、1913年3月28日 - 1981年7月23日)は、日本のヤクザ、実業家、芸能プロモーター。暴力団・三代目山口組組長。甲陽運輸社長、芸能事務所・神戸芸能社社長。田岡満、田岡由伎の父(子は異母兄弟)。
目次
経歴[編集]
山口組三代目継承まで[編集]
1913年、徳島県三好郡三加茂町(現東みよし町)の農家に三女、二男の次男として生まれる。両親を早くに亡くし、叔父に引き取られて神戸兵庫区に転居。1925年、浜山小学校卒業し、その年、兵庫尋常高等小学校に進学。卒業後、1927年、川崎造船所に旋盤見習工として入社するが2年後、上司から仕事上の注意をうけ小突かれため、殴って退社。せっぱつまって山口組のゴンゾウ部屋に転がり込み、夜警の仕事に従事しつつ、バラケツ(不良少年)グループに加わっていた。仲間内では喧嘩相手の目を指で突く手口で恐れられ、「クマ」と呼ばれた。あるとき、山口組が用心棒を勤める芝居小屋の舞台に上がり、役者を追い掛け回すという乱暴を働いた。組員に制裁を加えられた上、組長の山口登の前に引き出されたが、登は、このような乱暴者を野においておくよりは盃を与えて正式の組員としたほうが得策だと考え、しばらく行儀見習いに出すことにした。
1936年、二代目山口組組長・山口登から盃を受け、山口組の正式な組員となる。1937年、山口組へ殴り込んできた大長八郎を斬り殺して懲役8年の刑で服役するが、この間の1942年に山口登は死亡した。「皇紀2600年」の恩典で2年減刑され1943年7月に高知刑務所を出所し、数年後に終戦を迎える。戦後、湊川で自らの名を名乗る田岡組という小さな組を構えると、戦後の混乱で警察力が弱体化していた為、街や闇市の警備をする自警団を新開地で結成し、闇市への三国人の干渉を排除したことなどからも一部の人々から人望を集めた。2代目の舎弟である長老たちの推薦により、1946年10月、山口組三代目を継承した。尚、三代目になる前に、外国人グループに襲われた際、菅谷政雄によって助けられている。
三代目山口組組長となって[編集]
当時の組員は僅か三十数人だった。占領下の日本が復興を始めると1949年前後には競輪場や競馬場などの公営競技施設が関西に相次いで設立され、パチンコやスマートボールも流行し、賭博を主な糧道としていたヤクザ社会も変革の時期を迎えた。こうした状況下、田岡は先代から親交のあった興行の世界との義理を果たし、1949年には姉ヶ崎五代目襲名披露に四代目兄弟分として華を添えた。かたわら、浪曲興行を手がけ、平行して神戸港の船内荷役にも進出。これが十数年後には、藤木幸太郎らと結成する全国湾荷役振興協議会や、実演の時代には芸能プロダクション神戸芸能社(美空ひばりや田端義夫らの興行を手がけていた)などの経済活動に結実していく。興行師としての強引な手口も少なくなく、1953年には、有名な鶴田浩二襲撃事件の主犯として全国指名手配になった。この事件以降、山口組の機嫌を損ねるとひどい目にあうという恐怖を芸能界興行界に定着させることになった。1968年1月11日には吉本興業社長、林正之助と共にレコード会社乗っ取り容疑で兵庫県警に逮捕されている。
田岡はかねてから、これからの極道はばくちで生きていくべきではなく、「正業」を持たねばならないというのが持論であった。もともと山口組は博徒とは違い、沖仲仕の組であってヤクザではないとされており、合法事業と非合法事業の両輪で成り立っていた。彼は戦前の山口組の傾向をいっそう推し進め、むしろ彼の代に暴力を背景に「合法事業」を行うという経済ヤクザ化を急激に進めていったといえる。こうして、警察の取り締まりや景気の動向に左右されやすいヤクザ社会において、資金源を確立していった。このため、舎弟や組員の一部を「堅気」の法人団体の長として、一切の組員を持たせず渡世との交渉をさせなかった。このようにして組の計画性と安定をもたらした点は その後の活動に大きな布石となった。
その結果、1950年代から60年代にかけて傘下の団体が全国へ進出、各地で抗争事件を引き起こすなど、世間の恐怖と批判を招いた。安保闘争の時には、児玉誉士夫が田岡に左派の運動を弾圧するように求めるが、田岡はそれを拒み、全学連に資金援助をしていた事実がある。(なお田岡はヤクザの右翼活動には懐疑的だったと言われている)。他方、1963年には田中清玄や菅原通済と連携した麻薬追放国土浄化同盟を結成し、市川房枝らとともに麻薬撲滅運動を展開しているが、横浜に支部(益田組)を出した時には地元勢力とトラブルとなった。 この関東とのトラブルで、山口組は力で“多摩川を越えない”という約束が、児玉誉士夫の調停により関根賢(松葉会)・阿部重作(住吉一家)・並木量次郎(並木一家)・稲川角二(錦政会)との間で交わされた、とされる。
第一次頂上作戦以降[編集]
1964年の「第一次頂上作戦」においては、資金源の要であった神戸港の港湾事業に司直のメスが入り、子飼いの甲陽運輸までも業務監査を受ける惨状となって、山口組は港からの撤退を余儀なくされた。 若頭・地道行雄(地道組組長)が山口組解散へと動くが、幹部会で山本健一(山健組組長)、菅谷政雄(菅谷組組長)、梶原清晴(梶原組組長)、山本広(山広組組長)ら若頭補佐が反対。この結果、地道は失脚し山本健一の力が増すが、1965年に田岡が心筋梗塞で病床にあったこともあり集団指導体制へ移行。 規模に比して斜陽にあったことは否めない。
「第一次頂上作戦」を乗り越えた後も勢力の拡張を続けるが、1978年7月11日には京都のクラブ「ベラミ」で、傘下の佐々木組と対立していた二代目松田組系 大日本正義団の組員・鳴海清に撃たれ負傷した(これにより「第3次大阪戦争」と呼ばれる大規模な拳銃乱射事件が始まり、同年11月に山口組が終結の記者会見を開くまで続いた)。1981年、急性心不全により68歳で死去したが、跡目に内定していた山本健一は獄中にあり、これが後に紛糾の種となった。
神戸水上警察署の一日署長をした経験もあり、自伝によると警察との蜜月時代もあったとされる。青田昇の著書によれば田岡はプロ野球ファンであり戦後の混乱期は地回りの興行組織の機嫌を伺わなければ、試合が開催できずに嫌がらせを受けていたが、山口組の全国進出以後は野球は国民的娯楽だからとそのような慣習なしでも開催できるよう取り計らいをしたという[1]。戒名は永照院仁徳一道義範大居士。
田岡を支えた主な山口組最高幹部[編集]
戦後・昭和20年代[編集]
昭和30年代から頂上作戦[編集]
頂上作戦以降[編集]
脚注[編集]
- ↑ 青田昇『ジャジャ馬一代 遺稿・青田昇自伝」』P316-317
著書[編集]
- 『田岡一雄自伝 -- 山口組 電撃篇』 徳間書店 1973年10月 ISBN 4-19-132335-0
- 『田岡一雄自伝 -- 山口組三代目 迅雷篇』 徳間書店 1974年 ISBN 4-19-132336-9
- 『田岡一雄自伝 -- 山口組三代目 仁義篇』(トクマドキュメントシリーズ) 徳間書店 1974年6月 ISBN 4-19-132337-7
- 『山口組三代目 田岡一雄自伝<電撃篇>』 徳間文庫 徳間書店 1982年6月 ISBN 4-19-597322-8
- 『山口組三代目 田岡一雄自伝<迅雷篇>』 徳間文庫 徳間書店 1982年7月 ISBN 4-19-597334-1
- 『山口組三代目 田岡一雄自伝<仁義篇>』 徳間文庫 徳間書店 1982年7月 ISBN 4-19-597335-X
- 『山口組三代目 田岡一雄自伝』 徳間書店 2006年10月 ISBN 4-19-862238-8 (『週刊アサヒ芸能』創刊50周年特別企画)のち同文庫全3巻
関連書籍[編集]
- 飯干晃一『山口組三代目・〈1,野望篇〉』 角川文庫1989年
- 飯干晃一『山口組三代目・〈2,怒涛篇〉』 角川文庫1989年
- 田岡由伎『お父さんの石けん箱』 ベストセラーズ 1991年 ISBN 4-584-00751-9
- 田岡由伎『お父さんの石けん箱 -- 愛される事を忘れている人へ』(角川文庫) 角川書店 2003年 ISBN 4-04-369501-2
- 猪野健治『三代目山口組 田岡一雄ノート』ちくま文庫 2000年 ISBN 4480036008
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