女流棋士 (将棋)
将棋の女流棋士(じょりゅうきし)は、将棋を職業とし、女流棋戦に参加する女性のことを指す(引退者も含む。退会者は含まない)。女流棋士には、日本将棋連盟所属の者、日本女子プロ将棋協会(LPSA)所属の者がいる。
目次
概説[編集]
棋士と女流棋士[編集]
元来、将棋の棋士の制度は男女の区別がなく、新進棋士奨励会(通称「奨励会」)に入会して所定の成績を収めて四段になれば、棋士となる。しかし、現在まで棋士になった女性は一人もいない。
将棋の女流棋士の制度は、女性だけに適用されるもので、棋士の制度から分離されたものである。
現在、女流棋士と奨励会の掛け持ちは認められている。しかし、1998年途中から2011年途中までの間は認められておらず、奨励会に籍を置く際には女流棋士を休会しなければならなかった(1998年の甲斐智美の休会が初のケース)。それ以前は、中井広恵、碓井涼子(現姓・千葉)、矢内理絵子らが、奨励会と掛け持ちをしていた。その後、2011年5月に里見香奈が特例による奨励会の1級編入試験を受験し合格した。
昇段昇級において特例を認められた蛸島彰子が初段に上ったのを除けば、奨励会における女性の最高位は、岩根忍、甲斐智美、里見香奈、伊藤沙恵、加藤桃子の5人が在籍した1級である。岩根は女流棋士を経験しないまま関西奨励会で1級まで上がり、1級のまま退会して女流棋士としてデビューし、甲斐は関東奨励会でいったん1級に上がり、2級に降級した後に退会して女流棋士に復帰した。里見は前述の編入試験合格により、入会時より1級として関西奨励会で指している。伊藤は2004年9月に女子では史上最年少の10歳で関東奨励会に入会し、2011年8月に1級昇級した。加藤は2011年9月に1級昇級している。
女流棋士が棋士となるためのもう一つの方法としては、2006年に制度化されたフリークラス編入試験[1]がある。もしも合格すれば、奨励会を経由せずに、即、四段の棋士となることができる。ただし、受験資格を得るためだけでも、女流棋戦でトップクラスの活躍をして棋士の公式戦に女流枠から出場する権利を得た上、さらに棋士と入り混じっての戦いで規定の活躍をしなければいけない。なお、奨励会を掛け持ちしている女流棋士は、棋士の公式戦に女流枠から出場することはできない。
囲碁界においては、女流棋士(女流棋士 (囲碁))は「女性の棋士」を意味する。男性と同等か、または、それに近い条件で入段(プロ入り)した女性の棋士は、すでに多数おり、男女入り混じっての対局をしている(そのほかに女流限定の女流棋戦もある)。 ただそうは言っても女流棋士が明確な結果をこれまで一つも出せていないのは事実で某棋士からは女流棋士に必要なものは棋力以前に謙虚さであると述べている。
活動[編集]
女流棋戦[編集]
女流棋士は、棋士の棋戦とは区別された女流棋戦に参加して対局を行うことが、原則として義務である。
女流棋戦の一覧は、棋戦 (将棋)#女流棋戦 を参照。
棋士の棋戦のうち女流枠のある棋戦[編集]
女流タイトル保持者など成績優秀な一部の女流棋士は、棋士の棋戦のうちの一部にも参加することができる。たとえば、7つのタイトル戦のうちの5つ(竜王戦など)が該当する。それぞれ1 - 6人の女流棋士が出場し、予選1回戦で低いクラスの(順位戦C級やフリークラスに所属する)棋士と対戦する。
棋士の棋戦の一覧と各々の女流枠については、棋戦 (将棋)#棋士の棋戦 を参照。
女流棋士の特筆すべき活躍としては、銀河戦において、斎田晴子が本戦(ベスト8)に勝ち進んだこと(2連勝でブロック内最多勝ち抜き)、中井広恵がNHK杯でA級棋士(当時)の青野照市に勝ったことなどが挙げられる。
石橋幸緒は2009年7月の単月で、棋士相手に3勝0敗という快挙を成し遂げた。
しかし、下記の通り、棋士を相手にした女流棋士の勝率は2割弱である。1回戦敗退が大半であるため、対局相手のほとんどは新四段やフリークラスの棋士である。
- 参考
棋士公式戦に女流枠で出場時の対男性棋士通算勝敗(2011年9月28日現在)
女流棋士名 | 対局数 | 勝数 | 負数 | 勝率 |
清水市代 | 168 | 29 | 139 | 0.173 |
中井広恵 | 94 | 19 | 74 | 0.202 |
石橋幸緒 | 39 | 9 | 30 | 0.231 |
斎田晴子 | 37 | 9 | 28 | 0.243 |
矢内理絵子 | 36 | 5 | 31 | 0.139 |
里見香奈 | 20 | 4 | 16 | 0.200 |
岩根忍 | 7 | 3 | 5 | 0.400 |
甲斐智美 | 19 | 2 | 17 | 0.105 |
上田初美 | 6 | 1 | 5 | 0.167 |
中村真梨花 | 5 | 1 | 4 | 0.200 |
千葉涼子 | 13 | 0 | 13 | 0.000 |
蛸島彰子 | 3 | 0 | 3 | 0.000 |
長沢千和子 | 3 | 0 | 3 | 0.000 |
山下カズ子 | 2 | 0 | 2 | 0.000 |
早水千紗 | 2 | 0 | 2 | 0.000 |
鈴木環那 | 2 | 0 | 2 | 0.000 |
合計 455対局82勝373敗 勝率0.180
棋士と女流棋士との駒落ち対局[編集]
白瀧あゆみ杯争奪戦(非公式戦)では、第4回(2009年)から棋士が参加し、女流棋士と角落ちで対局している。
第4回では田中悠一四段と佐藤慎一四段が出場。田中は渡辺弥生女流2級、井道千尋女流初段、山口恵梨子女流1級を破って優勝。佐藤は香川愛生女流1級を破った後に山口に負けている。
第5回(2010年)では永瀬拓矢四段のみが出場。井道千尋女流初段、上田初美女流二段、竹俣紅アマを破って優勝した。
エピソード[編集]
斎田晴子は第8期銀河戦(1999年)で2連勝し、対戦相手が師匠の佐伯昌優となった。女流棋士が一般公式戦で師匠と戦うのはもちろん初めて。女流棋士が一般公式戦で師匠の棋士と対戦できる確率は非常に低く(師匠が現役のうちに女流棋士が一般公式戦に出場し、なおかつ2人とも勝ち上がらなければならない)、斎田自身、これが師匠との最初で最後の一般公式戦での対局となった。
待遇[編集]
女流棋士には日本将棋連盟から(定額の)給料は出ていなかった。 タイトル保持者など一部の女流棋士を除いては、個人で独立した生計を営むことは非常に難しい。こうした状況などから、後述する日本将棋連盟からの独立への動きが発生した。
また、坂東香菜子(日本将棋連盟に残留)が「大学を卒業して就職をしたために1年目は対局日に仕事を休めそうにないから」という理由で、2008年度以降休場している例がある。
正会員[編集]
従来、女流棋士は日本将棋連盟の正会員ではなかった。しかし、2010年11月12日に行われた日本将棋連盟臨時総会で、女流四段以上またはタイトル経験ありという条件を満たせば正会員とすることが決議された。同日時点で該当者は、甲斐智美女王・女流王位、里見香奈女流名人・女流王将・倉敷藤花、清水市代女流六段、関根紀代子女流五段、長沢千和子女流四段、斎田晴子女流五段、矢内理絵子女流四段、千葉涼子女流三段(元女流王将)、および、引退女流棋士の谷川治恵女流四段であり、日本将棋連盟所属の存命女流棋士42名のうち9名が正会員となることが決まった。後にタイトル(女王)を獲得した上田初美も規定により正会員となり、2011年5月現在正会員は10名である。なお、LPSA所属の女流棋士(中井広恵女流六段、蛸島彰子女流五段、山下カズ子女流五段、石橋幸緒女流四段ら)は日本将棋連盟を退会しているため対象外である。
女流棋士となる条件[編集]
女流棋士になるには、以下の2つのいずれかを満たせばよい。
- 研修会から女流3級へ(通常のコース、2009年度から)
- 研修会でC1クラスへ昇級すると女流3級となる資格(権利)を得る。この制度で女流3級の資格を得た初のケースは、室谷由紀であり(2009年6月28日に関西研修会でC1に昇級)、2011年5月8日に相川春香が2人目の女流3級資格者となった。2011年9月25日に長谷川優貴が資格を得たが、後述3項を満たしていたため2級でプロとなった。
- 申請をすると、ひとまず女流3級になり、女流の公式戦に参加する。女流3級から正規の女流棋士になるためには、下記のいずれかの条件を満たすことが必要である。
- 年間で参加公式棋戦数と同数の勝星を得る。
- 2年間で参加公式棋戦数の4分の3以上の勝星を得る。
- 女流棋士の昇段級規定の「女流1級へ」に該当した場合。
- これらの条件を満たせなかった場合は研修会のC2に戻る。
- なお2011年度現在女流3級が参加できる女流公式棋戦は、6つの女流タイトル戦(マイナビ女子オープン、女流王座戦、女流名人位戦、女流王位戦、女流王将戦、倉敷藤花戦)だけなので、少ない機会の中で、たとえば1年目か2年目で年間6勝か、2年間で9勝すれば女流2級になれる。
- 奨励会員からの転身(2003年度から)
- 奨励会を2級以上で退会した女性には、即、女流棋士になる権利が発生する。この権利を行使すると、奨励会退会時の段級位がそのまま女流の段級位となる。この制度を利用して女流棋士になった初のケースは、岩根忍である(奨励会1級→女流1級、2004年4月1日)。
かつての制度[編集]
- 女流育成会で所定の成績を収めること。
- 2003年後期 - 2008年度後期の条件: 女流育成会で昇級点(=1位)を累積2回
- 2003年前期までの条件: 女流育成会Aクラスで1位を1回
歴史[編集]
レッスンプロ時代[編集]
プロ棋士は男女ともに開かれた職業であるが、これまでのところ女性が新進棋士奨励会(奨励会)を勝ち抜いて棋士となった例はない。このため、女性への将棋の普及が遅れていたが、この状況を打開するために女流棋士の制度が作られた。
1962年(昭和37年)、蛸島彰子が高柳敏夫(名誉九段)門下で奨励会に入会するが、1966年に初段で退会する(奨励会では「指し分けで昇級」という特別ルールが適用されていたので、奨励会に所属した他の女流棋士とは条件が異なる)。将棋年鑑などでは、これを初の女流プロとしているが、当時「女流」の概念や呼称は存在しなかった。この時期に山下カズ子が女流1級として活動を開始しているが、蛸島同様にレッスンプロであった。当時はレッスンプロとして棋士(いわゆる「男性棋士」)相手に聞き手を行う等の方法で生活をしていた。
蛸島のそれ以後の将棋の普及への貢献、さらに昭和40年代から女性を対象とした大会が増えるにいたって、女流棋士創設の機運が高まっていった。1965年(昭和40年)に開始された全国高校将棋選手権では、個人、団体共に女子の部が創られ、1968年(昭和43年)には女流名人戦(女流棋士会発足後、「女流アマ名人戦」に改称)が始まった。将棋専門誌である『将棋世界』『近代将棋』では、女性が著名将棋ファンとの対局を企画したりと、女流棋士の礎が築かれ、誕生へ秒読みを開始していた。
しかし、対局によって生計を立てていくには、資金と棋戦を主催してくれる会社が必要であった。
女流プロ誕生[編集]
1974年(昭和49年)に、報知新聞からプロ野球のオフシーズンの女流棋戦の開催を打診された。当時、女性への普及の企画を模索していた日本将棋連盟にとってもありがたい話であって、女流棋戦開催にこぎつけるまで2ヶ月という驚異的スピードで話は進んだ。
さらに、棋戦が開催されるにあたって、女流棋士は連盟が候補を挙げ打診するという方向で行われ、女性教室の実力者などに参加の意向を呼びかけた。その結果、女流棋士第1号になった蛸島彰子、レッスンプロになっていた山下カズ子の他、アマチュア大会で優秀な成績を残した女流強豪、及び女性教室より計4人(関根紀代子、多田佳子、寺下紀子、村山幸子)、計6人の女流棋士が誕生した。蛸島は三段、関根、多田が二段、山下、寺下、村山が初段でスタートした。
1974年10月31日、将棋会館において第1回女流名人位戦が始まった。この年が女流棋士の誕生であり、「発足*年パーティ」でも逆算するとこの年である。最初の公式戦は寺下対村山、関根対山下の2局であった。なお、蛸島は別格とされ、他5人の優勝者との3番勝負で名人位を争うことになっていた。挑戦者決定戦は、寺下対関根となったが、関根が対局中盤上から落としたと思われる香車を持ち駒として使ってしまい、反則負けで涙を流した。これが女流棋戦初の反則負けである。
結局、寺下と蛸島が3番勝負を戦うことになり、第1局は11月18日、第2局が11月26日に行われ、蛸島が2連勝して、第1期女流名人位に就いた。その後、新加入の面々を加えて行われたが、蛸島の実力は抜けていて、そのまま女流名人位戦3連覇を果たした。しかし、第4期で挑戦した山下に公式戦初黒星をつけられると、そのまま奪取された。
1978年(昭和53年)に第2のタイトル戦、女流王将戦が始まった。蛸島は山下を2-1で下し、初代女流王将に就く。そして、女流名人位戦では8期まで蛸島・山下がそれぞれ4期ずつとっており、しばらく2人の二強時代が続いた。しかし、1980年(昭和55年)、当時まだ中学生だった林葉直子が女流2級として入会し、翌年には女流王将を奪取する(第4期女流王将戦)と、中学生タイトルホルダーとして話題を呼び、女流棋士の認知度を大いに高めた。その後、林葉は女流王将を10連覇、これは、現在、未だに破られていない同一女流タイトル連覇記録である。他にも女流名人位4期、初代倉敷藤花を獲得。80年代 - 90年代前半を代表する女流棋士となった。
初期は、女流棋士になるには、ある程度の実力を持ち、棋士の推薦があればよかったが、1983年(昭和58年)、育成組織として女流育成会が発足し、そこで所定の成績を収めなければならなくなった。その卒業生第1号が清水市代である。
1989年には、女流棋士発足15周年パーティが開催されたのを契機に、女流棋士会が発足した。
棋士との対局開始[編集]
1981年(昭和56年)からは棋士(いわゆる「男性棋士」)の公式戦に参加が認められ、第12期新人王戦で蛸島彰子が飯野健二四段(当時)、山下カズ子が高橋道雄四段(当時)と戦ったが、2人とも敗れた。女流棋士が公式戦で初勝利を挙げたのは、1993年(平成5年)12月9日に行われた中井広恵対池田修一戦(竜王戦6組)である。実に35戦目にしての対男性棋士初勝利であった。
なお、非公式戦では林葉直子が1991年(平成3年)6月3日に白星を挙げている(銀河戦、当時は非公式戦)。
女流棋士の公式戦参加は平成に入ると急増する。1990年(平成2年)に王座戦に女流棋士の出場枠が設けられると、1993年(平成5年)NHK杯、竜王戦にも設けられた。そして、女流棋士に門戸が開かれた直後、前述の中井の公式戦初白星が竜王戦で挙げられた。
現在は出場権は基本的にはタイトルホルダーや挑戦者になった女流棋士に与えられる場合がほとんどだが、新人王戦については、26歳以下・年間成績によって選抜される。これにより、2005年の同棋戦では中村真梨花が史上最年少の18歳(当時)で公式戦に出場した(2007年10月現在、最年少出場記録は第37期同棋戦の里見香奈の15歳)。王座戦の一次予選では2006年から出場する女流棋士4名の初戦の対局が同日一斉に行われるようになり、大盤解説会やネット中継なども行われる。
女流棋士界の現在[編集]
一方、女流棋士内の棋戦も拡大を見せ、女流名人位戦・女流王将戦に続き、1987年にレディースオープントーナメント(2007年に発展解消し、マイナビ女子オープンへ移行)、1990年に女流王位戦、1993年(平成5年)に大山名人杯倉敷藤花戦、1996年に鹿島杯女流将棋トーナメント(2006年で終了)、2007年に大和証券杯ネット将棋・女流最強戦、2011年に女流王座戦がスタートし、現在に至る。
2008年10月に、同年度(30期)限りでの女流王将戦の休止が決まったが、2009年7月に再開が決定して、2009年度女流王将戦(31期)が実施され、女流タイトル戦の減少が回避された。女流王将戦#休止と再開参照。
現在、現役の女流棋士の人数は、合計50人強である。
1980年代後半から活躍している清水市代・中井広恵の二強時代が長く続き、2人とも前例のない女流六段まで上り詰めた。
一方、1997年に女流王位を獲得し、2006年からは女流名人や女王の座についた矢内理絵子、1999年に女流王将を獲得し、2008年に女流王位を連覇した石橋幸緒(清水の弟子としても知られる)、2006年に女流王将を連覇した千葉涼子の「花の55年組」「若手三羽ガラス」が、二強の牙城に割って入るようになった。
なお、2006年には、清水・中井より少し年上の斎田晴子が清水市代から倉敷藤花を奪取することにより一時4タイトルを4人が分け合う形になった。
さらに他の若い世代も台頭し始めている。甲斐智美は、2006年の鹿島杯と2008年のネット将棋・女流最強戦で優勝し、2010年には女王・女流王位を相次いで獲得。里見香奈は、史上3番目の若さで2008年に初タイトル(倉敷藤花)を獲得し、一躍、スターとなった。里見より少し年上の上田初美は、2011年に甲斐から女王を奪った。他に、岩根忍、中村真梨花らの20代の若手がタイトル戦に登場している。
こうした若手の活躍により、1992年3月に女流王将を獲得して以来、タイトルを維持してきた清水は、2010年10月の女流王将戦三番勝負で防衛失敗して、18年7ヶ月ぶりに無冠となった。中井は2007年の女流名人戦以降タイトル戦番勝負から遠のいているが、ネット将棋・女流最強戦で2008年から三連覇して健在ぶりを示している。
また、若手女流を対象とした非公式棋戦の開催や、女性奨励会員など、勢力図や女流を取り巻く現状は変貌しつつある。
分裂・独立[編集]
2006年11月、女流棋士会が日本将棋連盟から独立する動きが報じられた。女流棋士は対局料などの面で棋士と格差があること、棋戦を自ら運営できないこと、連盟の意思決定に参画できないこと、などの点で待遇改善を求める声があった。また、将棋連盟としては引き止めるどころかむしろ、独立を促すような言動があったとされている。女流棋士会側ではこれ以前から制度委員会を発足させており、独立も視野に入れて体制改革への意見集約が進められていた。
同年12月1日、女流棋士会は臨時総会を開き、独立に向けた新法人設立のための設立準備委員会の設置を賛成多数で可決した。しかし、「これで独立が決まった」と解釈する者と「単に設立準備委員会の設置のみが決まった」と解釈する者とがいた。独立に至る過程で、準備委員会と連盟理事会との間の交渉が難航し、また、女流棋士の中の意見も一つにまとまらなかったため、結果的に56名(引退女流棋士を含む)中39名の女流棋士が残留を表明し、女流棋士会は分裂することとなった。2007年4月24日には日本将棋連盟より経緯説明がなされ、5月30日には残留を希望しない女流棋士17名によって、有限責任中間法人「日本女子プロ将棋協会(LPSA)」が設立された(現在は一般社団法人)。6月7日にLPSA設立後最初の女流棋士会総会が行われ、LPSA参加者が女流棋士会を脱退することが正式に認められている。
2007年度の公式戦については連盟残留者、LPSA参加者とも参加が認められ、2008年度以降は改めて話し合うとしている。2008年時点ではマイナビ女子オープンと女流王位戦の主催者にLPSAが加わっている。
2009年4月1日、日本将棋連盟が、棋士・女流棋士の両方を含む新たな棋士会を創設したのに伴い女流棋士会は連盟棋士会の中の組織とされ、女流棋士会の役員会は発展的に解消された。
2009年6月15日、北尾まどかがLPSAから退会し、「フリーの女流棋士」となった。LPSAからの初の退会者であった。日本将棋連盟は、主催者の意向を尊重した上で、「フリーの女流棋士」の、女流棋戦への参加を認めていく方向と発表した。その後、北尾は日本将棋連盟の「客員女流棋士」を経て、2011年4月1日付で連盟に復帰した。
「フリーの女流棋士」、「客員女流棋士」、いずれも北尾が唯一の事例である。ただし、連盟またはLPSAを退会し、同時に女流棋士としての身分を完全に放棄した「元女流棋士」は、連盟退会者が5名、LPSA退会者が1名存在する。将棋の女流棋士一覧#女流棋士一覧を参照。
脚注[編集]
- ↑ フリークラス編入試験の制度は、女流棋士とアマチュアで変わりはない。
関連項目[編集]
参考文献[編集]
- 中島一『女流棋界ヒストリー』(1) - (3) (『近代将棋』2004年1月号 - 3月号連載)