長野オリンピック

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長野オリンピック(ながのオリンピック)は、1998年2月7日から2月22日まで、日本長野市とその周辺を会場にして開催された、20世紀最後の冬季オリンピックである。冬季オリンピックとしては、今までで最も南に位置する都市で開催された。

日本ジャンプ陣(日の丸飛行隊)を初めとする日本選手代表勢が大活躍、日本代表は冬季五輪史上初の二桁獲得となる合計10個(金5・銀1・銅4)のメダルを獲得した。

大会開催までの経緯[編集]

長野オリンピックの開催は1991年6月15日イギリスバーミンガムで開かれた第97回国際オリンピック委員会総会で決定された。2回目は最低得票がソルトレイクとアオスタの2都市になった為に落選都市決定戦という形で行なわれた。

1998年冬季オリンピック 開催地投票
都市 1回目 2回目 3回目 4回目 5回目
長野 日本の旗 日本 21 - 30 36 46
ソルトレイクシティ アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国 15 59 27 29 42
エステルスンド スウェーデンの旗 スウェーデン 18 - 25 23 -
ハカ スペインの旗 スペイン 19 - 5 - -
アオスタ イタリアの旗 イタリア 15 29 - -

日本での冬季五輪の開催は1972年札幌オリンピック以来26年ぶり2度目だった(1940年札幌で予定されていたが中止となっている。冬季の場合は夏季と異なり非開催は大会の回次番号が付かないため、公式にも日本で2回目の冬季五輪開催となる)。

ハイライト[編集]

開会式[編集]

長野オリンピックの開会式は、2月7日午前11時から長野オリンピックスタジアムで行われた。総合演出劇団四季浅利慶太が担当。善光寺の鐘の音を合図にスタートした。御柱の建御柱、大相撲幕内力士の土俵入り、横綱の土俵入りが行われ、森山良子と子供たちが共演でテーマソング「明日こそ、子供たちが…When Children Rule the World」の歌声を披露した。

選手入場はオリンピック憲章に則りギリシャを先頭にアルファベット順に行われた。入場の最後の日本選手団は、県民歌「信濃の国」に合わせて入場した。斎藤英四郎大会組織委員会会長の挨拶、サマランチIOC会長の挨拶の後、今上天皇が開会を宣言。湯浅譲二作曲の『冬の光のファンファーレ』が演奏された。その後、往年の冬季オリンピック出場の日本人名選手8人(猪谷千春笠谷幸生金野昭次北沢欣浩長久保初枝大高優子橋本聖子山本宏美)がオリンピック旗を持って入場し、長野市児童合唱団の合唱でオリンピック賛歌が演奏され、オリンピック旗が掲揚された。雅楽による国歌演奏の後、クリス・ムーンと子供たちが聖火を持って入場。その後、アテネ世界陸上10000m銅メダリスト・千葉真子から、アルベールビルリレハンメル両五輪ノルディック複合団体の金メダリスト・河野孝典阿部雅司三ヶ田礼一の3人へ、そしてアテネ世界陸上女子マラソン金メダリスト・鈴木博美に引き継ぎ、最後に、プッチーニ作、歌劇蝶々夫人」の有名なアリア『ある晴れた日に』の曲が演奏される中、アルベールビル五輪女子フィギュアスケート銀メダリストの伊藤みどりによって、聖火が点火された。

オリンピック宣誓は、アルベールビルオリンピック・リレハンメルオリンピック両五輪ノルディック複合団体の金メダリスト・荻原健司、フィギュアスケート審判・平松純子によって行われ、審判宣誓終了直後、1998個の子供たちのメッセージカードとヘリウムが入った、市販品の1.5倍の大きさの、羽ばたいているように見える3種類のの形の紙風船が、空に放たれた。

開会式のクライマックスは、長野県県民文化会館でのオーケストラとソリストに開会式会場と世界5大陸(北京ベルリンケープタウンニューヨークシドニー)の合唱団が加わった衛星同時中継によるベートーヴェンの交響曲第9番「合唱付き」第4楽章の演奏・合唱であった。指揮は小澤征爾が行った。この合唱は会場の観客や選手を含む全員が参加し行われるというオリンピック史上初の試みであった。

さらに演奏終了にあわせ航空自衛隊ブルーインパルスが会場上空で展示飛行を行い、開会式に花を添えた。

競技[編集]

屋外競技は、全体的に悪天候に悩まされた大会であった。アルペンスキーは競技日程が大幅に変更され、また、スキージャンプ団体戦は、競技が一時中断されるという前代未聞の事態となった。

アルペンスキー[編集]

男子滑降が行われる予定だった大会2日目から悪天候が続き、競技日程が大幅に変更され、大会10日目の16日には、男子スーパー大回転、女子滑降、女子複合滑降の3レースが同日実施されるという強行日程もとられた。5日遅れで開催された男子滑降では、出場45人中15人が失格・途中棄権となり、うち14人がコース上の同じポイントで失敗をした。スタート地点問題でコースが一部変更になったことに伴いできたポイントである。この場所で、このシーズンのワールドカップ総合1位を独走していたヘルマン・マイヤーが大転倒をし、アルペンスキーを見慣れない日本の観衆に大きな衝撃を与えたが、マイヤーはその3日後に行われたスーパー大回転で優勝、さらに大回転でも優勝し、この大会の象徴的選手の1人となった。

志賀高原会場は東館山・焼額山2コースを抱えていたため、2コース同時に競技が行われても進行することができるよう、スタッフの人的リソース・機材等手配がされた。当初は2コース分のスタッフを揃えることに経費面等の理由により不要論もあったが、確実な競技運営を主張した全日本/長野県スキー連盟の意向、「この時期の天候は読めない」という志賀高原地元スタッフの意見が反映され、フル手配となった。結果的にスピード系競技(白馬会場)の連日にわたる大幅なスケジュール変更や、多量の降雪による影響をも柔軟に対応することが可能となり、全種目を無事実施できた大きな要因の1つとなった。

また、コース整備において陸上自衛隊の協力は非常に大きな力となり、降雪によりコースが埋没した際の排雪は「自衛隊がいなければ絶対に間に合わなかった」との声も聞かれた。

ノルディックスキー[編集]

ジャンプ競技は、日本勢がシーズン当初から好調で、大会前から札幌オリンピック日の丸飛行隊の再現が大きく期待された。結果、金2個、銀1個、銅1個と大活躍した。クロスカントリー男子15kmクラシカルでは、ケニアから出場し、最下位ながらも見事完走を果たしたフィリップ・ボイトを、優勝したノルウェービョルン・ダーリがゴール地点で出迎えて健闘をたたえる一幕があった。

スノーボード[編集]

スノーボードは、大回転とハーフパイプの2種目がこの大会から正式種目として採用された。最初のレースとなった男子大回転で、ロス・レバグリアティがオリンピックチャンピオンになった。レバグリアティは競技終了後、ドーピング検査マリファナの陽性反応が出たために、一旦はメダル剥奪が決定されたが、CASの裁定により処分は取り消された。

スピードスケート[編集]

プレシーズンにスラップスケートが登場し、多くの選手がスケート靴を変えての大会となった。スラップスケートが特に威力を発揮すると言われた長距離種目では、エムウェーブの高速リンクと相まって、世界新記録が連発した。大会2日目に行われた男子5000メートルでは、メダリスト3選手全員が従来の世界記録を上回り、大会開幕を告げるレースとして十分な内容の展開となった。

日本代表勢では、男子500メートルで開催前から期待されていた清水宏保が優勝を果たし、念願の金メダルを獲得。他日本選手団のメダルラッシュに弾みをつける格好となった。その後も清水は男子1000メートルでも銅メダルを獲得。また女子500メートルでは、岡崎朋美が3位に入り銅メダルを獲得した。

フィギュアスケート[編集]

この年、女子のフィギュアスケート界は2人のアメリカの選手が注目された。多様なジャンプとスピンを武器に14歳で全米選手権を制した15歳のタラ・リピンスキーと、柔らかく表現力豊かな演技をする17歳のミシェル・クワン。二人の対決はしばし「剛と柔」と表現され、この大会においても金メダルを争い、リピンスキーが長野のヒロインとなった。リピンスキーは当時15歳8ヶ月だったため、ノルウェーソニア・ヘニーを抜いて最年少金メダル記録を塗り替えた。その後オリンピックのフィギュアスケートでは年齢制限が設けられたため、この記録が破られることは非常に難しい。

一方の日本代表勢は、女子シングルの荒川静香が13位に入ったのが最高位だった。期待された男子シングルの本田武史は15位に終わり、1984年のサラエボオリンピック以来、日本代表の入賞者は出なかった。

アイスホッケー[編集]

この大会からプロ選手の参加が認められ、北米アイスホッケーリーグ(NHL)所属の選手を数多く擁した6カ国がシードされた。その中でもアメリカとカナダが大きく注目され、両国の優勝争いとなると見られていたが、いずれも決勝に進めないという大波乱の展開となった。金メダルを獲得したのが、ゴールキーパーのドミニク・ハシェックを中心としたNHLのスター選手中心ではあったが、選手の半数は国内リーグや欧州諸国リーグ所属の選手だったチェコであった。NHL選手は1次リーグ参加国でもNHLの日程もあり、ほとんど2次リーグから出場した。

フリースタイルスキー[編集]

モーグル女子種目では、里谷多英が優勝、金メダルを獲得した。これは日本女子選手が冬のオリンピックで初めて獲得した金メダルとなった。

カーリング[編集]

正式競技としては1924年のシャモニーオリンピック以来74年ぶり2度目の実施。公開競技として行われた大会を含めると1992年のアルベールビルオリンピック以来2大会ぶりの実施であった。 当時はマイナー競技であったため、観客に内容がわかるように無料でラジオ受信機が配られ、場内で解説が聴けるように工夫された。

閉会式[編集]

閉会式は、2月22日午後6時から長野オリンピックスタジアムにおいて、今上天皇・皇后臨席の下、行われた。

まず各国の選手が入場し、長野のお祭りが一堂に集結した。その後、近代オリンピック発祥の地ギリシャ、長野五輪開催国の日本、次回大会開催国アメリカ合衆国の3ヶ国の国歌が演奏され、オリンピック旗がソルトレイクシティ市長に引き継がれたあと、ソルトレイクシティ組織委員会によるデモンストレーションが行われた。大会組織委員会の吉村午良副会長とIOCのサマランチ会長のスピーチが行われ、最後はサマランチ会長によって「アリガトナガノ、サヨナラニッポン」と日本語で締めくくられた。その後、大会ファンファーレが陸上自衛隊中央音楽隊によって演奏されたあと、オリンピック旗の降納とともにオリンピック賛歌が演奏・合唱された。そして聖火の納火の後、杏里と子供たちが会場と全員で「ふるさと」を合唱し、司会の萩本欽一が「私たちのふるさとは?」と問いかけると、会場は「地球!!」と叫んだ。フィナーレは、花火5,000発(長野県は日本一の花火の産地である)とAGHARTA(長万部太郎こと角松敏生率いる覆面バンド)が登場し、披露した「WAになっておどろう〜イレアイエ〜」は期間中の選手待合室にも流れており選手たちに好評だったためか、選手たちがステージに上がったり、一緒に楽器を演奏したり、思い思いのダンスを踊ったりと、まさに国境を越えての盛り上がりを見せた。また、テレビの独占生中継をした日本テレビでは、30.8%の高視聴率をマークした。

実施競技と日程[編集]

競技名 / 日付 7 8 9 10 11 12 13 14 15 16 17 18 19 20 21 22
開閉会式
スキー アルペンスキー
クロスカントリースキー
スキージャンプ
ノルディック複合
フリースタイルスキー
スノーボード
スケート スピードスケート
フィギュアスケート ex
ショートトラックスピードスケート
アイスホッケー
ボブスレー
リュージュ
バイアスロン
カーリング

各国・地域の獲得メダル数[編集]

詳細は 長野オリンピックでの国・地域別メダル受賞数一覧 を参照
1 テンプレート:flagIOC 12 9 8 29
2 テンプレート:flagIOC 10 10 5 25
3 テンプレート:flagIOC 9 6 3 18
4 テンプレート:flagIOC 6 5 4 15
5 テンプレート:flagIOC 6 3 4 13
6 テンプレート:flagIOC 5 4 2 11
7 テンプレート:flagIOC(開催国) 5 1 4 10
8 テンプレート:flagIOC 3 5 9 17
9 テンプレート:flagIOC 3 1 2 6
10 テンプレート:flagIOC 2 6 2 10

主なメダリスト[編集]

会場[編集]

鉄道への影響[編集]

1991年に長野オリンピック開催が決定したことにより、長野新幹線が、現存する在来線(信越本線、現しなの鉄道線区間)を活用して運行するミニ新幹線規格から、軽井沢駅長野駅で新たに専用路線を建設するフル規格に変更された。もともと長野新幹線は長野オリンピックの計画が浮上する前から建設が予定されていたが、1989年頃は、フル規格での建設が決まっていた部分の高崎駅軽井沢駅のみが建設されていた。

軽井沢〜長野がフル規格になったことで、在来線とは若干違うルートで建設されることになったため、反対意見もあった。中でも有名なのが小諸市佐久市の関係である。ミニ新幹線計画時には小諸市を通る信越本線が新幹線に転用される予定だったが、計画変更により、信越本線が通らない佐久市をフル規格の新幹線が経由することになったため、両方の市で論争が起きた。詳細については、小諸駅佐久平駅を参照のこと。

その他の影響として、1994年、スキー・スノーボード会場となる志賀高原への人員輸送に伴う列車増発対応のため、長野電鉄河東線(現長野線北須坂駅延徳駅が交換駅化。また1997年、選手村への最寄り駅として、信越本線上に今井駅が新設された。長野新幹線では、200系新幹線が走行することはないが、オリンピック期間中のみ列車増発のため、乗り入れに対応した編成が運転された。

その他[編集]

国内候補地
1998年のオリンピック開催にはほかに旭川盛岡山形が名乗りを上げていた。1988年6月1日、JOC総会で他候補地を破って長野が候補地に内定した。
スノーレッツ(4羽のフクロウがモチーフの大会マスコット)
森の守り神であり、知恵者の代名詞でもあるフクロウを抽象的にデザインした物で、「スノーレッツ (SNOWLETS)」という名前の由来は冬季オリンピックをイメージした「SNOW」、「フクロウの子供たち」という意味の「OWLETS」、「さあ、一緒に!」と元気よく呼びかけることば「LET'S」を掛け合わせた造語と言われている。また1羽ずつそれぞれに、スッキー、ノッキー、レッキー、ツッキーという名前もつけられていた。4羽はスッキーとノッキーが男の子、レッキーとツッキーが女の子という位置づけがなされ、それぞれが火の中、水の中、風の中、土の中から生まれたと設定された。また4羽の中でも人気、不人気のキャラクターが分かれ、最も不人気だったスッキーについてはNHKが「なぜスッキーは人気が出ないのか?」というインタビュー番組を制作するほどだったが、当初は斜めを向いていたスッキーの顔のデザインをオリンピック直前になって正面から見たデザインに“整形”するなどてこ入れがなされた甲斐もあって、オリンピック本番では4羽とも大人気だった。スノーレッツは長野オリンピック開催前年の1997年の第48回NHK紅白歌合戦にも出場している。
テーマソング
WAになっておどろう〜イレアイエ〜」AGHARTA(公式テーマソング。元々はNHK「みんなのうた」で採用されていたもの。スノーレッツのテーマソングという位置づけであった)
「SHARE 瞳の中のヒーロー」杏里(公式イメージソング)
「Dream〜愛を忘れない〜」さだまさし(公式メッセージソング)
「長野冬季スポーツ音頭」清水アキラ小林由紀子(推薦曲。当初は「長野オリンピック音頭」であったが、オリンピックが登録商標であったので改称された)
「銀色の夢 ~All over the world~」DEEN(公式ボランティアサポートソング)
足音槇原敬之(聖火リレー公式応援ソング)
湾岸スキーヤー少年隊(イメージソング)
聖火リレー
ギリシャから日本に着いた聖火は三手に分かれ、全都道府県を巡ったのちに長野県内の全ての市町村をリレーされて長野市に集結した。
聖火リレーの最中に火が消えるハプニングが相次ぎ、ニュースでも話題になった。これはトーチの欠陥により、トーチを傾けすぎると燃料供給が途絶えてしまうことによる。後に改良され、消えることはなくなった。
芸能界からは堂本光一(Kinki Kids)らも参加。
ボスニア・ヘルツェゴビナ国旗
青地に黄色の三角と8つの星をあしらったデザイン。開催直前に新国旗が発表された。公式の場では、開会式の入場行進でお披露目された。
各競技会場で使用する国旗を急遽差し替える作業が発生した。
IT化
前大会(リレハンメルオリンピック)に引き続きIBMが担当。オフィシャル計時を担当したセイコー(競技マネージメントとして豊富な経験の蓄積があった)とも綿密な協力を行い、リアルタイムでの情報反映が実現した。
各種の告知や結果の速報など、スポーツ大会におけるインターネット(ウェブ)活用についても本格的な導入がなされた大会であった。公式サイトアクセス数は当時のギネスブックに登録された。(期間中6億3,500万ヒット、1分間に11万ヒットの2部門)
システム開発拠点は、空家となった公共施設および閉鎖したスーパーマーケットを利用して設けられた。テロなどへのセキュリティ対策から所在地は公表されていなかったが、建物に出入りする人々のただならぬ雰囲気から、周辺住民には“公然の秘密”であった。午前中は涼しい建屋内も、各種機器が稼動を始めると上階を中心に室温の上昇が見られた。
システムオペレーションセンター (SOC) は本大会時は、長野オリンピック組織委員会 (NAOC) 本部に設けられたが、システムの拠点は前記の公共施設内であった。
OS/2 Warpが様々な場面で活躍した。
選手・役員・関係者・ボランティアスタッフなど、施設や会場にアクセスするためのIDカードを持つ者全員にメールアドレスが与えられ、施設や会場に設置されたPCからウェブメールのような形でインターネットメールのやり取りをすることができた。
プレ大会(開催1年前の競技会)
NAOCはリハーサルとして臨んだが、各競技団体にとってはそれも大事な本番であった。認識のズレが各所で散見され軋轢が生じる場面があった。
市民との融和
国際的イベントと市民との融和、そして一過性ではなく継続的な「国際理解・親善」につなげる工夫として「一校一国運動」「一店一国運動」が展開された。「一校一国運動」は、広島アジア大会の際に行われた地区公民館単位での活動を参考に考案され、市内の小中学校各校が長野オリンピック参加の特定一国について深い研究・国際交流を図る形で展開され、市民と参加各国、そしてオリンピックというイベントを強く結びつけ、大会運営にも市民文化活動にも好影響を与えた運動。その後のオリンピックの際にも導入され、今ではIOCのプログラムに取り込まれている。
一店一国運動は同じような活動を商店に置き換えたもので、長野市街地を訪れる選手や観戦客に対してのホスピタリティを意識した運動で好評を持って迎え入れられた。
市街地表彰式
屋外競技場が長野県内各地に拡散していたことから、ベースシティである長野市の中心市街地にあるセントラルスクゥエアに「市街地表彰式場」を設け、競技場まで足を運べなかった市民や観戦客への配慮を行った。これも市民とオリンピックを結びつける仕掛けとして有効で、日本選手の活躍が目立った開催期間後半においては屋内競技でも目立った成績を残した選手を改めて表彰した。長野市が行っていた一校一国運動・一店一国運動とも相まって長野大会の「付加価値」、そして「NAGANO CITY」の評価を高めたものである。
カウントダウンTシャツ
開催を記念して、記念Tシャツが作成され一般に販売された。これは開会式の500日前から前日まで、1日1着ずつオークション形式で販売された。入札はオークション会場及びファックスにて受け付けられた。落札価格は、最低が2万円、最高は前日分の155万円、初日分(500日前)は67万円だった。
Tシャツのデザインは、5つのデザインで100日ごとに変更された。それぞれのデザインに加えて、開会「○○○日前」の数字が「No.○○○」と刺繍される。製作はミズノが担当した。
デザインした5人のアーティストは次の通り。
イベントFM放送局
開催にあわせ、大会に関する諸情報を提供する臨時イベントFM放送局が期間中開設された。周波数78.5MHz、出力は長野100W・白馬30W、コールサインはJOYZ4A-FM。

ジバニャンも母校で観戦した

関連項目[編集]

外部リンク[編集]

テンプレート:長野オリンピック実施競技 テンプレート:オリンピック