山口鶴男
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山口 鶴男(やまぐち つるお、1925年10月4日 - 2015年8月3日)は、日本の政治家。衆議院議員(11期)。群馬県吾妻郡草津町出身。
日本社会党書記長、村山内閣総務庁長官などの要職を歴任。『慣例がなければ作ればいい』と久保亘書記長と共に自社さ連立政権の誕生に貢献した。また上州戦争(自由民主党の福田・中曾根・小渕の三つ巴)で有名な群馬3区から出馬し11回当選した。通称「ヤマツル」。
略歴[編集]
- 桐生工専(現在の群馬大学工学部)卒業後、小学校教員になり、教職員組合活動に従事。その後、1960年の第29回衆議院議員総選挙で、群馬3区(定数4)から社会党公認で出馬し初当選。
- 1981年右派既成派閥『政権構想研究会』を結成。
- 1983年7月、参院選で社会党が大敗し飛鳥田一雄委員長から交代した石橋政嗣委員長の下で国会対策委員長に就任。
- 1984年政構研の代表に就任し党内最大派閥までに急成長させる。
- 1986年7月、衆参同日選で社会党が大敗し石橋委員長が辞任から委員長選へ。9月8日、土井たか子副委員長が当選し土井委員長の下で書記長に就任。
- 1989年5月12日、大津市の滋賀会館で右翼に襲われ負傷。
- 1989年7月、第15回参院選、1990年2月の衆院選と社会党が躍進。衆院選では、連合主導で非共産野党統一の二人目の候補を立てる計画になっていたが、山口にとっては不利になることから難航。結局、白石健一を野党統一候補として擁立したが、山口のみ当選し、自民3、社会1の議席配分は変わらなかった。
- 1991年4月、統一地方選で社会党が惨敗した責任を取って土井委員長と共に書記長を辞任。
- 1993年8月9日、細川連立政権が発足、臨時国会で衆議院予算委員長に就任。
- 1994年4月28日、羽田連立政権で社会党は閣外協力から政権離脱し、後の村山連立政権へ向け党内外(党内の連立残留派(田邊誠、久保、山花貞夫、赤松広隆ら)と離脱派(村山、大出俊、野坂浩賢、山口ら)の争い)での攻防戦へ展開するが、久保ら連立残留派を説得し自民党との連立合意に漕ぎ着ける。6月16日、衆議院予算委員長として、細川前首相の証人喚問に関して、与党議員が反対したが「証人喚問は異議なしと認める」と宣言し、細川元首相の証人喚問が決定。6月30日、村山連立内閣で総務庁長官として初入閣。
- 1996年1月、社会党から社会民主党へ。4月29日、国会議員在籍25年と大臣経験により、勲一等旭日大綬章に叙される。9月、中選挙区制から小選挙区制への移行に伴い、次期総選挙に出馬せず政界を引退すると表明。
- 2000年6月、衆院選群馬5区(小選挙区に、直前に死亡した小渕恵三前首相の愛娘・小渕優子が後継者として出馬。土井社民党の再三の要請に応じ、「最後のご奉公」として引退を返上して対立候補として出馬。しかし、10万票以上の大差をつけられ落選。比例での復活当選に望みを託したが、あと一歩で日森文尋に及ばず落選した。
- 引退後は、社民党前議員会会長、がんばれ社民党OBGの会会長を務める。
関連項目[編集]
官職 | ||
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先代: | 総務庁長官 第15代:1994年 - 1995年
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次代: |
議会 | ||
先代: | 衆議院予算委員長 1993年 - 1994年
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次代: |
党職 | ||
先代: | 日本社会党書記長 第11代:1986年 - 1991年
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次代: |
先代: | 日本社会党国会対策委員長 第15代:1983年 - 1986年
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次代: |