天谷宗一郎
天谷 宗一郎 広島東洋カープ No.49
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基本情報 | |
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国籍 | 日本 |
出身地 | 福井県鯖江市 |
生没年月日 | 1983年11月8日((2024-1983)+((12-11)*100+(19-8)>=0)-1歳) -
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身長/体重 | 178cm/ 80kg |
選手情報 | |
投球・打席 | 左投左打 |
守備位置 | 外野手 |
プロ入り | 2001年 ドラフト9巡目 |
出場期間 | 2004年8月20日 -
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年俸 | 2800万円(2010年) |
経歴 | |
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天谷 宗一郎(あまや そういちろう、1983年11月8日 - )は、広島東洋カープに所属するプロ野球選手(外野手)。
目次
経歴[編集]
プロ入り前[編集]
福井商高では、2年夏の大会では、県大会決勝で内海哲也や李景一ら超高校級選手を擁する敦賀気比高校に延長10回の死闘の末、3-2で勝利し甲子園出場を決めている。しかし甲子園では7番右翼手で出場したが初戦敗退。ちなみに、この時のチームメイトには1学年上に山岸穣がいた。
3年春の甲子園では3番打者として1回戦で1本塁打3安打、1イニング2盗塁の活躍を見せた。3年夏の甲子園も出場し3期連続出場となった。
50m6秒0の俊足と選球眼のよさ、鋭いスイングが認められ、2001年のドラフトで広島東洋カープから9巡目で指名され、入団。福井商からのプロ入りはチームメイトの横山竜士以来7年ぶり。
プロ入り後[編集]
2002年、1年目のこの年、二軍で40打数2安打、打率.050と打球が前に飛ばない状態だったが、8四球を選び2盗塁を記録し、この頃から選球眼のよさの片鱗を見せていた。
2003年は、打撃が向上し、二軍で1番を任された。一時は打率4割を超え、前半は二軍の首位打者を独走していた。後半になると苦手な外角の変化球を攻められ打率を落としたが、最終的に二軍成績は打率.266、6本塁打、27盗塁で、ウェスタン・リーグ盗塁王のタイトルを獲得した。四死球が多く出塁率は3割5分を超えた。
2004年、前年オフから取り組んでいた一本足打法をやめ、元のすり足打法に戻すなど打撃面で試行錯誤を続けた。初めて一軍キャンプに参加したが、オープン戦打率.133と結果が残せなかった。8月20日にプロ3年目で一軍初昇格したが2打数無安打、盗塁を1つも決められず、30日に二軍降格となった。再昇格後の10月3日の阪神戦でプロ初スタメン、第1打席でプロ初安打を放ち、積極的な走塁で二塁を陥れるなど、自慢の足も披露した。
ウエスタン・リーグでは自己最高の打率.297、6本塁打、出塁率.401、そして2位に20個差をつけ、42個で2年連続盗塁王のタイトルを獲得するなど、快足ぶりを発揮した。
2005年オフに左足靭帯を痛め、春季キャンプでは捻挫し、開幕二軍スタートとなった。6月14日のウエスタン中日戦では二盗を試みスライディングした際に右肩を脱臼した。怪我に泣かされて二軍でも打率.258、19盗塁(失敗13回)に終わった。
2006年、5月に一軍へ昇格したものの、約1ヶ月で2軍落ち。主に代走での出塁だったが、盗塁は0、打撃でも8打数0安打とアピールできなかった。一方でファームでは最高出塁率.366のタイトルと、三度目となる盗塁王(24個)の二冠を獲得した。俊足のわりになかなか7割を超えなかった盗塁成功率は86%と自己最高をマークし、盗塁の技術も向上した。一方二軍での打率.252は一年目を除いて自己最低、本塁打も0に終わった。
2007年5月に一時期一軍のレギュラーを奪うなど大きく飛躍するかと思われた矢先、牽制球で帰塁する際に左肩を痛め、以後一軍に戻る事はなかった。
2008年、春季キャンプでマーティ・ブラウン監督に「才能、打撃センス、スピードが魅力。ぜひ使いたい」と絶賛され、3月28日の開幕戦(中日戦)で1番・中堅手として初の開幕スタメンを果たす。4月5日の横浜戦での延長10回、那須野巧投手から自身初となるサヨナラ安打を放ち、4月半ばには首位打者に立つなど、課題だった打撃が大きく向上した。また、昨年まで凡ミスが目立った外野守備も本来の広い守備範囲が生かされるようになり、赤松真人とともに鉄壁の外野を形成。最終的に規定打席にわずか3打席届かず、打率も.263にまで下がったものの、自己最多の135試合に出場。飛躍のシーズンになった。
2009年、4月3日の開幕戦で8番・右翼手で出場。4月は調子は上がらなかったものの、5月になると調子を上げ打率.400を記録し、チーム打率が2割台前半に低迷する中で、3番打者として気を吐いていたが、5月13日の阪神タイガース戦でファールを打った際に右手有鉱骨を骨折し、長期離脱を余儀なくされた。しかし、驚異的な回復力を見せ、49日後にはウエスタンリーグの実戦復帰を果たした。7月15日の横浜ベイスターズ戦で1軍復帰。骨折の影響で94試合の出場にとどまり、前年同様に規定打席には届かなかったものの、自身初の打率3割・5本塁打・41打点をマークした。
人物[編集]
プレーの特徴[編集]
高校時代、バッティングセンスと俊足から「北陸のイチロー」と呼ばれた。
自分のバッティングスタイルを守るために、バッターボックスに入る際は小声で「センター(返し)、センター・・・」とつぶやいているという。
俊足だが、守備範囲は広いが、肩はそれほど強くなく、盗塁も多くない。1軍に定着した2008年は左翼・中堅での起用が主で、外野で最も肩力が要求される右翼での出場はほとんどなかったが、外野が広く、右翼線を抜けた打球が即三塁打につながるマツダスタジアムに本拠地が変わった2009年は、守備範囲を重視した首脳陣の意向により右翼手にコンバートされている。
昔からいい選手のものはどんどん真似していこうと思っており、スパイクは赤星憲広(元阪神)、グラブはチームメイトである廣瀬純のモデルを着用していると述べている。
2004年5月5日のひろしまフラワーフェスティバルでのトークショーに参加した際に、女性の好みを聞かれ「背がちっさい女性が好きです。155cm以下ぐらいが」と答えていた。
2008年3月8日の対ソフトバンクオープン戦で2打数2安打2盗塁と走攻で活躍したことにより一部メディアで「赤いイチロー」、「赤い新星」というニックネームがつけられた。
自身初となるサヨナラ安打を放った2008年4月5日の横浜戦。その試合のヒーローインタビューでは、「おいしいお酒を飲んで明日も球場に来てください!」とユニークな発言をして球場のファンを沸かせた。翌4月6日の横浜戦でも長谷川と共にヒーローインタビューに立ち、「明日は月曜日で仕事があると思うのでお酒は控えめに」と発言し、またもファンを沸かせた。しかし当人は下戸であり、5日はジンジャーエール、6日はウーロン茶で祝杯をあげたという。
7月5日の東京ヤクルトスワローズ戦の練習中に遅刻。14時試合開始のデイゲームをナイターだと勘違いし、午前10時の練習開始のはずだったが12時25分に球場に来たために球団から罰金を科せられた。これに関連してか「遅刻ゼロ」に取り組んでいる広島市立広島工業高等学校の無遅刻無欠席の生徒ら78人を一塁側の内野席へ招待した。この時の招待料に天谷が球団に支払った罰金が充てられた。
生徒は球団からプレゼントされた、おそろいの「天谷Tシャツ」を着て横断幕をもって応援。0-1の二回に右翼線へ同点二塁打を放った天谷は「きょうは僕の応援団が来ているので、いいところを見せたかった」とコメントしたが試合は1点差で惜敗。
遅刻の時はブラウン監督から「気にするな」と言われたが、「どこか気が抜けていた。初心に戻ろうと思った」と思い7日には、理髪店で髪を丸刈りにした。7月9日の中日戦では2度目のサヨナラヒットを放つとともに、そのシーズン初のチームの勝率5割到達の立役者にもなった。
モデルとして活躍している伽奈とは実家が近く幼なじみであるが、天谷本人は「モデルというより、単なる友達」と語っている(2008年9月9日の中国新聞夕刊より)。
サンフレッチェ広島の槙野智章とは親交があり、実際に広島アスリートマガジン(2009年2月号)で対談したことがある。
好きな歌[編集]
- 好きな歌はV6の『RADIO MAGIC』(4分47秒、Full.verのカラオケ得点9.3点)である。
- 3分37秒は前述の『RADIO MAGIC』の3題目の開始時間である。
詳細情報[編集]
年度別打撃成績[編集]
年 度 |
球 団 |
試 合 |
打 席 |
打 数 |
得 点 |
安 打 |
二 塁 打 |
三 塁 打 |
本 塁 打 |
塁 打 |
打 点 |
盗 塁 |
盗 塁 死 |
犠 打 |
犠 飛 |
四 球 |
敬 遠 |
死 球 |
三 振 |
併 殺 打 |
打 率 |
出 塁 率 |
長 打 率 |
O P S |
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2004 | 広島 | 10 | 12 | 11 | 1 | 2 | 0 | 1 | 0 | 4 | 1 | 1 | 2 | 0 | 0 | 1 | 0 | 0 | 4 | 0 | .182 | .250 | .364 | .614 |
2005 | 2 | 2 | 2 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 1 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 1 | 0 | .000 | .000 | .000 | .000 | |
2006 | 17 | 9 | 8 | 3 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 1 | 0 | 0 | 0 | 0 | 1 | 4 | 0 | .000 | .111 | .000 | .111 | |
2007 | 20 | 39 | 31 | 6 | 8 | 0 | 0 | 1 | 11 | 2 | 2 | 2 | 2 | 0 | 5 | 0 | 1 | 7 | 0 | .258 | .378 | .355 | .733 | |
2008 | 135 | 443 | 392 | 49 | 103 | 8 | 1 | 4 | 125 | 24 | 13 | 9 | 11 | 2 | 34 | 0 | 4 | 76 | 2 | .263 | .326 | .319 | .645 | |
2009 | 94 | 361 | 317 | 35 | 95 | 14 | 7 | 5 | 138 | 41 | 12 | 10 | 6 | 5 | 31 | 0 | 2 | 62 | 4 | .300 | .361 | .435 | .796 | |
通算:6年 | 278 | 866 | 761 | 94 | 208 | 22 | 9 | 10 | 278 | 68 | 29 | 24 | 19 | 7 | 71 | 0 | 8 | 154 | 6 | .273 | .339 | .365 | .704 |
- 2009年度シーズン終了時
年度別守備成績[編集]
年度 | 外野 | |||||
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試合 | 刺殺 | 補殺 | 失策 | 併殺 | 守備率 | |
2004 | 8 | 4 | 0 | 0 | 0 | 1.000 |
2005 | 1 | 1 | 0 | 0 | 0 | 1.000 |
2006 | 8 | 5 | 0 | 0 | 0 | 1.000 |
2007 | 10 | 7 | 0 | 1 | 0 | .875 |
2008 | 127 | 184 | 5 | 3 | 1 | .984 |
2009 | 91 | 156 | 4 | 6 | 1 | .964 |
通算 | 245 | 357 | 9 | 10 | 2 | .973 |
背番号[編集]
- 69 (2002年 - 2006年)
- 49 (2007年 - )
個人記録[編集]
- 初出場:2004年8月20日、対読売ジャイアンツ22回戦(広島市民球場)、8回裏に野村謙二郎の代走として出場
- 初先発出場:2004年10月3日、対阪神タイガース27回戦(広島市民球場)、2番・中堅手として先発出場
- 初安打:同上、1回裏に杉山直久から中前安打
- 初盗塁:2004年10月6日、対横浜ベイスターズ24回戦(広島市民球場)、6回裏に二盗(投手:川村丈夫、捕手:相川亮二)
- 初本塁打・初打点:2007年4月28日、対阪神タイガース4回戦(広島市民球場)、5回裏に杉山から右越2ラン
- 初サヨナラ安打:2008年4月5日、対横浜ベイスターズ2回戦(広島市民球場)、10回裏に那須野巧から中前安打
関連項目[編集]
脚注[編集]
外部リンク[編集]
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