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2015年10月12日 (月) 22:56時点における最新版
ゲーム機は、コンピューターゲームを動作させるためのハードウェア機器の総称。広義には業務用筐体やMSXのようなホビーユースのパーソナルコンピュータも含む場合もあるが、通常はテレビゲームや携帯型ゲーム等のコンシューマーゲーム専用機を特に「ゲーム機」または「家庭用ゲーム機」と呼ぶ。
概要[編集]
多くの場合、ゲームソフトを組み合わせることで、コンピューターゲームをプレイすることができる(テレビゲームなどでは、ディスプレイなど更に別の機器が必要なことがある)。また、最近では家電や情報機器の機能を視野に入れた多機能型のゲーム機(マルチメディア機)も登場している。
ゲーム機の場合、ソフトウェアの製造をライセンス形式にし、ライセンスの費用を見込んで製造するためゲーム機は低価格で販売されるものが多い。また、ゲーム機は、パソコン等に比べて長期的にその基本性能が変わらない(商品寿命が長い)ため、対象となるソフトウェアも多い。
ハードウェアの歴史[編集]
初期のコンピュータゲームで最も有名なものとしては、ミニコン上で書かれた宇宙戦ゲーム『スペースウォー!』や、ATARI社の『PONG』が挙げられる。その後、ゲームは4つの道を通って発展した。
- 店頭に設置して有料で遊ぶアーケードゲーム
- 消費者が家庭で楽しむテレビゲーム
- パーソナルコンピュータ上でアプリケーションの一種として動作するコンピュータゲーム
- 電卓の技術を応用して作られた携帯ゲーム
最初に商業ゲームとして登場したのはアーケードゲームだった。『PONG』は瞬く間にそれまで店頭に設定されていたピンボールを駆逐した。次第に内容が複雑化していき、ワイヤードロジックの回路では実現が難しくなり、マイクロプロセッサが採用されるようになった。
テレビゲームはそれらのアーケードゲームを家庭で手軽に楽しむためのものであった。パーソナルコンピュータが登場したときは、すでにテレビゲームやアーケードゲームは存在しており、パーソナルコンピュータのユーザは無料でアーケードゲームを楽しむために、アーケードゲームを真似たコンピュータゲームを競って自機上にプログラムし、互いに交換しあった。コンピュータゲームはその後アドベンチャーゲームやロールプレイングゲーム、シミュレーションゲームといったアーケードゲームとは異なった分野で独自の発展を遂げた。
テレビゲームは当初はワイヤードロジックで構成されていたため、1ハード1ゲームもしくは複数のゲームをスイッチで切り替える方式だった。その後、さまざまなゲームをプレイしたいという欲求にこたえるため、カートリッジでプログラムを供給するカートリッジ式のテレビゲームが考案された。ここで、ゲーム機本体を販売する産業とは別に、ゲームのプログラムそのものを販売して利益を上げるゲーム産業が誕生した。
しかし、初期に使用されたCPUは4ビットまたは8ビットであったので、複雑化してゆくアーケードゲームではCPUの画像処理機能が不足していた。そのため、表示装置に特別仕様の画像処理回路を追加するようになっていた。代表的なものがスプライト機能とハードウエアスクロール機能である。これらの処理回路は高価であり、サイズも大きかったので、そのままではテレビゲーム機に搭載することができず、それがアーケードゲームとテレビゲームの差別化として働いた。エレクトロニクス技術の進歩によって、家庭用テレビゲームも、次第にそれらの機能を簡略化・低価格化して追加していった。
最初の携帯ゲームはLSIゲームと呼ばれ、電卓の技術を応用したもので、アーケードゲームやコンピュータゲームとはまったく別に生まれた。表示装置としては特定の形状を表示する液晶やダイオードを使ったもので、汎用のグラフィック表示表示機能を備えておらず、必然的に1ゲーム1ハードが基本だった。多数のゲームを遊びたいという欲求に応えて、汎用のCPUとグラフィック表示装置をもつ携帯ゲーム機へと進化を遂げていった。
- 8ビットゲーム機の採用CPU(アーキテクチャ)
- ファミリーコンピュータ(任天堂、1983年~2003年製造)…… RP2A03(6502互換CPUで、音源ユニットpAPUが組み込まれている)
- ゲームボーイ(任天堂、1989年~ 製造)…… LR35902(Z80に類似したアーキテクチャ)
- PCエンジン(NECホームエレクトロニクス、1987年~ 製造)…… 6502ベースのチップセット(グラフィック周り等は16ビット処理)
プラットフォームハードウェアと多数のソフトウェアという手法は、ハードウェアの進歩や新しいプログラミング手法の導入(※これらのゲーム機のソフトはほとんどがアセンブラで記述されていたが、世の中のプログラミングはC言語などに移行しつつあった)を阻害するものではあったが、ゲームソフトという特定の先鋭分野における競争と技術開発を促進することでゲームソフト業界を急速に発展させる一因にもなった。
ゲームソフトの技術力や表現力が向上し、より高性能のハードウェアが求められ、ゲーム機専用のCPUやプロセッサをが設計されるようになった。もちろんゼロから新しいアーキテクチャを開発したゲーム機は当時はまだなかったが、ごく最小限のCPUコアの周囲にゲームソフトの処理に特化した様々な機能のパターンを配して1チップとして製造する、特定ゲーム機専用CPUが次々と登場した(8ビット機にもその傾向はあったが、16ビット機になり更に鮮明になった)。
- 16ビットゲーム機の採用CPU(アーキテクチャ)
当時の市場は、ファミコンを投入してユーザーの心をつかんだ任天堂が圧倒的なシェアを持っていた。
当時の任天堂は、次世代機スーパーファミコンを投入するのが大変遅く、しかし技術的にはさほど革新的ではないアーキテクチャを採用する(65816は6502の後継と見られる)という大変に保守的な選択を行ったが、一方ではライセンシーの取り込みに成功して市場の支配力を保った。
世代別 主要ハード一覧(家庭用据置機)[編集]
第1世代(1970年代)[編集]
最初期に現れたゲーム機。最初のゲーム機と言われるオデッセイはCPUではなく、アナログ回路で電子ゲーム機能を実現していた。ゲームソフトがハードに組み込まれていて、後からソフトを買い足すことはできなかったが、スイッチで複数のゲームを切り替えることができるもの、切り替えカードを追加購入することでオプションのゲームをプレイできるものもあった。
第2世代(1970年代後半~1980年代前半)[編集]
Atari 2600は、ROMカートリッジを差し込む事で様々な種類のゲームを楽しむ事ができる最初の家庭用ゲーム機で、アメリカにおいて爆発的な人気を博した。また、サードパーティーのソフトを積極的に受け入れるビジネスモデルもこの時確立された。しかしアタリショックを起こしてアメリカのゲーム機市場を一時壊滅状態に追い込んだ。日本におけるゲーム機の本格的な普及は、次のファミコン時代以後になる。
- Channel F (フェアチャイルド・1976年)
- Atari 2600(アタリ・1977年)
- ビデオカセッティ・ロック(GL・1978年)
- VC 4000(インタートン・1978年)
- カセットビジョン (エポック社・1981年)
第3世代(1980年代前半~1980年代中盤)[編集]
ゲーム機能に加えてプログラミング機能をそなえたホビーパソコン寄りの機種(ぴゅう太、M5、SC-3000など)と、ゲーム機能に特化し、第1・第2世代より優れたゲーム性能を実現した機種(ファミリーコンピュータ、光速船、セガ・マークIIIなど)があり、後者が成功を収めた。特にファミリーコンピュータは家庭用ゲーム機の本格的普及(アメリカではアタリショックからの復興)を担い、RPGや対戦型格闘ゲーム、2Dアクションゲーム等の今日に繋がるゲームシステムの原型もこの時期に出来上がった。また、ファミコンのパッド型コントローラーはコンパクトだが汎用性に優れ、以後のほとんど全てのゲーム機のインターフェイスの基礎となった。
- インテレビジョン (バンダイ・1982年)
- ダイナビジョン (ヤマギワ電気・1982年)
- オデッセイ2 (フィリップス・1982年)
- マックスマシーン (コモドール・1982年)
- ぴゅう太 (トミー工業・1982年)
- M5(ソード社・1982年)
- 光速船(バンダイ・1983年)
- SC-3000 (セガ・1983年)
- ファミリーコンピュータ(任天堂・1983年)
- SG-1000 (セガ・1983年)
- スーパーカセットビジョン (エポック社・1984年)
- セガ・マークIII(セガ・1985年)
- ファミリーコンピュータ ディスクシステム(任天堂・1986年)
- セガ・マスターシステム(セガ・1987年)
第4世代(1980年代後半~1990年代前半)[編集]
従来より高度なスプライト機能を搭載し、2Dグラフィックスの表現力が格段にアップ。ステレオサウンドが標準になり、サウンドによる表現も工夫された。ゲームの複雑化・高度化も進み、対応するインターフェイスも多ボタン化が進んだ。他方、ROMカートリッジのコスト・性能的限界も見え始める。一部機種では、CD-ROMドライブを増設でき、また、対応タイトルは、大容量を活かしたものとなっており、後の光ディスクによるソフト供給の基礎となった。
- PCエンジン(NECホームエレクトロニクス・1987年)
- CD-ROM²(NECホームエレクトロニクス・1988年)
- メガドライブ(セガ・1988年)
- PCエンジンスーパーグラフィックス(NECホームエレクトロニクス・1989年)
- スーパーファミコン(任天堂・1990年)
- ネオジオ(SNK・1990年)
- SUPER CD-ROM²(NECホームエレクトロニクス・1991年)
- メガCD(セガ・1991年)
- スーパー32X(セガ・1994年)
- バーチャルボーイ(任天堂・1995年)
第5世代(1990年代中盤~1990年代後半)[編集]
殆どの機種で本格的な3Dグラフィックス機能が搭載され、ゲーム内での映像表現の幅が劇的に広がった。また、ROMカセットに代わって光ディスクがコンテンツ販売パッケージの主力となった。光ディスクは読み込みに時間がかかるという難点があるものの、生産性が高く、安価にゲーム媒体を量産可能になった。これに伴い音質の向上やムービー再生による演出が広がった。振動機能やアナログスティックを備えたコントローラも登場した。ドット絵に比べてポリゴンは製作コストも安く要出典、中小の新しいソフトハウスも台頭した。日本における据置きゲーム機市場が最も拡大したのもこの時期である。
- 3DO(3DO・1994年)
- プレイディア(バンダイ・デジタル・エンタテイメント・1994年)
- セガサターン(セガ・1994年)
- ネオジオCD(SNK・1994年)
- プレイステーション(ソニー・コンピュータエンタテインメント・1994年)
- PC-FX(NECホームエレクトロニクス・1994年)
- ピピンアットマーク(バンダイ・デジタル・エンタテイメント・1996年)
- NINTENDO64、64DD(任天堂・1996年~1999年)
第6世代(1990年代末~2000年代中盤)[編集]
3Dグラフィックスの表現力が格段に上がり、インターネットとの通信や5.1chサウンドにも限定的に対応し始める。メディアはDVD、もしくはDVDの技術を応用した独自規格のディスクが主流となった。ただし映像表現的には大量のキャラクター表示以外での分かりやすいインパクトを持った進化が少なかったため、第5世代からの本質的な変化を演出することは難しかった。
大手メーカーではゲームの大作主義・シリーズ物重視がより一層進み開発費の高騰が進んだ。さらに、大作やシリーズ物、萌え重視の作品などが蔓延した結果、「ゲームはマニア・オタクの趣味」としてライト層がいっそう離れていってしまった。大手メーカーやサードパーティーの統廃合も進行し、日本の据置きゲーム市場は転換期を迎えた。
- ドリームキャスト(セガ・1998年)
- プレイステーション2(ソニー・コンピュータエンタテインメント・2000年)
- ニンテンドーゲームキューブ(任天堂・2001年)
- Xbox(マイクロソフト・2002年)
この世代の覇者はPS2である。しかし、PS2自体は大成功だったが、ソフトだけを見ると「売り上げ20万本で大ヒット」と言われるなど、第5世代や第4世代よりもゲームソフトの売り上げが減少した。
なお、この世代になると近年のPCのグラフィックスカードのスペックと同様に、2D描画に関してはいずれのハードもほぼ進化の余地を残しておらず(PCでは事実上2D描画開発は終焉を迎えている)、ハードによる差異も微々たるものとなった。
第7世代(2000年代中盤~)[編集]
Xbox 360とプレイステーション3は、解像度がHDTV画質に対応し、3Dは奥行きと繊細さを増し、前世代機のプリレンダリングムービーに近い画質になった。Wiiに関しては、描画性能は他2機種と比べるとあまり高くないものの、Wiiリモコンという、全く新しいインターフェイスを採用し、ユーザーへのアピールに成功した。
また、下記の3機種いずれもネットワーク接続に標準対応し、ネットワーク対応ゲームの増加やコンテンツのネット配信も本格化している。また、これらの機種がネットワーク接続に対応していることを利用して、LinuxなどのLiveCDを利用して、パソコンとして利用するユーザーも出てきている。
それぞれ前世代機との互換性を有しているほか、いずれの機種もかつてのハードで発売されたソフトの公式エミュレータを用意している。
日本ではニンテンドーDSがゲーム市場全体の7割を超えるシェアを誇るまでに爆発的に普及していることから「据置機そのものの存在が脅かされている」情勢であり、この世代を持って日本における据置機の歴史が終焉するという予想も一部には存在する。また、PS2の市場が未だに強いことも次世代の移行を難しくしている。
Wiiに関してはDSとの相乗効果や「はじめてのWii」「Wii Sports」のミリオン/ロングセラーで好調であるが、その他2機種に関しては売上は日本市場においてはさほど振るわない。これに関しては、「ゲームの複雑化が進みすぎて、ライトユーザーを取り込めなくなった」「新しいゲーム性を生み出せず、従来のユーザーに飽きられてしまった」「価格の高騰についていけなくなった」と言われており、次世代機の売りの一つであるリアルな3D表現が「アニメ・ドット絵等の2D系がむしろ好まれる日本市場では大したプラス要素になっていない」などの見方もある。
世代別 主要ハード一覧(携帯機)[編集]
第1世代(1980年代)[編集]
この頃はまだROMカートリッジをハードに差し込む形式ではなく、1ハードにつき1ゲームという形だった。モノクロでシンプルなゲームが多数を占めた。ゲーム&ウオッチの一部機種では、後に据置機の主力インターフェイスへと発展する十字キーも先行して採用されている。なお、この方式のゲームは現在でも販売され、一定の市場を維持している。時にたまごっち(バンダイ・1997年)のような大ヒットとなるものもある。
第2世代(1980年代末~1990年代中盤)[編集]
ROMカートリッジを利用し、多彩なゲームが楽しめるようになった最初の世代。最も早く出たゲームポケコンともっとも最後に出たPCエンジンGTを除くと、スペックは第3世代の据置ハードとほぼ同等だった。PCエンジンGTは据え置き機第4世代のPCエンジンと互換性があり、当時としては卓越した性能と画質を持っていた。しかし、当時は液晶の技術が未熟で消費電力も大きかったこと、カラー機種は高価で駆動時間も極めて短かかったため、モノクロ液晶を採用したゲームボーイが最も人気を集めた。
- ゲームポケコン(エポック社・1985年)
- ゲームボーイ(任天堂・1989年)
- Atari Lynx(アタリ・1989年)
- ゲームギア(セガ・1990年)
- PCエンジンGT(NECホームエレクトロニクス・1990年)
第3世代(1990年代末~2000年代初頭)[編集]
スペックは据置ハードの第3世代と同等か、やや上回る程度であり、第2世代から大きく向上してはいないが、携帯性に優れた薄く小さいボディを実現している。また、液晶技術の発達により、カラー液晶を採用した機種でも、長時間の運用に耐えられるようになった。赤外線通信機能などを搭載し、通信機能を生かしたゲームが流行した。ビジュアルメモリとポケットステーションは、据え置き機の外部記憶媒体にゲーム機能を付加するというもので有ったが、普及するには至らず、後世代機においては採用されていない。
- ゲームボーイポケット・ゲームボーイライト(任天堂・1996年・1998年)
- game.com (Tiger Electronics・1997年)
- ゲームボーイカラー(任天堂・1998年)
- ビジュアルメモリ(セガ・1998年)
- ネオジオポケット(SNK・1998年)
- ワンダースワン(バンダイ・1999年)
- ポケットステーション(SCE・1999年)
第4世代(2000年代前半)[編集]
反射型TFT液晶や反射型FSTN液晶を採用したカラー液晶のゲーム機が主流となった。スペック的には据え置きハードの第4世代を上回る程度の機能を搭載し、携帯ゲーム機における表現の幅が飛躍的に拡大した。携帯ゲーム機において任天堂の独占状態が確立する。
- ネオジオポケットカラー(SNK・1999年)
- ワンダースワンカラー・スワンクリスタル(バンダイ・2000年・2002年)
- ゲームボーイアドバンス・ゲームボーイアドバンスSP・ゲームボーイミクロ(任天堂・2001年・2003年・2005年)
- N-Gage(ノキア・2003年)
第5世代(2000年代中盤~)[編集]
グラフィックの3D化も大きく進み、ネットワークを介したデータのダウンロードやオンライン対戦ゲームも楽しめるようになった。しかし、DSとPSPの方向性は対照的である。
PSPは第6世代の据置機として大きく遜色ない映像表現と携帯メディアプレイヤーの機能もそなえ、大型液晶画面を搭載した。DSは特徴的な2画面や、タッチスクリーンというインターフェースを装備したことにより、新たなゲーム表現を生み出した。海外ではこのインタフェースを利用し、WindowsやLinuxといったパソコン用OSを実行するソフトが開発されている。主にDSの普及によって携帯機市場の拡大が進み、近年では据置機との市場規模の逆転も見られるまでになり、特に国内市場においては完全に据置機からゲーム機の主役の座を奪い取るに至った。また「ニンテンドーWi-Fiコネクション」サービスにより、コンシューマーゲーム機のネットゲームへの敷居が急激に下がった。
- ニンテンドーDS・ニンテンドーDS Lite(任天堂・2004年・2006年)
- プレイステーション・ポータブル(SCE・2004年)
関連項目[編集]
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