河野敏鎌

提供: Yourpedia
2009年10月31日 (土) 13:21時点におけるFromm (トーク | 投稿記録)による版 (新しいページ: ''''河野 敏鎌'''(こうの とがま、1844年11月29日天保15年10月20日) - 1895年4月20日)は明治時代前...')

(差分) ←前の版 | 最新版 (差分) | 次の版→ (差分)
移動: 案内検索

河野 敏鎌(こうの とがま、1844年11月29日天保15年10月20日) - 1895年4月20日)は明治時代前期の日本政治家子爵

経歴[編集]

天保15年(1844年)10月、土佐国高知城下に山内家家臣河野通好の長男として生まれる。幼名、万寿弥。

安政5年(1858年)3月、江戸に遊学し、安井息軒の門下となる。文久元年(1861年)、土佐に帰国して武市瑞山土佐勤王党に入る。坂本龍馬らと交友関係を持つ。文久2年(1862年)、五十人組に参加し、京都と江戸の間を往来し、国事に奔走した。文久3年(1863年)、土佐藩論が佐幕派に転換したため投獄される。以後、6年間の長きに渡り獄中生活を送り、厳しい拷問にも耐え、同志を守り通したと伝えられる。その後永牢の宣告を受ける。

明治維新後、罪を免ぜられ出獄。同じ土佐藩出身の後藤象二郎の手引きで大阪に上る。後藤の紹介により、江藤新平の知遇を得る。明治2年(1869年)4月、侍詔局出仕となる。その後、広島県大参事に転じた。ついで司法大丞兼大検事となる。明治7年(1874年)、佐賀の乱では大久保利通に従い、鎮定のため九州に赴いた。裁判ではかつての上司であった江藤新平に対し、峻厳極まりない取り調べを行い、答弁の機会も十分に与えないまま、死刑にした。江藤はこれに憤激したという。明治8年(1875年)、元老院議官、明治11年(1878年)に元老院副議長となる。明治13年(1880年)、文部卿に就任。教育令改正の推進者となった。明治14年(1881年)、農商務省設立に伴い初代農商務卿に就任。しかし、10月のいわゆる「明治14年の政変」によって、大隈重信らと下野した。

明治15年(1882年)4月、大隈らとともに立憲改進党結成。副総理(副党首)になる。自由党の解党の影響を受け、改進党解党を主張するが、反対にあい、大隈と脱党する。明治21年(1888年)、枢密顧問官となり、憲法の審議にあたった。明治24年(1891年)、第一次松方正義内閣で内務大臣司法大臣農商務大臣を、第二次伊藤博文内閣で文部大臣をそれぞれ歴任した。明治26年(1893年)、功労をもって子爵を授けられて華族に列せられる。

明治28年(1895年)4月20日、精神病のため、死去。享年52。東京都港区青山墓地に眠る。

先代:
新設
農商務卿
初代:1881
次代:
西郷従道
先代:
松方正義
内務大臣
第9代:1892
次代:
井上馨
先代:
陸奥宗光
農商務大臣
1892
次代:
佐野常民
先代:
田中不二麿
司法大臣(兼任)
1892
次代:
山縣有朋
先代:
大木喬任
文部大臣
第6代:1892年 - 1893年
次代:
井上毅

登場する作品[編集]

関連項目[編集]

テンプレート:文部科学大臣

歴代の内務大臣
内務卿
大久保利通 - 木戸孝允 - 大久保利通 - 伊藤博文 - 大久保利通 - 伊藤博文 - 松方正義 - 山田顯義 - 山縣有朋
内務大臣
山縣有朋 - 西郷從道 - 品川弥二郎 - 副島種臣 - 松方正義 - 河野敏鎌 - 井上馨 - 野村靖 - 芳川顯正 - 板垣退助 - 樺山資紀 - 芳川顯正 - 板垣退助 - 西郷從道 - 末松謙澄 - 大隈重信 - 内海忠勝 - 兒玉源太郎 - 桂太郎 - 芳川顯正 - 清浦奎吾 - 原敬 - 平田東助 - 原敬 - 大浦兼武 - 原敬 - 大隈重信 - 大浦兼武 - 大隈重信 - 一木喜德郎 - 後藤新平 - 水野錬太郎 - 床次竹二郎 - 水野錬太郎 - 後藤新平 - 水野錬太郎 - 若槻禮次郎 - 濱口雄幸 - 鈴木喜三郎 - 田中義一 - 望月圭介 - 安達謙蔵 - 中橋徳五郎 - 犬養毅 - 鈴木喜三郎 - 山本逹雄 - 後藤文夫 - 潮恵之輔 - 河原田稼吉 - 馬場鍈一 - 末次信正 - 木戸幸一 - 小原直 - 兒玉秀雄 - 安井英二 - 平沼騏一郎 - 田辺治通 - 東條英機 - 湯沢三千男 - 安藤紀三郎 - 大逹茂雄 - 安倍源基 - 山崎巌 - 堀切善次郎 - 三土忠造 - 大村清一 - 植原悦二郎 - 片山哲 - 木村小左衛門 - <廃止>