朝霞自衛官殺害事件
朝霞自衛官殺害事件(あさかじえいかんさつがいじけん)とは、1971年(昭和46年)に、東京都練馬区・埼玉県朝霞市・和光市・新座市にまたがる陸上自衛隊朝霞駐屯地で発生した日本の新左翼による事件で、歩哨中の自衛官を殺害したテロ事件である。
犯人グループは「赤衛軍」を自称したことから「赤衛軍事件」ともいう。朝日ジャーナルの記者川本三郎と週刊プレイボーイの記者がそれぞれ犯人を手助けしており、日本のマスメディアに対して信頼失墜にも繋がった。
事件の概要
1971年8月21日午後8時45分、陸上自衛隊朝霞駐屯地で歩哨任務についていた陸士長(当時21歳)が何者かによって刺殺された。午後10時半の交代の時間になっても陸士長が現れなかったことから、駐屯地内を捜索したところ、血まみれで倒れている陸士長を発見した。陸士長は直ちに病院に搬送されたが、既に死亡していた。
事件現場周辺には、「赤衛軍」の名称が入った赤ヘルメットやビラなどが散乱していた。そして、近くの側溝から陸士長が所持していたライフル銃が発見されたが、何故か左腕に付けていた「警衛」の腕章が消えていた。
埼玉県警察は「赤衛軍」という新左翼党派が起こした事件とみて、朝霞警察署に捜査本部を設置し捜査を開始した。遺留品を調べたところ、何れも東京都内で販売されたことから、犯人は都内に住んでいると推測したが、赤衛軍はこれまで事件を起こしたことがなく、公安警察といえども正体不明の存在であった。
発生直後から、マスコミはこの事件を大きく取り上げていたが、10月5日発売の朝日ジャーナルに「謎の超過激派赤衛軍幹部と単独会見」という記事が掲載された。この記事には、まだ一般に公表していなかった「警衛腕章」の強奪を示唆していたことから、犯人しか知りえない「秘密の暴露」であることが判明し、取材源は限りなくクロであることが分かった。
警察はその取材源を徹底的に捜査したところ、日本大学と駒澤大学の学生3人が捜査線上に浮上し、11月16日と25日に相次いで逮捕された。
3人の学生は警察の取調べに対し、
- 自衛隊の武器を強奪するために、幹部自衛官の制服を準備し、幹部自衛官に変装して駐屯地内に侵入した。
- 歩哨の自衛官をいきなり包丁で刺し、所持のライフル銃を奪おうとしたが、ライフル銃が側溝に落ちてしまい、暗かったので見失ってしまった。
- 自党派の存在をアピールするため、わざと遺留品を残した。
と供述した。
また、朝日ジャーナルの記者川本三郎(当時27歳)は、犯人から「警衛腕章」を受け取り、証拠隠滅のために自宅裏で焼いていたこと、週刊プレイボーイの記者(当時26歳)が逃走資金を渡していたことも判明したため、両人を直ちに逮捕した。
首謀者とされた滝田修(当時京都大学助手)は無実を訴え、新左翼活動家の支援を受けて地下に潜行したが、約10年後の1982年(昭和57年)8月8日に逮捕された。裁判では滝田の強盗致死の謀議を否定し幇助で有罪として懲役5年判決が確定したが、拘置所での未決拘留期間が量刑を上回っており、即日釈放された。
その他
1974年に三菱重工爆破事件を起こした東アジア反日武装戦線は教本「腹腹時計」において「マスコミ・トップ屋との関係は断つべき」として「赤衛軍」をドジ踏みの例として挙げた。
参考文献
- 警備研究会『極左暴力集団・右翼101問(改訂)』立花書房、2000年
- 『過激派事件簿40年史』立花書房、2001年