「女子大生ブーム」の版間の差分
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− | [[1978年]]に京都で[[ノーパン喫茶]] | + | [[1978年]]に京都で[[ノーパン喫茶]]が誕生し、大阪・京都を中心とする関西でブームになった。ノーパン喫茶は“全裸に超ミニ”という格好で、ほとんどストリップ状態であった。このとき破格の高い時給に影響され、[[女子大生]]が大量に[[ノーパン嬢]]となった。これを[[女子大生ノーパン嬢]]という。 |
− | このような現象は、[[ | + | このような現象は、[[1970年代]]前半には[[学生運動]]をしていた女子大生にとって初めてのことであり、“ノーパン喫茶は女子大生にとって風俗の入り口”となった。 |
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===「フジテレビの軽チャー路線」と「女子大生ブーム」=== | ===「フジテレビの軽チャー路線」と「女子大生ブーム」=== | ||
− | + | ほぼ同じ頃、初代[[フジサンケイグループ議長]]である[[鹿内信隆]]が支配していたフジテレビは、信隆の長男である[[鹿内春雄]]が副社長に就任すると企業理念を1970年代の『母と子のフジテレビ』から『面白くなくなければテレビじゃない』に180度転換し、「軽チャー路線」と呼ばれる"バラエティー路線"に舵を切った(鹿内春雄の経営改革)。この「フジテレビ軽チャー路線」から[[1980年]]に誕生したのが、[[女子大生ブーム]]と[[漫才ブーム]]である。漫才ブームからは[[広島県]]出身の[[B&B]]([[島田洋七]])、[[東京都]]出身の[[ツービート]]([[ビートたけし]])、[[大阪府]]出身の[[紳助竜介]]([[島田紳助]]])らが登場しブームをけん引した。 | |
+ | なお、[[明石家さんま]]は「漫才ブーム」とは関係なく、明石家さんまが人気者になたのは[[1983年]]に放送が開始されたフジテレビの人気お笑い番組『[[俺たちひょうきん族]]』で「2代目ブラックデビル」に"抜擢"されてからのことである(初代ブラックデビルの[[高田純次]])がインフルエンザにかかり番組出演2週間で降板してしまったため、[[横澤彪]]プロデューサーが急遽さんまを"抜擢"した)。 | ||
− | + | 女子大生ブームの主役は現役女子大生達であったが、事実上の主役は女子大生番組(主に生放送)の司会を担当していた俳優・[[山城新伍]]であった。また、女子大生達の中から[[青山学院大]]の[[川島なお美]]らが芸能界デビューし、「女子大生芸能人」の元祖となった。 | |
===「クリスタル族」と「ボートハウスのトレーナー」=== | ===「クリスタル族」と「ボートハウスのトレーナー」=== | ||
− | 同年[[1980年]] | + | 同年[[1980年]]、「東京のオシャレな大学」のイメージがある[[青山学院大学]]の学生作家である[[田中康夫]](のち[[参議院議員]]~[[新潟県知事]])が小説『[[なんとなくクリスタル]]』を発表してベストセラーとなった。ここに「若者達の新ジャンル」である[[クリスタル族]]が誕生し、小説『なんとなくクリスタル』は[[1981年]]、[[かとうかず子]]主演で映画化され「女子大生ブームブーム」に拍車をかけた。 |
− | + | この頃、「オシャレな都市」として東京人などからも良いイメージをもたれていた[[横浜市]]で「横浜トラッド」こと通称「[[ハマトラ]]」と呼ばれるファッションジャンルのブームが起きた。するとこのブームに影響され、女子大生の間で「女子大生ファッション」がブームとなった。 | |
+ | 当時の「女子大生ファッション」はファッションジャンル的には、[[アイビー]]や[[プレッピー]]の系統であった。この「女子大生ファッションブーム」を後押ししたのが、'''[[ボートハウスのトレーナー]]の大ブーム'''である。 | ||
+ | ボートハイスのトレーナーは「オシャレな」女子大生の間では必須アイテムとなった。ある元アイドル歌手は自分が芸能人であるにも関わらず、ボートハウスのトレーナーを販売しているファッションショップ([[アパレル]]会社)で、ショップ店員として働いたほどであった。 | ||
− | + | 日本ではもともと子供の頃から続いてきた「受験戦争」から「ようやく解放された[[大学生]]達」がすることの"メイン"は、「勉学」ではなく「男女交際」と「[[アルバイト]]」([[パートタイム]])だった。そのような「仕組み」になっている「日本社会」において、女子大生は「女子大生ファッション」を象徴する「ボートハウスのトレーナー」などの「オシャレをするための商品」を手に入れるために、「より時給の高いアルバイト(パートタイム)」を求めるようになった。 | |
+ | こうして[[1970年代]]までは[[学生運動]]([[革命運動]])の[[サークル]]に入部する者までいた女子大生の間に、「お金のためなら恥も外聞もなくなんでもする」という[[拝金主義]]の風潮が急速に広まっていった。 | ||
===「ノーパン喫茶の関東制覇」と「アダルトビデオ・ブーム」=== | ===「ノーパン喫茶の関東制覇」と「アダルトビデオ・ブーム」=== | ||
− | 翌[[1981年]] | + | 翌[[1981年]]、「[[関西]]発([[大阪]]・[[京都]]発)のノーパン喫茶」が「東京を中心とする関東地方」([[首都圏]])を「制覇」し、'''全国的なノーパン喫茶ブーム'''が発生した。すると、テレビの女子大生番組に出演していた「目立ちたがのり女子大生達」などを中心に、女子大生が大量に「ノーパン喫茶嬢」となった。 |
− | + | 更に「女子大生ノーパン喫茶嬢」達は、同年[[1981年]]に発生した'''[[アダルトビデオ]]の大ブーム'''に巻き込まれ、「[[AV]]デビュー」して「[[女子大生AV女優]]」となるよう変わり始めた。 | |
− | + | 当時は「AV」という言葉はまだ存在せず、「AV」は「アダルトビデオ」と呼ばれていた。当時のアダルトビデオは「男性性器を女性性器に挿入しない」、[[にっかつロマンポルノ]]に代表される[[ピンク映画]]と同じタイプの「[[擬似セックス]]」が多かった。しかしその一方で、男性性器を女性性器に挿入する「本番」と呼ばれるタイプの「本番セックス撮影」も多かった。 | |
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+ | なお、「疑似セックス」に象徴される「ピンク映画」が存在する国は「世界で日本だけ」で、[[イスラム圏]]を除く「諸外国」では、[[ポルノ]]映画やポルノビデオは「本番セックス」であるのが「常識」である。このことは「[[西側]][[先進国]]」でもある「日本の異常性」を如実に示している。 | ||
+ | 「ポルノ解禁」の問題は「[[表現の自由]]」の問題に直結しており、長年にわたり日本のポルノ解禁を阻止する「[[検閲]]」を行い続けてきたのが、[[公務員]]である警察分野担当の事務[[官僚]]組織・[[警察庁]]の支配下にある、[[警視庁]](東京都警察)などの[[警官]]達である。日本では[[1991年]]に映画やテレビや出版物で「女性の[[陰毛]]を見せること」が認められ「[[ヘア解禁]]」という「大事件」が起きたが、これも「日本ナンバーワンの写真家」である[[篠山紀信]]が撮影し販売された「女性の全裸[[ヌード]]」を含む写真集『ウォーター・フルーツ』(大物女優・[[樋口可南子]])に対して、警視庁の警官がこのヌード写真集の一般公開に「[[モザイク]]処理」をする必要はないと、裁判官でもあるかのように「恣意的に(自分勝手に)判断した」からであった。 | ||
===「SMブーム」と「スワッピング・ブーム」=== | ===「SMブーム」と「スワッピング・ブーム」=== | ||
− | 同年1981年、第2次[[SMブーム]]が発生して[[SM誌]]が多数創刊されると、その影響でアダルトビデオでも[[アートビデオ]] | + | 同年1981年、第2次[[SMブーム]]が発生して[[SM誌]]が多数創刊されると、その影響でアダルトビデオでも[[アートビデオ]]などの“SMビデオ”がブームになった。その結果、SMビデオに出演する女子大生が多数登場した。山城新吾の女子大生番組でアシスタントをしていた女子大生も、SMビデオに出演しハメ撮りを披露している。SM誌で[[SMモデル]]になった女子大生も多い。当然のことながら、SMビデオでは[[浣腸]]・[[排便]]や[[ローソク責め]]など、全て“やらせなし”であった。 |
またこの年は『[[オレンジピープル]]』を中心に[[スワップ誌]]が一世を風靡し、'''[[スワッピング・ブーム]]'''が巻き起こった。当時のスワッピング・ブームの中心世代は30代~50代の夫婦であったが、各スワップ誌で素人のスワッピング・サークルが“単独女性”を募集し、女子大生もスワッピング・ブームに大量に流れた。(テレビ朝日『[[トゥナイト]]』による) | またこの年は『[[オレンジピープル]]』を中心に[[スワップ誌]]が一世を風靡し、'''[[スワッピング・ブーム]]'''が巻き起こった。当時のスワッピング・ブームの中心世代は30代~50代の夫婦であったが、各スワップ誌で素人のスワッピング・サークルが“単独女性”を募集し、女子大生もスワッピング・ブームに大量に流れた。(テレビ朝日『[[トゥナイト]]』による) | ||
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[[1985年]]、女子大生ブームと風俗産業の結びつきに危機感を抱いた[[中曽根康弘]]政権は、テレビ局を管轄する[[郵政省]]を使ってフジテレビ等に圧力をかけ、『オールナイトフジ』は放送終了となった。(このあと性風俗情報を排除した『[[オールナイトフジII]]』がスタート)。 | [[1985年]]、女子大生ブームと風俗産業の結びつきに危機感を抱いた[[中曽根康弘]]政権は、テレビ局を管轄する[[郵政省]]を使ってフジテレビ等に圧力をかけ、『オールナイトフジ』は放送終了となった。(このあと性風俗情報を排除した『[[オールナイトフジII]]』がスタート)。 | ||
− | 同じく、中曽根政権は'''[[新風俗営業法]] | + | 同じく、中曽根政権は'''[[新風俗営業法]]'''を施行してノーパン喫茶をはじめとする性風俗産業に大打撃を与え、「歌舞伎町は死んだ」と言われるほどの状態となった。 |
ここに1980年から5年間続いた女子大生ブームは、沈静化の方向へ向かい始めた。 | ここに1980年から5年間続いた女子大生ブームは、沈静化の方向へ向かい始めた。 | ||
===「オールナイトフジII」と「第2次女子大生ブーム」=== | ===「オールナイトフジII」と「第2次女子大生ブーム」=== | ||
− | + | 以後、女子大生ブームは沈静化した風俗産業を背景としつつ、『オールナイトフジII』を中心とする穏やかな女子大生ブームに移行した。これを第2次女子大生ブームという。 | |
− | + | 第2次女子大生ブームの中心になったのは、やはり現役女子大生からなる[[オールナイターズ]]と[[シーエックス]](CX)であった。“元祖AVタレント”であり“元祖高学歴AV女優”でもある横浜国大・[[黒木香]]らも大いに活躍した。 | |
− | + | このように、女子大生ブームは80年代前半を最盛期として約10年間続いた。なお、オールナイトフジⅡが放送終了となったのは1991年のことである。 | |
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[[1996年]]、[[援交ブーム]]がピークを迎えるともはや「女子大生ブーム」という言葉は死語となり、女子大生のブランド価値は完全に没落するにいたった。 | [[1996年]]、[[援交ブーム]]がピークを迎えるともはや「女子大生ブーム」という言葉は死語となり、女子大生のブランド価値は完全に没落するにいたった。 | ||
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− | [[ | + | [[2008年]]3月、18年ぶりの女子大生番組、(フジテレビ)『[[キャンパスナイトフジ]]』がスタートした。この番組の目玉は現役女子大生から成る[[キャンパスナイターズ]]で、これは80年代のオールナイターズに相当するものであった。 |
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+ | しかし、この番組は[[2010年]]4月に終了し、80年代のような女子大生ブームを起こすことはできなかった。 | ||
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+ | 女子大生ブームは、すでに関西では1978年から始まった。2014年現在からみて36年前のことであり、この年に大学4年生(22才)だった女子大生は、現在58才の孫をもつ「おばあちゃん」になっている。ノーパン喫茶が全国制覇を遂げ、アダルトビデオブームが巻き起こった1981年に大学4年生だった女子大生も、現在55才の「おばあちゃん」である。 | ||
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+ | この事実から分かるように、80年代前半の第一次女子大生ブームを経験した女子大生は、大半が50代となっている。 | ||
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+ | これに対して新風俗営業法が施行された1985年に大学4年生だった女子大生は現在51才で、やはり孫をもつ「おばあちゃん」である。 | ||
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2021年6月29日 (火) 09:47時点における最新版
女子大生ブーム(じょしだいせいブーム)とは、1980年代にテレビ局を中心とするマスコミが女子大生を番組に出演させるなど女子大生を取り上げたことにより、女子大生が社会的ステイタスを獲得してもてはやされた、一連のムーブメントのこと。女子大生ブームは社会現象となって風俗産業に大きな影響を与え、両者は表裏一体の関係にあった。
目次
「ノーパン喫茶の誕生」と「女子大生ノーパン嬢」[編集]
1978年に京都でノーパン喫茶が誕生し、大阪・京都を中心とする関西でブームになった。ノーパン喫茶は“全裸に超ミニ”という格好で、ほとんどストリップ状態であった。このとき破格の高い時給に影響され、女子大生が大量にノーパン嬢となった。これを女子大生ノーパン嬢という。
このような現象は、1970年代前半には学生運動をしていた女子大生にとって初めてのことであり、“ノーパン喫茶は女子大生にとって風俗の入り口”となった。
以後、関西では女子大生が風俗産業の担い手として活躍し始める。
「フジテレビの軽チャー路線」と「女子大生ブーム」[編集]
ほぼ同じ頃、初代フジサンケイグループ議長である鹿内信隆が支配していたフジテレビは、信隆の長男である鹿内春雄が副社長に就任すると企業理念を1970年代の『母と子のフジテレビ』から『面白くなくなければテレビじゃない』に180度転換し、「軽チャー路線」と呼ばれる"バラエティー路線"に舵を切った(鹿内春雄の経営改革)。この「フジテレビ軽チャー路線」から1980年に誕生したのが、女子大生ブームと漫才ブームである。漫才ブームからは広島県出身のB&B(島田洋七)、東京都出身のツービート(ビートたけし)、大阪府出身の紳助竜介(島田紳助])らが登場しブームをけん引した。 なお、明石家さんまは「漫才ブーム」とは関係なく、明石家さんまが人気者になたのは1983年に放送が開始されたフジテレビの人気お笑い番組『俺たちひょうきん族』で「2代目ブラックデビル」に"抜擢"されてからのことである(初代ブラックデビルの高田純次)がインフルエンザにかかり番組出演2週間で降板してしまったため、横澤彪プロデューサーが急遽さんまを"抜擢"した)。
女子大生ブームの主役は現役女子大生達であったが、事実上の主役は女子大生番組(主に生放送)の司会を担当していた俳優・山城新伍であった。また、女子大生達の中から青山学院大の川島なお美らが芸能界デビューし、「女子大生芸能人」の元祖となった。
「クリスタル族」と「ボートハウスのトレーナー」[編集]
同年1980年、「東京のオシャレな大学」のイメージがある青山学院大学の学生作家である田中康夫(のち参議院議員~新潟県知事)が小説『なんとなくクリスタル』を発表してベストセラーとなった。ここに「若者達の新ジャンル」であるクリスタル族が誕生し、小説『なんとなくクリスタル』は1981年、かとうかず子主演で映画化され「女子大生ブームブーム」に拍車をかけた。
この頃、「オシャレな都市」として東京人などからも良いイメージをもたれていた横浜市で「横浜トラッド」こと通称「ハマトラ」と呼ばれるファッションジャンルのブームが起きた。するとこのブームに影響され、女子大生の間で「女子大生ファッション」がブームとなった。 当時の「女子大生ファッション」はファッションジャンル的には、アイビーやプレッピーの系統であった。この「女子大生ファッションブーム」を後押ししたのが、ボートハウスのトレーナーの大ブームである。 ボートハイスのトレーナーは「オシャレな」女子大生の間では必須アイテムとなった。ある元アイドル歌手は自分が芸能人であるにも関わらず、ボートハウスのトレーナーを販売しているファッションショップ(アパレル会社)で、ショップ店員として働いたほどであった。
日本ではもともと子供の頃から続いてきた「受験戦争」から「ようやく解放された大学生達」がすることの"メイン"は、「勉学」ではなく「男女交際」と「アルバイト」(パートタイム)だった。そのような「仕組み」になっている「日本社会」において、女子大生は「女子大生ファッション」を象徴する「ボートハウスのトレーナー」などの「オシャレをするための商品」を手に入れるために、「より時給の高いアルバイト(パートタイム)」を求めるようになった。 こうして1970年代までは学生運動(革命運動)のサークルに入部する者までいた女子大生の間に、「お金のためなら恥も外聞もなくなんでもする」という拝金主義の風潮が急速に広まっていった。
「ノーパン喫茶の関東制覇」と「アダルトビデオ・ブーム」[編集]
翌1981年、「関西発(大阪・京都発)のノーパン喫茶」が「東京を中心とする関東地方」(首都圏)を「制覇」し、全国的なノーパン喫茶ブームが発生した。すると、テレビの女子大生番組に出演していた「目立ちたがのり女子大生達」などを中心に、女子大生が大量に「ノーパン喫茶嬢」となった。
更に「女子大生ノーパン喫茶嬢」達は、同年1981年に発生したアダルトビデオの大ブームに巻き込まれ、「AVデビュー」して「女子大生AV女優」となるよう変わり始めた。
当時は「AV」という言葉はまだ存在せず、「AV」は「アダルトビデオ」と呼ばれていた。当時のアダルトビデオは「男性性器を女性性器に挿入しない」、にっかつロマンポルノに代表されるピンク映画と同じタイプの「擬似セックス」が多かった。しかしその一方で、男性性器を女性性器に挿入する「本番」と呼ばれるタイプの「本番セックス撮影」も多かった。
なお、「疑似セックス」に象徴される「ピンク映画」が存在する国は「世界で日本だけ」で、イスラム圏を除く「諸外国」では、ポルノ映画やポルノビデオは「本番セックス」であるのが「常識」である。このことは「西側先進国」でもある「日本の異常性」を如実に示している。 「ポルノ解禁」の問題は「表現の自由」の問題に直結しており、長年にわたり日本のポルノ解禁を阻止する「検閲」を行い続けてきたのが、公務員である警察分野担当の事務官僚組織・警察庁の支配下にある、警視庁(東京都警察)などの警官達である。日本では1991年に映画やテレビや出版物で「女性の陰毛を見せること」が認められ「ヘア解禁」という「大事件」が起きたが、これも「日本ナンバーワンの写真家」である篠山紀信が撮影し販売された「女性の全裸ヌード」を含む写真集『ウォーター・フルーツ』(大物女優・樋口可南子)に対して、警視庁の警官がこのヌード写真集の一般公開に「モザイク処理」をする必要はないと、裁判官でもあるかのように「恣意的に(自分勝手に)判断した」からであった。
「SMブーム」と「スワッピング・ブーム」[編集]
同年1981年、第2次SMブームが発生してSM誌が多数創刊されると、その影響でアダルトビデオでもアートビデオなどの“SMビデオ”がブームになった。その結果、SMビデオに出演する女子大生が多数登場した。山城新吾の女子大生番組でアシスタントをしていた女子大生も、SMビデオに出演しハメ撮りを披露している。SM誌でSMモデルになった女子大生も多い。当然のことながら、SMビデオでは浣腸・排便やローソク責めなど、全て“やらせなし”であった。
またこの年は『オレンジピープル』を中心にスワップ誌が一世を風靡し、スワッピング・ブームが巻き起こった。当時のスワッピング・ブームの中心世代は30代~50代の夫婦であったが、各スワップ誌で素人のスワッピング・サークルが“単独女性”を募集し、女子大生もスワッピング・ブームに大量に流れた。(テレビ朝日『トゥナイト』による)
「オールナイトフジの放送開始」[編集]
1983年、フジテレビが女子大生を主役にした深夜の生放送番組『オールナイトフジ』の放送を開始し、女子大生ブームは新たな展開を見せ始める。この番組の目玉である現役女子大生から成るオールナイターズは、女子大生ブームのシンボルとしてアイドル並みの人気を誇った。
オールナイトフジには風俗コーナーがあり、番組に風俗業者が多数登場した。オールナイターズからも“オールナイターズ随一の美女”と言われた高野みどりをはじめ、確認されただけで5人がAVデビューしている。
「新風俗営業法」と「第1次女子大生ブームの終焉」[編集]
1985年、女子大生ブームと風俗産業の結びつきに危機感を抱いた中曽根康弘政権は、テレビ局を管轄する郵政省を使ってフジテレビ等に圧力をかけ、『オールナイトフジ』は放送終了となった。(このあと性風俗情報を排除した『オールナイトフジII』がスタート)。
同じく、中曽根政権は新風俗営業法を施行してノーパン喫茶をはじめとする性風俗産業に大打撃を与え、「歌舞伎町は死んだ」と言われるほどの状態となった。
ここに1980年から5年間続いた女子大生ブームは、沈静化の方向へ向かい始めた。
「オールナイトフジII」と「第2次女子大生ブーム」[編集]
以後、女子大生ブームは沈静化した風俗産業を背景としつつ、『オールナイトフジII』を中心とする穏やかな女子大生ブームに移行した。これを第2次女子大生ブームという。
第2次女子大生ブームの中心になったのは、やはり現役女子大生からなるオールナイターズとシーエックス(CX)であった。“元祖AVタレント”であり“元祖高学歴AV女優”でもある横浜国大・黒木香らも大いに活躍した。
このように、女子大生ブームは80年代前半を最盛期として約10年間続いた。なお、オールナイトフジⅡが放送終了となったのは1991年のことである。
「女子高生ブーム」と「女子大生の没落」[編集]
90年代になるとミニスカ&ルーズソックス姿の女子高生が、援助交際をしながら女子高生ブームを起こした。これと反比例して女子大生のブランド価値は急激に低下し、女子大生は女子高生に圧倒されていった。
1996年、援交ブームがピークを迎えるともはや「女子大生ブーム」という言葉は死語となり、女子大生のブランド価値は完全に没落するにいたった。
「キャンパスナイトフジの放送開始と終了」[編集]
2008年3月、18年ぶりの女子大生番組、(フジテレビ)『キャンパスナイトフジ』がスタートした。この番組の目玉は現役女子大生から成るキャンパスナイターズで、これは80年代のオールナイターズに相当するものであった。
しかし、この番組は2010年4月に終了し、80年代のような女子大生ブームを起こすことはできなかった。
「女子大生ブーム世代」は現在「おばあちゃん」に[編集]
女子大生ブームは、すでに関西では1978年から始まった。2014年現在からみて36年前のことであり、この年に大学4年生(22才)だった女子大生は、現在58才の孫をもつ「おばあちゃん」になっている。ノーパン喫茶が全国制覇を遂げ、アダルトビデオブームが巻き起こった1981年に大学4年生だった女子大生も、現在55才の「おばあちゃん」である。
この事実から分かるように、80年代前半の第一次女子大生ブームを経験した女子大生は、大半が50代となっている。
これに対して新風俗営業法が施行された1985年に大学4年生だった女子大生は現在51才で、やはり孫をもつ「おばあちゃん」である。