近藤賢二

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近藤 賢二(こんどう けんじ、1874年1月 - 1948年[1])は、日本実業家

生涯・業績[編集]

兵庫県出身。1894年同志社を卒業。台湾総督府に勤めた後実業界に入り、サミュエル商会(ロイヤル・ダッチ・シェルの前身)・ライジングサン石油(昭和シェル石油の前身)に勤務する。横浜鉄道横浜電気鉄道両社の常務や東洋麻糸紡績(トスコの前身)、日本カーボン石綿紡績昭和特殊鋼、眞崎大和鉛筆(三菱鉛筆の前身)、横浜帆布(東洋繊維の前身)、朝日石綿工業、朝日スレート(ともにエーアンドエーマテリアルの前身)各社の社長、横浜耐火煉瓦会長及び日の出石綿工業、朝日ビルディング(エーアンドエーマテリアルの前身)両社の代表を歴任し、横浜商工会議所常議員も務めた。

家族・親族[編集]

近藤賢二の長男は立憲民政党所属の政治家川崎卓吉の長女と結婚した。一方近藤の次女・純子は弁護士高島文雄に嫁いだが、文雄・純子夫妻の次男・孝之小岩井農牧常務・博報堂取締役等を歴任)は三菱地所の取締役を務めた岩崎彦弥太の三女・美智子と結婚している。彦弥太は三菱財閥の創始者・岩崎弥太郎の嫡孫で、三菱の3代目総帥・岩崎久弥の長男にあたる。旧三菱財閥の流れを汲む企業集団・三菱グループと三菱鉛筆は三菱の文字も使用するうえロゴマークも同じであるものの一切の資本・人的関係がないが、三菱鉛筆の前身・眞崎大和鉛筆の社長を務めた近藤は次女が嫁いだ高島家を通じて三菱の創業者一族・岩崎家と姻戚関係で結ばれることになった。

また、近藤の外孫で高島文雄・純子夫妻の長男・信之は父・文雄と同じく弁護士となったが、信之の次女が鉄鋼ビルディング取締役の増岡隆一増岡組2代目社長・増岡重昂の長男)に嫁いでいる。増岡の従姉(政治家・増岡博之の次女)が三菱鉛筆現社長・数原英一郎に嫁いでいるため、近藤家は高島家・増岡家を通じて三菱鉛筆の現オーナー一族・数原家と姻戚関係にあり、数原家は増岡家・高島家を通じて岩崎家とも姻戚関係にあるといえる。

脚注[編集]