治憲王

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治憲王(はるのりおう、1926年大正15年)7月3日 - )は、日本旧皇族外交官賀陽宮恒憲王の第2王子。海軍兵学校75期。

略歴[編集]

1926年(大正15年)7月3日誕生。旧制学習院初等科学習院中等科を経て、1943年(和暦??年)12月1日、江田島海軍兵学校に入学。井上成美中将のもとで学んだ。入校式においては皇族の生徒として紹介を受け、同期生の敬礼を受けている(広島中央放送局ニュース再録に記録あり)。

王が入学した75期は生徒数が多かったため生徒は分校に振り分けられ、王は岩国分校で教育を受けた。分校においては柔道を選択、練成した。最高裁判所長官三好達高瀬国雄海上幕僚長吉田學らは75期の同期生である。

敗戦後の1945年(和暦??年)10月1日、兵学校を卒業。このため最終階級は少尉候補生ということになる。1946年(和暦??年)7月、特命全権大使として貴族院議員となる。

1947年(和暦??年)10月14日、11宮家の皇籍離脱が行われた際、王も皇籍を離脱、賀陽治憲となる(『官報』 第六二二六号 昭和二十二年十月十四日 告示 宮内府告示第十六号)。

その後東京大学法学部を卒業、外務省に入省し国連局長、在スイスデンマークブラジル大使、交流協会顧問と要職を歴任した。昭和50年代前半の国会議事において複数回政府委員として答弁を行った記録が国会会議録に残されている。 昭和天皇はその存在を気にかけていたようであり、天皇が「賀陽はどうしているか」と安倍晋太郎外相に動向を尋ねたといった逸話も残っている。

1996年(和暦??年)からは憩の園在日協力会会長を務めている。学習院の同窓会桜友会の会長(第5代)も務めた。

血縁[編集]

関連項目[編集]