宅見若頭射殺事件
宅見若頭射殺事件(たくみわかがしらしゃさつじけん)とは、平成9年(1997年)8月28日午後3時20分ごろ、兵庫県神戸市の「オリエンタルホテル」4階のティーラウンジ「パサージュ」で、五代目山口組(組長は渡辺芳則)若頭・宅見勝が、五代目山口組中野会(組長は中野太郎)財津組・財津晴敏組長に指揮された、中野会加藤総業組員・鳥屋原清輝と中野会三笠組神戸総業組員・中保喜代春と中野会至龍会組員・吉田武と中野会誠和会組員・川崎英樹の4人に射殺された暴力団抗争事件。隣テーブルにいた歯科医師も巻き添えとなって死亡した。
宅見若頭射殺事件発生まで[編集]
平成8年(1996年)7月10日、中野会会長襲撃事件が勃発した。同日、四代目会津小鉄若頭・図越利次(後の五代目会津小鉄会会長。三代目会津小鉄・図越利一会長の長男)ら会津小鉄最高幹部が、五代目山口組総本部を訪れ、会津小鉄系組員が、山口組若頭補佐・中野太郎を襲撃したことを詫びた。山口組若頭・宅見勝は、図越利次らの謝罪を受け入れ、中野太郎と協議することなく、和解した。
中野太郎は、当事者である自分を抜きにした宅見勝の裁定に、激しい不満を抱いた。中野太郎と宅見勝は、激しく対立した。
平成9年(1997年)7月、中野会若頭補佐・吉野和利が総指揮をとって、東京都と大阪府の中野会傘下組織から、宅見勝の動向を探るための偵察部隊と、宅見勝を襲撃するための襲撃部隊を選抜した。当初の計画では、宅見勝を東京で襲撃する予定だったが、宅見勝の居場所が掴めずに断念した。その後、吉野和利は、宅見勝を大阪で襲撃することにした。吉野和利は、計画を練り直し、宅見勝襲撃の現場指揮役を中野会財津組・財津晴敏組長に、宅見勝襲撃の実行犯を中野会加藤総業組員・鳥屋原清輝と中野会三笠組神戸総業組員・中保喜代春と中野会至龍会組員・吉田武と中野会誠和会組員・川崎英樹の4人に決めた。財津晴敏は、鳥屋原清輝と中保喜代春と吉田武と川崎英樹に、警察に捕まったら、「宅見勝襲撃は、中野会の跳ねっ返りが単独で行った」と供述するように指示した。
同年8月27日、宅見勝が大阪市内のホテルを訪問することがわかった。しかし、中野太郎も同席することがわかり、財津晴敏らは宅見勝襲撃を見合わせた。
同年8月28日、吉野和利らは、神戸市灘区の山口組総本部近くで、宅見勝を襲撃することにした。しかし、宅見勝が予想外のルートで山口組総本部に入ったため、財津晴敏らは宅見勝を襲撃できなかった。
同日、宅見勝は、山口組総本部長・岸本才三と山口組副本部長・野上哲男とともに、昼食を摂るために、JR新神戸駅に隣接する「オリエンタルホテル」4階のティーラウンジ「パサージュ」に向かった。財津晴敏は、鳥屋原清輝と中保喜代春と吉田武と川崎英樹の4人を、「パサージュ」に向かわせた。
宅見若頭射殺事件[編集]
同日午後3時20分ごろ、宅見勝、岸本才三、野上哲男は、「パサージュ」の一番奥まったテーブルに着いた。直後、鳥屋原清輝と中保喜代春と吉田武と川崎英樹が、38口径と45口径の拳銃で、宅見勝を銃撃した。宅見勝は7発の銃弾を受けた。宅見勝は救急車で、神戸市立中央病院に搬送された。宅見勝の隣のテーブルに座っていた歯科医師も、流れ弾に当たった。
同日4時32分、宅見勝は、神戸市立中央病院で死亡した。
宅見若頭射殺事件発生後[編集]
同年8月31日、宅見勝の告別式が行われた。
同日、渡辺芳則は、中野太郎を破門した[1]。
同年9月3日、流れ弾に当たった歯科医師が、死亡した。
同日、渡辺芳則は、中野太郎を絶縁とした。
2006年6月30日、鳥屋原清輝は神戸港の倉庫で死体で見つかった。 体重38kgにまで痩せており、 病死の線が濃いという。
脚注[編集]
- ↑ 破門だと、再び山口組に戻れる可能性がある。絶縁だと、山口組に戻ることはできない
参考文献[編集]
- 『山口組 50の謎を追う』洋泉社、2004年、ISBN 4-89691-796-0
- 山田勝啓『五代目山口組の激流』双葉社、1998年、ISBN 4-575-28844-6