角田弟彦

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角田 弟彦(つのだ おとひこ[1]1838年または1840年 - 1920年)、旧通称金三郎主税(ちから)は、幕末から明治期の尾張藩士。早くから尊王攘夷を志し、安政の大獄の後、勤王派の勢力挽回のため藩制を犯し篠原主税と変名して京都に潜行。1863年に徳川慶勝が復権すると、藩から俸給を受け、角田主税として京都で活動。連絡・交渉役として京・名古屋間を往き来した。国学に通じ、在京中の1868年に華頂宮に出仕して『古事記』の侍読、御歌の相手を務め、吉田藩邸の学問所や近衛家にも出入りし、明倫堂の国学助教(見習)となった。1868年の戊辰戦争のとき、信濃方面の勤王誘引使として諸藩を説得し官軍に帰順させるなど、藩命により各地への連絡・交渉に携わり、その功績により尾張徳川家から賞典禄を分与された。1869年に副家知事助役、次いで国事機密掛を命じられるが、依願により免職。1871年に愛知県御器所村帰田。1878年に士族授産のため北海道遊楽部に拓かれた尾張家の開墾場に移住した。

経歴

天保9年(1838)[2]または天保11年(1840)[3]生まれ。

安政の大獄

安政年間、安政の大獄尊王攘夷を提唱した人士が宮方・公卿・諸侯・士民に至るまで幽閉され、尾張藩主・徳川慶勝が藩主を退き、隠居させられたとき、角田は兄・角田弘業らと謀議して、自ら京都へ潜行して情勢を探り、勤王派の勢力を挽回しようとした[4]

万延元年(1860)10月、京都に潜行して尾張藩士の斯波正近と会い、朝廷および京畿・関西の情勢を視察し、いったん名古屋に戻った後、12月に再び上京し、寺院・民家に寓居して、1年あまりの間、京畿と西国の情勢を注視していた[2]

文久2年(1862)3月、石山左京大夫邸に移り住み、姓名を変えて「篠原主税」と名乗り、更に1年あまりの間、勤王派の武士と交流、諸藩の情勢を伺い、宮家、公卿、諸侯・士民と徳川慶勝の謹慎解除のために活動した[5]

同年6月、事情を探るために上京した、成瀬正肥の家臣・八木彫と会い、島津氏出京と勅使東下の朝議を示して、尾張藩の姿勢を勤王に導くよう、相談した[6]

同年10月、尾張藩に戻り、関西諸藩の状況を成瀬に報告。再び上京して、石山家での寄寓生活を続けた。[6]

慶勝の復権

文久3年(1863)正月に、徳川慶勝が復権し、京都に入ったため、石山家を辞して、京都・三本木にあった尾張藩下陣に居住し、勤王派の公卿の家に出入りして、国政のために活動した[3][6]

同年3月、それまで藩制を犯して京都で密かに活動していたが、月俸を給され、公然と在京するよう命じられた。このときから仮姓の「篠原」ではなく、「角田主税」と名乗るようになった。慶勝から手付金を与えられ、周旋を労われた。[6]

同年6月、慶勝が名古屋に戻った後も京都に留まり、勤王派の人士と交流し、国政のための交渉事にあたった[6]

同年7月12日、御親征の詔を受けて、名古屋へ行ってその旨を報告し、再度上京[6]

同年8月18日の政変七卿が脱走した時、大坂へ行き、情勢を探って、京都に戻った[6]

同年10月、名古屋ヘ帰る。斯波正近と同じように、領分を巡回して、民情を伺察した。[6]

同年12月、知多郡を巡検[6]

元治元年(1864)正月、愛知郡から、佐屋・津島・一ノ宮・今尾・犬山・岐阜・横山のあたりを経て、近江国山上村に至り、そのまま上京して、成瀬正肥に謁し、2月、名古屋ヘ帰った[7]

同年9月、征長総督として慶勝が出陣することになったため、これに従い、芸州広島に至った[8]

同年12月、水戸を脱藩した武田伊賀守等が尾張近くを西上したとの報により、帰国を命ぜられた[8]

慶応元年(1865)12月、『古事記』、六国史の校合を命ぜられた[8]

王政復古政変

慶応3年(1867)10月、徳川慶勝に従い、上京[8]

同年12月8日夜から禁門の外垣を守衛し、10日夜から京都御所の常の御殿階下を守衛した。また桂の宮仁和寺宮の守衛を兼ね、交代で勤番した。[8]

同月24日、華頂宮の内命により、賢良法師が来訪したときに同伴。成瀬正肥に謁した。[8]

同月25日、徳川慶勝が大坂へ行くとき、伏見から乗船したため、淀川の西堤を歩いて船を警固した。行くときに、村落の物陰から銃を負った兵士が走り出て、銃口を向けようとする者があったので、剣を撫(なだ)し、一喝してこれを退けて無事に通行した。橋本からは乗船して従った。[8]

同月29日、再び大坂へ行き、帰京。また淀川の西堤を歩いて警固した。[8]

鳥羽・伏見の戦い、青松葉事件

慶応4年(1868)正月3日夜、鳥羽口へ斥候に行く。官軍の勝利を見極めて、禁中へ復命した。[8]

同月5日、日之御門を守衛した[8]

同月6日、成瀬正肥が二条城を受取に行くのに従い、城中に宿して、翌7日に帰った。[8]

同月8日、二条城留後の旗下・梅沢孫太郎ら20余人を藩の監察らと共に護送。枚方駅から高野路に入り、それぞれ別れて天の川近くの民家に宿泊して、帰京した。[9]

同月15日、徳川慶勝に従って京都を発し、名古屋へ帰った。渡辺新左衛門らを殺害したとき(青松葉事件)、非常警衛(処刑役?)を命ぜられた[10]

勤王誘引

慶応4年(1868)正月26日、勤王誘引掛となる[10]

同年2月19日、信濃一国を担当し、勤王誘引使として名古屋を出立。伊奈路に入り、飯田に至り、城主・堀左衛門尉重臣に面会して、帰順証書を受取った。同所近傍の阿島知久氏伊豆木小笠原氏山吹座光寺氏ら、いわゆる信濃衆を説得して、同じように証書を受取。阿部美作守の陣屋、太田原に立ち寄り、取締りをした。[10]

その後、諏訪へ出て高島諏訪因幡守を訪問。和田峠を越えて内藤志摩守の在所・岩村田および牧野遠江守の在所・小諸へ向かい、誘引。その近傍の旧旗下の采地と御影陣屋の取締のために使いを派遣し、同月28日、旧旗下家士と御影陣屋詰の輩に応接した。[10]

同月30日、中之条陣屋[11]に至り、元〆手代に面会。不都合なことが起らないようにした(?)。[10]

同年3月1日、堀恭之進の在所・須坂、同4日、堀右京亮六川陣屋[12]。同日夕刻、本多豊後守の在所・飯山に至った。いずれも異議なく帰順し、証書を受け取った。[10]

  • 松本高遠は既に名古屋へ使者を出して官軍につくことを表明していたため、参向しなかった[10]

同月11日に名古屋に帰った。[10]

同月20日、信州初め近国諸侯の帰順証書を朝廷へ進呈する使いとして、名古屋を発し、上京[13]

在京生活

慶応4年(1868)4月21日、藩命に依り上京[13]

同月23日、華頂宮へしばしば出仕して、用事を命じられて殿下へ拝謁。近習に指名され、『古事記』の侍読、御歌の相手として隔日参殿した。[14]

同月27日、藩命により、下坂藩主・徳川元千代の本陣へ行き、翌日帰京[14]

同年6月17日、華頂宮の御用の合間に、吉田藩邸学問所へも出仕するように命じられた[14]

同年7月5日、内密に藩用の急使を命ぜられ、昼夜兼行して名古屋に至り、13日に上京した[14]

同月29日、明倫堂国学助教(見習)となる[3][14]

同年9月、明治天皇が東京へ行くことになったとき、急使として名古屋に至った[14]

同月23日、藩主の使として石薬師行在所へ参向し、同25日に復命[14]

同月26日、熱田行在所刑法官として当分の御雇□を命じられた。伊勢神宮へ内密に急使を命ぜられ、27日の暁に出立。[14]

同年10月7日夜、三島駅行在所に復命。[14]

休暇をもらい、金若干を賜給される。同月13日、名古屋へ帰った。[14]

同月19日、密用を帯びて名古屋を出立し、上京。華頂宮および藩の学校へ隔日出勤。また近衛家へもしばしば出入りした。[14]

明治2年(1869)正月、副家知事助役に命じられ、俸禄を給せられた[3][14]

同月23日、華頂宮へ暇を乞い、種々の物品を拝領した[14]

同月27日、京都を出立し、名古屋へ帰った[14]

同年2月6日、急使として上京。同月12日、名古屋へ帰った。[14]

同月22日、徳川慶勝に従って上京[14]

同年4月、国事機密掛を命ぜられた[15]

同年5月27日、帰京。同月28日、依願により免職となったが、それ以後も月俸を給された[4]

同年7月23日、六国史の校合を命ぜられた[4]

明治3年(1870)、国学者・植松茂岳の孫・なえ(苗)と入籍[3]

帰田

明治4年(1871)11月に依願して愛知郡御器所村字北山に帰田[3][4]

同5年(1872)2月、奈良県華族水谷川従五位から家令を嘱せられた[4]。同年3月に奈良へ行き、これを辞退して翌4月に名古屋へ帰った[4]

同年2月23日、明治維新の後、国事に尽力した賞典として高50石を永世、徳川家から分与された[4]

廃藩置県の後、政府が明治5年(1872)に帰田法を廃止した後も、帰田を続けた[16]

北海道への移住

明治11年(1878)、尾張徳川家の家令・小瀬新太郎らから北海道遊楽部同家の開墾場への移住を勧められて移北を決意[3][4]。同年6月20日に、妻・なえ、その弟・植松稲太とともに御器所村を出立し、東京に着いた後で妻・なえが麻疹に罹り函館への出発が遅れたが、同年9月20日に遊楽部の開墾場に到着した[17]

同地で、開拓委員の吉田知行から「耕作方」を任され、小麦の蒔き付け作業を指導した[18]

死去

1920年(大正9)に死去[3]

家族

評価

  • 中村 (1910 50)は、角田は性格が温厚沈静で、若くして勤王攘夷の志を抱いた、としている。
  • 生まれつき隻眼だったため、「まひとつ神」というあだ名があった[19]

著書

  • 「みやこ日記」[20]
  • 「胆振日記」[21]

付録

関連文献

脚注

参考文献

  • 藤田 (2010) 藤田英昭「北海道開拓の発端と始動 - 尾張徳川家の場合」徳川黎明会『徳川林政史研究所研究紀要』no.44、2010年3月、pp.59-81、NAID 40017129111
  • 都築 (1917) 都築省三『村の創業』実業之日本社、NDLJP 955971
  • 中村 (1910) 「角田弟彦」中村修(編)『勤王家履歴』〈名古屋市史編纂資料 和装本 市11-37〉pp.45-51