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同名の[[アニメ]]映画『火垂るの墓』が[[新潮社]]の製作で[[1988年]][[4月16日]]から[[東宝]]系で公開された。制作は[[スタジオジブリ]]、監督・脚本は[[高畑勲]]。ストーリーは原作をほぼ忠実になぞっているが、後半部分の演出、特に節子の死のシーンの描写などはアニメオリジナルである<ref>原作では、清太が池で泳いでいる間に死んでいる。</ref>。挿入歌として[[アメリータ・ガリ・クルチ]]の「[[埴生の宿]](原題:Home,Sweet Home)」が使われた。英語版タイトルは「Grave of the Fireflies」。
 
同名の[[アニメ]]映画『火垂るの墓』が[[新潮社]]の製作で[[1988年]][[4月16日]]から[[東宝]]系で公開された。制作は[[スタジオジブリ]]、監督・脚本は[[高畑勲]]。ストーリーは原作をほぼ忠実になぞっているが、後半部分の演出、特に節子の死のシーンの描写などはアニメオリジナルである<ref>原作では、清太が池で泳いでいる間に死んでいる。</ref>。挿入歌として[[アメリータ・ガリ・クルチ]]の「[[埴生の宿]](原題:Home,Sweet Home)」が使われた。英語版タイトルは「Grave of the Fireflies」。
  

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文学
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火垂るの墓』(ほたるのはか)とは野坂昭如小説1945年兵庫県神戸市近郊を舞台とし、親を亡くした幼い兄妹が終戦前後の混乱の中を必死で生き抜こうとするが、その思いも叶わず悲劇的な死を迎えていく姿を描いた。

野坂独特の饒舌かつ粘っこくて緻密な文体に加え、戦時下での妹との死別という実体験や情念も盛り込まれ、独特の世界観と感慨を読者に与えてくれる。文藝春秋オール讀物』昭和42年10月号に掲載され、「アメリカひじき」と共に、第58回直木賞(昭和42年下半期)を受賞する。1968年に『アメリカひじき・火垂るの墓』として文藝春秋より単行本化。現在も新潮社より文庫本が出ている。 他「滝田ゆう」により漫画化されており、宙出版「怨歌劇場」に収録されている。

本項では、上記の小説を原作とした同名の映像作品についても扱う。


注意以降に核心部分が記述されています。

あらすじ[編集]

1945年9月21日、清太は省線三ノ宮駅構内で衰弱死した。清太の所持品は錆びたドロップ缶。その中には節子の小さな骨片が入っていた。駅員がドロップ缶を見つけ、無造作に草むらへ放り投げる。地面に落ちた缶からこぼれ落ちた遺骨のまわりにがひとしきり飛び交い、やがて静まる。

太平洋戦争末期、兵庫県御影町[1](現在の神戸市東灘区)に住んでいた4歳の節子とその兄である14歳の清太は6月5日空襲で母もも失い、父の従兄弟未亡人である西宮市の親戚の家に身を寄せることになる。

やがて血の繋がりのない節子と清太を、小母は邪険に扱うようになる。二人の兄妹は家を出ることを決心し、近くの池[2]のほとりにある防空壕[3]の中で暮らし始めるが、配給は途切れがちになり、情報や近所付き合いもないために思うように食料が得られず、節子は徐々に栄養失調で弱っていく。清太は、畑から野菜を盗んだり、空襲で無人の人家から物を盗んだりしながら生き延びる。やがて日本が降伏し戦争は終わった。敗戦を知った清太は、父の所属する連合艦隊も壊滅したと聞かされショックを受ける。

節子の状態はさらに悪化し、清太は銀行から貯金を下ろして食料の調達に走るが既に手遅れで、幼い妹は終戦の7日後に短い生涯を閉じた。節子を荼毘に付した後、清太は防空壕を後にして去っていくが、彼もまた栄養失調に冒されており、身寄りもなく駅に寝起きする戦災孤児の一人として死を待つのみであった。


作品の背景[編集]

野坂昭如の実体験が色濃く反映された半ば自伝的な要素を含む小説である。6月5日の神戸大空襲により自宅や家族を失ったことや、焼け跡から食料を掘り出して西宮まで運んだこと、美しい蛍の思い出などはすべて作者の経験に基づくものである。また野坂は戦中から戦後にかけて二人の妹(野坂自身も妹も養子であったため、血の繋がりはない)を相次いで亡くしており、死んだ妹を自ら荼毘に付したことがあるのも事実である。しかしながら西宮の親戚の家に滞在していた当時の野坂はその家の美しい娘に夢中であり、幼い妹(物語とは異なりまだ1歳で、後に疎開先の福井で亡くなった)のことなどあまり気にかけることなく、中学生らしい淡い初恋に心をときめかせていたという。また食糧事情は悪かったものの、小説のようなひどい扱いは実際には受けておらず、家を出て防空壕で生活したという事実もない。[4]

野坂は、まだ生活に余裕があった時期に病気で亡くなった上の妹には兄としてそれなりの愛情を注いでいたものの、家や家族を失い、自分が面倒をみなくてはならなくなった下の妹のことはどちらかといえば疎ましく感じていたと認めており、泣き止ませるために頭を叩いて脳震盪を起こさせたこともあったという。西宮から福井に移り、さらに食糧事情が厳しくなってからはろくに食べ物も与えず、その結果として、やせ衰えて骨と皮だけになった妹は誰にも看取られることなく餓死している[5]

こうした事情から、かつては自分もそうであった妹思いのよき兄を主人公に設定し、平和だった時代の上の妹との思い出を交えながら、下の妹へのせめてもの贖罪鎮魂の思いを込めてこの作品を著したのである。 その意味では二人を冷たく突き放した親戚の小母もまた、自分が生き抜くことだけで精一杯で妹を死なせてしまったという野坂自身の悔恨が投影された姿であると言えるのかもしれない。

アニメ映画版[編集]

同名のアニメ映画『火垂るの墓』が新潮社の製作で1988年4月16日から東宝系で公開された。制作はスタジオジブリ、監督・脚本は高畑勲。ストーリーは原作をほぼ忠実になぞっているが、後半部分の演出、特に節子の死のシーンの描写などはアニメオリジナルである[6]。挿入歌としてアメリータ・ガリ・クルチの「埴生の宿(原題:Home,Sweet Home)」が使われた。英語版タイトルは「Grave of the Fireflies」。

主なキャスト[編集]

清太(設定年齢は14歳)の声を担当した辰巳努は当時16才、節子(4歳)の声を担当した白石綾乃は当時6才で、共に『火垂るの墓』の舞台と同じ関西地区の出身者だった。また清太、節子の母の声を担当した志乃原良子も大阪出身である。他にも、同じ関西が舞台である高畑の作品『じゃりン子チエ』に出演経験のある山口や表淳夫も含めた関西出身の俳優が多数出演していた。ちなみに辰巳は実写版の『じゃりん子チエ』にエキストラとして出演したことがある。

スタッフ[編集]

キャッチコピー[編集]

  • 「4歳と14歳で、生きようと思った」(糸井重里)。
  • 「忘れものを、届けにきました」(となりのトトロとの共通キャッチコピー)

賞歴[編集]

  • 日本カトリック映画大賞
  • ブルーリボン特別賞
  • 文化庁優秀映画
  • 国際児童青少年映画センター賞
  • シカゴ国際児童映画祭・最優秀アニメーション映画賞を受賞。同映画祭の子供の権利部門第1位に選出。
  • 第1回モスクワ児童青少年国際映画祭・グランプリを受賞。

製作の経緯[編集]

映画『火垂るの墓』は、1988年の公開時、宮崎駿監督作品『となりのトトロ』と同時上映されている。先に企画された『となりのトトロ』は、当初、60分程度の中編映画として企画されており、単独での全国公開は難しかった[7]。そこで同時上映作品として高畑勲監督作品『火垂るの墓』の企画が決定したという経緯が伝えられている。最終的に、両作とも上映時間は90分近くなり、長編2本体制で公開された。アニメ映画界の二大巨頭の代表作、しかも作風も物語も印象も全く相反する内容の作品を一緒に観ることができたが、当時としてみれば地味な素材であった上、東宝宣伝部が消極的だったことや[8]、高畑・宮崎両監督の一般的な知名度も現在ほどではなく、公開日が春休み後の中途半端な時期でもあったため、配給収入は5.9億円と伸び悩んだ。評論家からは好評で『キネマ旬報』誌の日本映画ベストテンでは6位に食い込んでいる。

両映画の制作はスタジオジブリで同時に進行した。宮崎は先に自らの監督した『天空の城ラピュタ』を引き続き確保し、高畑はスタッフはゼロの状態からスタッフを確保することになった。東映動画でも長編作品を2本同時進行したことはなかったといい、高畑・宮崎の信頼に耐える主要スタッフ(アニメーター)は限られており、人員のやりくりに制作側は苦慮することになった[9]。特に揉めたのが作画監督の近藤喜文の処遇であった。

徳間書店社長・徳間康快の要請を受け、野坂の原作小説を文庫として販売している新潮社が『火垂るの墓』の出資・製作となっている。新潮社がメディアミックスで映像製作に携わる初めてのケースとなった。こうした経緯もあって、ビデオやLDは徳間系列ではないパイオニアから発売され、現在入手できるDVDも、ジブリ作品としては例外的にワーナーの扱いとなっている。

当初は両作とも60分であったが、高畑の『火垂るの墓』の時間が長くなると、対抗するように宮崎の『となりのトトロ』の時間も延び[10]、結果的に長編2本の同時進行となった。質を落としたくない高畑勲は公開の延期を申し出たが、1988年4月の公開時点で清太が野菜泥棒をして捕まる場面など未完成のシーンが残ったままとなり、その部分は色の付かない白味・線撮りの状態で上映された。公開後も制作を続け、後に差し替えられている。

わずかながらも未完成のままでの劇場公開という不祥事に、高畑勲はいったんアニメ演出家廃業を決意したが、後に宮崎駿の後押しを受けて『おもひでぽろぽろ』で監督に復帰することになる要出典

監督の意図[編集]

高畑勲は、本作品について「反戦アニメなどでは全くない、そのようなメッセージは一切含まれていない」と繰り返し述べたが、反戦アニメと受け取られたことについては当然だろうとしている。高畑は兄妹が2人だけの閉じた家庭生活を築くことには成功したものの、社会生活には失敗した姿が現代に通じるものであると制作する意義を解説し、現代の高校生から20代に共感してもらいたいと語っている[11][12]

テレビ放映[編集]

日本テレビ系で放送されている『金曜ロードショー』では二年に一度、8月の終戦記念日前後にこの作品を放映するのが恒例となっているが、1990年2007年は清太の命日である9月21日に放映された。他にも1997年2003年は節子の命日である8月22日に放映されている。

 その他[編集]

  • 『となりのトトロ』のような楽しいアニメを見ようと映画館を訪れ、楽しいトトロを見た後に『火垂るの墓』を見て、衝撃を受ける、涙が止まらない、茫然自失で席から立ち上がれない観客が続出したという[13]
  • 韓国では翌年の1989年4月に公開された。日本を被害者として美化しているという批判もあったが、一方で普遍的な良心に基づいた共感もあり、賛否が分かれた。しかし竹島を巡る領土問題により、反日感情が再び高まった2005年の再公開の予定が中止になった[14]
  • 舞台となった西宮市の西宮回生病院、香櫨園浜、夙川駅夙川公園ニテコ池(貯水池)、神戸市の御影公会堂や御影小学校、石屋川、三ノ宮駅などは現在も存在している。これらモデルとなった場所を訪ねる人は絶えず、地域史研究の一環として地元の教育委員会が見学会を催すこともある。尚、ニテコ池へは阪神電鉄西宮駅より阪神バスの「山手線」もしくは「鷲林寺線」で「満池谷(まんちだに)」下車すぐである。

テレビドラマ版[編集]

テンプレート:独自研究S 終戦60年スペシャルドラマ『火垂るの墓-ほたるのはか-』として2005年11月1日21:00 - 23:54に日本テレビ系列で放送された。『ドラマ・コンプレックス』第一弾番組でもある。撮影は当時の風景を可能な限り再現するために、神戸周辺のみならず日本各地をロケして行われた。視聴率は21.2%を記録した。2008年4月6日6月20日にはWOWOWにて再放送されている。

アニメ版とは視点が異なり(小母の長女からの視点として、語り部的役割も同長女が担う)、清太と節子よりもむしろ親戚の小母を中心に描かれている。それ以外にも、なつ・善衛といった小母の家族を温情的(清太・節子に対し冷酷な小母の態度・行動を非難させる場面を盛り込む等)な人物とし、その上で、後々の小母に対する理解を語らせるなど、小母を一方的に悪役として描いたアニメ版に対する反省でも込めたかのような作りになっている。戦争の悲惨さを素直に受け取った肯定的な反響も大きかった反面、供養もしない上での河川への散骨、また過去の辛い話をまるで良い思い出話であるかのように微笑みながら話す現在の描写などは賛否両論である。さらに、直接的に「 - のせい」というような台詞は盛り込まれていない原作およびアニメ版に対し、ドラマ版では戦時日本の軍国主義に対する直接的な批判や思想が、小母の台詞にいくつも含まれていた。その点では、当時の日本の国策に対して責任を転嫁したとも取れる内容であったかもしれない。中でも小母の「死んだら負けよ」という台詞に対しては、「死にたくて死んだ訳でもない人々に対して気の毒だ」もしくは「清太と節子は死んでも良かったのか?」などの意見が、放映直後公式サイトBBSへ多数寄せられたのも事実である。

原作およびアニメ版とは大きく異なる設定としては以下のような点があげられる。

  • 小母さん一家は東京から西宮に疎開してきたという設定になっている。
  • 小母さんは父の従兄弟の配偶者ではなく母の従姉妹であり、遠いながらも清太たちと血縁関係がある。
  • 節子のドロップは小母さんがプレゼントしたものとなっており[15]、またドロップ缶も清太の死後小母さん親子が引き取っている。
  • 清太の通う学校が、野坂の母校でありアニメ版のモデルとされる神戸市立中[16]ではなく、その当時全国屈指の進学校であった県立神戸一中に設定されており、エリート軍国少年としての性格が強調されている。
  • 小母さんの子供は2人から4人に増え、末の弟は病弱である。また家族のそれぞれに名前と性格が与えられ、特に長女であるなつは語り部として重要な役割を担っている。
  • 原作では既に未亡人という設定であったが、ドラマでは清太たちを預かった後に戦死公報が届き、それまでの優しかった態度が急変するきっかけとして描かれている。
  • 原作では下宿人であった同居男性は足の不自由な義理の弟とされ、食糧事情が厳しくなった結果、貯金を取り上げられ最後には家を出ていってしまう。

なお、ドラマ版の製作に当たって野坂昭如は「ドラマは、原作を離れて自由である。ぼくの小説が戦後六十年経った現在、違う形となり、今を生きる人たちに、戦争の惨たらしさを少しでも伝えられれば、原作者として有難いこと」とのメッセージを寄せている。

キャスト[編集]

スタッフ[編集]

撮影協力[編集]

実写映画版[編集]

2008年7月5日公開予定。黒木和雄監督により企画が進行していたが、黒木が死亡したため、黒木を師と仰ぐ日向寺太郎が監督となった。

舞台となる兵庫県で撮影が行われた。

キャスト[編集]

スタッフ[編集]

映像版の時代描写[編集]

アニメ映画版[編集]

テンプレート:独自研究S 高畑勲のリアリズム志向により、1945年当時の風景が忠実に再現された[17]。作画に参加した庵野秀明が、神戸港での観艦式(清太の回想)の場面の軍艦(高雄型重巡洋艦摩耶」)を出来るだけ史実に則って描写する事を求められ、舷窓の数やラッタルの段数まで正確に描いたという逸話が残されている。もっとも完成した映画ではすべて影として塗りつぶされ、庵野の努力は徒労に終わった[18]。しかしながら、こうしたリアル志向の作画は、前年に公開された『王立宇宙軍 オネアミスの翼』とともに、その後のアニメのメカ描写に大きな影響を与えたといわれる。

また、登場人物の会話はすべてネイティヴな関西弁であり、通常のアニメにありがちな違和感はまったく感じられない。「キイキ悪い[19]」、「(二本松の)ねき[20]」などといった現在ではほとんど使われることがなくなった古い表現も、原作小説のままに使用されている。ただ、いわゆる神戸弁を話すキャラクターは一人も登場せず、大阪弁に近い言い回しに統一されている点は、御影と西宮という阪神間が舞台であることを差し引いてもやや不自然な印象を受ける。

脚本に関しては、主人公の行動等で理解に苦しむ部分も幾つか指摘されている。西宮のおば以外の親戚や知人を必死で探してでも頼ろうとしないことや、働きもせずに遊んでばかりいるかのような描写[21]、防空訓練に参加しない理由などの説明不足[22]、旧海軍において士官[23]戦死した場合には、恩給や海軍義済会(海軍軍人による互助機関)などにより遺族に対して手厚い補償と保護が行われる[24]ため、幼い兄妹が惨めな死に方をするという状況は考えにくい点などである(宮崎駿もこのことから本作の設定に苦言を呈している)。 さらに清太が持っていた貯金7000円は当時としては大金であり(昭和20年では白米10㎏で6円)、劇中で描かれるほど簡単には使い尽くされない。ちなみにインフレーションは敗戦後である。戦時中は食料価格は国によって厳しく管理されていた。

このため本作品で描写されている悲劇は、あくまでも戦後ヒューマニズム思想に基くファンタジーであり、史実に則ったものではないとする批判意見も存在する。これらの設定はほぼ原作に準拠した内容であり、アニメ化に際して大きく改変されたものではない。野坂の原作そのものに問題があったとは宮崎の評である。

テレビドラマ版[編集]

ドラマ版では、優しかった小母が徐々に冷たくなっていく過程を描くことで、戦時中は誰もがぎりぎりの生活を強いられていたことが強調された。ただし、ドラマ版の小母は、関西弁の話せない松嶋菜々子に合わせて東京の人間に改変されていたり、二人を追い出す行為をより正当化するために病気の子を養っている設定が追加されたこと、さらには清太の家と小母の家を、服装や門構えなどにおいて明らかに経済的格差があるかのように描き分けるなど、一概に「原作やアニメ版を深く描いた」と言えない部分もある。

小母の行動はアニメ版とは異なり、食糧盗難のかどで補導された清太を、一度保護しておきながら家での引取りを拒むなど、より徹底して残酷になっている。その反面、終戦後は娘とともに二人を探しに向かうなど一貫性が無く、やや奇異な印象を受ける。いずれにせよ、戦争という極限状態では、兵士のみならず誰もが加害者になりうるという例を示すことによって、反戦色を強く打ち出した作品であり、その製作意図はエンドロールの背景に映し出されたイラクの子供たちの姿にも明確に表現されている。

また、一人残された清太が三ノ宮駅で餓死するシーンには、「戦災孤児の保護が法律で定められた翌日のことでした」とのナレーションが重ねられた。現代の基準では、清太が警察に補導された時点で児童相談所等に通告され、弱った節子とともに保護されるべきものだが、劇中では警官が引取りを求めるだけで公的機関は何もすることはなかった。そうしたシーンを新しく挿入した背景には、当時の日本の児童福祉の貧弱さがあり、その大切さを考えさせる意図もあったと推測される。

清太の学校が神戸一中とされたのは、海軍兵学校を目指す秀才という設定に加えて、アニメ版でも描かれているように市立中学は戦災で全焼しているため、空襲による被害を免れ、当時の資料を多く残す神戸高校に協力を依頼したという事情もあると考えられる。このため父親の出征シーンでの清太は、戦前の神戸一中独特の特徴ある色の学生服を着用している。

その他[編集]

  • 野坂昭如はこの作品を執筆していた当時、他にも小説やコラムなどの仕事を何本も抱え込んでいたと後に語っている。ひたひたと忍び寄る締め切りと何人もの担当者とのやり取りで受けるプレッシャーに晒され、まさに地獄のような日々の中でなんとか原稿を仕上げていた大変な時期だったという。また、孫娘の学校での宿題の「火垂るの墓の作者は、どういう気持ちでこの物語を書いたでしょうか」という問いに対し、「締め切りに追われ、ヒィヒィ言いながら書いた」と答えたと、テレビ番組で発言した。
  • テレビドラマ版は節子が死去した直後のCMでコンビニエンスストアの「北海道うまい物フェア」のCMが流れ、一部で『もう少し考るべき』との批判が起きた。伊集院光も自身のラジオ内にて批判した。

関連項目[編集]

脚注[編集]

  1. 清太・節子一家が住んでいたとされるのは、武庫郡御影町上中・上西。現在の神戸市東灘区御影本町6丁目・8丁目あたりである。
  2. 西宮市満池谷町、現在の夙川公園北東部付近にある貯水池(ニテコ池)がモデル
  3. ニテコ池のほとりに実在した壕。野坂自身もたびたび避難したという。
  4. 野坂昭如『私の小説から』(1969年
  5. 野坂昭如『五十歩の距離』
  6. 原作では、清太が池で泳いでいる間に死んでいる。
  7. 叶精二『宮崎駿全書』フィルムアート社、2006年、p113
  8. 叶精二『宮崎駿全書』フィルムアート社、2006年、p123
  9. 鈴木敏夫『映画道楽』ぴあ、2005年、p101-p102
  10. 鈴木敏夫『映画道楽』ぴあ、2005年、p107-p108
  11. アニメージュ1988年5月号に掲載インタビュー
  12. 高畑勲『映画を作りながら考えたこと』徳間書店、1991年、p471
  13. 竹熊健太郎編『庵野秀明 パラノエヴァンゲリオン』太田出版、1997年、p72
  14. アニメ『火垂るの墓』今年公開が取り消しに」『朝鮮日報』2005年4月11日
  15. 節子の骨を収めることになるドロップ缶がその時に貰ったものであるかどうかは明示されていないが、1945年にはサクマ製菓はすでに操業を停止しており、商品もほとんど流通していなかったことから、同一のものという設定であると考えるのが自然である。
  16. 清太の家から通学圏内にある旧制中学校で、6月5日の空襲で全焼したのは市立中のみであることから。なお、原作には学校が被災したという記述はなく、勤労動員で神戸製鋼所に通っていたこと以外には、特に校名を推測させる記述はない。
  17. ただし、空襲時の警防団員の描き分けや警察官の制服の生地色や正肩章の装着、佩剣が乗馬勤務者用のものであり釣環の数も多い、略帽を着用していないなど、資料が偏る傾向もみられる。
  18. 竹熊健太郎編『庵野秀明 パラノエヴァンゲリオン』太田出版、1997年、p69-p70
  19. 体調が悪い、病気の意
  20. 脇、近くという意味
  21. 原作には水汲みなど家の手伝いもしている描写がある。
  22. 原作小説においては、神戸の近い親戚はみな焼け出されて音信不通。訓練に参加しない理由は大空襲を経験したトラウマと、消火活動の無力さを身をもって知ったからと説明されている。
  23. 父の地位は原作では海軍大尉だが、アニメ版およびドラマ版では大佐とされている。
  24. 父親の戦死は原作でもアニメでも確定事項としては描かれておらず、単に清太が勝手に思い込んだだけとも解釈できる。

外部リンク[編集]

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