菊タブー

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菊タブー(きくタブー)は、天皇皇室に対する批判やパロディーに対する社会的圧力(直接的な暴力も含む)の総称と、これに対する社会的禁忌タブー)の総称(俗称)。天皇・皇室の紋章が菊花紋章)であることから、婉曲的にこう呼ばれる。

概要[編集]

天皇や天皇制(皇室制度)に対して批判的な言論は、太平洋戦争中まで、刑法不敬罪)などによって法的に禁圧され、社会的にも強い排除圧力があった。

敗戦後は言論の自由が広く認められ、天皇や天皇制(皇室制度)に対して批判的な言論であっても、法的に禁圧されることはほぼなくなり、社会的にも批判に寛容になった。しかし、一部の右翼団体やそれに属する人物などが、暴力的な手段を用いてこれを封殺しようとする事件をたびたび起こした。このため、暴力をうけることやトラブルになることを恐れて、マスメディアなどが、天皇や天皇制に関する批判的言論を控える自主規制の事例もみられる。これを指して、天皇や天皇制(皇室制度)に対して批判的な言論は、マスメディアにおけるタブーの一つとされ、婉曲的に菊タブーと言われるようになった。

世相と背景[編集]

第二次世界大戦前(明治以降)、第二次世界大戦中、天皇は「現人神」とされ、天皇に対するあらゆる批判的な・また茶化したりする言動は不敬罪が適用され逮捕された他(行幸に対する最敬礼で、ズボンの前ファスナーを閉じ忘れていただけで“不敬”とされ連行されかけた例もある)、治安維持法などによって国体(天皇制)を否認する運動が取り締まりの対象となったため、天皇や皇室に対しては報道の自由も含めほぼ議論ができない状況にあった。

1945年(昭和20年)の敗戦後、占領政策に基づく民主化が行われ不敬罪、治安維持法が廃止されたことによりそれまで論議されることの無かった天皇制の是非・戦争責任に関する議論が発生し、天皇の批判・存廃に関する論説を掲げる雑誌も出版された。但し占領軍当局は天皇について直接問責しようとはせず、むしろ占領政策に利用しようとした。これが後のタブー出現につながると見られる。

民主化による国民意識の高まりから様々な大衆運動が盛んとなる一方、1948年(昭和23年)、朝鮮半島が極めて不安定な情勢となった事をきっかけにアメリカ合衆国は日本の再軍備化を要求、政府はそれに応える形で1950年(昭和25年)の朝鮮戦争勃発を機に後の自衛隊となる警察予備隊が組織、国家権力の強化を模索していった(逆コース)。この事が更なる国民の反発を招き、またそれが破壊活動防止法制定や警察制度の組織化(新警察法制定)へと繋がるといった状況が続き、1960年(昭和35年)の日米安保条約改訂の頃には、それに対する反対運動も激化し、全国的な広がりを見せるものとなっていた。

右翼の中には戦前と変わらず天皇を「の一族の末裔」であると信じ、戦後の民主化(被占領期及び、日本国憲法制定)について「欧米化」によって「日本の精神」が失われたと考える者が少なくなく、民主化による大衆運動の広まりを共産主義へ通じるものと捉えていた。GHQの民主化政策の下、右翼指導者の公職追放や団体への解散命令により半ば閉鎖状態となっていた右翼団体だが、朝鮮戦争勃発による国内情勢の変化や1951年(昭和26年)の公職追放解除により次々と復活、デモやストライキに対して脅迫、暴力などの実力行使による活動を展開する団体も現れた。安保の反対闘争の頃には政治家を対象とした暴力を試みる右翼が続出し、1960年(昭和35年)6月には、元右派社会党委員長の河上丈太郎や、当時の首相岸信介も襲撃され、同年10月には社会党委員長だった浅沼稲次郎が刺殺されている(浅沼稲次郎暗殺事件)。

右翼のテロと出版界の自主規制[編集]

右翼による暴力は政治家に留まらず出版関係者にも行われた。

1960年(昭和35年)、深沢七郎の小説「風流夢譚」が『中央公論』12月号に掲載された。その小説の中における皇太子妃が民衆に殺される部分や民衆が皇居を襲撃した部分が描かれたことなどについて、一部の右翼団体が不敬であるとして中央公論社に対して撤回と陳謝を要求。右翼を名乗る少年が1961年(昭和36年)2月1日に中央公論社社長である嶋中鵬二宅に押し入り、家政婦1名を殺害、嶋中鵬二の妻に重傷を負わせる事件を起こした。この後、中央公論社は「風流夢譚」の掲載自体が誤りだったとし、世間を騒がせたとして全面的な謝罪を行った。この、いわゆる嶋中事件は、右翼の暴力によって言論の自由が侵害されたことを意味し、天皇に関する批判に対しても萎縮効果をもたらし、出版や報道の分野で天皇に関連する言論掲載の自主規制が浸透する大きなきっかけともなった。後に中央公論社は、発刊予定の『思想の科学』天皇制特集号(1962年1月号)を自ら発売停止にしている。

1980年には月刊誌噂の眞相が皇室ポルノ記事(今で言うフォトコラージュ)を掲載したことに対し右翼団体が印刷所を襲撃したり、広告主に猛烈な抗議活動を行なったりしたが編集長が謝罪文を掲載することで決着。

1982年から1985年にかけて製作された連作版画「遠近を抱えて」全14点(大浦信行・作)の一部に、昭和天皇の写真がコラージュのモチーフとして用いられていた為、右翼から“不敬である”として圧力が加えられ、所蔵していた富山県立美術館は全点を非公開化・売却、図録も焼却処分した。大浦は“作品を提供させながら不当”と美術館を提訴し最高裁まで争うも敗訴。

1983年桐山襲の小説『パルチザン伝説』が『文藝』10月号に掲載された。左翼による昭和天皇へのテロ計画を描いたため、『文藝』を発行する河出書房新社に右翼団体の車が大挙して来襲し激しく抗議された。

1988年にはメディア批評誌『創』がテレビ朝日が作成した天皇崩御Xデーに関する内部資料をスクープしたところ右翼団体から「不敬である」と抗議されてテレビ朝日と創出版が入っているマンションに街宣がかけられる事件が起こった。

その後も天皇制にまつわる右翼による脅迫、暴力は続き、天皇に関する言論の抑制策としては、1990年(平成2年)には昭和天皇に戦争責任があると表明した、時の長崎市長・本島等右翼に銃撃され重傷を負ったほか、1993年(平成5年)には出版元である宝島社本社と文芸春秋社社長宅に対して反皇室報道に抗議するとして拳銃発砲事件を起こしており、出版社やマスコミの後難を避けたいとする意識から、天皇や皇室に関する言論自粛の風潮が完全に払拭されるには至っていない。またこれらの事件の影響から、自主規制がこれまでより更に強化されたとの指摘もある。

また2006年11月には、雑誌「週刊金曜日」主催の集会において、皇室を批判した劇が演じられたが、その内容が誹謗中傷にあたるとして主として街宣右翼を含め、保守・右翼勢力から批判が殺到した。週刊金曜日は最終的に不適切だったとして謝罪した。

宮内庁と報道規制[編集]

宮内庁には天皇や皇室の品位を保ち、かくあるべきと考えられている天皇や皇室・皇族一家の姿を維持し示す事も求められており、それが報道規制に繋がり菊タブーが存在する一因だとする意見もある。

嶋中事件以降の中央公論の自粛は右翼からの直接的暴力ばかりでなく、「風流夢譚」に関して宮内庁からも抗議があった事が影響しているとも言われている。平凡社発刊の雑誌『平凡』で連載されていた小山いと子の「美智子さま」も、1963年(昭和38年)宮内庁から私生活侵害として抗議があった事から打ち切りとなっている。1990年(平成2年)には、新聞各紙に掲載された秋篠宮夫妻の写真について、意図した記念写真ではない事を理由に宮内庁は掲載中止を求めている。また、2005年(平成17年)紀宮の結婚式報道において、宮内庁は警備上の理由などから上空取材の自粛を宮内庁記者会に要請した。NHKは警視庁が設定した飛行自粛要請区域の外側からの取材であるなら警備面での問題は無いと考え、宮内庁の自粛要請の範囲外であるとして上空取材を行った。これに対して宮内庁はルールが守られなかった事を理由に、NHK記者の結婚式記者会見への出席を事実上拒否する要請を行った。NHKはこの要請に従い、取材自粛に沿わなかったとして陳謝している。

一方で、宮内庁記者会において報道に関する協定が存在し、その事への異論が語られない姿勢こそが菊タブーそのものでもあるとして、宮内庁へ対しての日本の報道側の過度の自主規制こそが問題だという指摘もある。現在も、天皇制そのものを問うたり批判したりするような製作は出来ず、“皇族モノは100点満点の讃美番組以外、作る事は憚られる雰囲気がある”との事(中奥宏『皇室報道と「敬語」』より、テレビ局現役職員からの聞き取りに基づく記述)。一部の新聞社では電子版紙面にわざわざ専用コーナーを一つ設けて、皇室・皇族の日々の動きを追っている。


タブーを容認・擁護する国民意識[編集]

1959年(昭和34年)、当時の皇太子(明仁)と正田美智子の婚礼パレードにおいて投石事件「あれをした青年 四月十日、皇居 前で私はなぜ石を投げたか(文藝春秋、昭和34年8月号)」が発生、国を挙げての祝賀ムードに水を差すものとして、犯人である少年と家族は村八分とも言える扱いを受け、世間から隠れるようにして暮らさなければならなかった。1988年(昭和63年)、昭和天皇の入院の際には、娯楽系のテレビ番組休止やコマーシャルの台詞にまで配慮といった形での自粛が行われ、祝宴などの華やかな行事、果ては地域の祭りやスポーツ大会までも自粛するといった動きがみられた。もっとも、皇太子(当時)の「過剰な反応は陛下の心に沿わないのでは」なる発言が報じられると、逆に“自粛を自粛”しようという動きも見られた。

1989年2月2日、突如各紙朝刊に扶桑社大日本印刷株式会社の連名で「2月2日発売の『スパ!』の記事の一部に不穏当な誤植がありましたことを深くお詫び申し上げます(原文ママ)」の謝罪広告が掲載され、その週の「SPA!」が発売中止になる事件が起こった。これは「SPA!」で当時連載されていたコラムの中で大正天皇が大正洗脳と打ち違え・誤変換のまま印刷されてしまった校正ミスが原因だが、どんなミスだったかについては謝罪広告では一切触れられなかった。

1993年には漫画家の小林よしのりが同じく「SPA!」で連載していたゴーマニズム宣言において「かばやきの日」と題して皇太子の結婚とそれを報道するマスコミをギャグにした作品を執筆した際に編集部内で問題となりその回だけ急遽連載休止に追い込まれる事件が起こった。次号で小林はこれに反発し連載休止に追い込まれた件の作品を「ガロ」で発表した(ゴーマニズム宣言の項を参照)。また、これと同じ時期に「週刊実話」に掲載されたイラストが、皇室を侮辱するものではないかと編集部内で問題になり、その週の「週刊実話」が発売中止、自主回収される事件も起こった。

2004年12月9日発売の女性セブンが皇室記事の見出しで「皇太子」の「太」が「大」と誤植されていたことを印刷途中で気付き作業をやり直した為発売が4日延期される事態が起こった。

2006年9月の親王誕生に際して、国民の奉祝ムードに疑問を呈したスポーツジャーナリスト・乙武洋匡のブログが2ちゃんねらーを中心とするネット利用者たちによって荒らされ、謝罪に追い込まれる事態となった。同年10月には佐賀県の毎日新聞に所属する在日韓国人記者が天皇と皇后の来訪の意味を批判的口調で知事に質問した所、嫌韓意識とも相まってネット上では匿名掲示板2ちゃんねるを中心にこの記者への批判や民族を理由にした差別的中傷などが相次いだ。批判を受けて毎日新聞社はこの記者に厳重な注意を行ったと発表した。

2007年2月、講談社はベン・ヒルズ著「プリンセス・マサコ」(Princess Masako―Prison of chrysanthemum throne)日本語版出版中止を決定。外務省宮内庁がヒルズに対して抗議したが、ヒルズは「謝罪の必要はない。雅子さんに謝罪しなければならないのは宮内庁。日本政府が日本国民の非難を恐れているのは明らか」と回答、講談社はこれを受けて「著者の姿勢には問題があり、出版後に起こり得るさまざまな問題に共同で責任を負うことが出来ない」としたため。ヒルズは毎日新聞の取材に対して「出版中止は非常に残念。講談社は宮内庁、外務省など官僚組織の圧力に屈したと確信している」とコメントしている。[1]

昭和の終わりと皇位継承問題[編集]

1989年(昭和64年)の昭和天皇の死後、昭和という時代の再評価が様々な場で議論される事となる。天皇側近の記録などが公表され、それまでタブー視されていた天皇の戦争責任も含めた論説を積極的に出版する動きも現れはじめた。また、一流と呼ばれるマスメディアではタブーであった軍服姿の昭和天皇の写真も普通に掲載されるようになった。

中でも『昭和天皇独白録』が有名だが、同本の昭和天皇の発言は辻褄が合わない部分もあると考えられているため、これだけを踏まえて評価する事は早計である。

2004年(平成16年)には、皇太子徳仁親王が、欧州歴訪前の記者会見で述べた「人格否定発言」が波紋を広げたことで、これまでタブーだった皇室の内幕や皇室のあり方に対する報道が「海外メディアによる報道の引用」を含め数多くなされるようになった。

2005年(平成17年)には皇室典範に関する有識者会議が開かれ、皇位継承問題が広く一般にも語られる事となった。出版界における菊タブーの一因となった天皇や皇室の支持者の中にさえ、男系でない天皇は尊重するに値しないといった論調を掲げる人も現れ、菊タブーを生みだし育んできた状況にも時代の変化が見られつつあるようにはなった。

また、宮内庁のホームページには意見や感想をメールでだせることになっており、その中には皇室支持者による宮内庁に対する意見や批判のメールも送られることも増えてきたようである(『文藝春秋』)。

なお、天皇制の存廃に関する論議や天皇家の人物に関するパロディなどが自由にできない状況にあることから菊タブーの状況は根強いのではないかとの指摘がある(2005年12月7日付Newsweek日本語版記事「皇室は本当に必要か」など参照のこと)。

脚注[編集]

  1. 産経新聞はこの問題について、2月19日付「産経抄」でヒルズを“日本をなめるのもいいかげんにせよ”と非難した。

関連項目[編集]

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