身玉山宗三郎
テンプレート:Infobox 学者 身玉山 宗三郎(みたまやま そうざぶろう、1973年(昭和48年)7月19日 - )は、日本の政治活動家、大学院生、法整備国際協力政策研究者、行政書士。神戸大学大学院国際協力研究科在籍。学位は、修士(総合政策))、学士(法学)。愛称は「みーたん」。[1]。
目次
経歴
生い立ち
愛知県名古屋市出生。保育園時代から高校卒業まで、愛知県春日井市に居住。高校時代にイギリスに約1年間留学。父親は、国道19号線などを手がけた建設業を営んでいたが1973年(昭和48年)6月に死亡。父方の祖父は沖縄戦で戦死[2]。二代続けてシングルマザーの家庭に育った。母親は、夫の死亡後、寺院を運営する祖母を手伝って家計を支えていた。
夜の8時には寝ていた7歳頃に「24時間テレビは本当に夜中も放映しているのだろうか」と疑問を持ち、夜中にテレビをつけてみたところ、白っぽい乾燥した地域で日本の若者が飢餓に苦しんでいるアフリカの子を助けている場面を見て、「自分と同じような年頃の子が飢餓で苦しんでいるのはよくない。」と思ったという。
春日井市立坂下中学校卒業時、将来の進路に迷っていた。この時、7歳の頃の記憶を思い出し、国際協力の世界を目指そうとして、愛知県立千種高等学校国際教養科に進学することを決意したという。なお、中学3年の担任は、「必ず合格するとはいえない」と少し心配していた。愛知県立千種高等学校では、陸上部と野外活動部に所属し、走り高跳びの市内県立高校大会で3位入賞を果たした。高校2年から3年にかけてイギリスに約1年間留学した。高校卒業時、特に入りたい学部がなく、家が裕福でないこともあり、大学に進学しないことにした。松下政経塾に資料請求し、入塾の申し込みをしようとしたところ、「22歳以上でないと入塾できない」と断られた。JICA国際協力機構の青年海外協力隊は20歳以上でないと参加できないので、20歳まで英語と野菜栽培の勉強をした。
はじめての国際協力
20歳になりJICA国際協力機構の青年海外協力隊の試験を受験したところ、条件付き合格となり、条件である長期研修を長野県にある八ヶ岳中央農業実践大学校[3]及び愛媛県の福岡正信農場にて行った(福岡農場では主に福岡正信の息子に指導されたという)。この長期研修の際、JICA国際協力機構側より、「どの国に行きたいか。」と照会があったため、アフリカの国2つと南米の国1つを記入して回答したところ、東南アジアの「インドネシア」が任地として通知されたという。1995年4月よりインドネシア共和国南スラウェシ州ウジュンパンダン(現マカッサル)市食用作物事務局配属となり、都市近郊農業の指導を行った。土壌試験等の基礎調査の後、雨期唐辛子の雨よけ栽培、乾期メロン栽培の指導や農業協同組合を結成しリボルビングによるトラクターの導入などを行った。特にトラクターの導入については、日本の協力による10台の初期投入に対して、インドネシア農民の収穫・収益向上を促した結果、任期中に14台にまで増やすことができたという。1997年5月から南スラウェシ州バル県地域総合開発プロジェクトの調整員として再赴任した。1997年7月にタイから始まったアジア経済危機がインドネシアに波及し、1998年5月にスハルト政権が打倒された際、退避勧告が出され、プロジェクトのメンバーを引き連れてバリ島経由で日本に帰国した。
大学法学部へ
インドネシア在任中に、農業分野での協力で一定の成果を挙げたものの、「インドネシア独自の政策はジャカルタのレベルでは聞こえは良いが、末端の農村での政策実施はまったくお粗末である。予算もジャカルタで発表された金額より少ないし、遅延している。この問題を理解し解決するには行政法の知識が必要だ。」と考え、大学法学部へ進学することにしたという。中央大学法学部に進学し、法学全般を学んだ。所属ゼミナールは、渥美東洋ゼミナール及び斎藤誠二ゼミナールであった。課外活動としては、正法会、辞達学会、ALSA(Asian Law Students Association)に所属した。ALSAではインドネシア法学生の日本滞在をサポートした。法学部卒業後は、大学院総合政策研究科に進学し、インドネシアの行政法の研究を行った。
対インドネシア国際協力の継続と大学での研究
法学部在籍中に行われた1999年のインドネシア総選挙にJICA専門家として参加した。任務は中部ジャワ州、東カリマンタン州等を巡回し、選挙実施体制、投票箱や投票用紙などの物資の配送の確認及び側面サポートを行い公正で公平な選挙実施を確実にするものであり、インドネシアの民主化に決定的に重要な選挙の成功の確保であった。大学院在籍中に行われた2004年のインドネシア総選挙においてもJICA専門家として参加した。カリマンタン島の4州を担当した。さらに2004年10月からはインドネシア司法改革支援企画調査員としてジャカルタに赴任し、最高裁判所規程集の改定や和解調停制度強化支援プロジェクトの企画を行った[4]。また2004年12月26日に発生したスマトラ沖地震津波災害では、インドネシア単独で17万人以上の死者があり、土地境界が不分明となり相続、養親子、土地に関する法的紛争の多発が予想されたため、JICAネットを利用した調停に関する研修を実施した[5]。この時得られた経験と人脈は2011年3月11日に発生した東日本大震災における復旧復興支援活動に生かされているという。
インドネシア和解調停制度強化支援プロジェクトを企画した後、帰国し、同プロジェクトへは国内支援委員会の協力員として側面サポートを継続した。他方で神戸大学大学院国際協力研究科に進学し、インドネシア法及び法整備国際協力政策の研究を進めた。2010年11月からはこれらの経験を買われ外務省在インドネシア日本国大使館専門調査員として赴任することとなった。インドネシア司法部における人脈を活用し丸山和也参議院議員(弁護士)[6]、谷博之法務大臣政務官[7]や大谷剛彦最高裁判事のインドネシア訪問を成功させた[8]。2012年8月には日本インドネシア法律家協会の設立[9]に参画した。2012年に帰国した後も12月に行われた神戸大学と岩手大学の共催による「アジア防災法ワークショップ」においてインドネシア研究者によるアチェ津波災害からの復興の経験の発表をサポートするなど、法整備国際協力政策の研究と実践を続けている。また大学での研究の傍ら名古屋地方裁判所・名古屋地方検察庁・愛知県警察本部・愛知県弁護士会等においてインドネシア語と英語の司法通訳翻訳人を務めている。
略歴
- 1973年(昭和48年)7月 - 名古屋市にて出生。
- 1986年(昭和61年)3月 - 春日井市立神屋小学校卒業
- 1989年(平成元年)3月 - 春日井市立坂下中学校卒業
- 1992年(平成4年)3月 - 愛知県立千種高等学校国際教養科卒業(27期)
- 1994年(平成6年)10月 - 八ヶ岳中央農業実践大学校研究科修了
- 1994年(平成6年)11月 - 福岡正信農場研修修了
- 1995年(平成7年)4月 - JICA国際協力機構青年海外協力隊インドネシア赴任[10]
- 1997年(平成9年)5月 - JICA国際協力機構インドネシア南スラウェシ州バル県地域総合開発プロジェクト調整員赴任
- 1999年(平成11年)6月 - JICA国際協力機構インドネシア総選挙実施支援専門家赴任
- 2003年(平成15年)3月 - 中央大学法学部法律学科卒業
- 2004年(平成16年)6月 - JICA国際協力機構インドネシア総選挙実施支援専門家赴任
- 2004年(平成16年)10月 - JICA国際協力機構インドネシア司法改革支援企画調査員赴任
- 2005年(平成17年)3月 - 中央大学大学院総合政策研究科修了
- 2009年(平成18年) - 叔母(実母の実姉)である身玉山勝代の養子となり身玉山姓に改姓。
- 2010年(平成22年)11月 - 外務省在インドネシア日本国大使館政務専門調査員赴任
- 2013年(平成25年)1月 - 神戸大学大学院国際協力研究科在籍
- 2013年(平成25年)7月 - 第23回参議院議員通常選挙に政治団体「みたまやま政策研究会」を立ち上げ、公認候補として愛知県選挙区から出馬、定数3に対し候補者10人中最下位で落選[11]。
- 2014年(平成26年)11月 - 翌12月の第47回衆議院議員総選挙に次世代の党公認で愛知1区から立候補すると発表[12]、得票数6000票余で候補者6人中5位で落選した[13]。
政策
- カジノの解禁に賛成[14]。
- 原発は日本に必要としている[14]。
- 首相の靖国神社参拝を問題ないとしている[14]。
- 「村山談話」及び「河野談話」を見直すべきとしている[14]。
- 特定秘密保護法を必要としている[14]。
- 負担増が耐えられないため、年金の給付水準が下がるのはやむをえないとしている[14]。
- ヘイトスピーチを法律で規制することに反対[14]。
受賞歴
- 1997年 外務大臣感謝状
- 1998年 外務大臣感謝状
- 2008年 愛知県警察本部長賞
著作
論文 ・共著・寄稿 ・翻訳
以下、主なもの。
- 身玉山宗三郎訳 「モハンマド・サレ氏(インドネシア最高裁判所准長官)著『民事事件判決強制執行における簡素、迅速かつ低廉な裁判原則の実現』の抄訳」『ICD NEWS 第53号』法務省法務総合研究所国際協力部 大阪 2012年
- 身玉山宗三郎(旧姓:河田)「研究ノート 日本による対インドネシア津波災害後アチェADR制度支援における「自立発展性」の検証の試み―法整備支援評価手法についての一考察―」『六甲台論集 国際協力研究編 第12号』 2011年
- 身玉山宗三郎(旧姓:河田)「書評 鮎京正訓(編)『アジア法ガイドブック』名古屋大学出版会,2009, 433p」『東南アジア研究 48巻2号』京都:京都大学東南アジア研究所 2010年
- 身玉山宗三郎(旧姓:河田)「日本による法整備支援における通訳・翻訳についての小論 —誤訳を避けつつ誤解を恐れず—」 『六甲台論集 国際協力研究編 第11号』 2010年
- 河田宗三郎 「インドネシア津波災害後アチェADR制度支援」金子由芳・香川孝三 編 『法整備支援論』、ミネルヴァ書房 2007年
- 河田宗三郎 「インドネシア司法改革支援中間報告」 『ICD NEWS』 第30号 法務省法務総合研究所国際協力部 2007年(135頁)
- KAWATA Sozaburo 「Perkembangan Peran Advokat di Jepang (日本における弁護士の役割の発展について)」“Lawyer” IKADIN No.01 Vol. I / 2006 2006年
- 『証言 改革を支えるメカニズム』 増島俊之/小林秀徳著 河田宗三郎レポートの引用(寄稿)2004年
関連項目
脚注
- ↑ 身玉山宗三郎(旧姓:河田)「研究ノート 日本による対インドネシア津波災害後アチェADR制度支援における「自立発展性」の検証の試み―法整備支援評価手法についての一考察―」『六甲台論集 国際協力研究編 第12号』 2011年 筆者紹介
- ↑ 沖縄県営平和祈念公園記録。2013年1月14日調べ。
- ↑ 八ヶ岳中央農業実践大学校での研修中に、犬の散歩をしていた滝田栄に遭遇し、手帳にサインを求めたところ、手帳はかなり土で汚れていたが、滝田は快く求めに応じてサインしてくれたという。
- ↑ 河田 宗三郎 「インドネシア司法改革支援中間報告」 『ICD NEWS』 第30号 法務省法務総合研究所国際協力部 2007年(135頁)
- ↑ 河田 宗三郎 「インドネシア津波災害後アチェADR制度支援」 金子 由芳・香川 孝三 編 『法整備支援論』、 ミネルヴァ書房 2007年(148頁)
- ↑ じゃかるた新聞(2011年9月10日(土))「弁護士の丸山議員 ジャカルタを視察」『じゃかるた新聞』ジャカルタ (第1面)
- ↑ じゃかるた新聞(2011年12月22日(木))「谷法務政務官 法整備支援で投資促進 最高裁長官らと会談」ジャカルタ(第1面)
- ↑ インドネシア最高裁判所広報 日本国最高裁判所裁判官によるインドネシア最高裁判所長官表敬及び事務総局公式訪問(2012年9月27日) HAKIM AGUNG JEPANG MENGUNJUNGI MAHKAMAH AGUNG RI
- ↑ じゃかるた新聞(2012年8月25日(土))「法務省調査団が来イ 日イ法律家協会も発足」ジャカルタ(第8面)
- ↑ インドネシアにおいて青年海外協力隊員は、JICA Junior Expertと称される。
- ↑ 身玉山 宗三郎 : 参議院選挙(参院選)2013 : 読売新聞(YOMIURI ONLINE)
- ↑ (2014-11-26) 次世代、西村氏ら3人公認 日本経済新聞 [ arch. ]
- ↑ 開票結果・速報(小選挙区・愛知) : 衆院選2014(衆議院選挙) : 読売新聞(YOMIURI ONLINE)
- ↑ 14.0 14.1 14.2 14.3 14.4 14.5 14.6 2014衆院選 東海ブロック 身玉山宗三郎 - 毎日新聞
外部リンク