増岡登作

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増岡 登作(ますおか とうさく、1891年7月 - 1969年10月14日)は、日本実業家

来歴・人物

増岡商店創業者・増岡久吉の長男として広島県呉市に生まれる。1908年に父が創業した個人事業・増岡商店を改組したが、これが増岡組の実質的な創業であるといえる。1940年広島県土木工業統制組合理事に、1943年には日本土木建築統制組合中央委員に就任。

終戦後は戦災復興、兵器処理、駐留軍工事に従事した。1946年、広島トロール漁業社長及び西部砂利取締役に就任し、増岡商店を増岡商事株式会社に改組・改名して社長に就任た。また呉土建業者協会会長及び呉商工会議所会頭に就任した。1947年国際倉庫を創設、社長に就任し、広島県商工政治協議会委員長及び日本建設工業会評議員、そして日本建設工業会広島県支部理事に就任した。

1948年1月26日、株式会社増岡組に改組・改名し社長に就任した(法人としての増岡組の設立)。また中国砂利(中国物産の前身)を設立し社長に就任し、呉消防協会会長に就任。1949年鉄鋼ビルディングを創立し社長に就任した。1957年小糸電機の設立に伴い同社の取締役に就任したが、小糸電機は1962年小糸製作所に吸収合併されたので同年小糸製作所相談役に就任した。

叙勲・褒章

  • 1952年 - 呉市産業功労者に表彰される
  • 1960年 - 紺綬褒章を受章
  • 1963年 - 黄綬褒章を受章
  • 1969年 - 勲四等瑞宝章を受章

家族・親族

政治家増岡博之は次男、増岡組3代目社長の増岡重昂は三男。鉄鋼ビルディング・増岡組・ビル管財顧問の増岡隆一は孫(重昂の長男)。なお博之の次女は三菱鉛筆社長・数原英一郎に嫁いでおり、隆一の妻は弁護士高島信之の次女で、眞崎大和鉛筆(三菱鉛筆の前身)の社長を務めた近藤賢二の曾孫にあたる。一方、隆一の妻の叔父・高島孝之(信之の弟、近藤賢二の孫)は三菱地所取締役・岩崎彦弥太弥太郎の嫡孫で久弥の長男)の三女と結婚している。三菱グループと三菱鉛筆は三菱の名称も使用するロゴマークも同じであるものの一切の資本・人的関係を持たないが、三菱財閥の創業者一族・岩崎家と眞崎大和鉛筆の社長を輩出した近藤家は高島家を通じて姻戚関係にあり、三菱鉛筆の現オーナー一族・数原家は増岡組及び鉄鋼ビルディングのオーナー一族である増岡家及び増岡家と姻戚関係にある高島家を通じて岩崎家及び数原家と姻戚関係を持っているといえる。