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+ | **海部壮平は[[養鶏業]]を営み、実弟の海部正秀とともに[[名古屋コーチン]]を作出したことで知られるが{{Sfn|入谷|2000|pp=110-112,152-176}}、壮平は1875年(明治8)に正秀の勧めで副業として養鶏を始め{{Sfn|入谷|2000|p=115}}、万屋が閉店し、1880年(明治13)に久蔵らが転居した後、鶏舎を増築して事業を本格化したといい{{Sfn|入谷|2000|pp=131-132}}、久蔵が養鶏業を営んでいたかは不明{{Sfn|入谷|2000|pp=92-93}}。 | ||
+ | **明治期に[[尾張徳川家#家令|尾張徳川家・家令]]、[[明倫中学校]]校長を務めた[[海部昂蔵]]について、{{Harvtxt|大石|1994|p=62}}および{{Harvtxt|小田部|1988|p=42}}は、海部の祖父、{{Harvtxt|藤田|2010|p=80 注47}}および{{Harvtxt|豊田|1991|pp=3-6}}は、海部の曾祖父にあたる、としているが、{{Harvtxt|入谷|2000|pp=92,196-197}}は、海部の曾祖父・久蔵は代々「海部久兵衛」を称した家系、海部昂蔵の家系は「海部久右衛門」を称した家系で(詳細は[[海部氏]]を参照)、生没年も異なり、昂蔵と久蔵は別人、としている。 | ||
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+ | *祖父にあたる[[海部幸之進|幸之進]]は、1884年(明治17)に[[大須]]で[[写真館]]を開業{{Sfn|入谷|2000|p=92}}。その姉・松江が[[中村牧陽]]と結婚した関係から、牧陽の弟子になり、[[中村写真館]]を継いだ{{Sfn|入谷|2000|p=92}}。幸之進は、[[コロタイプ]]写真印刷部を設けた人物として知られている{{Sfn|入谷|2000|p=93}}。<ref>{{Harvtxt|豊田|1991|pp=3,6}}は、幸之進は、米国・[[コロナコダック]]社で写真撮影技術を学び、名古屋で初めての写真館「中村写真館」を開業した、としている。</ref> | ||
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+ | *父・誠也は幸之進の長男。母・ふさは名古屋写真材料組合の初代組合長・加藤隆助の長女{{Sfn|入谷|2000|p=93}}。 | ||
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*[http://www.anan.ne.jp/kaifu/ 海部俊樹オフィシャルホームページ](公式サイト) | *[http://www.anan.ne.jp/kaifu/ 海部俊樹オフィシャルホームページ](公式サイト) | ||
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+ | ===参考文献=== | ||
+ | *{{Aya|藤田|year=2010}} 藤田英昭「北海道開拓の発端と始動 - 尾張徳川家の場合」徳川黎明会『徳川林政史研究所研究紀要』no.44、2010年3月、pp.59-81、{{NAID|40017129111}} | ||
+ | *{{Aya|入谷|year=2000}} 入谷哲夫『名古屋コーチン作出物語』ブックショップ「マイタウン」、ISBN 4938341972 | ||
+ | *{{Aya|大石|year=1994}} 大石勇『伝統工芸の創生 ‐ 北海道八雲町の「熊彫」と徳川義親』吉川弘文館、ISBN 4642036563 | ||
+ | *{{Aya|小田部|year=1988}} 小田部雄次『徳川義親の十五年戦争』青木書店、ISBN 4250880192 | ||
+ | *{{Aya|豊田|year=1983}} [[豊田行二]]『海部俊樹・全人像』行政問題研究所、ISBN 978-4905786276 | ||
+ | **{{Aya|豊田|year=1991|mask=-}} 改訂版 行研出版局、ISBN 4905786843 | ||
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2022年1月18日 (火) 23:09時点における最新版
海部 俊樹 (かいふ としき) | |
在任期間 | 1989年8月10日 - 1991年11月5日 |
生没年月日 | 1931年1月2日 - 2022年1月9日 |
出生地 | 愛知県名古屋市 |
出身校 | 早稲田大学第二法学部卒業 |
学位・資格 | 法学士 |
前職 | 衆議院議員秘書 国家基本政策委員会委員 |
世襲の有無 | 無 |
選挙区 | 愛知県第9区 |
当選回数 | 16回 |
党派 | 自由民主党 |
花押 | |
海部 俊樹(かいふ としき、1931年(昭和6年)1月2日 - 2022年(令和4年)1月9日)は、日本の政治家。元衆議院議員(16期)。内閣総理大臣(76、77代)、大蔵大臣(87代)、文部大臣(98・108代)、新進党党首(初代)、自由改革連合代表(初代)、自由民主党総裁(第14代)を歴任。
目次
略歴[編集]
初の昭和生まれの内閣総理大臣でもある。派閥は二階派に属した(最高顧問)。2009年の衆議院解散の時点で、衆議院議員では連続当選回数16回、勤続年数49年と現職トップだった。
- 1931年 - 愛知県名古屋市に写真館を経営する家に生まれる
- 1948年 - 旧制東海中学(現:東海高校)卒業
- 1951年 - 中央大学専門部法科卒業
- 1952年 - 早稲田大学第二法学部に編入学
- 1954年 - 早稲田大学第二法学部卒業
- 1956年 - 早稲田大学大学院法学研究科中退
- 1960年 - 11月20日 第29回衆議院議員総選挙に全国最年少で当選
- 1966年 - 8月1日、労働政務次官(第1次佐藤内閣第3次改造内閣)
- 1974年 - 12月9日、内閣官房副長官(三木内閣)
- 1976年 - 12月24日、文部大臣(福田赳夫内閣)
- 1985年 - 12月28日、文部大臣(第2次中曽根内閣第2次改造内閣)
- 1989年 - 8月10日第76代内閣総理大臣
- 1990年 - 2月28日第77代内閣総理大臣
- 1990年 - 12月29日、第2次海部改造内閣発足
- 1991年 - 11月、内閣総理大臣辞任
- 1994年 - 6月、自民党離党。7月、自由改革連合代表。12月、新進党初代党首
- 1998年 - 1月、新進党分党に伴い無所属(院内会派「無所属の会」)
- 1999年 - 1月、自由党最高顧問
- 2000年 - 4月、保守党最高顧問
- 2002年 - 12月、保守新党最高顧問
- 2003年 - 11月、保守新党の解党・自民党への合流により、復党
- 2009年 - 8月30日、第45回衆議院議員総選挙落選、同日政界引退を表明。
政治姿勢[編集]
初当選以来、三木派に所属し、三木武夫の秘蔵っ子として知られていた。また海部自身もクリーンな政治家として三木を尊敬し、「わかりやすく、きれいな政治」を信条としている。「理想の政治家は?」との問いに対しては、常に「三木武夫」と回答していたほどである。また三木が総裁選で田中角栄に敗れた時には人目をはばからず号泣したという逸話もある。早稲田大学大学院時代に、明治大学大学院にも学びにくるほどであった。
三木派が河本派に移行してからは、1994年に離党するまでの間、名実共にナンバー2として河本敏夫を支えたが、河本とは対照的に資金的な貢献が少なかったため、「財布閉じ器」と渾名される。ニューリーダーの次を狙う政治家として橋本龍太郎、藤波孝生らと共に「ネオ・ニューリーダー」と呼ばれた。
早稲田大学雄弁会の先輩である竹下登ら早大出身者との親交が深かったため、「現住所河本派・本籍竹下派」とも言われた。「竹下が総理になった暁には、河本派を離脱して竹下のもとに馳せ参じるのでは?」と囁かれた事もある。
代表的な文教族であり、福田赳夫内閣と第2次中曽根内閣で文部大臣を務めている。文部大臣時代の功績としては共通一次試験の導入があげられる。また「青年海外協力隊」の生みの親のひとりとしても知られている。
総理総裁就任と辞任[編集]
宇野宗佑が第15回参議院議員通常選挙の大敗北により辞任することになったが、宇野を指名したのが竹下派であったため、竹下派からは宇野の後任の総裁選への出馬を見送ることになった。リクルート事件で有力政治家が謹慎している中で、極端な世代交代を避けたかった竹下が、「時計の針を進めず、戻さず」として年齢の割に当選回数があり、かつ同じ稲門(早稲田大学)として近い関係にあった海部を首相にする構想を打ち出したことから、思いがけず総理総裁の座が転がり込んできた。自民党総裁選では海部の他に、林義郎と石原慎太郎が出馬したが、竹下派の支持を得た海部が両者をおさえて自民党総裁に選ばれた。
参院選の結果、自民党が過半数割れに追い込まれたことにより、ねじれ国会に突入した。自民党が依然過半数を占めていた衆議院は海部俊樹、野党が過半数を確保した参議院は日本社会党委員長の土井たか子を指名した。日本国憲法第67条第2項の規定に基づき、両院協議会にて協議されたが両院の意見は一致せず、衆議院にて指名された海部が内閣総理大臣に就任した(衆議院の優越)。
海部が首相に就任した頃は、いわゆるリクルート事件などで国民の間に政治不信が強まっていた。それだけに、清新なイメージで颯爽と登場した海部に寄せられた党内外の期待感は大きかった。組閣においてはリクルート事件にかかわったとされる政治家を排除(リクルート・パージ)し、リクルートと関係の薄い政治家を優先的に登用した。このため党内の不満が高まり、後の政治改革法案が廃案になる遠因にもなった。官房長官の山下徳夫が宇野と同じく女性スキャンダルを騒がせた際、すぐに山下を更迭させて環境庁長官だった女性議員の森山真弓を官房長官に横滑りさせて女性初の官房長官に起用させたり、様々な行事で夫婦同伴をするなど女性層を意識させた戦術をして、1990年の衆院選では衆院単独過半数を獲得する。
また党内基盤が脆弱であった海部は自民党にとってはその場しのぎの「看板」でしかなく、党内は相変わらず権力闘争に明け暮れていた。石原信雄の回顧録には「海部さんは重大な法案などを決める時には金丸、竹下両氏の判断を仰いでいた。」と記されており、自民党幹事長を務めていた小沢一郎は「担ぐ神輿は軽くてパーな奴が一番いい。」等と海部を暗に揶揄され、金竹小と評された竹下派実力者三人が海部首相以上に強い影響力を持っていた。自民党総裁にして内閣総理大臣でもある海部は、本来味方であるはずの自党に振り回され、小選挙区導入反対派の加藤紘一、山崎拓、小泉純一郎の「YKK」などによる党内からの猛烈な倒閣運動を受けた。しかし、圧倒的な世論の支持が海部を守った。湾岸戦争における経済的な協力や掃海艇派遣では驚異的なねばり腰で法案を成立させた。このことに限らず、外交面では当時のサッチャー英首相やブッシュ米大統領から絶大な信頼を得ていた。天安門事件後、世界から孤立しかかった中国に西側先進国首脳として真っ先に訪問し、円借款を再開させたことには現在でも中国から感謝され「井戸を掘った人」として尊敬されている。
政策の目玉として取り組んだ政治改革関連法案が国会で審議未了廃案となったことを受け、「重大な決意で望む」と発言。これが衆議院の解散を意味する発言であると受け取られた。首相にとって「伝家の宝刀」の異名を持つ解散権は、総理大臣の専権事項である。しかし、自民党内の反海部勢力から大反対の合唱がおこった(海部おろし)。最後には海部をバックアップするはずだった竹下派でさえ明確に解散不支持を表明し、結局解散に踏み切ることが出来ず、発言の責任を取る形で内閣総辞職を選んだ。在任中の内閣支持率は退任直前でさえも50%を超えていた。時には64%ということもあり、国民的な人気は根強いものがあった。
首相在任日数818日間は日本国憲法下において衆議院で内閣不信任決議が採決されなかった内閣の首相としては最長日数記録である。
首相在任中の施策[編集]
- 資金提供
- 湾岸戦争の戦費として多国籍軍に130億米ドルもの資金を提供。しかし、戦後クウェートの新聞に載せられた感謝広告に日本の国旗が無かったが、その後改められた。この施策に関し保守層からは金だけだして人出さない、似非国際貢献、一国平和主義と罵られ左派からも「アメリカの言いなりになり無駄金を拠出した。」と強く批判されるなど一部から強い批判を浴びた。
- 自衛隊ペルシャ湾派遣
- 湾岸戦争の停戦後に、自衛隊創設以来初の海外実任務となる海上自衛隊掃海部隊をペルシャ湾に派遣する。
自民党離党、自由改革連合代表、新進党党首へ[編集]
1994年6月29日、自民党総裁の河野洋平が、党の政権復帰のため日本社会党、新党さきがけと自社さ連立政権構想で合意し、首班指名で社会党の村山富市に投票することを決めると、これを拒否して離党。旧連立与党である新生党や日本新党から首班指名の統一候補として担がれるも、自民党からの造反は期待されたほどは起こらず、決選投票で敗れることになる。その数日後正式に離党し自由改革連合結成し代表就任、新進党結党し初代党首となる。新進党結党会見では臨席した初代幹事長の小沢一郎に核心の質問が集中し思わず「党首は私なんですから質問の順序が逆じゃないんですか。」といきりたつ一幕もあった。さらにこの光景が放映されたあと久米宏が「小沢さんが実権を握っているのは皆わかっている。」と発言し止めをさした。
この離党に至る海部の動きに対し、元衆議院議長・田村元は、かつて海部が師事した三木武夫になぞらえて「三木さんは我々と対立したが偉大な政治家であった。三木さんはあえて茨の道を選んだ。しかし、海部はてんぷらのにおいがするほうへつられて歩いて行った」と酷評している。また、当時の自由民主党幹事長代理野中広務は「元総裁が党を裏切るとは何事」と激怒。自民党本部の八階ホールと総裁室にある歴代総裁肖像画から海部の肖像画のみ撤去させた。更に野中は海部の肖像画の廃棄処分まで指示したが、周囲から「大人げない」とたしなめられ、海部の肖像画は党本部の収蔵庫に保管されることになった。その後、野中と小沢が連携し自自公連立政権が成立し海部も与党へと復帰していくこととなり、野中は海部批判を口にしなくなった。
自民党復党、政界引退[編集]
新進党分党後は1年1ヶ月の無所属暮らし(院内会派「無所属の会」)を経て、自民党との連立政権に加わった自由党に入党。2000年の同党分裂の際には、自民連立継続派の保守党に所属する。
保守新党に改組して臨んだ2003年に第43回衆議院議員総選挙では、民主党の新人岡本充功に比例復活を許したが、小選挙区勝利で連続当選記録を伸ばし、選挙直後に吸収合併される形で自民党に復党した。復党後は古巣の高村派には戻らず、二階俊博ら一緒に復党した旧保守新党議員らと二階グループを結成した。
自民党復党の折には、安倍晋三自民党幹事長(当時)から復党を「諸手をあげて歓迎します」と言われ、離党した際に撤去された海部の肖像画も再び掲額された。
しかし、院内に銅像が建てられる50年永年勤続表彰を目指し出馬した2009年の第45回衆議院議員総選挙にて、小選挙区で岡本充功に敗れた[1]。比例代表は73歳未満と定めた党規に抵触し重複立候補が許されなかったため落選し、同日政界引退を表明。海部は総理大臣在任中の成果を強調し選挙に挑んだが、海部の首相時代を知らない若い世代の有権者が増えた事も落選の一因と見られている。首相経験者が落選したのは、1963年の第30回衆議院議員総選挙の石橋湛山、片山哲両元首相以来46年振り[2]、自民党総裁経験者としては石橋以来2人目である。
主な所属議員連盟[編集]
- 日独議員連盟会長
- 日墺議員連盟会長
- 日英議員連盟最高顧問
主な肩書き[編集]
- (財)日本ソフトテニス連盟会長
- 日本ティーボール協会会長
- EU・ジャパンフェスト日本委員会最高顧問
- 地球環境行動会議(GEA)最高顧問
- 中央政策研究所最高顧問
人物・エピソード[編集]
ネクタイ[編集]
水玉模様のネクタイがトレードマークである。これは、三木内閣の官房副長官時代、スト権スト問題でテレビの討論番組に出演した際、帰宅もままならぬ事から、連日連夜同じ水玉柄のネクタイをしていた事を視聴者に指摘され、それを自らのトレードマークにしたものである。討論番組そのものでは当時公労協事務局長であった富塚三夫に対して一歩も引かぬ弁舌を披露し、「自民党に海部あり」と言わしめ、その後出世街道を歩む端緒となった。昭和天皇の大喪の礼でも仄かに水玉模様のネクタイをして注目を浴びた。
弁論[編集]
旧制中学時代には自ら弁論部を創設し地区大会で優勝するなど早くから弁論で頭角を現し、中央大学専門部入学と共に中央大学辞達学会(弁論部)に所属。中央大学専門部法科卒業後、同郷出身の代議士河野金昇の書生を務めていた。その後、1年間の浪人生活を経て早稲田大学第二法学部夜間部に入学。雄弁会に所属。当時の弁論大会で優勝した折、総長から「海部の前に海部なし、海部のあとに海部なし」と講評される。議員秘書の傍ら早大雄弁会で弁論術の研鑚及び人脈作りにいそしむ。同年代の雄弁会員には渡部恒三がいる。この時代に培った弁論術・人脈が政界入り後に大きな力となり、小派閥から内閣総理大臣まで登りつめた原動力となった。海部は、明治大学卒業の三木武夫の愛弟子であったことから、明治大学にもたびたび公演に訪れていた。
29[編集]
1960年に行われた第29回衆議院議員総選挙に、河野金昇の死後、後継として出馬し一期務めた河野孝子未亡人の後継として出馬。応援演説に来た井出一太郎が放った「サイフは落としてもカイフは落とすな」というキャッチフレーズで人気が沸騰し、当選した。この時29歳であった事から、「29回総選挙に29歳で初当選したから、29年後には総理大臣になる」と公言していた。自民党内では傍流である三木派に属していた事から、この言葉は半ば冗談のように受け取られ、また本人も講演会等の挨拶におけるリップサービスにしていた。ところが、初当選から29年後の1989年、諸々の条件が重なり、海部は内閣総理大臣に就任した。
ヒューストン・サミット[編集]
1990年、アメリカ・ヒューストンで開催されたサミットにおける首脳記念撮影の際、海部が身振りを交えて英語で軽い冗談を飛ばしたところ大受けとなり、ブッシュ米大統領・サッチャー英首相・マルルーニー加首相が大爆笑している場面の写真が全世界に配信されたが、一般にはあまり知られていない。
皇室[編集]
1990年は秋篠宮結婚の儀、今上天皇即位の礼・大嘗祭等重要な皇室行事が続いたが、海部はすべて問題なくこなした。とりわけ即位儀礼は日本国憲法下初の挙行であったため儀式にも慎重に手が入れられたが、それぞれの儀礼は滞りなく進んだ。今上天皇は儀式にあたりその細かい部分について海部に直接相談したり、二人だけで話し込んだりすることもあった。今上天皇は海部と年齢が近いこともあり話しやすく感じていたようであり、個人的な信頼関係が生まれていたと言われる。
きんさんぎんさん[編集]
記録的な長寿で話題となった双子姉妹、成田きんと蟹江ぎんは生前、「尊敬する政治家」として海部の名を挙げていた。
プライベート[編集]
三枝の愛ラブ!爆笑クリニックに首相退任後、夫婦で出演した。
家族・親族[編集]
- 曾祖父・久蔵は旧尾張藩士・海部久(九)兵衛家の嗣子で(海部氏を参照)、明治4年(1871)に義弟(海部の曾祖母・すまの弟)にあたる海部壮平の家族、平井理右衛門の家族とともに春日井郡池之内村(現在の小牧市池之内)に帰田し、共同で万屋と農業を営んでいたが、万屋は経営不振により1879年(明治12)に閉店した[3]。その後、1880年(明治13)に、中区小林町(大須門前町)の邸宅の戸主だった父・久兵衛(海部の高祖父にあたる)が死去したことに伴い、池之内村から同地に転居したとみられている[4]。
- 海部壮平は養鶏業を営み、実弟の海部正秀とともに名古屋コーチンを作出したことで知られるが[5]、壮平は1875年(明治8)に正秀の勧めで副業として養鶏を始め[6]、万屋が閉店し、1880年(明治13)に久蔵らが転居した後、鶏舎を増築して事業を本格化したといい[7]、久蔵が養鶏業を営んでいたかは不明[8]。
- 明治期に尾張徳川家・家令、明倫中学校校長を務めた海部昂蔵について、大石 (1994 62)および小田部 (1988 42)は、海部の祖父、藤田 (2010 80 注47)および豊田 (1991 3-6)は、海部の曾祖父にあたる、としているが、入谷 (2000 92,196-197)は、海部の曾祖父・久蔵は代々「海部久兵衛」を称した家系、海部昂蔵の家系は「海部久右衛門」を称した家系で(詳細は海部氏を参照)、生没年も異なり、昂蔵と久蔵は別人、としている。
- 祖父にあたる幸之進は、1884年(明治17)に大須で写真館を開業[4]。その姉・松江が中村牧陽と結婚した関係から、牧陽の弟子になり、中村写真館を継いだ[4]。幸之進は、コロタイプ写真印刷部を設けた人物として知られている[9]。[10]
- 父・誠也は幸之進の長男。母・ふさは名古屋写真材料組合の初代組合長・加藤隆助の長女[9]。
- アニメプロデューサーの海部正樹は長男。天文学者の海部宣男、2008年にノーベル物理学賞を受賞した小林誠、シンコーホーム詐欺事件で2002年に有罪判決を受けたシンコーホーム元常務の海部俊一は従弟。(出典?)
関連項目[編集]
外部リンク[編集]
- 海部俊樹オフィシャルホームページ(公式サイト)
- 自民党愛知県連
付録[編集]
脚注[編集]
- ↑ 連続16選の海部元首相が落選 民主前職に敗れ、愛知9区共同通信2009年8月30日
- ↑ 首相経験者の落選、46年ぶりYOMIURI ONLINE 読売新聞2009年8月31日
- ↑ 入谷 2000 57,75,87-92,130
- ↑ 4.0 4.1 4.2 入谷 2000 92
- ↑ 入谷 2000 110-112,152-176
- ↑ 入谷 2000 115
- ↑ 入谷 2000 131-132
- ↑ 入谷 2000 92-93
- ↑ 9.0 9.1 入谷 2000 93
- ↑ 豊田 (1991 3,6)は、幸之進は、米国・コロナコダック社で写真撮影技術を学び、名古屋で初めての写真館「中村写真館」を開業した、としている。
参考文献[編集]
- 藤田 (2010) 藤田英昭「北海道開拓の発端と始動 - 尾張徳川家の場合」徳川黎明会『徳川林政史研究所研究紀要』no.44、2010年3月、pp.59-81、NAID 40017129111
- 入谷 (2000) 入谷哲夫『名古屋コーチン作出物語』ブックショップ「マイタウン」、ISBN 4938341972
- 大石 (1994) 大石勇『伝統工芸の創生 ‐ 北海道八雲町の「熊彫」と徳川義親』吉川弘文館、ISBN 4642036563
- 小田部 (1988) 小田部雄次『徳川義親の十五年戦争』青木書店、ISBN 4250880192
- 豊田 (1983) 豊田行二『海部俊樹・全人像』行政問題研究所、ISBN 978-4905786276
- - (1991) 改訂版 行研出版局、ISBN 4905786843
官職 | ||
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先代: | 内閣総理大臣 第76・77代:1989年 - 1991年
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次代: |
先代: | 文部大臣 第96代:1976年 - 1977年
第106代 : 1985年 - 1986年 |
次代: |
先代: | 大蔵大臣 第95代:1991年(兼任)
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次代: |
先代: | 内閣官房副長官(政務担当) | 次代: |
議会 | ||
先代: | 衆議院議院運営委員長 第31代:1972年 - 1973年
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次代: |
党職 | ||
先代: 結成
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新進党党首 初代:1994年 - 1995年
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次代: |
先代: 結成
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自由改革連合代表 初代:1994年
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次代: 新進党へ
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先代: 結成
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高志会代表 初代 : 1994年
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次代: 新進党へ
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先代: | 自由民主党総裁 第14代 : 1989年 - 1991年
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次代: |
先代: | 自由民主党国会対策委員長 第21代 : 1976年
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次代: |
歴代内閣総理大臣 | |||||
第75代 宇野宗佑 |
第76・77代 1989年 - 1991年 |
第78代 宮澤喜一 | |||
第代 [[]] |
第代 |
第代 [[]] | |||
第代 [[]] |
第代 |
第代 [[]] | |||
第代 [[]] |
第代 |
第代 [[]] | |||
第代 [[]] |
第代 |
第代 [[]] | |||
伊藤博文 黑田清隆 山縣有朋 松方正義 大隈重信 桂太郎 西園寺公望 山本權兵衞 寺内正毅 原敬 |
高橋是清 加藤友三郎 清浦奎吾 加藤高明 若槻禮次郎 田中義一 濱口雄幸 犬養毅 齋藤實 岡田啓介 |
廣田弘毅 林銑十郎 近衞文麿 平沼騏一郎 阿部信行 米内光政 東條英機 小磯國昭 鈴木貫太郎 東久邇宮稔彦王 |
幣原喜重郎 吉田茂 片山哲 芦田均 鳩山一郎 石橋湛山 岸信介 池田勇人 佐藤榮作 田中角榮 |
三木武夫 福田赳夫 大平正芳 鈴木善幸 中曾根康弘 竹下登 宇野宗佑 海部俊樹 宮澤喜一 細川護熙 羽田孜 |
村山富市 橋本龍太郎 小渕恵三 森喜朗 小泉純一郎 安倍晋三 福田康夫 麻生太郎 鳩山由紀夫 菅直人 野田佳彦 |