青山学院大学生殺害事件

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青山学院大学生殺害事件とは、1994年に発生した、出水智秀と飯田正美による、青山学院大学 経済学部4年生の松本浩二さん殺害事件である。

出水智秀と飯田正美は強盗目的で松本さんを呼び出し、松本さんを殺害する前に、出水は自分の彼女である飯田と松本さんに性交をさせていた。松本さんは航空大学への進学が決定しており、パイロットになる予定であった。

事件概要

1994年(平成6年)2月18日東京都世田谷区アパートで青山学院大学4年生の松本浩二さん(当時23歳)が血を流して死んでいるのを訪ねてきた叔母が発見し警察に通報した。松本さんは頭部や腹部を刺されたうえ、首にビニール紐を巻かれるという、凄惨な状態で入口付近に横たわっていた。

大阪の母親が「浩二と2日前から連絡が取れない」と東京に住む妹(浩二さんの叔母)に連絡。不審を抱いた叔母は浩二さんのアパートを訪ねて大家に事情を説明。部屋を開けると浩二さんは体をロープで縛られ口はガムテープで塞がれて刺し殺されていた。

警察は、現場検証・聞き込み捜査を開始した。松本さんの知人に対する事情聴取で金や女性関係など一切問題が無かった。むしろ、誰にも好かれる松本さんの性格は周りから高い信頼を得て「恨みを買う」ことなど考えられなかった。

一方警察は、周辺捜査で同アパートに住む学生から「事件の2日前に松本さんの部屋の隣から不審な若い男女が出てきた」という証言を得た。そこで警察は松本さんの隣の部屋を家宅捜査したところ、血痕が発見された。この部屋の住人も大学生で、彼は宮崎県に帰省していた。早速、この学生に事情聴取したところ、犯行当日は実家におりアリバイは成立。が、彼は「以前、付き合っていた女がヤクザ風の男と連れ立ってきたことがある。この時、金を脅し取られたため怖くなって帰省している」と証言した。

警察は、この男女が事件2日前の不審な若い男女とみて行方を追った。一方、静岡県熱海の別荘で不審な男女がガスボンベを爆発させて火傷を追った。この2人は、無職・出水智秀(当時20歳)と無職・飯田正美(当時20歳)であった。2人は無断で別荘に侵入しガス自殺しようとしたが死にきれず、出水がタバコに火を点けた途端爆発したことが判明した。

熱海署で事情聴取を受けた飯田は東京・世田谷の青山大生殺害事件を供述した。また、この飯田が宮崎県に帰省している大学生と中学時代から最近まで付き合っていたことも判明した。

理不尽な動機

出光と飯田が出会ったのは事件のおよそ1年前の平成5年の2月頃、名古屋市内の繁華街で出水が飯田をナンパしたことから付き合いが始まった。出水は少年院を退院して工事会社に勤務していた。出水と飯田は2人は交際を重ねながら40件以上の窃盗を繰り返していた。2人は大阪、名古屋、東京、宮崎と車上狙い、窃盗を繰り返し全国を転々とした。

そんな2人はやがて美人局に手を染める。松本さんの隣の部屋に暮らす大学生・Hさんは中学時代に飯田と交際しており、淡い思い出を共有する二人は平成5年5月に再開した。しかしそれは出水が計画した美人局であり、2人はこの一件で2度にわたってHさんから現金を脅し取っている。

平成6年の2月に3度目の恐喝をしようと「近いうちにそっちに行くから待ってろ」とHさんに電話で告げ、東京のアパートに訪れたが身の危険を感じたHさんは宮崎に帰省しており部屋はもぬけの空であった。そこで出水はベランダ側にある雨どいを伝って部屋に侵入しドアを開けて飯田を招き入れ、勝手に生活を始めた。

出水と飯田は裏側からHさんの部屋に侵入し、室内に残されていた1万1千円使いながら、Hさんを待ち伏せする事にした。しかし何時帰ってくるかも分からないHさんを待つ日々に出水は徐々に追い詰められ、残金が1千円程になった13日の夜、出水は部屋にあったビニール紐を使って心中を切り出した。しかし、死にきれず隣の部屋の住人から金を奪うという考えが浮かんだ。

2月15日、2人は「隣の学生(松本さん)を脅して金を巻き上げよう」と相談。飯田が、松本さんのドアを叩いて「換気扇の修理」をお願いした。快く引き受けた松本さんが部屋に入ると出水からナイフで脅され金を強奪された。

15日の夜、帰宅してきた隣室の松本さんに飯田が「換気扇が壊れて・・・」と呼び出し、隠れていた出水が果物ナイフを突きつけた。そのまま脅かしながら松本さんの部屋に向かい現金5万円とキャッシュカードを奪い、さらに松本さんを縛り上げた。

「たった5万円くらいで殺さないでくれ」と必死で命乞いをする松本さんをタバコを吸いながら見下ろしていた出水は

「この世の思い出に、飯田を抱かせてやる」

と言った。身動きの取れない松本さんの下半身をあらわにすると、飯田を促した。飯田は一応は抵抗したが、出水は執拗に迫りやがて自ら服を脱ぎ松本さんの上に重なった。しかし、飯田の身体が反応してしまうと、出水は松本さんから彼女を引きはがすと、自ら挿入。

事を終えた出水が松本さんの殺害を口にした時、手首の紐が緩んでいた松本さんが逃げ出そうとした。あわてた出水は飛び掛かって彼を羽交い絞めにし、飯田の手をかりて松本さんの腹を1回、左胸を2回、頭を1回ナイフで刺し、最後に喉を切り念のためビニール紐で首を2回絞めて殺害した。

大空を夢見た松本さん

松本さんは、将来、国際線のパイロットになるつもりで、運輸省(現・国土交通省)の航空大学校の飛行機操縦科を受験していたが、1月25日に合格が決まっていた。3月初めに、青学の卒業が認定され、そのあと、荷物を整理してアパートを引き払い、実家のある大阪に帰り、4月から航空大学校のある宮崎県に移り住む予定であった。

中学、高校時代は陸上部に所属し、短距離選手として大阪府の代表となり、近畿大会に出場したことがあった。大学ではヨット部に所属し、3年のとき、全国大会で3位に入賞した。

出水と飯田

飯田は幼いとき、両親が離婚して、妹とともに祖父母に育てられた。暗い性格だったが、問題を起こすような子どもではなかった。宮崎県の高校を卒業してからは、岐阜県の紡績工場に就職した。ここでは寮生活をして、働きながら、保母の資格を得るために3年制の短期大学の夜間部に通った。たまたま、休日に友人と2人で名古屋に遊びに出たとき、少年院を仮退院して、更生保護会から水道工事店に通っている出水に出会った。出水は見た目は暴力団風だが、組織に入ったことはなく、ひょうきんで人を笑わすのがうまい。その後、飯田は出水とともに、強盗殺人を犯すまで、40件もの窃盗を働いていた。

飯田の供述

2月11日午後2時ころ、中学時代からのボーイフレンドのアパートに行くと、玄関のカギがかかっていました。

そこで出水が裏側に回り、雨水が通るパイプ伝いに2階のベランダに上がって、窓をこじ開けて部屋に侵入し、私を玄関から入れてくれました。2人で室内を探したら、一万円札が1枚、千円札が1枚見つかり、質屋に電話を入れると、「学生証印鑑が要る」と言われたので、テレビなど部屋にあるものを入質するのを諦めました。

2月12日は大雪が降ったので、2人で雪ダルマをつくるなどして遊びました。

2月13日の夜、「ここにいても金にならないし、どうせ捕まるだけだから、いっそ死んだほうがいい」と話し合って、心中することに決めたのです。私が出水を絞殺し、あとで首を吊ることにして、ビニールひもで輪をつくって絞めると、ピクピクして動かなくなったので、死んだと思ってやめたら、数分後に息を吹き返したため、心中することをやめました。

2月14日、今度は私が首を吊ることにして、屋根裏に上がるハシゴにビニールひもを掛けてぶら下がったところ、出水が抱き止めてしまったので、死ぬことができませんでした。

2月15日、「隣りの学生を脅して金を奪おう」と出水が言い出して、午後8時ころ、私が隣りへ行ってチャイムを鳴らし、「換気扇の調子が悪いので見てください」と頼むと、気軽に来てくれました。待ち構えていた出水が、ナイフを突きつけて脅して、私がビニールひもで両手で縛り、隣りの部屋へ3人で移動したのです。ここで両足を縛って、私が包丁を突きつけている間に、出水が室内を物色して、白い封筒に入った5万円を見つけました。そのあと銀行のキャッシュカードの暗証番号を記入させ、出水が「3Pをやろう」と言いだし、私が学生にまたがってセックスして、次に出水といつものセックスをしました。そうして学生に、「もう金はないのか」と尋ねると、「友だちに貸した5万円を返してもらい、サラ金からも借りてくる」と答えましたが、それでは警察に捕まるので、「もう殺してしまえ」と出水に言われ、暴れる学生の腹部を私が包丁で刺し、次に出水がナイフで胸部を刺すうちに、静かになったのです。

出水は取り調べで、「まったく知らない人だから、可哀相なんて思うわけはありません。そんなことを思うようなら、最初から殺したりはしていませんよ」とさらりと言ってのけた。

公判

1994年3月5日東京地検は出水と飯田の2人を、住居侵入、窃盗、強盗殺人で起訴した。

5月9日東京地裁で第1回公判が開かれ、2人は起訴事実を全面的に認めた。このあと、検察官が冒頭陳述を行い、「女は逮捕されたとき妊娠7週目であった」と明かした。

7月13日、東京地裁で第4回公判が開かれ、弁護人による被告人質問に対して、飯田は次のように述べた。

「1993年2月、名古屋市内で出水に出会い、1週間に1回くらいデートをしていたが、彼に引きずられて4月に会社を辞めました。そのあと2人で、ドロボウをするようになり、耐えられずに別れようと思ったが、好きなので別れられなかった。彼と出会ったことは後悔しておらず、犯行は彼と2人でやったことなのです。妊娠については、中絶すべきかどうか迷いましたが、中絶すればおなかの子を殺すことになり、私は2度も殺人を犯したくはない。遺族の方には申し訳ありませんが、出産することを決意しました。できるだけ早く、婚姻届を出します」

7月27日、東京地裁で第5回公判が開かれ、出水は被告人質問で次のように述べた。

「彼女が生むという子が、私の子どもかは分からない。しかし、彼女が生むというなら、生んだほうがいいと思います。そうなると父親が必要だから、私は彼女との婚姻届を、きちんと出したいです。本当は子どもが欲しかったので、彼女が妊娠していると分かったら、こんな事件は起こさなかったと思います」

9月5日、東京地裁で判決公判が開かれ、出水に無期懲役、飯田に懲役15年を言い渡した。

強盗殺人の法定刑は、「死刑または無期懲役」とされているが、出水が主導的な役割を果たしたのに対し、飯田は従属的な立場にあり、出水に出会うまでは、堅実で普通の社会生活を営んでいたもので、素直に罪を認めて、真摯な反省、悔悟の情を示しているほか、遺族におわびの手紙を出し、謝罪の意を伝える努力をした。幼少期の生育歴に恵まれない面があることなどから、飯田に対し酌量減軽した。

10月、飯田は獄中出産した。出産に反対だった彼女の祖父母は引き取りを拒否した為、通常の措置からいえば、女の子は2歳まで乳児院に入れられ、その後は児童養護施設に預けられたことになる。

関連

この事件をモデルに製作された映画に『HYSTERIC』(監督・瀬々敬久/主演・千原浩史小島聖/2000)がある。主演の千原浩史が第10回日本映画プロフェッショナル大賞(2000年)の主演男優賞を受賞した。