「吉田茂」の版間の差分
細 (rxy=森谷辰也=LTA:ASPE、 LTA:DCHANCE、LTA:SASHOという動かせない事実。) |
|||
1行目: | 1行目: | ||
− | + | {{Otheruses3|昭和時代中期の内閣総理大臣}} | |
{{日本の内閣総理大臣 | {{日本の内閣総理大臣 | ||
|[[第1次吉田内閣|45]]・[[第2次吉田内閣|48]]・[[第3次吉田内閣|49]]・[[第4次吉田内閣|50]]・[[第5次吉田内閣|51]] | |[[第1次吉田内閣|45]]・[[第2次吉田内閣|48]]・[[第3次吉田内閣|49]]・[[第4次吉田内閣|50]]・[[第5次吉田内閣|51]] |
2020年1月12日 (日) 21:26時点における版
吉田 茂 (よしだ しげる)
| |
在任期間 | 第1次: 1946年5月22日 - 1947年5月24日 第2次 ‐ 第5次: |
生没年月日 | 1878年(明治11年)9月22日 |
出生地 | 東京神田駿河台 (のち東京都千代田区) |
出身校 | 東京帝国大学 |
学位・資格 | 従一位大勲位 法学士 |
前職 | 外務大臣 貴族院議員 日本自由党総裁 |
世襲の有無 | 2世 父・竹内綱(衆議院議員) |
選挙区 | 高知全県区(廃止) |
当選回数 | 衆7回(貴勅選) |
党派 | 日本自由党→民主自由党→自由党 |
花押 | |
吉田 茂(よしだ しげる、1878年(明治11年)9月22日 - 1967年(昭和42年)10月20日)は、日本の外交官、政治家。第45代・第48代・第49代・第50代・第51代内閣総理大臣(在任期間・1946年5月22日 - 1947年5月24日、1948年10月15日 - 1954年12月10日)。
外務大臣。衆議院議員(当選7回)。貴族院議員(勅選)。従一位・大勲位。皇學館大学総長、二松學舍大学舎長。
聡明な頭脳と強いリーダーシップで戦後の混乱期にあった日本を盛り立てた。ふくよかな風貌と、葉巻をこよなく愛したことから「和製チャーチル」とも呼ばれた。
目次
生涯
生い立ち
1878年(明治11年)9月22日、高知県宿毛出身の自由民権運動の闘士竹内綱の5男として東京神田駿河台(のち東京都千代田区)に生まれる[1]。 1881年(明治14年)8月に、旧福井藩士で横浜の貿易商(元ジャーディン・マセソン商会・横浜支店長)・吉田健三の養子となる[2]。 1889年(明治22年)に、養父・健三が若くして他界し、11歳の茂は莫大な遺産を相続した。少年期は、大磯町西小磯にて義母に厳しく育てられ、戸太町立太田学校(後の横浜市立太田小学校)を卒業後、1889年(明治22年)2月、耕余義塾に入学し、1894年(明治27年)4月に卒業する。同年9月から、日本中学(日本学園の前身)へ約1年通った後、1895年(明治28年)9月、高等商業学校(一橋大学の前身)に籍をおくが商売人は性が合わないと悟り、同年11月に退校。1896年(明治29年)3月、正則尋常中学校(正則高等学校の前身)を卒業し、同年9月、東京物理学校(東京理科大学の前身)に入学。1897年(明治30年)10月、学習院に移り、1901年(明治34年)8月に学習院高等学科を卒業。同年9月、学習院大学科に入学し、1904年(明治37年)7月まで通う。学習院大学科閉鎖に伴い、同年9月に東京帝国大学法科大学に移り、1906年(明治39年)7月、政治科を卒業、同年9月、外交官及び領事官試験に合格する。
外交官時代
戦前の吉田は、政治思想的には国際協調路線というよりも積極論者であり、中国進出へは軍部よりもときには積極的であった。奉天総領事時代には東方会議へ参加している。
ただし外交的には覇権国英米との関係を重視し、新興国ナチス・ドイツとの接近には常に警戒していたため、岳父・牧野伸顕との関係とともに枢軸派からは「親英米派」とみなされた[3]。
二・二六事件後の広田内閣の組閣では外務大臣・内閣書記官長の候補に挙がったが陸軍の反対で叶わなかった。駐英大使としては日英親善を目指すが、極東情勢の悪化の前に無力だった。また、日独防共協定および日独伊三国同盟にも強硬に反対した。
1939年待命大使となり外交の一線からは退いた。
太平洋戦争中は牧野伸顕、元首相近衛文麿ら重臣グループの連絡役として和平工作に従事(ヨハンセングループ)し、ミッドウェー海戦大敗を和平の好機とみて近衛とともにスイスに赴いて和平へ導く計画を立てるが、成功しなかった。その後、殖田俊吉を近衛文麿に引き合わせ後の近衛上奏文につながる終戦策を検討。しかし書生として吉田邸に潜入したスパイによって1945年(昭和20年)2月の近衛上奏に協力したことが露見し憲兵隊に拘束される。40日後に仮釈放、後に不起訴とされた[4]。この戦時中の受難が、逆に戦後は幸いしGHQの信用を得ることになる。
第二次世界大戦後
首相就任
終戦後の1945年(昭和20年)9月、東久邇宮内閣の外務大臣に就任。11月、幣原内閣の外務大臣に就任。12月、貴族院議員に勅選される。翌1946年(昭和21年)5月、自由党総裁鳩山一郎の公職追放にともなう後任総裁への就任を受諾。首相に就任した(第1次吉田内閣)。大日本帝国憲法下の天皇組閣大命による最後の首相であり、選挙を経ていない非衆議院議員(貴族院議員なので国会議員ではあった)の首相も吉田が最後である。また、父が公選議員であった世襲政治家が首相になったのも吉田が初めてである。
1947年(昭和22年)4月、日本国憲法の公布に伴う第23回総選挙では、憲法第67条第1項において国会議員であることが首相の要件とされ、また貴族院が廃止されたため、実父・竹内綱及び実兄竹内明太郎の選挙区であった高知県全県区から立候補した。
自身はトップ当選したが、与党の日本自由党は日本社会党に第一党を奪われた。社会党の西尾末広は第一党として与党に参加するが、社会党からは首相を出さず吉田続投を企図していた。しかし、吉田は首相は第一党から出すべきという憲政の常道を強調し、また社会党左派の「容共」を嫌い翌月総辞職した。こうして初の社会党政権である片山内閣が成立したが長続きせず、続く芦田内閣も1948年(昭和23年)、昭電疑獄により瓦解した。
第2次、3次吉田内閣
このときGHQ民政局による山崎猛幹事長首班工作が失敗。これを受けて吉田は第2次内閣を組織し、直後の総選挙で大勝し、戦後日本政治史上特筆すべき第3次吉田内閣を発足させた。
1949年3月、GHQ参謀第2部のチャールズ・ウィロビー少将に「日本の共産主義者の破壊的かつ反逆的な行動を暴露し、彼らの極悪な戦略と戦術に関して国民を啓発することによって、共産主義の悪と戦う手段として、私は長い間、米議会の非米活動委員会をモデルにした『非日活動委員会』を設置することが望ましいと熟慮してきた。」なる書簡を送り、破壊活動防止法と公安調査庁、内閣調査室が1952年に設置・施行されるきっかけを作る[5]。アメリカでは当時赤狩り旋風が吹き荒れていた。
サンフランシスコ平和条約
直後の朝鮮戦争勃発により内外で高まった講和促進機運により、1951年(昭和26年)9月8日、サンフランシスコ平和条約を締結。また同日、日米安全保障条約を結んだ。
以後、公職追放解除後の鳩山一郎グループとの抗争やバカヤロー解散、造船疑獄などがあった。造船疑獄では、犬養健(法務大臣)を通して、検事総長に佐藤栄作(幹事長)の逮捕を延期させた(結局、逮捕はされなかった)。これが戦後唯一の指揮権発動である。当然ながら、新聞等に多大なる批判を浴びせられた。
1954年(昭和29年)12月7日に内閣総辞職。翌日、自由党総裁を辞任。日本で5回にわたって内閣総理大臣に任命されたのは吉田茂ただ1人である。内閣総理大臣在任期間は2616日。
内閣総辞職後
1955年(昭和30年)の自由民主党結成には当初参加せず、佐藤栄作らとともに無所属となるが、池田勇人の仲介でのちに入党した。1962年(昭和37年)、皇學館大學総長就任、翌1963年(昭和38年)10月14日、次期総選挙への不出馬を表明し政界を引退。しかし、引退後も大磯の自邸には政治家が出入りし、政界の実力者として影響を及ぼした。
1964年(昭和39年)、日中貿易覚書にともなう中共との関係促進や周鴻慶事件の処理に態度を硬化させた台湾を池田勇人首相の特使として訪問、蒋介石と会談した。同年、生前叙勲制度の復活により大勲位菊花大綬章を受章。またこの年、マッカーサー元帥の葬儀に参列するため渡米。1965年(昭和40年)米寿にあたり、天皇より鳩杖を賜る。
その後も回顧録をはじめとした著述活動などを続け、死の前年である1966年(昭和41年)には、ブリタニカ百科事典1967年版の巻頭掲載用として、"Japan's Decisive Century"(邦題:「日本を決定した百年」)と題した論文の執筆を行った。1967年(昭和42年)6月には「日本を決定した百年」を国内で出版したが、それから間もない8月末に心筋梗塞を発症した。このときは、あわてて駆けつけた甥の武見太郎(医師会会長)の顔を見て「ご臨終に間に合いましたね」と冗談を言う余裕を見せたといわれる。しかし、さらに2ヵ月後の10月20日正午頃、大磯の自邸にて死去した。享年89。突然の死だったためその場には医師と看護婦三人しか居合わせず、身内は一人もいなかった。臨終の言葉もなかったが、「機嫌のよい時の目もとをそのまま閉じたような顔」で穏やかに逝ったという[6]。前日に「富士山が見たい」と病床でつぶやき、三女の和子に起こしてもらって快晴の富士を眺めたが、これが記録に残る吉田の最期の言葉である[7]。
葬儀は東京カテドラルで行われた。10月31日には戦後唯一の国葬が日本武道館で行われ[8]、官庁や学校は半休[9]、テレビ各局は特別追悼番組を放送して吉田を偲んだ[10]。 戒名は叡光院殿徹誉明徳素匯大居士。現在は青山霊園の一角に、娘婿の麻生太賀吉らと並んで葬られている。
人物
尊皇家・臣茂
尊皇家であり、敗戦後、昭和天皇が戦争責任をとっての退位を申し出た時も吉田が止め、国民への謝罪の意を表明しようとした時も吉田が止めたという(原彬久『吉田茂』)。
1952年(昭和27年)11月の明仁親王の立太子礼に臨んだ際にも、昭和天皇に自ら「臣 茂」と称した。これは「時代錯誤」とマスコミに批判された。
辞めたくなったら…
戦後初の総選挙は初の男女平等普通選挙でもあった。この選挙で鳩山の自由党は141議席を得て比較第一党、幣原内閣を支持する進歩党は94議席にとどまり、逆に社会党は一気に93議席を得て、政局は三つどもえの様相を呈するに至った。1946年(昭和21年)4月10日、戦後初の総選挙が行われた結果、幣原内閣を支持する旧民政党系の日本進歩党は善戦したものの伸び悩み、旧政友会系の日本自由党が比較第一党となった。内閣は総辞職することになり、幣原は4月30日に参内して自由党総裁の鳩山一郎を後継首班に奏請、鳩山はただちに組閣体制に入った。ところが5月4日になって突然、GHQから政府に鳩山の公職追放指令が送付されると、状況は一変した。
自由党は急遽後継の総裁選びに入ったが、候補に登ったのは元政友会の重鎮で鳩山と親しかった古島一雄と、駐米大使や駐英大使を歴任し今は宮内大臣として宮中にあった松平恒雄だった。しかし鳩山が古島のもとを訪ねると古島は高齢を理由ににべもなく要請を拒絶。そこで鳩山は松平と親しかった外務大臣の吉田に松平説得を依頼した。吉田は半年前にも幣原に総理を引き受けるよう説得に赴いており、また1936年(昭和11年)にも広田弘毅の説得を行っている。外務省OBの説得なら吉田に任せればいいというのは自然の成り行きだった。果たして吉田が松平に会うと松平は色気を示したが、数日後その松平と直接会った鳩山は、その足で吉田を外相公邸に訪ね、なんと「あの殿様[11]じゃ党内が収まらない、君にやってもらいたい」と持ちかけてきた。これには吉田も仰天して「俺につとまるわけがないし、もっと反対が出るだろう」と相手にしなかった。
ところがこの日の夜から毎晩のように吉田のもとに押し掛けて後継総裁を受けるよう吉田を口説き、ついにはその気にさせてしまったのが、その手練手管から「松のズル平」とあだ名されていた元政友会幹事長の松野鶴平だった。しかもこうした松野の行動は鳩山の関知するところではなく、そのことを知った鳩山は「松野君は外相公邸の塀を乗り越えてまで吉田君に会いにいくそうじゃないか」と不快を隠さなかった。そもそも鳩山と吉田は友人だったが、この頃から二人の関係は次第にぎくしゃくし始めることになる。
一方の吉田はといえば、蓋を開けてみると松平に引けを取らないほどの殿様ぶりで、総裁を引き受けてもいいが、
- 金作りは一切やらない
- 閣僚の選考に一切の口出しは無用
- 辞めたくなったらいつでも辞める
という勝手な三条件を提示して鳩山を憤慨させている。しかし総選挙からすでに一ヵ月以上が経っており、この期に及んでまだ党内でゴタゴタしていたらGHQがどう動くか分らなかった。吉田は三条件を書にしたためて鳩山に手渡すと、「君の追放が解けたらすぐにでも君に返すよ」と言って総裁就任を受諾した。
5月16日、幣原の奏請を受けて吉田は宮中に参内、天皇から組閣の大命を拝した[12]。吉田は「公約」どおり自由党の幹部には何の連絡もせずに組閣本部を立ち上げ、党には一切相談することなくほぼ独力で閣僚を選考した[13]。自由党総務会で吉田の独走に対する怒号が飛び交うのをよそに、22日に再度参内して閣僚名簿を奉呈、ここに第1次吉田内閣が発足した。戦後政治はここに始まる。
吉田学校・ワンマン体制
自由党入党・総裁就任後の吉田は、多くの官僚出身者を国会議員に引き立てた。吉田は1949年(昭和24年)の第24回総選挙の勝利と第3次吉田内閣の組閣を通して、自由党(民主自由党)内を完全に掌握した。こうして「吉田ワンマン体制」が確立した。吉田ワンマン体制の中で側近として大きな位置を占めたのが官僚出身者を中心とする国会議員たち、すなわち「吉田学校」と呼ばれた集団である。
官僚出身者では、大蔵省の池田勇人、運輸省(元鉄道省)の佐藤栄作がその代表的人物(彼らは共に次官経験者である。現在は、事務次官を経て内閣総理大臣に就任するのは不可能に近い)。
吉田が登用した人材は全部が全部成功したわけではないが、戦後、保守政治の中で中核を担うこととなり、後の保守本流を形成する。また、吉田の人物に対する鑑定眼が高い評価を受ける所以ともなった。
孤高のサイン
日本はサンフランシスコ講和会議に吉田を首席全権とする全権団を派遣、講和条約にも吉田を筆頭に、池田勇人(蔵相)、苫米地義三(国民民主党)、星島二郎(自由党)、徳川宗敬(参議院緑風会)、一万田尚登(日銀総裁)の六人全員で署名した。
講和条約調印後、いったん宿舎に帰った吉田は池田に「君はついてくるな」と命じると、その足で再び外出した。講和条約はともかく、次の条約に君は立ち会うことは許さないというのである。吉田の一番弟子を自任し、吉田と同じ全権委員でもある池田は憤慨し、半ば強引に吉田のタクシーに体を割り込ませた。向かった先はゴールデンゲートブリッジを眼下に見下ろすプレシディオ将校クラブの一室。ここでも吉田は池田を室内には入れず、日米安全保障条約にたった一人で署名した。条約調印の責任を一身に背負い、他の全権委員たちを安保条約反対派の攻撃から守るためだった。
分割統治案
- 首相在任中に示された連合国(アメリカ・ソ連・中国・イギリスら)による分割統治案に対し、吉田は「冗談じゃありませんよ」の一言で一蹴、拒否したという。連合国と敗戦国である日本の能力には大きな差があるものの、吉田のこの一言が、日本の領土分断の危機を回避するのに一役買った、とする見解もある。
マッカーサーとの関係
最後の外遊となった訪米中に、吉田は旧友マッカーサーをニューヨーク・ウォルドルフ=アストリアの自宅に訪問して昔話に花を咲かせている。(1954年11月5日)吉田とマッカーサーは、マッカーサーがトルーマン大統領によって解任され日本を去るまで親密であった。吉田は「戦争に負けて、外交に勝った歴史はある」として、マッカーサーに対しては「よき敗者」としてふるまうことで個人的な信頼関係を構築することを努めた。その一方、マッカーサーから吉田に届いた最初の書簡を、冒頭の決まり文句「Dear」を「親愛なる」に直訳させ、「親愛なる吉田総理」で始まる文面を公表して、マッカーサーとの親密ぶりを国民にアピールしようとしたが、それを知ったマッカーサーは次の書簡から「Dear」を削ってしまったと言う話もある。
復興を成し遂げた日本を見てもらいたいと考えた吉田は東京オリンピックにマッカーサーを招待しようとしたが、マッカーサーは既に老衰で動ける状態にはなく、オリンピックの半年前に死去した。吉田はその国葬に参列した。
東方会議をリードし治安維持法に死刑条項を設けたため、公職追放の対象になりかけたがマッカーサーへの様々な働きかけを通じて免れたという[14]。
ユーモア
癇癪持ちの頑固者であり、また洒脱かつ辛辣なユーモリストとしての一面もあった。公私に渡りユニークな逸話や皮肉な名台詞を多数残している。
- 寺内正毅が首相に就任する際、寺内の朝鮮総督時代にその秘書官であった吉田は、直接寺内から総理秘書官就任を要請された。しかし吉田の返答は「秘書官は務まりませんが、総理なら務まります」。
- ある日、会いたくなかった客人に対して居留守を使った吉田であったが、その客人に居留守がばれてしまった。抗議をする客人に対して、吉田の返答は「本人がいないと言っているのだから、それ以上確かな事はないだろう」。
- 名ヴァイオリニストのユーディ・メニューインが来日公演を行った際、日比谷公会堂で演奏を聴き終えた吉田は感想を聞かれ、「大変立派なピアノ演奏でした」と答えたために、周囲からは「吉田は音楽がわからない」等と批判された。しかしその日の演奏会は主役のメニューインの演奏の出来が実際に良いとは言えず、逆に伴奏のピアノ演奏の方が立派だった。吉田はむしろ音楽がわかる人間だったのだ。
- 皇太子明仁親王から皇太子妃に関して記者に追いかけられて困っているとの話があった際に、「そういう記者には水をぶっ掛けておやりなさい」と返答した(吉田は気に入らない質問をした記者に水をぶっ掛けたことがあった)。それに対して皇太子は「吉田さんのようにはいかない」と応じて苦笑したという。
- 憲法改正を急ぐ吉田に疑問を呈する議員たちに対して「日本としては、なるべく早く主権を回復して、占領軍に引き上げてもらいたい。彼らのことをGHQ (General Head Quarters) というが、実は “Go Home Quickly” の略語だというものもあるくらいだ」と皮肉をこめた答えを返した。
- 単独講和に反対していた松野鶴平に、「このご時世、番犬くらい飼っているだろう?」と切り出し、「それがどうした」と返されると、「犬とえさ代は向こう持ちなんだよ」。
- 終戦直後のまだ国民が飢えと戦っていたころ、吉田はマッカーサーに「450万トンの食糧を緊急輸入しないと国民が餓死してしまう」と訴えたが、アメリカからは結局その6分の1以下の70万トンしか輸入できなかった。しかしそれでも餓死者はでなかった。マッカーサーが「私は70万トンしか出さなかったが、餓死者は出なかったではないか。日本の統計はいい加減で困る」と難癖をつけた。それに対して吉田は「当然でしょう。もし日本の統計が正確だったらむちゃな戦争などいたしません。また統計どおりだったら日本の勝ち戦だったはずです」と返した。これにはマッカーサーも大笑いだったという[15]。
- 戦後の物資不足の折、葉巻を愛好する吉田に対し、フィリピンにタバコ畑を所有していたマッカーサーから葉巻を贈りたいと言われたが「私はハバナ産しかたしなみませんので」と慇懃無礼に辞退したという。
- 晩年に大勲位の勲章を授与された後、養父である吉田健三の墓の前で「(養父の)財産は使い果たしてしまったが、その代わり陛下から最高の勲章を戴いたので許して欲しい」と詫びたという。
- 1964年(昭和39年)11月の宮中園遊会で、昭和天皇が「大磯はあたたかいだろうね」と吉田に呼びかけた。吉田は「はい、大磯は暖かいのですが、私の懐は寒うございます」と答えてその場を笑わせている。
- 日米修好通商百年祭に日本の代表として訪米し外国人記者団に質問されたとき、元気な様子を褒められると、「元気そうなのは外見だけです。頭と根性は生まれつきよくないし、口はうまいもの以外受け付けず、耳の方は都合の悪いことは一切聞こえません」。特別の健康法とか、不老長寿の薬でも、という質問には「はい、強いてあげれば人を食っております」とすました顔で即答した[16]。
- 吉田は米寿をすぎてもまだかくしゃくとしていたが、ある日大磯を訪れたある財界人がそんな吉田に感心して「それにしても先生はご長寿でいらっしゃいますな。なにか健康の秘訣でもあるのですか」と尋ねると、「それはあるよ。だいたい君たちとは食い物が違う」と吉田は答えた。そういった食べ物があるのならぜひ聞きたいと財界人が身を乗り出すと、「それは君、人を食っているのさ」と吉田はからからと笑った。これが吉田がこの世に残した最後のジョークとなった[17]。
- 雪子夫人がカトリックだったこともあり、吉田家は長男の健一を除いてみな信者で、吉田もカトリックには好意を持っていた。昭和39年(1964年)に建設された東京カテドラル聖マリア大聖堂の後援会の会長も引き受けている。ただし岳父・牧野伸顕のアドバイスもあって、極右による標的となることを避けるため、吉田自身は生涯洗礼を受けていなかった。それでも東京大司教館司教だった濱尾文郎に「元気なときはともあれ、死にそうになったら、洗礼をうけて“天国泥棒”をやってやろう」と語っていたこともあって、濱尾は吉田に死後ただちに洗礼を授け、「ヨゼフ・トマス・モア」として天国に送っている[18] [19]。
- 落語が好きで、六代目春風亭柳橋を贔屓にしていた。さすがに自分から寄席に行けないので、しばしば柳橋を官邸に呼び、当時珍しかったテレビを高座代りにして一席演じさせていた。孫である麻生太郎は、吉田に連れられて鈴本演芸場に行くエピソードを著書で紹介している。
性格
- 耕余義塾時代、塾生が『養春』という雑誌をだしていたが、その雑誌に吉田は「帰んなんとて家もなく 慈愛受くべき父母もなく みなし児書生の胸中は 如何に哀れにあるべきぞ」という歌を寄稿したことがあり、複雑な家庭に育ったがゆえの孤独さをしのばせる。同塾は全寮制で、吉田は約1年半寄宿舎に暮らした。室長だった渡辺広造によると、吉田は乱暴な寮生にいじめられることも多かったが、じっと歯をくいしばってがまんしていたという[20] 。
- 吉田は駐英大使時代にイギリス流の生活様式に慣れ、貴族趣味に浸って帰国した。そのため、官僚以外の人間、共産党員や党人などを見下すところがあった。その彼のワンマンぶりがよく表れているのが、彼の言い放った暴言・迷言の数々である。もっとも、相手が礼儀の正しい人なら、その身分がどうであろうと丁寧に振舞ったとも言われる。吉田は典型的な明治時代の人であり、彼と親しかった白洲次郎は、自身の随想の中で「吉田老ほど、わが国を愛しその伝統の保持に努めた人はいない。もっとも、その『伝統』の中には実にくだらんものもあったことは認めるが」と語っている。
- 1947年(昭和22年)、GHQにより公認された労働組合がストライキを乱発し、政治闘争路線を突っ走っていた頃、吉田は「年頭の辞」の中で、「かかる不逞の輩が、わが国民中に多数あるものとは信じませぬ」と言い放った(「不逞の輩」発言:参照 - 二・一ゼネスト)。
- 保安庁が改組され防衛庁(自衛隊)が発足された際、野党は「自衛隊の存在は違憲ではないのか」「自衛隊は軍隊となんら変わらない」と、吉田を追及した。それに対し、吉田は「自衛隊は戦力なき軍隊である」と答弁した。自身の体験から来る極端な軍隊アレルギーが放たせた迷言であった。
- サンフランシスコ平和会議直前、ソ連や中国共産党政府を除く国々との単独講和を進める吉田政権に対し、東京大学総長南原繁がこれらの政府を含めた全面講和を主張した。これに激怒した吉田は「これは国際問題を知らぬ曲学阿世の徒、学者の空論に過ぎない」と発言。「学者風情に何がわかる」とばかり、南原の意見を批判した。
- サンフランシスコ平和会議の受諾演説の際、吉田は横書きの原稿ではなく、あえて巻物に書いた文章を読んで演説を行ったが、当時の現地メディアから、「巨大なトイレットペーパー状のものを読み上げた」と書かれた。この巻物式の原稿は必ずしも読みやすいものではなかったようで、当の吉田も後に回顧録で「結局最後まで嫌々我慢しながら読み続けた」と記している。
- 上記の「曲学阿世の徒」発言と同様、全面講和を主張する日本社会党に対し、吉田は「社会党のいう全面講和は空念的、危険思想である。エデンの花園を荒らす者は天罰覿面」と発言。こちらも大いに物議を醸した。
- 吉田は人の名前を覚えるのが苦手だったらしく、自党の議員の名前を間違えたりする事もしばしばあった。昭和天皇に閣僚名簿を報告する際に自分の側近である小沢佐重喜の名前を間違えて天皇から注意を受けたことがある。
- 1952年(昭和27年)に京都での演説会に参加した際、カメラマンのしつこい写真撮影に激怒し、カメラマンにコップの水を浴びせ「人間の尊厳を知らないか」と大見得を切り、会場の拍手を浴びたのは有名。このエピソードの背景にはある事情がある。吉田は妻の雪子を1941年(昭和16年)に亡くしていたが、まもなく愛人の芸者で花柳流の名取でもあった小りん(本名:坂本喜代)を大磯の自邸に招き入れて生活を共にし始めている。ただし岳父・牧野伸顕の手前もあり、世間体をはばかってこのことは極秘にしていたのだが、10日と経たないうちに新聞記者に嗅ぎつかれて垣根越しにスクープ写真を撮られてしまった。吉田はこの時の恥辱を後々まで根に持って、カメラマンには良い感情を持っていなかったのである。ただし小りんとの関係が公表されてしまったおかげでかえって世間体を気にする必要もなくなり、1944年(昭和19年)には晴れて彼女と再婚している。
- これら吉田の行動は、当時の新聞の風刺漫画の格好の標的になった。実際に吉田が退陣した時には、ある新聞の風刺漫画に、大勢の漫画家が辞める吉田に頭を下げる(風刺漫画のネタになってくれた吉田に感謝を表明している)漫画が描かれたほどである。
- 駐イタリア大使時代にベニート・ムッソリーニ首相に初めて挨拶に行った際に、イタリア外務省から吉田の方から歩み寄るように指示された(国際慣例では、ムッソリーニの方から歩み寄って歓迎の意を示すべき場面であった)。だが、ムッソリーニの前に出た吉田は国際慣例どおりにムッソリーニが歩み寄るまで直立不動の姿勢を貫いた。ムッソリーニは激怒したものの、以後吉田に一目置くようになったと言われている。
- 首相時代、利益誘導してもらうべく、たびたび地元高知県から有力者が陳情に訪れたが、その都度「私は日本国の代表であって、高知県の利益代表者ではない」と一蹴した。
- 佐藤栄作が内閣総理大臣であった頃に吉田を訪ねると、羽織・袴で出迎え、佐藤を必ず上座に座らせ、「佐藤君」ではなく「総理」と呼びかけた。このため、吉田の容態が芳しくない時には、佐藤夫妻は容易に吉田を見舞うこともできなくなってしまったという。
- 幣原内閣で外相に就任した際、芝白金台の旧朝香宮邸を外務大臣公邸とした。これは傍系11宮家の皇籍離脱に伴い、旧皇族の経済的困窮を慮った昭和天皇の要請と言われる。その後、首相となった後も吉田は外相を兼務し、外相公邸に居座り続けたため、外相公邸が事実上の総理公邸になった。結局一時の下野を除き、第5次内閣の総辞職で辞任するまで外相公邸に住み続けた。実際、吉田は半ば冗談で「外相を兼務したのはこの公邸に住んでいたかったからさ」と公言していた。
- 大の葉巻好きで知られていたが、サンフランシスコ講和条約の締結に至るまでの交渉が難航していた時期には好きな葉巻を断っていたという。
年譜
- 1878年(明治11年)9月22日 東京神田駿河台に生まれる
- 1881年(明治14年)8月 吉田家と養子縁組
- 戸太町立太田学校(後の横浜市立太田小学校)卒業
- 1889年(明治22年)2月 寄宿制私立中学耕余義塾入学
- 1894年(明治27年)
- 1895年(明治28年)
- 9月 高等商業学校(後の一橋大学)入学
- 11月 高等商業学校退校
- 1896年(明治29年)
- 1897年(明治30年)10月 学習院高等学科入学
- 1901年(明治34年)
- 8月 学習院高等学科卒業
- 9月 学習院大学科入学
- 1904年)
- 7月 学習院大学科退校(翌年、学習院大学科が閉鎖されるため)
- 9月 東京帝国大学入学
- 1906年(明治39年)
- 7月 東京帝国大学法科大学政治科卒業
- 9月 外交官及び領事官試験合格、外務省入省
- 11月 領事官補として天津に赴任
- 1907年(明治40年)2月 奉天領事館に赴任
- 1909年(明治42年)牧野伸顕の長女雪子と結婚後ロンドンに赴任。12月、駐伊大使館附三等書記官
- 1912年(大正元年)8月 安東領事
- 1916年(大正5年)8月 在米大使館附二等書記官
- 1917年(大正6年)7月 文書課長心得
- 1918年(大正7年)2月 済南領事
- 1919年(大正8年)2月 パリ講和会議随員
- 1920年(大正9年)5月 在英大使館附一等書記官
- 1922年(大正11年)3月 天津総領事
- 1925年(大正14年)10月 奉天総領事
- 1928年(昭和3年)
- 1930年(昭和5年) 12月 駐伊大使
- 1936年(昭和11年)4月 駐英大使
- 1939年(昭和14年)3月 外務省退官
- 1945年(昭和20年)
- 1946年(昭和21年)
- 1947年(昭和22年)
- 1948年(昭和23年)
- 1949年(昭和24年)
- 1950年(昭和25年)
- 3月 自由党総裁
- 6月28日 内閣総理大臣兼外務大臣(第3次吉田内閣第1次改造内閣)
- 1951年(昭和26年)
- 7月4日 内閣総理大臣兼外務大臣(第3次吉田内閣第2次改造内閣)
- 12月26日 内閣総理大臣兼外務大臣(第3次吉田内閣第3次改造内閣)
- 1952年(昭和27年)
- 1953年(昭和28年)
- 1954年(昭和29年)12月10日 造船疑獄等の影響により内閣総辞職
- 1955年(昭和30年)2月27日 第27回総選挙で5回目の当選
- 1958年(昭和33年) 5月22日 第28回総選挙で6回目の当選
- 1960年(昭和35年)11月20日 第29回総選挙で7回目の当選
- 1963年(昭和38年)
- 1964年(昭和39年)4月 マッカーサーの国葬に参列
- 1967年(昭和42年)
選挙歴
栄誉・栄典
一族
家族・親族
- 生家(竹内家)
- 養家(吉田家)
- 岳家(牧野家)
- 自家(吉田家)
- 妻: 雪子(1941年(昭和16年)に死別)
- 長男: 健一(英文学者)
- 長女: 桜子(夫・吉田寛は元首相岸信介・佐藤榮作兄弟の従兄弟、元外相松岡洋右の甥にあたる[23])
- 次男: 正男(東北大学助教授、学習院大学教授などを歴任)
- 次女: 江子(夭逝)
- 三女: 和子(福岡県、実業家・政治家麻生太賀吉夫人[24])
- 後妻: 喜代(昭和19年に再婚)
系譜
- 吉田家
岸秀助 ┏佐藤市郎 ┣━━━━━━╋岸信介 ┏茂世 ┗佐藤栄作 ┃ 佐藤信彦━━━┻さわ━━━━━━吉田寛 ┃ 竹内綱━━━┓ ┃ ┃ ┃ 吉田健三==┸吉田茂 ┏桜子 ┣━━━━━━━╋吉田健一 牧野伸顕━━━━雪子(1) ┣吉田正男 ┃ ┣江子 喜代(2) ┗和子 ┏麻生太郎 ┣━━━━╋麻生泰 麻生太賀吉 ┣雪子 ┣旦子 ┗信子 ┣━━━━━┳彬子女王 寛仁親王 ┗瑶子女王
文通
吉田茂記念事業財団および後身の吉田茂国際基金が吉田の書翰を収集した。以下、五十音順に宛先を、括弧書きで送付回数を記す。
- 『吉田茂書翰[25]』
- 愛知揆一(18)
- 青木正久(1)
- 東龍太郎(2)
- 麻生信子(1)
- 安達峰一郎(1)
- 安達鏡子(1)
- 天野貞祐(2)
- 有光次郎(1)
- 池田隼人(92)
- 伊沢多喜男(6)
- 石井光次郎(4)
- 石黒忠篤(4)
- 石坂泰三(2)
- 石橋湛山(1)
- 石原広一郎(1)
- 伊集院芳子(6)
- 一万田尚登(1)
- 伊藤正徳(1)
- 伊野碩哉(2)
- 井上孝治郎(2)
- 井上匡四郎(1)
- 入交太蔵(2)
- 上田仙太郎(1)
- 宇垣一成(32)
- 内山岩太郎(2)
- 大久保利賢(1)
- 大久保和喜子(2)
- 大平駒槌(7)
- 大野伴睦(2)
- 大村清一郎(1)
- 岡崎勝男(3)
- 岡崎島子(2)
- 小笠原三九郎(1)
- 緒方竹虎(7)
- 岡部長景(1)
- 小川平吉(1)
- 小畑敏四郎(1)
- 小畑又雄(1)
- 小汀利得(3)
- 勝間田清一(1)
- 門脇季光(3)
- 金井正夫(1)
- 金森徳次郎(1)
- 樺山資英(1)
- 菊池貞二(18)
- 岸信介(12)
- 北沢直吉(24)
- 木戸幸一郎(4)
- 木下彪(1)
- 木村四郎七(6)
- 木村篤太郎(5)
- 清沢冽(7)
- 群島忠次郎(1)
- 久保市三郎(2)
- 来栖三郎(1)
- 黒田節二郎(1)
- 桑原幹根(5)
- 小池張造(1)
- 小泉信三(87)
- 小坂順造(16)
- 小坂善太郎(10)
- 近衛文麿(1)
- 小林躋造(1)
- 小牧近江(2)
- 小山完吾(1)
- 近藤鶴代(3)
- 西園寺公望(2)
- 斉藤実(2)
- 桜田武(1)
- 鮭延信道(1)
- 佐佐木信綱(9)
- 佐渡卓(6)
- 佐藤栄作(19)
- 佐藤寛造(1)
- 里見義裕(1)
- 塩見俊二(1)
- 志賀直哉(3)
- 重光葵(12)
- 幣原喜重郎(1)
- 柴田敏夫(2)
- 清水董三(2)
- 下村宏(1)
- 庄司隆治(1)
- 鈴木貫太郎(1)
- 鈴木淳(1)
- 関屋貞三郎(2)
- 仙石貢(1)
- 高瀬荘太郎(11)
- 高柳賢三(1)
- 竹内克巳(2)
- 武内龍次(2)
- 竹内亀井(4)
- 竹内強一郎(4)
- 田子一民(1)
- 辰巳栄一(26)
- 田中義一(1)
- 田中耕太郎(11)
- 谷正之(1)
- 谷口直枝子(90)
- 谷口真(1)
- 谷村唯一郎(1)
- 堤康次郎(11)
- 坪上貞二(2)
- 坪川信一(1)
- 坪川信三(2)
- 鶴見憲(2)
- 寺内正毅(7)
- 東郷茂徳(1)
- 徳川家正(1)
- 鍋島直紹(1)
- 南原繁(1)
- 新関八洲太郎(1)
- 西春彦(18)
- 西彦太郎(1)
- 西直彦(1)
- 根本龍太郎(1)
- 野田卯一(2)
- 野村茂久馬(1)
- 萩原徹(4)
- 萩原智恵子(1)
- 長谷川佳子(2)
- 長谷川如是閑(1)
- 畑俊六(1)
- 峰谷輝雄(7)
- 鳩山一郎(3)
- 鳩山薫子(2)
- 花岡広(1)
- 馬場恒吾(7)
- 馬場りう(1)
- 林譲治(33)
- 林知彦(22)
- 原安三郎(1)
- 原田熊雄(19)
- 半沢玉城(2)
- 日高信六郎(1)
- 平沼騏一郎(1)
- 広川弘禅(2)
- 福田篤康(5)
- 福永健司(6)
- 藤井清子(6)
- 藤島敏男(1)
- 法華津孝太(1)
- 細川護貞(1)
- 堀田正昭(1)
- 保利茂(31)
- 堀江薫雄(2)
- 牧野伸顕 ※峰子婦人宛を含む(71)
- 真崎甚三郎(3)
- 真崎立(17)
- 正木直彦(1)
- 増田甲子七(1)
- 益谷秀次(3)
- 俣野健輔(7)
- 松井明(6)
- 松谷誠(5)
- 松原一雄(1)
- 松宮順(2)
- 松村御酒子(11)
- 三木武夫(2)
- 溝淵増巳(1)
- 三谷隆信(58)
- 三宅喜次郎(2)
- 宮島清次郎(1)
- 向井忠晴(3)
- 安岡正篤(7)
- 安田靫彦(38)
- 柳田誠二郎(3)
- 山本善雄(12)
- 芳沢謙吉(1)
- 吉田小五郎(1)
- 吉田茂(1) ※同姓同名の別人
- 吉田祥朔(2)
- 吉田正男(5)
- 吉田久子(1)
- 吉田隆(1)
- 米内光政(1)
- 龍沢寺(1)
- 若槻礼次郎(1)
- 和田博雄(7)
- ウィロビー(1)
- スタッフォード(1)
- バンカー(1) ※松井明による付記あり
- 『吉田茂書翰 追補[26]』
- 青葉運太郎(1)
- 赤木正雄(1)
- 浅尾新甫(1)
- 芦田均(2)
- 麻生和子(6)
- 鮎川義介(3)
- 荒木貞夫(1)
- 有馬頼寧(1)
- 安藤正純(1)
- 池田勇人(1)
- 石井久子(1)
- 石井光次郎(2)
- 石橋湛山(2)
- 上田仙太郎(5)
- 宇垣一成(1)
- 大久保利和(1)
- 大倉邦彦(1)
- 大野伴睦(1)
- 岡崎勝男(1)
- 岡田啓介(15)
- 岡山自由党支部(1)
- 奥村勝蔵(2)
- 尾崎敬義(18)
- 小畑敏四郎(1)
- 小幡西吉(2)
- 鹿島守之助(2)
- 金子武麿(1)
- 加納久朗(29)
- 賀陽宮家(1)
- 河合良成(3)
- 川村松助(3)
- 菅野義丸(9)
- 木村篤太郎(3)
- 来栖三郎(7)
- 小泉信三(2)
- 小泉富子(1)
- 小谷節夫(1)
- 児玉秀雄(2)
- 近衛文麿(1)
- 近藤鶴代(2)
- 佐藤毅(1)
- 佐藤尚武(3)
- 下村定(2)
- 白洲次郎(7)
- 白洲正子(2)
- 菅原裕(1)
- 鈴木九万(3)
- 竹内克巳(2)
- 武見太郎(4)
- 田中義一(1)
- 辻嘉六(1)
- 坪上貞二(1)
- 鶴見祐輔(1)
- 寺崎英成(1)
- 中田栄子(1)
- 夏掘源三郎(1)
- 野村吉三郎(23)
- 原澄治(1)
- 深沢暹(4)
- 前田米蔵(1)
- 牧野伸顕微(1)
- 牧野峰子(1)
- 正木勝次(16)
- 松平永芳(1)
- 松野鶴平(2)
- 松宮順(1)
- 松村光三(1)
- 宮島大八(2)
- 柳田誠二郎(1)
- 山口(1) ※料亭
- 吉田健一(7)
- 吉田正男(5)
- 渡辺武(1)
脚注
- ↑ 『吉田茂とその時代(上)』 5-6頁には「吉田茂の実父と義父は若い武士として一八六八(慶応四、明治元)年の明治維新をはさむ激動の数十年間に名を成した者たちであった。その養母は徳川期儒学の誇り高い所産であった。…中略…吉田は1878(明治一一)年9月22日横須賀に生れたといわれる。父親が反政府陰謀に加わった科で長崎で逮捕されてからまもないことであった」という記述がある
- ↑ 『吉田茂とその時代(上)』 9頁には「竹内もその家族もこの余計者の五男と親しい接触を保っていたようにはみえない」、11頁には「こうして生まれる前から実父に捨てられ、9歳で養父を失った吉田の幼年時代は養母から最も深い影響を受けることになった」という記述がある
- ↑ ただし、大村立三はその著書『日本の外交家 300人の人脈』の中で、戦前において対英米関係とアジア進出の両立を唱える外交官をその政策から前者重視を「英米派」、後者重視を「アジア派」と呼んで区別し、前者として幣原喜重郎・重光葵・佐藤尚武・芦田均を挙げ、後者として吉田と有田八郎・谷正之を挙げており、奉天総領事・外務事務次官として東方会議をはじめとする「田中外交」を支えた吉田は幣原や重光と比較した場合には、アジア進出に対してはより積極的であったとする見解をとっている。
- ↑ 自著『回想十年』によれば、牧野伸顕の義妹の嫁ぎ先宮崎県の旧高鍋藩主家秋月氏の縁で高鍋出身の海軍大将小沢治三郎を頼るようアドバイスを受け、そのツテで軍令部次長の小沢に「イギリスを通して講和を進めるために荷物扱いでもいいから潜水艦か航空機で自分を運んで欲しい」と懇願したが、小沢は十中八九沈められる旨と憲兵隊に目を付けられている点を指摘し丁重に断った。憲兵隊に拘束されたのはその翌日だった、と著している。
- ↑ 春名幹男『秘密のファイル CIAの対日工作』
- ↑ 『別冊歴史読本特別増刊 — ご臨終』(新人物往来社、1996年2月号)
- ↑ 『アサヒグラフ』臨時増刊 11月5日号、「緊急特集吉田茂の生涯」89頁
- ↑ 吉田の国葬は佐藤栄作総理の強い要望で閣議決定を経て実現したが、大正15年に制定された「国葬令」は新憲法の施行によって失効していた(20条の「国による宗教的行為の禁止」と7条の「天皇の国事行為」に抵触するため)ため、国葬自体が違憲ということになり、野党や革新系の言論界からこれを批判する声もあった。しかし戦後の大宰相の記憶は多くの人々にとっては褪せることがなく、世論調査でも大多数がこれを容認するものだった。
- ↑ 『産経新聞』2008年10月20日付朝刊、14版、3面
- ↑ 特にフジテレビでは、追悼番組を放送するために、スポットCMを全て削除し、全ての通常番組を変更した。
- ↑ 松平は元会津藩主で京都守護職の松平容保の四男で、長女の節子は秩父宮の妃になっていた。
- ↑ これが最後の「組閣の大命」である。
- ↑ 小泉純一郎が総理在任中、党の意見を一切聞くことなく独力で閣僚を選考したのはこの例を踏襲したものである。
- ↑ 春名幹男『秘密のファイル CIAの対日工作』
- ↑ 『麻生太郎の原点 祖父・吉田茂の流儀』 73頁
- ↑ 『麻生太郎の原点 祖父・吉田茂の流儀』 73-74頁
- ↑ 戸川猪佐武『小説吉田茂』「あとがき」
- ↑ 『アサヒグラフ 臨時増刊 11月5日号 緊急特集吉田茂の生涯』81頁(1967年)
- ↑ 通常洗礼は本人が望まなければできないが、遺書や遺言などで生前明確な意思表示をしていることを司祭が確認できれば、例外的に死後洗礼を行うことができる。(東京大司教館)
- ↑ 『アサヒグラフ』 臨時増刊 11月5日号、「緊急特集吉田茂の生涯」73頁
- ↑ ただし実母は芸者某とする説がある。『日本の上流社会と閨閥』203頁には「…母親の名も素性もはっきりしないが、後年、名門出の雪子夫人との間にすき間風が吹き始め、芸者遊びに精を出すようになると、雪子は “芸者の子は芸者が好きね” といったそうだから想像がつく。…」という記述がある。『吉田茂とその時代(上)』6頁には「…実母の身元はいまでもはっきりしない。母親は芸者だったらしく、竹内の投獄後に東京へ出て竹内の親友、吉田健三の庇護のもとで茂を生んだのである…初期の戸籍は明らかに母 “不詳” としているが、吉田の存命中は竹内の本妻に生まれたという虚構の説が公に唱えられ、出生をめぐる回想のなかでも吉田は実母に言及することを用心深くさけている…」という記述がある。
- ↑ 戸籍上の名は“コト”である
- ↑ 吉田寛は将来が嘱望された若手外交官だったが、桜子と結婚して数年後に死去してしまう。その葬儀に来た親戚の佐藤榮作と吉田茂は初めて会うが、その時の佐藤の風貌が亡き女婿と瓜二つだったので、以後吉田は佐藤を我が子のように可愛がるようになったという。
- ↑ 和子と太賀吉を結びつけたのは側近の白洲次郎であり、ふたりの仲人もつとめている。
- ↑ 吉田茂記念事業財団編 中央公論社 1994年
- ↑ 吉田茂国際基金(現在は解散)編 中央公論社 2011年 巻末に前書『吉田茂書翰』の正誤表あり
参考文献
- 吉田茂 『回想十年』
- 吉田茂 『世界と日本』
- 吉田茂 『大磯随想』
- 衆議院憲政委員会 『吉田茂とその時代 ― サンフランシスコ講和条約発効50年 ― 特別展』
- 吉田茂記念財団 編 清水崑 画 『吉田茂 風刺漫画集』
- ダグラス・マッカーサー 『マッカーサー回想記』
- 西村熊雄 『サンフランシスコ平和条約・日米安保条約』
- 池田勇人 『財政均衡、付・占領下三年の思い出』
- 岡崎勝男 『戦後二十年の遍歴』
- 佐藤寛子 『佐藤寛子の宰相夫人秘録』
- 白洲次郎 『プリンシプルのない日本』
- 今日出海 『吉田茂』
- 戸川猪佐武 『小説吉田学校』
- 麻生和子 『父 吉田茂』
- 鈴木幸夫 『閨閥 結婚で固められる日本の支配者集団』 光文社 1965年 54-62頁
- 『アサヒグラフ 臨時増刊 11月5日号 緊急特集吉田茂の生涯』 1967年
- ジョン・ダワー 著 - 大窪愿二 訳 『吉田茂とその時代(上)』 TBSブリタニカ 1981年
- 早川隆 『日本の上流社会と閨閥』 角川書店 1983年 200-203頁
- 広瀬隆 『私物国家 日本の黒幕の系図』 2000年 75、173、262、263、333頁
- 神一行 『閨閥 特権階級の盛衰の系譜』 角川文庫 2002年 30-44頁
- 原彬久『吉田茂 尊皇の政治家』岩波新書、2005
- 麻生太郎 『麻生太郎の原点 祖父・吉田茂の流儀』 2007年 徳間書店
関連項目
本文中・表中にリンクのあるものを除く
外部リンク
- 歴代総理の写真と経歴 吉田茂
- ニュース映画で綴る吉田の時代(昭和20〜29年)
- 宿毛人物史 ―吉田茂―
- 東大OBの偉人伝
- 吉田 茂 / クリック 20世紀
- 外務省: 特別展示 吉田茂展 没後40年
- 国立国会図書館 憲政資料室 吉田茂関係文書(小坂順造・善太郎旧蔵)(MF:個人蔵)
- 国立国会図書館 憲政資料室 日本国憲法制定に関する談話録音
官職 | ||
---|---|---|
先代: | 内閣総理大臣 第45代:1946年 - 1947年
第48・49・50・51代:1948年 - 1954年 |
次代: |
先代: | 外務大臣 第73・74・75代:1945年 - 1947年
第78・79代:1948年 - 1952年 |
次代: |
先代: | 第一復員大臣 第2代:1946年
|
次代: 復員庁へ移行
|
先代: | 第二復員大臣 第2代:1946年
|
次代: 復員庁へ移行
|
党職 | ||
先代: 結成
|
自由党総裁 初代 : 1950年 - 1954年
|
次代: |
先代: 結成
|
民主自由党総裁 初代 : 1948年 - 1950年
|
次代: 自由党へ
|
先代: | 日本自由党総裁 第2代 : 1946年 - 1948年
|
次代: |
歴代内閣総理大臣 | |||||
第44代 幣原喜重郎 |
第45代 1946年 - 1947年 |
第46代 片山哲 | |||
第47代 芦田均 |
第48・49・50・51代 1948年 - 1954年 |
第52代 鳩山一郎 | |||
第代 [[]] |
第代 |
第代 [[]] | |||
第代 [[]] |
第代 |
第代 [[]] | |||
第代 [[]] |
第代 |
第代 [[]] | |||
伊藤博文 黑田清隆 山縣有朋 松方正義 大隈重信 桂太郎 西園寺公望 山本權兵衞 寺内正毅 原敬 |
高橋是清 加藤友三郎 清浦奎吾 加藤高明 若槻禮次郎 田中義一 濱口雄幸 犬養毅 齋藤實 岡田啓介 |
廣田弘毅 林銑十郎 近衞文麿 平沼騏一郎 阿部信行 米内光政 東條英機 小磯國昭 鈴木貫太郎 東久邇宮稔彦王 |
幣原喜重郎 吉田茂 片山哲 芦田均 鳩山一郎 石橋湛山 岸信介 池田勇人 佐藤榮作 田中角榮 |
三木武夫 福田赳夫 大平正芳 鈴木善幸 中曾根康弘 竹下登 宇野宗佑 海部俊樹 宮澤喜一 細川護熙 羽田孜 |
村山富市 橋本龍太郎 小渕恵三 森喜朗 小泉純一郎 安倍晋三 福田康夫 麻生太郎 鳩山由紀夫 菅直人 野田佳彦 |
歴代の外務大臣 |
---|
外務大臣(太政官達第69号) |
井上馨 - 伊藤博文 - 大隈重信 - 青木周藏 - 榎本武揚 - 陸奥宗光 - 西園寺公望 - 大隈重信 - 西德二郎 |
外務大臣(外務省官制(明治31年勅令第258号)) |
大隈重信 - 青木周藏 - 加藤高明 - 曾禰荒助 - 小村壽太郎 - 加藤高明 - 西園寺公望 - 林董 - 寺内正毅 - 小村壽太郎 - 内田康哉 - 桂太郎 - 加藤高明 - 牧野伸顯 - 加藤高明 - 大隈重信 - 石井菊次郎 - 寺内正毅 - 本野一郎 - 後藤新平 - 内田康哉 - 山本權兵衞 - 伊集院彦吉 - 松井慶四郎 - 幣原喜重郎 -
田中義一 - 幣原喜重郎 - 犬養毅 - 芳澤謙吉 - 齋藤實 - 内田康哉 - 廣田弘毅 - 有田八郎 - 林銑十郎 - 佐藤尚武 - 廣田弘毅 - 宇垣一成 - 近衞文麿 - 有田八郎 - 阿部信行 - 野村吉三郎 - 有田八郎 - 松岡洋右 - 豐田貞次郎 - 東郷茂德 - 東條英機 - 谷正之 - 重光葵 - 鈴木貫太郎 - 東郷茂德 - 重光葵 - 吉田茂 - 芦田均 - 吉田茂 |
外務大臣(外務省設置法(昭和24年法律第135号)) |
吉田茂 |
外務大臣(外務省設置法(昭和26年法律第283号)) |
吉田茂 - 岡崎勝男 - 重光葵 - 岸信介 - 藤山愛一郎 - 小坂善太郎 - 大平正芳 - 椎名悦三郎 - 三木武夫 - 愛知揆一 - 福田赳夫 - 大平正芳 - 木村俊夫 - 宮澤喜一 - 小坂善太郎 - 鳩山威一郎 - 園田直 - 大来佐武郎 - 伊東正義 - 園田直 - 櫻内義雄 - 安倍晋太郎 - 倉成正 - 宇野宗佑 - 三塚博 - 中山太郎 - 渡辺美智雄 - 武藤嘉文 - 羽田孜 - 柿澤弘治 - 河野洋平 - 池田行彦 - 小渕恵三 - 高村正彦 - 河野洋平 |
外務大臣(外務省設置法(平成11年法律第94号)) |
河野洋平 - 田中眞紀子 - 小泉純一郎 - 川口順子 - 町村信孝 - 麻生太郎 - 町村信孝 - 高村正彦 |
歴代の財務大臣(大蔵大臣) |
---|
大蔵大臣(大日本帝国憲法下) |
松方正義 - 渡辺国武 - 松方正義 - 渡辺国武 - 松方正義 - 井上馨 -松田正久 - 松方正義 - 渡辺国武 - 西園寺公望 - 曾禰荒助 - 阪谷芳郎 - 松田正久 - 桂太郎 - 山本達雄 - 若槻礼次郎 - 高橋是清 - 若槻禮次郎 - 武富時敏 - 寺内正毅 - 勝田主計 - 高橋是清 - 市来乙彦 - 井上準之助 - 勝田主計 - 濱口雄幸 - 早速整爾 - 片岡直温 - 高橋是清 - 三土忠造 - 井上準之助 - 高橋是清 - 藤井真信 - 高橋是清 - 町田忠治 - 馬場鍈一 - 結城豊太郎 - 賀屋興宣 - 池田成彬 - 石渡荘太郎 - 青木一男 - 櫻内幸雄 - 河田烈 - 小倉正恒 - 賀屋興宣 - 石渡荘太郎 - 津島壽一 - 広瀬豊作 - 津島壽一 - 渋沢敬三 - 石橋湛山 |
大蔵大臣(日本国憲法下) |
片山哲 - 矢野庄太郎 - 栗栖赳夫 - 北村徳太郎 - 吉田茂 - 泉山三六 - 大屋晋三 - 池田勇人 - 向井忠晴 - 小笠原三九郎 - 一万田尚登 - 池田勇人 - 一万田尚登 - 佐藤栄作 - 水田三喜男 - 田中角栄 - 福田赳夫 - 水田三喜男 - 福田赳夫 - 水田三喜男 - 植木庚子郎 - 愛知揆一 - 田中角栄 - 福田赳夫 - 大平正芳 - 坊秀男 - 村山達雄 - 金子一平 - 竹下登 - 渡辺美智雄 - 竹下登 - 宮澤喜一 - 竹下登 - 村山達雄 - 橋本龍太郎 - 海部俊樹 - 羽田孜 - 林義郎 - 藤井裕久 - 武村正義 - 久保亘 - 三塚博 - 橋本龍太郎 - 松永光 - 宮澤喜一 |
財務大臣 |
宮澤喜一 - 塩川正十郎 - 谷垣禎一 - 尾身幸次 - 額賀福志郎 |