河本敏夫
河本 敏夫(こうもと としお、明治44年(1911年)6月22日 - 平成13年(2001年)5月24日)は、日本の政治家、元衆議院議員、実業家。
1949年(昭和24年)に、衆議院議員に初当選以来、連続17回当選。この間、通産大臣、郵政大臣、経済企画庁長官、自民党の政務調査会長など、党、内閣の要職を歴任。
来歴・人物[編集]
1911年兵庫県相生市生まれ。旧制龍野中学(現・兵庫県立龍野高等学校)から旧制姫路高校(神戸大学の前身校)にトップの成績で入学。マルクス主義の影響を受けて反戦運動に参加し、1930年に退学を余儀なくされた。炭坑夫や職工などを経て日本大学法文学部に入学。在学中に義兄らと三光汽船(当時、三光海運)を設立、卒業後の1937年から社長となる。1949年の衆議院議員総選挙で旧兵庫4区から初当選。以後、連続17回当選。
1968年に佐藤栄作内閣の郵政大臣として初入閣した後、政界の玄人筋からは、三木派の資金調達役として知られていたが、存在が一躍注目されるようになったのは三木内閣で通産大臣に就任してからである。三木おろしにおいて三木首相が反三木勢力に対しロッキード問題を掲げて解散総選挙を考慮する政局になった際には、閣僚罷免してでも強行に衆議院解散をすることを三木首相に進言していた。福田赳夫内閣でも通産相、また、鈴木善幸、中曽根康弘両内閣で経済企画庁長官などを歴任した。党内でも昭和51年(1976年)、昭和53年(1978年)の2度にわたって政調会長を務めた。自民党屈指の政策通、経済通として知られ、三木に批判的な立場だった大平正芳や後藤田正晴にも「一角の人物」と一目置かれた。政策としては積極財政論を唱えることが多かった。
1978年の自民党総裁予備選挙に初めて出馬するが、大平、福田、中曽根に続く4位で敗れた。
1980年には三木派の解散に伴い、その大部分を集めて河本派を旗揚げした。三木派からの禅譲という形をとらなかったのは、三木の影を排除しないと、他派からの支援が受けにくいという事情があったためである。
河本は、自民党の実力者で70年代の政界を主導した「三角大福」に次ぐ実力者に数えられ、何度も総裁候補に名前が挙がったほどである。1982年、自民党総裁予備選挙に出馬。反田中勢力の受け皿として序盤から順調に票数を伸ばし、有力候補と目されていたが、田中派の集票マシーンの支援を受けた中曽根康弘に過半数を取られ次点となり、3・4位の安倍晋太郎・中川一郎ともども国会議員による本選挙への立候補を辞退する。
中曽根内閣で国務大臣在任中の1985年に、事実上のオーナーだった三光汽船が海運不況のあおりを受け倒産。当時は戦後最大の倒産といわれ、責任を取って国務相を辞任した。三光汽船の倒産は、政治家としての河本の評価にも影響を与えた。
リクルート事件で竹下登が首相を辞任、続く宇野宗佑首相も参院選の惨敗を受けて退陣した1989年は、河本にとって政権獲得の最大の好機とされたが、党内の若手待望論を受けて、河本派の番頭格である海部俊樹が浮上。河本は海部に対し「海部さん、あんたやりなさい」と促し、総裁選出馬を見送った。結果は海部が林義郎、石原慎太郎の2名を凌駕し圧勝。
1993年の総選挙後衆議院議長候補として名前が挙がるが、自民党が下野したために実現しなかった。
1996年秋の総選挙直前、健康上の理由から47年間務めた衆議院議員を引退。当時、参議院議員だった三男の河本三郎を後継にした。その後も、旧河本派名誉会長を務めていたが、2001年5月24日、心不全のため死去。89歳だった。
その人となりは、寡黙で謹厳、滅多に笑顔を見せなかったことから、タイの王族ワンワイタヤーコーン・ワラワンにちなんだとされる「笑わん殿下」のあだ名で知られた。また、出生地の相生駅が姫路から近距離にもかかわらず山陽新幹線停車駅となったのは、河本の我田引鉄によるものと評されたことがある。
官職 | ||
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先代: | 沖縄開発庁長官 第15代:1984年 - 1985年
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次代: |
先代: | 経済企画庁長官 第32代:1980年 - 1982年
第34代:1983年 - 1984年 |
次代: |
先代: | 通商産業大臣 第36代:1974年 - 1976年
第38代:1977年 - 1978年 |
次代: |
先代: | 郵政大臣 第28代:1968年 - 1970年
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次代: |
党職 | ||
先代: | 自由民主党政務調査会長 第26代 : 1976年 - 1977年
第28代 : 1978年 - 年1979 |
次代: |
先代: 結成
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新政策研究会 初代 : 1980年 - 1995年
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次代: 改称
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先代: 改称
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番町政策研究所 第2代 : 1995年 - 1997年
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次代: 集団指導体制へ移行
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