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'''鯨岡 兵輔'''(くじらおか ひょうすけ、[[1915年]][[9月15日]] - [[2003年]][[4月1日]])は、[[日本]]の[[政治家]]である。[[福島県]][[石城郡]]四倉町(現・[[いわき市]])出身。[[正三位]][[勲一等旭日大綬章]]。 | '''鯨岡 兵輔'''(くじらおか ひょうすけ、[[1915年]][[9月15日]] - [[2003年]][[4月1日]])は、[[日本]]の[[政治家]]である。[[福島県]][[石城郡]]四倉町(現・[[いわき市]])出身。[[正三位]][[勲一等旭日大綬章]]。 | ||
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2012年3月31日 (土) 16:40時点における最新版
鯨岡 兵輔(くじらおか ひょうすけ、1915年9月15日 - 2003年4月1日)は、日本の政治家である。福島県石城郡四倉町(現・いわき市)出身。正三位勲一等旭日大綬章。
来歴・人物[編集]
4歳の時に東京都足立区千住に引越した。下町で育ち、下町を選挙区(旧東京10区)とした「江戸っ子政治家」として知られた。早稲田大学卒業後召集され、陸軍航空大尉で終戦を迎えた。衆議院議員選挙に連続12回当選し、三木武夫直系の政治家として政界の腐敗を痛烈に批判した。
鯨岡は三木と松村謙三に師事したが1964年に松村が同志数名とともに三木派を離脱し小派閥の松村派を結成した際には松村と相談の上、三木派に残留した。その後は三木派、そして河本派に所属したが、晩年は河本派を離れ、寵愛していた河野洋平の後ろ盾として行動した。
身辺が清潔なことで知られ、自由民主党ハト派を代表する硬骨の政治家として有名だった。
家族・親族[編集]
野球殿堂入りした豊田泰光は従弟。札幌市長・衆議院議員を歴任した高田富與は父の従弟。
略歴[編集]
- 1938年 - 早大商学部卒業。
- 1947年 - 足立区議会議員に初当選。
- 1948年 - 父が経営していた鯨岡製袋(現・鯨岡)の専務に就任。
- 1955年 - 東京都議会議員に初当選。
- 1963年 - 第30回衆議院議員総選挙で初当選、三木派に所属。
- 1968年12月 - 第2次佐藤内閣第2次改造内閣の総理府総務副長官に就任。
- 1976年9月 - 三木内閣改造内閣の内閣官房副長官に就任。
- 1980年7月 - 鈴木善幸内閣の環境庁長官として初入閣。
- 1992年10月 - 三木派の流れを汲む河本派を離脱、無派閥となる。
- 1993年8月 - 衆議院副議長に就任。
- 1999年 - 1月、河野グループに参加。4月、東京都知事選挙に出馬した柿沢弘治を支援するため自民党を離党。6月、自民党に復党。
- 2000年6月 - 政界から引退。
- 2003年4月1日 - 大腸癌のため87歳にて死去。
業績[編集]
- 環境庁長官時代に環境問題に熱心に取り組み、内閣改造時には環境保護団体から異例の留任要請が出た。
- 宇野宗佑内閣総辞職後の自民党総裁選では竹下派主導による海部俊樹の擁立に対し、河本派内で三木直系として知られる坂本三十次(坂本はのちの第2次海部内閣で官房長官に就任)とともに反対した。
- 選挙制度改革には慎重だったものの、腐敗防止には熱心に取り組み、政治改革に尽力した。
- 自民党が野党に転落した際、土井たか子衆議院議長の就任に反発する自民党の一部からは副議長の推薦をボイコットするべきとの意見が挙がったが、鯨岡が副議長に立候補したために無事に国会が開催された。