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きたの たけし 北野 武
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2000年5月、第53回カンヌ国際映画祭にて
| |
本名 | 北野 武 |
---|---|
別名 | |
生年月日 | 1947年1月18日 |
没年月日 | 年 月 日 |
出生地 | 東京都足立区 |
死没地 | |
国籍 | |
民族 | |
身長 | |
血液型 | |
職業 | 映画監督 |
ジャンル | |
活動期間 | |
活動内容 | |
配偶者 | |
家族 | |
公式サイト | OFFICE-KITANO WEB SITE |
主な作品 | |
「戦場のメリークリスマス」(出演) 「その男、凶暴につき」(監督) 「HANA-BI」(監督) | |
受賞 | |
1990年 トリノ国際映画祭・特別賞 1993年 タオルミナ国際映画祭・カリッディ金賞 1997年 ヴェネチア国際映画祭・金獅子賞 1999年 レジオンドヌール勲章・シュヴァリエ章 2002年 ダマスカス国際映画祭・最優秀作品賞 2003年 ヴェネチア国際映画祭・銀獅子賞 2003年 シッチェス・カタロニア国際映画祭・グランプリ 2003年 トロント国際映画祭・グランプリ 2006年 ガリレオ2000賞・文化特別賞 2007年 ヴェネチア国際映画祭・監督ばんざい!賞 2008年 モスクワ国際映画祭・特別功労賞 2008年 テッサロニキ国際映画祭・ゴールデン・アレクサンダー名誉賞 2010年 芸術文化勲章・コマンドゥール章[1][2] | |
備考 | |
北野 武(きたの たけし、1947年1月18日生まれ)は、日本の映画監督。東京都足立区出身。明治大学工学部中退。他にお笑いタレント、俳優、作家、司会者、歌手、東京芸術大学大学院映像研究科教授としても活躍。文筆活動などでの別名として、ビート たけし。
人物[編集]
格闘技では自身もジムに通った経験を持つボクシングを好み、映画『キッズ・リターン』を作った。映画の中で人を殴るシーンや『座頭市』における逆手斬りのフォームには影響が垣間見える。浅草時代を知る石倉三郎は「タケちゃんのケンカはボクシングスタイルで結構パンチも早かった」と述べている。なお、たけし自身は1963年の高山一夫対勝又行雄戦、1971年の金沢和良対ルーベン・オリバレス戦をベストマッチに挙げている。その一方で、1987年のたけしプロレス軍団にまつわる騒動において苦い経験もした。また、空手で骨折し拳の一部が変形している。
タップダンスに対する思い入れが深く、毎日練習を欠かさず行なう。映画『座頭市』の撮影では踊るシーンがないのにもかかわらず練習をしていた。日本国外への移動にもタップシューズを持参する。
ピアノを弾くのはバイエル、ツェルニー、そしてソナチネ(練習曲から本格的な楽曲へ移る分岐点にあたる)までで、それ以上の域に到達する必要はないと言う。ピアノ奏者レベルまで目指すのは本末転倒で、タップもピアノも「真剣にやろうと思えばやれる」ところまで到達し、それ以降はいかにアレンジして見せるかを考えるのが芸人の仕事だと語った。
監督業においては黒澤明、深作欣二、大島渚、小津安二郎、フェデリコ・フェリーニ、ジャン=リュック・ゴダール、デヴィッド・リンチらに影響を受けた。
来歴[編集]
幼少時代[編集]
東京都足立区島根町にて、ペンキ職人の父(北野菊次郎)と、母(北野さき)の四男(次男が夭折し、実質は三男として育つ)として生まれ、「竹のようにどんなものにも耐えてすくすく伸びてほしい」との願いから、「武」と命名された。色白で細面、身体は小さいが俊敏で友人からは「ターチ」と渾名された。兄姉とは年が離れていたため、祖母のうしに非常に可愛がられて育った。
足立区立梅島第一小学校に入学。教育熱心だった母の薫陶が功を奏し成績は優秀で、特に算数と図画工作が得意だった。小学校卒業後は母親が進学校を希望したため、近隣の中学ではなく、遠く離れた足立区立第四中学校へ越境入学した。中学卒業後、東京都立足立高等学校に入学。なお、小・中・高といずれも野球部に所属(高校は軟式野球部)したが、高校時期にヨネクラボクシングジムでボクシングを習っていた。なお、演芸場時代は漫才師の野球チーム『メダトーズ』に加入していた。
大学時代[編集]
1965年に 高校を卒業後は母親の薦めで、明治大学工学部(後の理工学部)機械工学科に現役合格し入学。しかし、大学での生活には適応できず、五月病を患うようになり、大学2年の時には、家出同然に一人暮らしを始め、新宿界隈で当てのない日々を送るようになる。
学生運動にも参加したが熱心ではなく、ジャズに傾倒する。"LeftyCandy" やジャズ喫茶の新宿ACB(アシベ)、名曲喫茶の風月堂などに入り浸った。また、ジャズ喫茶のボーイもしたが、ジャズの見識は一部で有名であった。新宿のジャズ喫茶『ビザール』では、若松孝二、小水一男らと知り合う。『ヴィレッジ・ヴァンガード』で、早番のボーイとして働いていた時は、連続射殺事件で逃走中だった永山則夫が遅番のボーイとして働いていた。『ジャズ・ビレッジ』の壁に書かれていた文章「強く生きよと母の声、死ねと教えし父の顔、何のあてなき人生なり」が心に残ったという[3]。
この頃は友人の下宿に居候しアルバイト三昧の青春時代を過ごし、ジャズ喫茶以外にも、菓子の計り売りや実演販売員、ビルの解体工、クラブのボーイなどを転々とする。羽田空港の荷役業では、ジャズ喫茶の常連客だった中上健次と共に働いた。のち通訳になろうと思い立ち、留学費用を稼ぐ目的でタクシーの運転手を務めるも半年で退社、ガソリンスタンドでアルバイトをした。この間、若松との縁で『新宿マッド』『腹貸し女』など、幾つかの若松プロ初期作品に端役ながら出演[4]したり、学生演劇に参加したが、ヴォードヴィルのような軽演劇で、舞台役者ではなく構成に携わっていたという。
大学は140単位のうち106単位まで取得していたが、通学せずに除籍。しかし、2004年9月7日、明治大学より「特別卒業認定証」[5]及び知名度アップに貢献したとして「特別功労賞」を受けた[6]。これにより、最終学歴は明治大学工学部卒業となり、学校教育法第104条および学位規則第2条の規定に従って「学士(工学)」の学位が与えられた。
この後、お笑いタレント、司会者、俳優、作家、歌手などを経験する。
映画監督[編集]
『その男、凶暴につき』(1989年)は、監督・深作欣二、主演・ビートたけしで映画化を予定し、配給の松竹は両者の間で交渉を進めたが、スケジュールや条件で合致せず、深作が監督を辞退した。そこで松竹は人物的魅力と話題性から、たけし(以下、映画の項目では映画監督での活動名(本名)での「北野」で表記)に監督を依頼したところ、テレビの仕事と両立させることを前提として承諾。1週間おきの撮影という珍しい形態が採用された。映画監督・北野武としてのデビュー作『その男、凶暴につき』は1989年に予定通り公開された。
1994年8月2日午前1時40分、東京都新宿区の都道で飲酒運転での原動機付自転車事故を起こし、入院生活などで半年間テレビへの出演が出来なかった。酒気帯び運転にて書類送検されたが起訴猶予。退院時、暫くは顔面の半分が麻痺した状態であったが、リハビリにより回復した。
1997年、映画『HANA-BI』が、第54回ヴェネツィア国際映画祭で日本作品として40年ぶりとなる金獅子賞を受賞した。発表直後、北野は「異分野出身者でも大きな賞を取れると示すことができ、これから映画を目指す者に刺激になったと思う」と語った。授賞式では「また日伊同盟を組んで他国を攻めよう」(With Italy let's go to America to war) と英語でスピーチ。帰国時の記者会見で現地の土産物屋で購入した金獅子像のミニチュア(約280円)を披露して笑いをとった。
第52回カンヌ国際映画祭(1999年)コンペティション部門に正式参加した映画『菊次郎の夏』で約5分間のスタンディングオベーションを受けた。
2005年4月、フランスの『カイエ・デュ・シネマ』創刊600号記念号の特別編集長を務める。カイエ・デュ・シネマは300号から100号毎に映画人を編集長に招いて記念号を発行しており、過去に記念号の編集長を務めた映画監督は、ジャン=リュック・ゴダール[7](300号)、ヴィム・ヴェンダース(400号)、マーチン・スコセッシ(500号)などがいる。
2005年4月、東京芸術大学で新設された大学院映像研究科の教授および映画専攻長に就任した(監督領域の教授は北野含めて2名のみ)。北野大も淑徳大学教授であったので兄弟で教授となった。
2007年5月、カンヌ国際映画祭60周年特別記念企画 "To Each His Own Cinema"(それぞれのシネマ)に世界5大陸25か国から選出された35名の著名な映画監督の中で唯一の日本人として名を連ねた。
2007年8月、第64回ヴェネツィア国際映画祭にて、北野の映画監督作「監督・ばんざい!」に基づき "GLORY TO THE FILMMAKER" 賞が新設され、表彰式に出席した。
2008年6月19日、第30回モスクワ国際映画祭で「特別功労賞」 (Life-time Achievement Award) を受賞。2003年の新藤兼人に次ぐ2人目の日本人受賞者となった。20日の会見では「ロシアの人は自分(北野)を過大評価している」「数々の芸術家が出ているロシアで表彰されるのは恥ずかしい」と語った。
監督作品[編集]
- その男、凶暴につき(1989年)
- 3-4×10月(さんたいよんえっくすじゅうがつ)(1990年)
- あの夏、いちばん静かな海。(1991年)
- ソナチネ(1993年)
- みんな〜やってるか!(1995年)
- キッズ・リターン(1996年)
- HANA-BI(1998年)
- 菊次郎の夏(1999年)
- BROTHER(2001年)
- Dolls(2002年)
- 座頭市(2003年)
- TAKESHIS'(2005年)
- 監督・ばんざい!(2007年)
- アキレスと亀(2008年)
- アウトレイジ(2010年)
出演作品[編集]
戦場のメリークリスマスで注目され、Johnny Mnemonicでハリウッドデビューも果たした。自分以外の作品に出演する際は監督に意見しないようにしているという。
- ゆけゆけ二度目の処女(1969年、エキストラ出演)
- まことちゃん(1980年、アニメ映画に声優で本人役カメオ出演)
- すっかり…その気で!(1981年、初主演作品)
- マノン(1981年)
- 戦場のメリークリスマス(1983年、大島渚監督、友川かずきの代役)
- 十階のモスキート(1983年、崔洋一監督)
- 哀しい気分でジョーク(1985年、瀬川昌治監督)
- 夜叉(1985年、降旗康男監督、高倉健主演)
- コミック雑誌なんかいらない!(1986年、滝田洋二郎監督、内田裕也主演)
- ほしをつぐもの(1990年)
- 教祖誕生(1993年、天間敏広監督、たけし原作)
- Johnny Mnemonic(1995年、ロバート・ロンゴ監督)
- GONIN(1995年、石井隆監督)
- Tokyo Eyes(1998年、ジャン・ピエール・リモザン監督)
- 御法度(1999年、大島渚監督)
- バトル・ロワイアル (映画)(2000年、深作欣二監督)
- バトル・ロワイアル 【特別篇】(2001年、深作欣二監督)
- バトル・ロワイアルII 【鎮魂歌】(2003年、深作欣二・深作健太監督)
- 血と骨(2004年、崔洋一監督)
- ギララの逆襲/洞爺湖サミット危機一発(2008年、河崎実監督)
出演ドラマ[編集]
★印は連続ドラマ。
- 刑事ヨロシク(1982年、TBS)★
- 昭和四十六年 大久保清の犯罪(1983年、TBS) - 大久保清役
- 学問ノススメ(1984年、TBS)★
- イエスの方舟(1985年、TBS)
- 雨の降る駅(1986年、TBS)
- 立体ドラマ5時間 1987年の大晦日「昭和大つごもり」(1987年、フジテレビ) - 脚本:倉本聰
- 美空ひばり物語(1989年、TBS) - 田岡一雄役
- 浮浪雲(1990年、TBS)★ - 視聴率的には振るわず、自身でもしばらくの間「はずれ雲」とネタにしていた。
- 忠臣蔵(1990年、TBS) - 大石内蔵助役
- 実録犯罪史シリーズ 金(キム)の戦争 ライフル魔殺人事件(1991年、フジテレビ)
- 説得 エホバの証人と輸血拒否事件(1993年、TBS)
- 兄弟(1999年、テレビ朝日) - 原作:なかにし礼
- 百年の物語 第2夜「戦後編・愛は哀しみをこえて」(2000年、TBS) - 戸倉耕作役
- 三億円事件〜20世紀最後の謎〜(2000年、フジテレビ)
- 明智小五郎対怪人二十面相(2002年、TBS)
- 火曜サスペンス劇場・松本清張スペシャル 鬼畜(2002年、日本テレビ)
- 松本清張没後10年記念 張込み(2002年、テレビ朝日)
- 松本清張 点と線(2007年、テレビ朝日) - 鳥飼重太郎役
- あの戦争は何だったのか 日米開戦と東条英機 第2部ドラマ(2008年、TBS) - 東条英機役
脚注[編集]
- ↑ (2010-03-10) 北野監督に芸術文化勲章授与=仏 時事ドットコム(時事通信) [ arch. ] 2010-03-11
- ↑ パリ=林路郎 (2010-03-10) パリ=林路郎 「まさか、夢のよう」北野武さんに仏勲章授与 YOMIURI ONLINE(読売新聞) [ arch. ] 2010-03-11
- ↑ 後年これに続けて「死に場所探して生きるもよし」と加えた詞を作り、『死んだ犬』として発表した(作曲・泉谷しげる)。
- ↑ 小水は『ほしをつぐもの』(1990年)で、若松は『エロティックな関係』(1992年)で、再びたけしを撮った。
- ↑ 100単位以上を取得しながら何らかの理由で通学できなくなった人物に与える制度。
- ↑ 北野武氏へ明治大学特別卒業認定証ならびに特別功労賞を贈呈、2004年9月
- ↑ 北野について「ここ四、五年、私が素晴らしいと思っている、北野武の映画があります。『HANA-BI』という作品です。私が『HANA-BI』を好きなのは、それが日本映画だからではなく、普遍的な映画だからです。そこに登場するほとんどの人物たちが一重瞼の細い目をしていることに気づかないほど、普遍的な映画だと思います」と言及している(『週刊読書人』 2002年11月22日号)。
参考文献[編集]
- コマネチ! - ビートたけし全記録(新潮45 別冊2月号、新潮社、1998年)
- ユリイカ - 北野武そして/あるいはビートたけし(2月臨時増刊、青土社、1998年)
- 阿部嘉昭『北野武 VS ビートたけし』(筑摩書房、1994年)ISBN 4480871772
- 世良利和『その映画に墓はない 松田優作, 金子正次, 内田裕也, そして北野武』(吉備人出版、2000年)ISBN 4906577547
- Gerow, Aaron (2007). Kitano Takeshi. British Film Institute. ISBN 1844571661 (英語)
外部リンク[編集]
- OFFICE-KITANO WEB SITE
- 日本映画データベース 北野武
- 明大広報546号(明治大学:特別企画 北野武氏座談会 −知られていなかった明大時代を語る-)
- 明大広報547号(明治大学:特別企画 北野武氏座談会(続) −「粋」に生きていこう−)
北野武監督作品 | |
---|---|
1980年代 | その男、凶暴につき(1989年) |
1990年代 | 3-4X10月(1990年)| あの夏、いちばん静かな海。(1991年)| ソナチネ(1993年)| みんな〜やってるか!(1995年)| キッズ・リターン(1996年)| HANA-BI(1998年)| 菊次郎の夏(1999年) |
2000年代 | BROTHER(2001年)| Dolls(2002年)| 座頭市(2003年)| TAKESHIS'(2005年)| 監督・ばんざい!(2007年)| アキレスと亀(2008年) |
2010年代 | アウトレイジ(2010年) |
短編 | それぞれのシネマ 素晴らしき休日(2007年) |
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