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2013年6月15日 (土) 23:55時点における版
サッカー日本代表(サッカーにっぽんだいひょう、サッカーにほんだいひょう)は、公益財団法人日本サッカー協会 (JFA) によって編成される日本のサッカー国家代表チームである。一般的に「サッカー日本代表」と呼称する場合は、「男子Aナショナルチーム」(年齢制限のないベストメンバーによる代表)を指すことが多い。
FIFAワールドカップには4回出場し、2002年と2010年に最高成績となるベスト16に入った。AFCアジアカップでは最多となる4回の優勝を記録している。アジアサッカー連盟および東アジアサッカー連盟所属。
概要と特徴
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チームカラー
現在は基本色として青、サブカラーに白を使用している。青は「日本の国土を象徴する海と空の青」を表すとされているが、これは後付の説明であり、採用時の正確な理由は日本サッカー協会に資料が現存せず不明であるが(日本サッカー協会公式見解)、最初期の日本代表は選抜チームではなく、大学やクラブなどの単独チームで構成され、代表ユニフォームも各チームのものをそのまま使用していたため、その流れで日本代表が初めて選抜チームを結成し優勝を果たした1930年極東選手権の日本代表に大半の選手を送り込んだ東京帝国大学のライトブルーのシャツをそのまま採用したのが始まりと考えられている。
日本代表にとって初の国際試合となった1917年極東選手権では、東京高等師範学校(東京教育大学を経て現在の筑波大学)が日本代表として出場した為、東京高等師範学校ユニホームである海老茶色のシャツ(黒のパンツ、白の鉢巻)をそのまま使用した。前述の通り、1930年極東選手権でライトブルーのシャツとなった以降は1936年ベルリン五輪に出場した早稲田大学主体の選抜チームの日本代表が淡い青色のシャツとなるなどチームカラーとして青が定着することになった。
1964年東京オリンピックでは上下共に白、1968年メキシコオリンピックでは白のシャツに紺のパンツとなり、1970年代以降は白と青が交互に基調とされるようになった。1988年に日本代表監督に就任した横山謙三の意向により日本代表のユニフォームは国旗の色である赤に同年変更され、胸には従来あった日の丸ではなく三本足の八咫烏が付けられるようになった(ユニフォームの胸の八咫烏のエンブレムは現在も続けて採用されている)。横山監督の成績が振るわず更迭されると、1992年に青を基調としたユニフォームに戻され、現在も続いている。
歴代ユニフォーム
ホーム
アウェー
愛称
2005年10月、日本サッカー協会は5つの候補の中から一般投票を行い、2006年1月27日に他の候補に2倍以上の得票数を獲得した「SAMURAI BLUE 2006」を2006年ワールドカップに向けたペットネームにすることが発表された。2009年10月19日には「SAMURAI BLUE(サムライ・ブルー)」を公式の愛称とすると定められた。グループリーグ敗退に終わった2006 FIFAワールドカップでの愛称の使い回しであることや、ワールド・ベースボール・クラシックでの野球日本代表の愛称「SAMURAI JAPAN(サムライ・ジャパン)」と酷似していると点を批判するメディアもあるが、SAMURAI BLUEのほうが先に作られた。
マスメディアではハンス・オフトが初の外国人代表監督となった際に「オフト・ジャパン」という呼称が使われるようになり、以降「監督名+ジャパン」という呼称が用いられ広く浸透している。フィリップ・トルシエの代表監督時代は「トルシエ・ニッポン」という呼称も使用されていた。現在はアルベルト・ザッケローニに因み「ザックJAPAN」と呼ばれている。
海外メディアでは「ライジング・サン」や「ブルー・サムライ」が使われる事がある。ブルーズという愛称もあるが一般的ではない。
マスコット
三本足のカラスである八咫烏をモチーフにした「カラッペ」と「カララ」がマスコットキャラクターである。デザインは松下進がおこなった。チームユニホームのデザインが変更される度に、2匹のユニホームもそれに合わせて手直しされている。
日本代表グッズ
大日本蹴球協會(現日本サッカー協会)は、1936年のベルリンオリンピック(「ベルリンの奇跡」の大会)への日本代表派遣費用の内、大日本體育協會(現日本体育協会)から支給される旅費以外の経費3万円(2011年で計算すると現在の5275万5千円に当たる)を調達する為に、積極的に募金活動を行った。
また、浴衣地(ゆかたじ)や手ぬぐいを販売した。これが「日本代表グッズ」の始まりであり、現在ではレプリカユニフォームやタオルマフラー等多様な日本代表グッズが販売されている。
プレースタイル
サッカー日本代表のプレースタイルとしては中盤にテクニックのある選手を揃えショートパスを丁寧に繋ぐ事が挙げられる。日本のショートパス戦法は古くは1920(大正9)年頃からインステップキックやインサイドキック等の基礎技術とショートパスを繋いで攻める基礎戦術を早稲田高等学院などで教え、1923(大正12)年8月に『How to play association football』という当時としては画期的な写真や図を多用した理論的且つ具体的な技術や戦術の指導書の日本語版を出版し、同年に日本全国で巡回指導したビルマ(現ミャンマー)人留学生チョウ・ディンの指導により始まった。後にテクニカルなブラジルスタイルを模倣するようになった。なお、ロングボールを多用した時期もあったが、その時期はアジアでも低迷している。
1960年代から1970年代にかけて活躍した釜本邦茂以降はシュート・得点能力に優れるFWの選手が存在せず、ゴール前での絶好のシュートチャンスを決めきれないという特徴がある。
悪質なファウルなどが他国の代表と比べて少なく、世代別代表も含め国際大会ではフェアプレー賞を多く受賞している。
待遇
現在の日本代表選手に対しては様々な給料や手当を、日本サッカー協会(JFA)がその予算の中から支払っている。なお、現在のJFAは独立採算制であり、国の税金は一切入っていない。現在、サッカーくじtotoから3億円以下程度の助成金が入るようになったが、これはJFA全収入の3%以下でしかない(2010年度)。
プロ化される以前の日本代表選手は、JFAが日本代表海外遠征費を捻出できず、旅行代理店に手形で支払うこともあったほど長期に渡り財政難だったこともあり、JFAから給料や手当を長期に渡って受け取っていなかった。
1969年のメキシコW杯アジア・オセアニア予選終了後、日本代表選手たちがJFAから何の手当ても受け取っていない事実を知ったデットマール・クラマーコーチが、「私は君たちに厳しい要求をし過ぎたようだ」と謝罪したエピソードがある。
また、1972年5月、ペレが所属するブラジルのサントスFCが来日し、日本代表と対戦した。前売り券は4日で売り切れ、国立競技場はほぼ満員(有料入場者数5万3516人)となった。この為、当時日本代表だったジョージ小林が、日本代表合宿中に長沼健監督に入場料収入の一部をボーナスとして受け取れないかと要求したが、当時のJFAは依然として財政難だった為、断られた。その後、JFAの財政基盤確立への様々な取り組みの結果、1976年ペレの引退試合以降、JFAの財政は好転し一度も赤字にならずに済むようになった。
森孝慈が日本代表監督に就任すると、JFAと日本代表選手の手当てなどについて交渉して、1982年から1日3千円の手当てがつくようになり、翌1983年からは出場した場合あるいは勝利した場合にボーナスがつくようになった。同時に宿泊施設についても改善された。1993年のJリーグ誕生後には日当と勝利給が支給されるようになったが、出場給は存在しなかった。
日本代表の報酬総額は年々アップしている。アメリカW杯アジア予選の際には、JFAは2億円を用意していた。次回のフランスW杯アジア予選の時には2倍の4億円(出場時間に応じて配分された。1人最高1000万円)を計上し、見事に初出場を果たした。開催国だったため、アジア予選に出場しなかった日韓W杯では、本大会のボーナスとして総額6億9000万円の予算を組んだ。
2005年時点では、試合だけでなく合宿なども含めた日本代表全活動期間の日当が1万円、勝利した場合は勝利給(勝利ボーナス)が全額支給され、引き分けだと半額、負ければ勝利給ゼロで日当のみが支払われた。勝利給は試合の重要性によって異なり、 キリンカップのような親善試合では10万円、アジアカップなどの公式戦で30万円、ワールドカップ(W杯)アジア予選では50万円だった。
成績が良ければプレミア給も追加して支給され、ドイツW杯アジア予選を突破した際には、日本代表選手1人当たり約1000万円が支給された。2004年のアジアカップ中国大会で日本代表が優勝した際には、当時主将のCB宮本恒靖が「ベンチの選手にもボーナスを」と訴え、ベンチ入りしたものの出場機会はなかった選手も含め全員に一律で優勝ボーナス300万円が支払われた(2004年までは出場実績に基づき勝利給の支給額を変動)。海外クラブに所属している日本代表選手には、ビジネスクラス相当の移動費が支給され、上位のファーストクラスを利用する場合は、その差額は選手の自己負担となる。これらの日本代表選手が受け取る給料はJFAが選手の銀行口座に振り込む。また選手の負傷に備えて、保険がかけられている。日本代表選手が所属するクラブに対してJFAは選手1人につき、1日1万5千円の「クラブペイメント」を支払っていた。
2010年度は「日本代表選手ペイメント規定」に基づき、代表選手への日当やボーナスが支払われた。日当(1日1万円)と勝利給の扱いは2005年時と同様。勝利給はW杯本大会は200万円、W杯アジア予選・アジアカップ本大会・コンフェデ杯が30万円、東アジアカップ(旧東アジア選手権)・アジアカップ予選・キリンカップ・FIFAランク10位までのチームとの親善試合が20万円、FIFAランク11~20位までのチームとの親善試合が15万円、FIFAランク21位以下のチームとの親善試合が10万円となった。また、大会ボーナスも、W杯本大会であれば、優勝5000万円が最高額で、ベスト16(=決勝トーナメント進出)で600万円等各大会ごとの各成績別に細かく規定されている。以上を出場実績に関係なく該当試合及び大会に選出された日本代表選手全員に一律に支給する。他、W杯アジア最終予選出場選手のみが対象のW杯本大会出場権獲得ボーナスがあり、出場実績で変動し最高1000万円まで支払われ、更に貢献度が高い選手には特別報酬100万円または200万円が追加して支払われる。日本代表選手が所属する日本国内のクラブに対してJFAは選手1人につき、派遣費1日5万円、傷害等による出場不能期間の補償1日3万円の「クラブペイメント」を支払っている。
日本代表選手の給料の支給方法についてはJFA技術委員会で決めているが、その時の日本代表監督の意向が反映される。南アフリカW杯アジア予選では、岡田武史監督(当時)の意向で、出場給の「実績変動制」が導入された。1試合につき、出場した選手に80万円、ベンチに入った選手に60万円、ベンチ外の選手に40万円(金額はいずれも推定)が支払われた。
しかし、W杯出場権獲得ボーナスはなかった。これについて、犬飼基昭JFA会長(当時)は「南アフリカW杯本大会ベスト4が目標である以上、アジア予選通過はその対象にならない」と述べている。南アフリカW杯本大会では前述通り「日本代表選手ペイメント規定」に基づき、総額約2億5000万円が日本代表選手に支払われた。
2010年12月17日、日本プロサッカー選手会(JPFA。当時は藤田俊哉会長)が日本代表の親善試合での勝利給は20万円程度で、J1各クラブの勝利給の半分以下であり、これはハードな日程の中、招集に応じ、重圧とも戦いながら得る報酬としては極めて低い額であること、肖像権料も90%がJ各クラブへ分配されているが、選手への分配は認められていないことなどの待遇改善をJFAに要求した。
以後、両者間で協議が続き、2012年11月16日、勝利給等の昇給が決まった。W杯アジア予選等が30万円から50万円にアップするなど、Aマッチの勝利給を全体的に引き上げた。また、親善試合の勝利給は対戦国のFIFAランクにより増減していたが、一律の勝利給に統一された。正式には理事会の承認を経て、2013年3月26日のブラジルW杯アジア最終予選B組第7節ヨルダン戦から実施される。
2012年時点では、日本代表の放映権料は1試合当たり1億5000万円。日本代表の約1週間の海外遠征には約5000万円程度の経費が必要である。
歴史
初期
大日本蹴球協會(現日本サッカー協会〔JFA〕)は、1921年に設立され、1929年の国際サッカー連盟 (FIFA) 総会でFIFA加盟が承認された。
日本代表にとって最初の国際試合は、1917年に日本で開催された第3回極東選手権の初戦となった5月9日の中華民国戦だった。東京高等師範学校の単独チームによる日本は0-5で中華民国に敗れた。2試合目の5月10日フィリピン戦では、パウリノ・アルカンタラ擁するフィリピンに2-15と大敗した。これは現在も日本代表の最大差敗戦試合に記録されている(しかし、2試合ともJFAが認定する国際Aマッチではないので留意する必要がある)。尚、この試合でFW藤井春吉が2ゴールを決め、日本代表として初めての得点者となっている。
1927年の第8回極東選手権には早稲田WMWが日本代表として出場し、フィリピンを2-1で破って国際試合初勝利を挙げた。1930年に日本で開催された第9回極東選手権には単独チームではなく東京帝国大学ア式蹴球部主体ではあったが、初めて全日本選抜が編成された。日本は中華民国と同位優勝し、国際大会における初タイトルを獲得した。
1936年のベルリンオリンピックでは、早稲田大学ア式蹴球部主体の選抜チームの日本代表が1回戦でスウェーデンを破る番狂わせを起こした(「ベルリンの奇跡」)。
ワールドカップへの道程
1930年の第1回ワールドカップ開催にあたり、開催地が南米であることから欧州勢は相次いで不参加を表明した。これに対してFIFAは加盟国に招待状を送ったものの、日本サッカー協会は参加を見送った。その理由は、当時の日本国内が1927年の昭和金融恐慌以来慢性的な不況であったため、同年の昭和恐慌発生でさらに経済状態が悪化していたため、そして、日本サッカー協会自身も財政難であったためである。なお、この大会は、以降の大会とは異なり、地区予選は行われていない。
日本は、1938年のフランス大会予選にエントリーした。この予選ではオランダ領東インドとの直接対決に勝てば本大会出場が決まる筈だったが、折からの情勢不安により参加を辞退しエントリーのみに終わった。
第二次世界大戦後の1945年11月13日、戦後の混乱の中、会費が払えずFIFAから資格停止処分にされた。それから2年後の1947年4月1日に日本蹴球協会へと名称変更した上で再発足し、連合国軍総司令部 (GHQ) の占領終了の2年前の1950年9月23日にFIFAに日本蹴球協会として再加盟し、日本サッカー界は政治の世界より一足早く国際舞台に復帰した。
日本代表は1954年のスイス大会で初めてワールドカップアジア予選への参加を果たした。韓国代表との一騎打ちとなったワールドカップアジア最終予選は、本来ホーム&アウェイ方式で行われるはずが、韓国が李承晩大統領の意向(李承晩ライン)で自国開催を拒否したことにより、2試合とも東京で開催されることとなった。日本はホーム開催のアドバンテージがあったにもかかわらず、その2試合とも敗れ出場を逃す。その後も、1950年代から60年代の日本はアマチュアリズム全盛の時代で、ワールドカップの意義、ワールドカップに出場する意義について理解していたとは言いがたく(当時選手として出場していた長沼健第8代JFA会長によれば1954年のスイス大会アジア予選に出場した頃は、そもそもワールドカップとはどんな大会なのか分からずに戦っていたという)、また東京オリンピックを目指して強化を進めていた時期も重なり、ワールドカップよりもオリンピック(以下五輪と略すことあり)に重点が置かれ、予選参加と辞退を繰り返す状態だった。
1968年のメキシコオリンピックで銅メダルを獲得すると、メダル獲得の目的を達成した。これによって、次の目標としてワールドカップ出場にも関心が向くようになり、1970年 メキシコ大会以降、継続的に予選に参加するようになった。しかし、オーストラリア(当時はオセアニアサッカー連盟〈OFC〉の予選の勝者がアジア予選に参加)やイスラエル(当時アジアサッカー連盟〈AFC〉所属)といった国々の前に屈し、アジア予選での敗退が続くことになった。この時期も依然として日本サッカー界にはアマチュアリズムの精神が色濃く残っていた。当時の日本代表選手にとっては「ワールドカップはプロ選手の大会」という認識だったのである。そのため、ワールドカップはオリンピック前のチーム育成の一環として捉えられることが多かった。例えば、ワールドカップアジア予選に若手を出場させ底上げを図り、主力のA代表(年齢制限のないその国最強の代表)を“本番”の五輪に参加させるといったことも、しばしばあった。また、テレビ放送やサッカー雑誌によってワールドカップの紹介がなされるようにはなったものの、選手もファンも、ワールドカップはあくまでもテレビで観戦するものであり、違う世界の出来事という認識を持っていた。
1974年8月31日、協会は財団法人となり、協会誕生より53年間の任意団体状態から脱却し、同時に日本蹴球協会から日本サッカー協会に名称を変更した。その後、2012年4月1日付で公益財団法人となり、それまで監督官庁だった文部科学省から完全な独立を果たした(2012年3月31日までは、財務諸表などを文部科学省に届ける必要があった)。
日本にとって遠い道程であるワールドカップが身近なものとなったのは、1986年メキシコ大会アジア予選の活躍である。この大会の1次予選を1位で通過すると、日本は2次予選で香港を破り、最終予選となる韓国戦へと駒を進めた。しかし、第1戦ホームでは10番木村和司のフリーキックが決まるも1-2で惜敗。ソウルでの第2戦も0-1で敗れ、日本は本大会出場を逃すこととなった。
この敗戦によりアマチュアリズムの限界を悟った日本サッカー協会は、翌1986年にスペシャル・ライセンス・プレーヤーの導入を決定した。また当時のFIFA会長のジョアン・アヴェランジェの意向もあり、ワールドカップ日本開催が俄かに現実味を帯び始めたことで国内での状況にも変化が現れた。日本でワールドカップを開催するとなれば、開催国の名に相応しい強い代表チームが必要となる。その為の強化に関わる様々な改革がなされるようになった。1993年からスタートしたJリーグもその一つである。
1987年10月26日、引き分けでも日本の1988年ソウル五輪出場が決まる有利な状況の中、ホーム国立で行われたソウル五輪アジア最終予選第6戦最終戦中国戦で日本が0-2で敗れ(中国が五輪出場)、予選敗退が決まった。それまで日本A代表の最大の目標だった五輪が、1992年のバルセロナ五輪から23歳以下の選手の大会に規定が変更されていた為、このソウル五輪予選敗退直後から日本A代表の目標はFIFAワールドカップ(W杯)へと完全に変わることになった。
1992年3月に、日本のクラブを指導し実績を上げていたハンス・オフトを日本代表初の外国人監督として就任させ、それまで出場したことのないワールドカップ本大会への挑戦が本格化した。強化は順調に進み、1994年アメリカW杯アジア予選では最終予選に進出する。しかし、イラクと対戦した最終戦で後半ロスタイム(現在のアディショナルタイム)に同点に追いつかれ引き分けたため、あと一歩のところで出場権を逃した(ドーハの悲劇)。
1998年フランス大会は、日本にとってワールドカップ本大会初出場を自力で果たす最後のチャンスとなった。それは、2002年に日本でのワールドカップが開催されることが決定していたためである。1997年のフランス大会予選では、最終予選グループでは韓国に次ぐ2位となったものの、プレーオフでは延長戦の末、岡野雅行のゴールデンゴールでイランを3-2で破り、1954年のスイス大会予選から43年越し10回目の挑戦にして悲願のワールドカップ出場権を獲得した(ジョホールバルの歓喜)。
FIFAワールドカップ
詳細は各大会の記事を参照
- 1998年フランス大会
- 初出場となったこの大会ではグループリーグでアルゼンチン・クロアチア・ジャマイカと対戦。アルゼンチン以外の3チームがワールドカップ初出場というグループであったが、アルゼンチンとクロアチアにはともに0-1で敗れて早々とグループリーグ敗退が決定。最終戦となったジャマイカ戦では中山雅史がチーム初得点こそ挙げたものの1-2で敗戦し、グループリーグ3戦全敗で本大会を終えた。
- 2002年日韓大会
- 開催国のため予選免除での出場。1990年代のサッカー界の改革の元で育成され各年代の国際大会で好成績を収めた選手達が中心になったチームは、本大会グループリーグ初戦のベルギー戦を2-2の引き分けで初の勝ち点を獲得。続く第2戦ではロシアに1-0で勝利して本大会初勝利を収め、最終戦でチュニジアに2-0で勝利し2勝1分の1位で初の決勝トーナメント進出を決めた。決勝トーナメント1回戦ではトルコに0-1で敗れ、ベスト16という成績で地元開催のW杯を終えた。
- 2006年ドイツ大会
- 2大会ぶりに予選に参加し、アジア予選では1次予選で6戦全勝、最終予選で5勝1敗の成績で1位通過し、3大会連続の本大会出場を果たすとともに時差の関係でワールドカップ予選突破第1号となった。本大会では初戦でオーストラリアと対戦し1-3で逆転負けを喫すると、続く第2戦のクロアチア戦では0-0で引き分けるも第3戦のブラジル戦では1-4で逆転負けとなり、通算2敗1分でグループリーグ敗退。前回大会に出場した選手を中心としたメンバー構成だったため更なる躍進が期待されていたものの、選手起用の面等さまざまな部分で課題を残ることとなった。
- 2010年南アフリカ大会
- 2009年6月6日のアジア最終予選においてウズベキスタンに勝利して4大会連続4度目の本大会出場を決め、2006年大会に引き続き2大会連続で予選突破第1号となった。しかし、内容が伴わない試合が多かった上に本大会前の強化試合で4連敗を喫したことからサポーターやマスコミから酷評され続け、岡田武史監督及び日本サッカー協会が掲げた「ベスト4」という目標は「非現実的」と批判されるなどかつてないほどの低評価の中で本大会に臨むこととなった。ところが初戦のカメルーン戦を1-0で勝利して他国開催でのW杯初勝利を挙げると、第2戦のオランダ戦は0-1で敗れたものの最終戦でデンマークに3-1で勝利し、通算2勝1敗の2位で2大会ぶりのグループリーグ通過を果たした。決勝トーナメント1回戦ではパラグアイと対戦し、0-0のまま延長戦でも決着せずPK戦に間でもつれた末に敗れベスト16で敗退。目標のベスト4とはいかなかったが、前評判を大きく上回る結果を残すことになった。
FIFAコンフェデレーションズカップ
1995年にサウジアラビアで開催された第2回大会(当時の大会名は「キング・ファハド杯」)で初出場を果たしたが、グループリーグ敗退。地元開催だった2001年大会ではA代表のFIFA公式戦で初の決勝進出を果たし、フランスに0 - 1で敗れたが準優勝。その後、2003年大会、2005年大会にも出場したが、いずれもグループリーグで敗退した。2009年大会は不出場だったが、2011年のアジア杯で優勝したため2013年大会に通算5回目の出場を決めた。
アジアカップ
アジアにおいてはアジアサッカー連盟(AFC)主催のアジアカップ(サッカー単一種目での大陸選手権)と並んで、アジアオリンピック評議会主催のアジア競技大会(総合競技大会)がかつて高い位置を占めていたので、サッカー日本代表は後者をより重視した。その理由としては、当時はアマチュアリズム全盛の時代であり、オリンピックを重視していたため五輪と同年のアジアカップを軽視していたことや、現在とは違い代表に投資できる年間予算も限られていたことなどが挙げられる(当時のアジア大会の最高成績は1951年イラン大会と1966年バンコク大会の3位。U-23の大会に変わった後の2002年に準優勝、2010年に優勝を果たしている)。
1967年7月、台北で開催された第4回アジアカップイラン大会東地区予選に日本B代表が初参加したものの予選で敗退した。B代表が出場したのは、同じ7月にA代表がペルーとブラジルへ遠征中だったためである。続く第5回タイ大会は不参加。1975年6月、香港で開催された第6回イラン大会東地区予選では初めてA代表が出場した。東地区予選大会は決勝に進んだ2チームが出場する形だった。6月14日の組み分け予備戦(組み分けを決める為に行う試合)で香港と対戦し引き分けたもののPK戦で勝てず (0-0 (PK3-4) ) 、グループリーグでは1勝1敗で準決勝に進み、中国と対戦したが、6分、33分と失点。日本の得点は43分に1点を返したのみで終わり、1-2で敗れ、予選敗退が決まった。その後、第7回クウェート大会、第8回シンガポール大会と立て続けに参加しなかった。
前述のとおり、1992年バルセロナ五輪から五輪が23歳以下の選手の大会になったことで、1987年10月26日にソウル五輪アジア最終予選第6戦最終戦中国戦で日本が0-2で敗れ、予選敗退が決まった直後からJFAは日本A代表の最大の目標をワールドカップへと完全に切り替えた。
1988年、第9回カタール大会予選で大学生を主体とするB代表が初めて予選を突破し、そのままB代表が同年12月の本大会に出場したが、本大会では1次リーグ4試合を通じ無得点で1分3敗のグループ最下位で大会を終えた。当時は依然としてJFAやマスコミはアジアカップを軽視しており(同時期に日本で開催していたトヨタカップを重視し、アジアカップに帯同する記者が少なかったことについて大会の関係者が次回の日本開催について考えなおす旨の発言もあった)、バルセロナ五輪(この五輪から23歳以下の大会)アジア予選に向けたチーム作りの一環として第9回カタール大会予選にB代表を参加させた。ところが、期せずして予選を突破した為、そのまま本大会にも出場させたという。
JFAは、日本代表監督としては史上初の外国人監督ハンス・オフトを1992年3月に日本代表監督へ就任させた。
1992年10月30日から開幕する第10回日本大会へは開催国として出場が決まっており、開催国としても、翌年5月15日に迫ったJリーグ開幕に向け盛り上げる為にも、オフトがチームを掌握する為にも(就任当初は基礎を徹底するオフトに主力が反発するも、結果が出るに従い収まっていったが、中心選手のラモス瑠偉だけが猛反発。1992年9月26日のオフトとの個人面談で和解したが、アジアカップの結果次第では再燃する恐れがあった)、そして何より翌年4月8日から始まる1994年アメリカW杯アジア予選(1993年4月8日がアジア一次予選初戦タイ戦)に自信を持って挑む為にも、この大会での勝利、好成績が求められていた。
広島県各地で開催された日本大会では三浦知良、ラモス瑠偉、北澤豪、中山雅史らが活躍し、主要国際大会で史上初めての優勝をもたらした。実質日本が初めて真剣に取り組んだアジアカップで、初の栄冠を勝ち取ったのであった。またこの大会は日本各地にサポーターが生まれるきっかけにもなった(それまでも東京の国立では日本サッカー狂会をはじめ数少ないサポーターたちが声をそろえて応援し続けていたが、この大会ではウルトラス・ニッポンの一般観客を巻き込みながらスタンド全体で手拍子と歌によって行う大規模な応援が注目を集め、マスコミが報道した。そのことで翌年のJリーグ開幕以降、日本各地にサポーターが誕生することになった)。
1996年の第11回UAE大会はグループリーグを3戦全勝で通過したものの、準々決勝でクウェートに0-2で敗れ連覇ならず。
2000年の第12回レバノン大会は直前のシドニー五輪を戦った中村俊輔・高原直泰ら「黄金世代」といわれたシドニー五輪代表と、名波浩や川口能活らフランスワールドカップ以来のメンバーが融合したチームをフィリップ・トルシエ監督が率い、圧倒的なパフォーマンスで大会を席巻。グループリーグを2勝1分で1位通過すると、準々決勝ではイラクを4-1、準決勝では中国を3-2でそれぞれ逆転で降す。そして、決勝戦では前回優勝のサウジアラビアを1-0で破り2大会ぶり2度目の優勝を果たした。
2004年の第13回中国大会ではジーコ監督のもと主力を怪我などで欠き、地元サポーターの激しいブーイングを受けるなど逆境の中での戦いであったが、決勝トーナメントで2度の延長戦を制した末決勝戦で地元中国を3-1で下して、2大会連続3度目の優勝を果たした。
2007年の第14回4ヵ国(タイ、マレーシア、ベトナム、インドネシア)共催大会ではグループリーグを2勝1分の1位で通過。準々決勝では初参加のオーストラリアをPK戦の末に勝利してベスト4へ進んだものの、準決勝でサウジアラビアに2-3で敗れ3連覇はならず、さらに3位決定戦でも韓国にPK戦の末に敗れ4位に終わった(日本代表はUAE大会の準々決勝でクウェートに敗れて以来16試合無敗を続けていたが、アジアカップ2007準決勝でサウジアラビアに敗れ記録は止まった。ちなみにサウジアラビアも16試合無敗の記録を持っているが、この記録を止めたのは日本だった)。
2011年の第15回カタール大会ではグループリーグを2勝1分の1位で通過。準々決勝の地元カタール戦では10人になりながらも3-2で逆転勝利。準決勝の韓国戦では延長戦でも決着が付かずPK戦に突入し、川島永嗣が相手のPKを2本止める活躍で勝利し決勝進出。決勝のオーストラリア戦では0-0のまま延長戦に突入し、延長後半に長友佑都の左サイドからのクロスボールに李忠成がボレーシュートで合わせ代表初ゴールとなる決勝点を決めて、2大会ぶり4度目(歴代最多)の優勝を遂げた。
初優勝した1992年大会以降グループリーグは全て無敗で1位通過しており、また2大会続けて優勝を逃していない。
特筆すべき試合
- ベルリンの奇跡 - 1936年8月4日 ベルリンオリンピック1回戦 対スウェーデン戦
- メキシコオリンピック - 1968年10月24日 3位決定戦 対メキシコ戦(オリンピックサッカーで初のメダル獲得を果たした試合)
- ドーハの悲劇 - 1993年10月28日 アメリカワールドカップアジア最終予選 最終戦 対イラク戦
- マイアミの奇跡 - 1996年7月22日 アトランタオリンピック男子グループリーグD組第1戦 対ブラジル五輪代表戦
- ジョホールバルの歓喜 - 1997年11月16日 フランスワールドカップアジア最終予選 3次ラウンド(グループA/B プレーオフ) 対イラン戦
- 2002 日韓ワールドカップ - 2002年6月9日 グループリーグH組第2戦 対ロシア戦(日本が初めてFIFAワールドカップで勝利を収めた試合)
- 東北地方太平洋沖地震復興支援チャリティーマッチ - 2011年3月29日 東北地方太平洋沖地震を受けての慈善試合(親善試合) 対Jリーグ選抜
成績
FIFAワールドカップの成績
FIFAワールドカップ | FIFAワールドカップ・予選 | |||||||||||||
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
開催年 | 結果 | 試合数 | 勝 | 分 [注1 1] |
負 | 得点 | 失点 | 試合数 | 勝 | 分 | 負 | 得点 | 失点 | |
テンプレート:Uruguay 1930 | 不参加 | 不参加 | ||||||||||||
テンプレート:ITA1861 1934 | ||||||||||||||
1938 | ||||||||||||||
1950 | ||||||||||||||
テンプレート:Switzerland 1954 | 予選敗退 | 2 | 0 | 1 | 1 | 3 | 7 | |||||||
テンプレート:Sweden 1958 | 不参加 | 不参加 | ||||||||||||
テンプレート:Chile 1962 | 予選敗退 | 2 | 0 | 0 | 2 | 1 | 4 | |||||||
テンプレート:England 1966 | 不参加 | 不参加 | ||||||||||||
テンプレート:Mexico 1970 | 予選敗退 | 4 | 0 | 2 | 2 | 4 | 8 | |||||||
テンプレート:West Germany 1974 | 4 | 1 | 0 | 3 | 5 | 4 | ||||||||
テンプレート:Argentina 1978 | 4 | 0 | 1 | 3 | 0 | 5 | ||||||||
1982 | 4 | 2 | 0 | 2 | 4 | 2 | ||||||||
テンプレート:Mexico 1986 | 8 | 5 | 1 | 2 | 15 | 5 | ||||||||
1990 | 6 | 2 | 3 | 1 | 7 | 3 | ||||||||
1994 | 13 | 9 | 3 | 1 | 35 | 6 | ||||||||
1998 | グループリーグ敗退 | 3 | 0 | 0 | 3 | 1 | 4 | 15 | 9 | 5 | 1 | 51 | 12 | |
2002 | ベスト16 | 4 | 2 | 1 | 1 | 5 | 3 | 免除(開催国) | ||||||
テンプレート:Germany 2006 | グループリーグ敗退 | 3 | 0 | 1 | 2 | 2 | 7 | 12 | 11 | 0 | 1 | 25 | 5 | |
テンプレート:South Africa 2010 | ベスト16 | 4 | 2 | 1 | 1 | 4 | 2 | 14 | 8 | 4 | 2 | 23 | 9 | |
合計 | 4/19 | 14 | 4 | 3 | 7 | 12 | 16 | 88 | 46 | 21 | 21 | 173 | 70 |
- ↑ 決勝トーナメントでのPK戦を含む。
FIFAワールドカップでの全試合結果
FIFAワールドカップ | |||||||||
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
開催年 | ラウンド | 開催日 | 開催場所 | 対戦国 | スコア | 結果 | 得点者 | 地上波 テレビ 中継局 (系列) |
視聴率 (関東地区) |
1998 | GL | 6月14日 | トゥールーズ スタディウム・ミュニシパル |
アルゼンチン | 0-1 | ● | NHK | 60.5% | |
GL | 6月20日 | ナント スタッド・ドゥ・ラ・ボージョワール |
テンプレート:CROf | 0-1 | ● | NHK | 60.9% | ||
GL | 6月26日 | リヨン スタッド・ジェルラン |
テンプレート:JAMf | 1-2 | ● | 中山雅史 | NHK | 52.3% | |
2002 | GL | 6月4日 | さいたま市 埼玉スタジアム2002 |
テンプレート:BELf | 2-2 | △ | 鈴木隆行 稲本潤一 |
NHK | 第1部 43.1% 第2部 58.8% |
GL | 6月9日 | 横浜市 横浜国際総合競技場 |
テンプレート:RUSf | 1-0 | ○ | 稲本潤一 | フジテレビ | 66.1% | |
GL | 6月14日 | 大阪市 長居スタジアム |
テンプレート:TUNf | 2-0 | ○ | 森島寛晃 中田英寿 |
テレビ朝日 | 45.5% | |
R16 | 6月18日 | 宮城県宮城郡利府町 宮城スタジアム |
テンプレート:TURf | 0-1 | ● | NHK | 第1部 45.3% 第2部 48.5% | ||
2006 | GL | 6月12日 | カイザースラウテルン フリッツ・ヴァルター・シュタディオン |
オーストラリア | 1-3 | ● | 中村俊輔 | NHK | 49.0% |
GL | 6月18日 | ニュルンベルク フランケン・シュタディオン |
テンプレート:CROf | 0-0 | △ | テレビ朝日 | 52.7% | ||
GL | 6月22日 | ドルトムント ヴェストファーレン・シュタディオン |
ブラジル | 1-4 | ● | 玉田圭司 | NHK | (3:30〜5:00) 22.8% (5:00〜6:00) 37.2% | |
2010 | GL | 6月14日 | フリーステイト州 フリーステイト・スタジアム |
カメルーン | 1-0 | ○ | 本田圭佑 | NHK | 第1部 44.7% 第2部 45.2% |
GL | 6月19日 | ダーバン モーゼス・マヒダ・スタジアム |
オランダ | 0-1 | ● | テレビ朝日 | 43.0% | ||
GL | 6月24日 | ルステンブルク ロイヤル・バフォケン・スタジアム |
デンマーク | 3-1 | ○ | 本田圭佑 遠藤保仁 岡崎慎司 |
日本テレビ | (3:00〜5:00) 30.5% (5:00〜5:40) 40.9% | |
R16 | 6月29日 | プレトリア ロフタス・ヴァースフェルド・スタジアム |
パラグアイ | 0-0 (PK 3-5) |
△ | TBSテレビ | 57.3% |
</div>
</div>
FIFAコンフェデレーションズカップの成績
FIFAコンフェデレーションズカップ | |||||||
---|---|---|---|---|---|---|---|
開催年 | 結果 | 試合数 | 勝 | 分 | 負 | 得点 | 失点 |
テンプレート:Saudi Arabia 1992 | 不出場 | ||||||
テンプレート:Saudi Arabia 1995 | グループリーグ敗退 | 2 | 0 | 0 | 2 | 1 | 8 |
テンプレート:Saudi Arabia 1997 | 不出場 | ||||||
テンプレート:Mexico 1999 | |||||||
2001 | 準優勝 | 5 | 3 | 1 | 1 | 6 | 1 |
2003 | グループリーグ敗退 | 3 | 1 | 0 | 2 | 4 | 3 |
テンプレート:Germany 2005 | グループリーグ敗退 | 3 | 1 | 1 | 1 | 4 | 4 |
テンプレート:South Africa 2009 | 不出場 | ||||||
2013 | 出場権獲得 | ||||||
合計 | 5/9 | 13 | 5 | 2 | 6 | 15 | 16 |
FIFAコンフェデレーションズカップでの全試合結果
FIFAコンフェデレーションズカップ | ||||
---|---|---|---|---|
開催年 | ラウンド | 対戦国 | スコア | 結果 |
1995 | GL | テンプレート:fb | 0-3 | ● |
GL | テンプレート:fb | 1-5 | ● | |
2001 | GL | テンプレート:fb | 3-0 | ○ |
GL | テンプレート:fb | 2-0 | ○ | |
GL | テンプレート:fb | 0-0 | △ | |
準決勝 | テンプレート:fb | 1-0 | ○ | |
決勝 | テンプレート:fb | 0-1 | ● | |
2003 | GL | テンプレート:fb | 3-0 | ○ |
GL | テンプレート:fb | 1-2 | ● | |
GL | テンプレート:fb | 0-1 | ● | |
2005 | GL | テンプレート:fb | 1-2 | ● |
GL | テンプレート:fb | 1-0 | ○ | |
GL | テンプレート:fb | 2-2 | △ | |
2013 | GL | テンプレート:fb | - | |
GL | テンプレート:fb | - | ||
GL | テンプレート:fb | - |
AFCアジアカップの成績
AFCアジアカップ | AFCアジアカップ・予選 | |||||||||||||
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
開催年 | 結果 | 試合数 | 勝 | 分 |
負 | 得点 | 失点 | 試合数 | 勝 | 分 | 負 | 得点 | 失点 | |
香港 1956 | 不参加 | 不参加 | ||||||||||||
1960 | ||||||||||||||
1964 | ||||||||||||||
イラン 1968 | 予選敗退 | 4 | 3 | 1 | 0 | 8 | 4 | |||||||
1972 | 不参加 | 不参加 | ||||||||||||
イラン 1976 | 予選敗退 | 4 | 1 | 1 | 2 | 3 | 4 | |||||||
クウェート 1980 | 不参加 | 不参加 | ||||||||||||
1984 | ||||||||||||||
カタール 1988 | グループリーグ敗退 | 4 | 0 | 1 | 3 | 0 | 6 | 4 | 2 | 1 | 1 | 6 | 3 | |
1992 | 優勝 | 5 | 3 | 2 | 0 | 6 | 3 | 免除(開催国) | ||||||
アラブ首長国連邦 1996 | ベスト8 | 4 | 3 | 0 | 1 | 7 | 3 | 免除(前回優勝) | ||||||
レバノン 2000 | 優勝 | 6 | 5 | 1 | 0 | 21 | 6 | 3 | 3 | 0 | 0 | 15 | 0 | |
2004 | 優勝 | 6 | 4 | 2 | 0 | 13 | 6 | 免除(前回優勝) | ||||||
マレーシア ベトナム 2007 | 4位 | 6 | 2 | 3 | 1 | 11 | 7 | 6[1] | 5 | 0 | 1 | 15 | 2 | |
カタール 2011 | 優勝 | 6 | 4 | 2 | 0 | 14 | 6 | 6 | 5 | 0 | 1 | 17 | 4 | |
2015 | 出場権獲得 | 免除(前回優勝) | ||||||||||||
合計 | 7/15 (4 優勝) | 37 | 21 | 11 | 5 | 72 | 37 | 27 | 19 | 3 | 5 | 64 | 17 |
AFCアジアカップでの全試合結果
AFCアジアカップ | ||||
---|---|---|---|---|
開催年 | ラウンド | 対戦国 | スコア | 結果 |
1988 | GL | テンプレート:fb | 0-0 | △ |
GL | テンプレート:fb | 0-2 | ● | |
GL | テンプレート:fb | 0-1 | ● | |
GL | テンプレート:fb | 0-3 | ● | |
1992 | GL | テンプレート:fb | 0-0 | △ |
GL | テンプレート:fb | 1-1 | △ | |
GL | テンプレート:fb | 1-0 | ○ | |
準決勝 | テンプレート:fb | 3-2 | ○ | |
決勝 | テンプレート:fb | 1-0 | ○ | |
1996 | GL | テンプレート:fb | 2-1 | ○ |
GL | テンプレート:fb | 4-0 | ○ | |
GL | テンプレート:fb | 1-0 | ○ | |
準々決勝 | テンプレート:fb | 0-2 | ● | |
2000 | GL | テンプレート:fb | 4-1 | ○ |
GL | テンプレート:fb | 8-1 | ○ | |
GL | テンプレート:fb | 1-1 | △ | |
準々決勝 | テンプレート:fb | 4-1 | ○ | |
準決勝 | テンプレート:fb | 3-2 | ○ | |
決勝 | テンプレート:fb | 1-0 | ○ | |
2004 | GL | テンプレート:fb | 1-0 | ○ |
GL | テンプレート:fb | 4-1 | ○ | |
GL | テンプレート:fb | 0-0 | △ | |
準々決勝 | テンプレート:fb | 1-1 (PK 4-3) |
△ | |
準決勝 | テンプレート:fb | 4-3 | ○ | |
決勝 | テンプレート:fb | 3-1 | ○ | |
2007 | GL | テンプレート:fb | 1-1 | △ |
GL | テンプレート:fb | 3-1 | ○ | |
GL | テンプレート:fb | 4-1 | ○ | |
準々決勝 | テンプレート:fb | 1-1 (PK 4-3) |
△ | |
準決勝 | テンプレート:fb | 2-3 | ● | |
3位決定戦 | テンプレート:fb | 0-0 (PK 5-6) |
△ | |
2011 | GL | テンプレート:fb | 1-1 | △ |
GL | テンプレート:fb | 2-1 | ○ | |
GL | テンプレート:fb | 5-0 | ○ | |
準々決勝 | テンプレート:fb | 3-2 | ○ | |
準決勝 | テンプレート:fb | 2-2 (PK 3-0) |
△ | |
決勝 | テンプレート:fb | 1-0 | ○ | |
2015 | GL | - | ||
GL | - | |||
GL | - |
コパ・アメリカの成績
ダイナスティカップの成績
東アジアカップの成績
オリンピックの成績
オリンピックサッカー日本代表選手も参照。1992年大会以降の成績はU-23サッカー日本代表#オリンピックの成績も参照。
- 1908 - 1928 - 不参加
- 1936 - ベスト8
- 1948 - 不参加
- 1952 - 不参加
- 1956 - 1回戦敗退
- 1960 - 予選敗退
- 1964 - ベスト8(開催国)
- 1968 - 3位
- 1972 - 予選敗退
- 1976 - 予選敗退
- 1980 - 予選敗退
- 1984 - 予選敗退
- 1988 - 予選敗退
アジア競技大会の成績
2002年大会以降はU-23サッカー日本代表#アジア競技大会の成績を参照。
- 1951 - 3位
- 1954 - グループリーグ敗退
- 1958 - グループリーグ敗退(開催国)
- 1962 - グループリーグ敗退
- 1966 - 3位
- 1970 - 4位
- 1974 - 1次リーグ敗退
- 1978 - 1次リーグ敗退
- 1982 - ベスト8
- 1986 - グループリーグ敗退
- 1990 - ベスト8
- 1994 - ベスト8(開催国)
- 1998 - 2次リーグ敗退(ベスト16)※
※1998年大会は、大会規定上はフル代表が出場可能であったものの、日本はU-21の選手で参加した。
実績
世界レベル
- FIFAコンフェデレーションズカップ
- 準優勝 (1):2001
- オリンピック
- 銅メダル (1):1968
大陸レベル
大陸間レベル
- AFC/OFCチャレンジカップ
- 優勝 (1):2001
- アフロアジア選手権
- 優勝 (2):1993、2007
地域レベル
その他
- カールスバーグ・カップ
- 準優勝 (1):1996
- ムルデカ大会
- 準優勝 (2):1963、1976
- キリンカップ
- JOMO CUP
- 優勝 (2):1997(同位)、2000
- 3大陸トーナメント
- 優勝 (1):2007
選手
定義
世界的に、また日本の記録集においても、代表選手とは「国際Aマッチでの出場経験選手」を条件とし、その出場回数をキャップ数と言う。しかし個々の選手を定義する場合、選出されながらも出場しなかった場合などでは意見が分かれる。また黎明期には日本代表がヨーロッパや南米のクラブチームと対戦した例も多く、その扱いも定まっていない。日本サッカー協会関係者は、明確な基準は無く、また時代とともにルールや環境が変わっている点を指摘し、以下の場合でも選手を「元日本代表」としてもよいのではと話している。
- 国際Aマッチに出場した実績がある(キャップ数がある)。
- ワールドカップやアジアカップの本選や予選などFIFA公式戦で日本代表に選出されたが出場機会が無かった。
- 国代表との親善試合で選出されたが出場機会が無かった。
- 対戦相手がクラブチームなど代表でなくとも、日本代表として選出された。
記録
各ランキングは2013年6月4日 オーストラリア戦終了時のもの。(#)は現役選手(代表引退ではなく、現役を引退していない選手)を表す。「期間」は代表で試合に出場した期間であり、末期が抜けている選手は現役の代表選手を表す。
出場数
位 | 名前 | 出場数 | 得点数 | 期間 |
---|---|---|---|---|
1 | 遠藤保仁(#) | 129 | 10 | 2002年- |
2 | 井原正巳 | 122 | 5 | 1988年-1999年 |
3 | 川口能活(#) | 116 | 0 | 1997年-2008年 |
4 | 中澤佑二(#) | 110 | 17 | 1999年-2010年 |
5 | 中村俊輔(#) | 98 | 24 | 2000年-2010年 |
6 | 三浦知良(#) | 89 | 55 | 1990年-2000年 |
7 | 三都主アレサンドロ(#) | 82 | 7 | 2002年-2006年 |
7 | 稲本潤一(#) | 82 | 5 | 2000年-2010年 |
9 | 都並敏史 | 78 | 2 | 1980年-1995年 |
10 | 中田英寿 | 77 | 11 | 1997年-2006年 |
10 | 楢崎正剛(#) | 77 | 0 | 1998年-2010年 |
得点
JFAは、最多得点者を釜本邦茂(75得点)としている。
位 | 名前 | 得点数 | 出場数 | 期間 |
---|---|---|---|---|
1 | 釜本邦茂[2] | 75 | 76 | 1964年-1977年 |
2 | 三浦知良(#)[2] | 55 | 89 | 1990年-2000年 |
3 | 原博実 | 37 | 75 | 1978年-1988年 |
4 | 岡崎慎司(#) | 32 | 62 | 2008年- |
5 | 高木琢也 | 27 | 44 | 1992年-1997年 |
6 | 木村和司 | 26 | 54 | 1979年-1986年 |
7 | 中村俊輔(#) | 24 | 98 | 2000年-2010年 |
8 | 高原直泰(#) | 23 | 57 | 2000年-2008年 |
9 | 中山雅史 | 21 | 53 | 1990年-2003年 |
10 | 宮本輝紀 | 18 | 58 | 1961年-1971年 |
一方、国際サッカー歴史統計連盟 (IFFHS) は、三浦知良と釜本邦茂(共に55得点)を最多得点者としている。これは以下に示す JFA、IFFHS 両者の統計方法の違いによる。
- JFA - 1988年以前のオリンピック予選および本大会における、プロリーグの存在しない国・地域の、年齢制限のないオリンピック代表チームとの試合は国際Aマッチとする。
- IFFHS - 1954年以降の全てのオリンピック関係の試合を国際Aマッチから除外。
主な公式記録
- 1試合最多得点: 釜本邦茂(1967年9月27日メキシコ五輪アジア予選第1戦フィリピン戦)、三浦知良(1997年6月22日仏W杯アジア1次予選グループ4第4戦マカオ戦) - 6得点 *IFFHSでは三浦知良単独としている。
- 連続得点: 木村和司 - 6試合(1985年5月18日メキシコW杯アジア1次予選グループ4B第4戦シンガポール戦から同年10月26日メキシコW杯アジア最終予選第1戦韓国戦まで)
- 連続無失点: 楢崎正剛 - 7試合(2003年10月8日親善試合チュニジア戦から2004年2月18日独W杯アジア1次予選グループ3第1戦オマーン戦まで)
- 最年少出場: 市川大祐 - 17歳322日(1998年4月1日親善試合韓国戦)
- 最年少得点: 金田喜稔 - 19歳119日(1977年6月15日第6回日韓定期戦)
- 最年長出場: 川本泰三 - 40歳106日(1954年5月3日マニラアジア大会グループリーグB組第2戦インド戦)
- 最年長得点: ラモス瑠偉 - 36歳85日(1993年5月5日アメリカW杯アジア1次予選F組第7戦スリランカ戦)
以上全て2011年時点。
背番号
最も大きな数の背番号をつけ日本代表の公式戦に出場したのは権田修一(88番、AFCアジアカップ2011予選大会、対イエメン、アウェー戦)。 また同試合においては、既に登録された77人の選手に加え、19人の選手を追加した為、総勢96人となり、欠番も関係し、河野広貴が背番号100で登録された。
歴代監督の一覧
試合数および成績は日本サッカー協会が認めた国際Aマッチのみをカウントしている。試合数が0の監督がいるのは、指揮した試合がすべて国際Aマッチ以外の試合だったためである。
名前 |
国籍 |
試合 |
勝利 |
引分 |
敗戦 |
年 |
主な参加大会 |
---|---|---|---|---|---|---|---|
(不明) | 日本 | 0 | 0 | 0 | 0 | 1917年 | 17FEG |
佐々木等 (en) | 日本 | 0 | 0 | 0 | 0 | 1921年 | 21FEG |
西田満寿次郎 (en) | 日本 | 2 | 0 | 0 | 2 | 1923年 | 23FEG |
山田午郎 | 日本 | 2 | 0 | 0 | 2 | 1925年 | 25FEG |
(監督なし) | 日本 | 2 | 1 | 0 | 1 | 1927年 | 27FEG |
鈴木重義 | 日本 | 2 | 1 | 1 | 0 | 1930年 | 30FEG |
竹腰重丸 | 日本 | 3 | 1 | 0 | 2 | 1934年 | 34FEG |
鈴木重義 | 日本 | 2 | 1 | 0 | 1 | 1936年 | 36OG |
竹腰重丸 | 日本 | 1 | 1 | 0 | 0 | 1938年 - 1940年 | |
工藤孝一 | 日本 | 0 | 0 | 0 | 0 | 1942年 | |
二宮洋一 | 日本 | 3 | 1 | 1 | 1 | 1951年 | 51AG |
竹腰重丸 | 日本 | 12 | 2 | 4 | 6 | 1951年 - 1956年 | 54WC予、54AG、56OG予、56OG |
高橋英辰 | 日本 | 0 | 0 | 0 | 0 | 1957年 | |
川本泰三 | 日本 | 2 | 0 | 0 | 2 | 1958年 | 58AG |
竹腰重丸 | 日本 | 12 | 4 | 2 | 6 | 1958年 - 1959年 | 60OG予 |
高橋英辰 | 日本 | 14 | 3 | 2 | 9 | 1960年 - 1962年 | 62WC予、62AG |
D・クラマー | ドイツ | 1 | 0 | 0 | 1 | 1960年 | 62WC予 |
長沼健 | 日本 | 31 | 18 | 7 | 6 | 1962年 - 1969年 | 64OG、66AG、68OG予、68OG、70WC予 |
岡野俊一郎 | 日本 | 0 | 0 | 0 | 0 | 1969年 | |
岡野俊一郎 | 日本 | 19 | 11 | 2 | 6 | 1970年 - 1971年 | 70AG、72OG予 |
長沼健 | 日本 | 42 | 16 | 5 | 21 | 1972年 - 1976年 | 74WC予、74AG、76AC予、76OG予 |
二宮寛 | 日本 | 27 | 6 | 6 | 15 | 1976年 - 1978年 | 78WC予、78AG |
下村幸男 | 日本 | 14 | 8 | 4 | 2 | 1979年 - 1980年 | 80OG予 |
渡辺正 | 日本 | 3 | 2 | 0 | 1 | 1980年 | |
川淵三郎 | 日本 | 10 | 3 | 2 | 5 | 1980年 - 1981年 | 82WC予 |
森孝慈 | 日本 | 43 | 22 | 5 | 16 | 1981年 - 1985年 | 82AG、84OG予、86WC予 |
石井義信 | 日本 | 17 | 11 | 2 | 4 | 1986年 - 1987年 | 86AG、88OG予 |
横山謙三 | 日本 | 24 | 5 | 7 | 12 | 1988年 - 1991年 | 90WC予 |
H・オフト | オランダ | 27 | 17 | 6 | 4 | 1992年 - 1993年 | 92AC、94WC予 |
P・ファルカン | ブラジル | 9 | 3 | 4 | 2 | 1994年 | 94AG |
加茂周 | 日本 | 46 | 24 | 8 | 14 | 1994年 - 1997年 | 95IC、96AC、98WC予 |
岡田武史 | 日本 | 15 | 5 | 4 | 6 | 1997年 - 1998年 | 98WC予、98WC |
P・トルシエ | フランス | 50 | 23 | 15 | 12 | 1998年 - 2002年 | 99CA、00AC、01CC、02WC |
ジーコ | ブラジル | 71 | 38 | 15 | 18 | 2002年 - 2006年 | 03CC、03FEC、04AC、05CC、05FEC、06WC予、06WC、07AC予 |
山本昌邦 | 日本 | 1 | 0 | 0 | 1 | 2002年 | |
I・オシム | テンプレート:BIH | 20 | 13 | 2 | 5 | 2006年 - 2007年 | 07AC予、07AC |
岡田武史 | 日本 | 49 | 26 | 12 | 11 | 2007年 - 2010年 | 08FEC、10WC予、10FEC、11AC予、10WC |
大木武 | 日本 | 1 | 0 | 1 | 0 | 2009年 | 10WC予 |
原博実 | 日本 | 2 | 2 | 0 | 0 | 2010年 | |
A・ザッケローニ | イタリア | 36 | 22 | 9 | 5 | 2010年 - | 11AC、14WC予 |
略式:WC=FIFAワールドカップ、IC・CC=FIFAコンフェデレーションズカップ、OG=オリンピックサッカー競技、AC=AFCアジアカップ、AG=アジア競技大会サッカー競技、FEC=東アジアカップ、FEG=極東選手権競技大会サッカー競技、CA=コパ・アメリカ、予=各大会ごとの予選
年代別日本代表
国籍以外の資格制限がない、いわゆるA代表(国際Aマッチの成立要件となる)のほかに、派遣対象となる試合が選手資格に制限を設けている場合などに、資格を満たす範囲で選手を選出しチームを編成する。このときは、日本代表という呼称の前に制限や派遣大会の名称等を関して、A代表との区別をする(ただし、正式にはA代表にも派遣大会名称を冠している)。
- オリンピック日本代表 - 1992年のバルセロナオリンピック以降、オリンピックサッカー競技の予選および本大会では、原則として23歳以下の選手に限るという制約が設けられた。このため予選期間にはU-23日本代表(前年に予選が行われる場合はU-22日本代表)と呼ばれることが多いが、本大会ではオーバーエイジ枠を含むことができるため、オリンピック日本代表という呼称が用いられる。詳細はオリンピックサッカー日本代表選手を参照。年齢に制限は無く、アマチュアのみに出場が許された1968年のメキシコシティ大会でオリンピック日本代表は銅メダルを獲得した。
- ユニバーシアード日本代表 - 大学生のスポーツ大会であるユニバーシアードに派遣される日本代表を指す。選考範囲は原則として大学または大学院在学中、ならびに大会の前年に大学または大学院を卒業した選手に限られる。その他の大会で同じ選考範囲で選手構成がなされる場合は、学生日本代表や大学日本代表、もしくは学生選抜や大学選抜と断りを入れるなどをして呼ばれることが多い。ユニバーシアード日本代表は、1995年の福岡大会で初優勝、その後2001年北京大会、2003年大邱大会および2005年イズミル大会で3大会連続優勝を果たした。
- U-21日本代表 - 出場資格が21歳以下であるトゥーロン国際大会などに派遣される日本代表を指す。また、アジア競技大会サッカー競技では2002年釜山大会より、出場資格がオリンピックと同じ23歳以下(オーバーエイジ可)となっているものの、同大会をその2年後のオリンピック日本代表の強化試合と位置付けて、あえて21歳以下の代表を編成する場合もある。
- U-20日本代表 - 出場資格が20歳以下であるFIFA U-20ワールドカップ(旧:ワールドユース)、およびその予選を兼ねたAFC U-19選手権(旧:AFCユース選手権)に派遣される日本代表を指す。AFC U-19選手権についてはU-20ワールドカップの前年に開催されることから、その時点ではU-19日本代表と呼ばれる。ユース日本代表とも。高校を卒業しJリーグクラブに加入したばかりの若手選手を中心に編成されるのが一般的だが、大学生やU-17世代が加わることもある。1999年のワールドユース選手権では、男女、年代の別を問わないすべてのカテゴリーを通じた「サッカー日本代表」として初めて、FIFA主催の世界大会で準優勝の座に立った。
- U-17日本代表 - FIFA U-17ワールドカップ、およびその予選を兼ねたAFC U-16選手権に派遣される日本代表を指す。2008年大会から大会名が変更になった。
オフィシャル(公式)スポンサー等
日本A代表などの各種代表及び各年代別代表のスポンサーには、現在は4つのカテゴリーがある。
オフィシャルスポンサー
1980年(昭和55年)からキリンカップサッカーを初めとした日本国内での国際Aマッチシリーズを特別協賛している。
オフィシャルサプライヤー
各種日本代表のユニホーム等の用具類などを提供する。
サポーティングカンパニー
スポンサー料を支払い、各種日本代表戦における広告看板掲出権およびチケットキャンペーン権、日本代表エンブレム、マスコット等の広告・販促活動への使用権を得ている。ただし、日本のホームゲームなど日本サッカー協会がマーケティング権を完全に保有する試合のみに適用される。
現在契約中
- アウディ・ジャパン
- クレディセゾン
- ファミリーマート
- 日本航空
- 1999年以降、2010年現在に至るまでサッカー日本代表チームの「オフィシャルサポーティングカンパニー」として、2002年と2006年のFIFAワールドカップで特別塗装機材を運航した他、2010年の南アフリカ大会の際にはキャンプ地までの特別機の運航も行った。2010年(平成22年)1月19日に同社が会社更生法の適用を東京地裁に申請し受理された事態(倒産)を受けて、契約継続が危ぶまれたが、最終的に契約継続となった。
- 三井住友海上火災保険
- ソニーマーケティング
- コナミデジタルエンタテインメント
- みずほフィナンシャルグループ
過去
- 日産自動車(2001年4月 - 2007年3月)
- 大和証券グループ本社(2007年6月 - ?)
- 当初は「2015年までの契約」とされたが、2011年5月のJFAとアウディジャパンとの契約締結時点でプレスリリースから社名が消えているほか、2012年6月現在日本代表公式サイトからバナーが消滅している。なお契約解除に関する公式発表はされていない。
日本代表戦マッチスポンサー
日本サッカー協会がマーケティング権を持つ国内での日本代表の試合をサポートする。
なお、スポンサーについての詳細及び他のJFAの財源等については日本サッカー協会のJFA財務内容の項参照のこと。
脚注
関連項目
外部リンク
- SAMURAI BLUE サッカー日本代表
- 日本サッカー協会 日本代表
- 日本サッカー協会 日本代表歴代記録A
- RSSSFによる日本代表の記録
- RSSSFによる日本代表の選手の記録
- SAMURAIBLUE (jfa_samuraiblue) on Twitter
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