團琢磨
團 琢磨(だん たくま、安政5年8月1日(1858年9月7日) - 昭和7年(1932年)3月5日)は、日本の工学者、実業家。アメリカで鉱山学を学び、三井三池炭鉱の経営を行う。炭鉱経営に成功し、戦前の三井財閥の総帥であった。三井合名会社理事長、日本工業倶楽部初代理事長を務めた。工学博士。男爵。
経歴
安政5年(1858年)8月1日、筑前国福岡(現在の福岡県福岡市)荒戸町で、福岡藩士・神尾家に生まれる。幼名は駒吉。12歳の時、福岡藩士團家の養子となる。藩校修猷館で学ぶ。明治4年(1871年)旧藩主にあたる黒田長知の供をして岩倉使節団について行く形で渡米し、そのまま留学する。マサチューセッツ工科大学鉱山学科を卒業し、明治11年(1878年)帰朝する。帰国後は、大阪専門学校、次いで東京帝国大学で助教授となり、工学・天文学などを教える。
明治17年(1884年)に工部省に移り、鉱山局次席、更に三池鉱山局技師となる。採炭技術の習得のために渡欧し、明治21年(1888年)に三池鉱山が政府から三井に売却された後、そのまま三井に移り、三井三池炭鉱社事務長に就任する。訪欧時に大型ポンプ技術を習得し、導入を積極的に実施。三井三池炭鉱でもデーヴィポンプを周囲の反対を押し切る形で採用し業績を上げる。明治26年(1893年)三井鉱山合資会社専務理事。明治32年(1899年)工学博士号を受ける。明治42年(1909年)三井鉱山会長。大正3年(1914年)益田孝の後任として三井合名会社理事長に就任し、三井財閥の総帥となる。また、大正6年(1917年)には日本工業倶楽部を設立することに尽力し、初代理事長に就任する。大正12年(1923年)日本経済連盟会理事長、昭和3年(1928年)同会長となり、名実ともに日本経済界・財界の旗振り役となる。また、多年の功労により同年には男爵位を授爵している。三大工事といわれる三池港の築港、鉄道の敷設、大牟田川の浚渫を行って、生産力を高め、炭鉱経営を三井財閥の主力事業にした。
しかし、昭和金融恐慌の時、三井がドルを買い占めたことを批判され、財閥に対する非難の矢面に立つことになり、昭和7年(1932年)3月5日、三井本館前で、右翼団体血盟団の菱沼五郎に狙撃され、暗殺された。墓所は護国寺(東京都文京区)にある。
家族・親族
牧田環(三井鉱山会長、昭和飛行機工業の初代社長など歴任。工学博士)は、長女「めい」の夫、ウニの発生研究を大成した発生学者の團勝磨は息子(次男)、作曲家の團伊玖磨は孫(長男の息子)にあたる。
系譜
┏團伊玖磨 團琢磨━┳━團伊能━━┫ ┃ ┗朗子 ┣━團勝磨 ┃ ┃ ┃ ┗━めい ┃ ┃ ┣━━━━━石橋寛 牧田環 ┃ ┃ ┃ ┏高見理沙 ┃ ┃ ┃ ┗エミリー ┏鳩山太郎 ┃ ┃ ┃ ┏石橋幹一郎 ┣━━━╋鳩山二郎 石橋正二郎━┫ ┃ ┃ ┗安子 ┏鳩山邦夫 ┗高見華子 ┃ ┃ ┣━━━━┫ ┃ ┃ 鳩山一郎━━鳩山威一郎 ┗鳩山由紀夫