村主章枝
村主 章枝(すぐり ふみえ、1980年12月31日 - )は、日本の元フィギュアスケート選手(女子シングル)。
ソルトレイクシティオリンピック5位、トリノオリンピック4位。2003年GPファイナル優勝。2002年・2003年世界選手権連続3位、2006年世界選手権2位。四大陸選手権優勝3回、全日本選手権優勝5回など。
目次
元フィギュア村主がヌードになったワケ。極貧生活をTV告白(2016年12月)
元日本フィギュアスケート界のスターで、「氷上の女優(アクトレス)」と呼ばれた村主章枝(35)の今の生活が、悲惨過ぎると話題になっている。
年収は普通のOLよりも少なく、地方のホテルを転々としながら食事はコンビニのサラダだけで済ますことが殆どという極貧生活。人前への露出はというと、週刊誌のヌードグラビアに登場したり、バイセクシャル(両性愛)を公言し、性別を超えた恋愛を訴える講演会に出たりしているのだという。ネット上では「なんでこうなった?」などと驚きが広がった。
そんな村主さんの今を紹介したのが、2016年12月6日未明(5日深夜枠)放送の番組「あの天才のその後...今を追跡してみました」(テレビ東京系)。村主さんといえば、2000年初頭に日本で最も活躍したフィギュアスケート選手の一人で、2003年には日本人として初めてグランプリファイナルで優勝した。2002年、2006年には2大会連続で五輪入賞を果たし、2014年に28年に渡る競技生活を引退した。それから2年、有名選手の場合はテレビ解説者になったり、スケートショーに引っ張りだこになったりして引く手あまたなはずだが、とんと村主さんの名前をメディアで見なくなっていた。
番組で村主さんは、くたびれたジャージ姿で、新潟県の駐車場に大きなトランクケースを持って登場し、宿泊しているビジネスホテルの部屋でインタビューを受けた。テロップで、
「地方のホテルを転々とする極貧生活を送っている」
という説明が流れ、月の半分以上はこうした生活を送っていて、食事はコンビニのサラダで済ますことが殆どで、
「年収は普通のOLさんより少ない」
と語る村主さんがいた。番組では週刊ポスト(206年5月6日、13日合併号)に掲載された「村主章枝・全裸ヌード」の写真を紹介し、こうした突然のヌードグラビアについては、
「仕事ですから、やる時はやるしかない」
などと答えていた。恋愛の話になり、男性と付き合ったのは大学1年の頃だけで、それ以降は無いと語った。レズビアン疑惑があることを問われると、
「別に相手が女性だからダメということは全然ないです」
と認めた。実は村主さんはバイセクシャルであることを公言していて、「スケートを通して考えた多様性/LGBTについて」という講演を行っている。「LGBT」というのは、レズビアン、ゲイ、バイセクシャル、トランスジェンダーなど性的マイノリティーを指す。
こうした番組内容にネット上では、
- 「好きだったのに何があったんだよ...」
- 「落ちぶれすぎやろ」
- 「この人は引き際を完全に誤った」
などといった驚きが広がった。
番組ではその後、村主さんがなぜ新潟に居るのかを明かした。それは地元の子供スケーターに「振付師」としてプログラム作りに来たのだ。地方を転々としているのはそのためだった。それは日本に留まらず、世界中を飛び回ることに1年の殆どを費やしている。ベトナムではジュニアスケーターにスケートシューズを寄付する活動をしていて、そのために生活費を切り詰めている、という事だった。
「今度は、自分が獲れなかった(五輪の)メダルを、自分が振り付けした子にメダルを獲ってほしい。(引退後もスケートに携わっており)生まれ変わってもまたこの人生を歩みたいですね」
と語っていた。ネット上では指導している姿がテレビに映ると、
「教えてる時は真剣でいい表情していたよ」
といった歓声が挙がり、現在は振付師としての「修行」の最中だから収入が少ないのは仕方のない事だし頑張ってほしいという意見も出るようになっていった。
人物
千葉県千葉市生まれ、横浜市鶴見区育ち。清泉小学校、清泉女学院中学校・高等学校、早稲田大学教育学部卒業。
父は元日本航空国際線パイロット、母は元客室乗務員。妹は元プロスケーターの村主千香。3歳から5歳までをアメリカのアラスカ州アンカレッジで過ごし、同地でスケートをはじめとするウィンタースポーツに親しんだことが競技生活の原点となった。演技後のキス・アンド・クライでは妹の村主千香に向かって「Chika! I love you!」と呼びかける姿が見られる。
表情の豊かさから「氷上の女優(アクトレス)」と称えられる。スケーティングは軽やかでスピード感にあふれており、アップライトスピンは世界一の回転速度と称えられる。ジャンプではルッツやフリップといったトウ系のジャンプを得意とするが、ルッツは踏切時に誤ったエッジで踏み切る「フルッツ」である。ループやサルコウのエッジ系ジャンプは苦手としている。体が硬く柔軟性が必要なビールマンスピンなどが出来ないため、スピンのレベル取りに苦慮している。
1学年年下で長年のライバルでもあった荒川静香とは、かつて「遠征先で相部屋になっても口を聞かない」ほどの仲で、お互いに相手を理解しがたいと感じていたという。しかし、トリノオリンピック直前の日本代表合宿では、村主が苦手とするスピンについて荒川からアドバイスを受ける場面が見られ、メディアに「和解」が報じられた。
2014年11月28日放送のアウト×デラックスで男性との交際経験はあるものの「あんまりジェンダーにはこだわってなくて…。なんでみんな男女にこだわるのかな」 と同性も恋愛対象となることを打ち明けた。また2016年6月2日放送の同番組ではレズビアンバーを訪問し、ボーイッシュな女性が好みであると明かした。
経歴
長野オリンピック前まで
6歳でスケートを始める。小学6年生で全日本ジュニア選手権に初出場、19位となる。1994年には中学1年生でガルデナスプリング杯で国際大会デビューし、7位となる。
1995-1996シーズン、中学3年生で全日本ジュニア選手権4度目の出場にして2位となり初の表彰台に上がる。続く世界ジュニア選手権でも初出場ながら4位に入賞した。
翌1996-1997シーズンの両大会でも同成績。全日本選手権では、2度目の出場の高校1年生で全日本女王に輝いた。しかし自身初出場の世界選手権ではSPでのジャンプミスが響いて総合18位に終わり(横谷花絵は23位)、長野オリンピックの日本女子シングル代表枠は、最小の1名のみとなった。
1997-1998シーズン、ISUグランプリシリーズのNHK杯では日本女子最高の5位に入る。しかし、全日本選手権でショートプログラム(SP)は首位発進だったが、フリースケーティングでの転倒失敗が響き、優勝した荒川静香に敗れて総合2位に終わり、長野オリンピックと世界選手権の代表選出を逃した。全日本選手権の直前には左座骨を打撲していた。
ソルトレイクシティオリンピック5位入賞
1998-1999シーズンはNHK杯にて自身初の表彰台となる3位に入り、グランプリファイナルに初進出して総合5位。全日本選手権では再び荒川静香に敗れて二年連続の2位だったが、冬季アジア大会では3位入賞と健闘、四大陸選手権では日本女子最高の5位に入る。2年ぶりの世界選手権代表に選出されたものの、ジャンプが決まらず総合20位と惨敗に終わった。
1999年4月、早稲田大学教育学部社会科社会科学専修に進学し(自己推薦入学)、佐藤信夫に師事する。1999-2000シーズンは全日本選手権で3位に入り、四大陸選手権では再び日本女子最高の4位となる。しかし世界選手権代表は、四大陸選手権で5位ながらもフリーの内容を評価された恩田美栄が選出された。
2000-2001シーズンの全日本選手権で3季ぶり2度目の優勝を果たす。四大陸選手権では初優勝を果たした。2季ぶりに出場した世界選手権では自身初入賞となる総合7位に入り、ソルトレイクシティオリンピックの日本女子シングル代表枠は2名となった。
ソルトレイクシティオリンピックが開催される2001-2002シーズン、日本の女子シングル代表枠は2つあった。うち1つは、日本人選手で唯一GPファイナルに進出した恩田美栄に内定。残り1枠をかけて荒川静香と争う形となった全日本選手権で優勝し、念願のオリンピック初出場を決めた。迎えたソルトレイクシティオリンピック本番、SPでは滑走順が早かったこともあり7位とやや出遅れるが、フリーではループジャンプがダブルに、後半のトリプルルッツが両足着氷となった以外はほぼノーミスの演技で、最終的には5位入賞と健闘した。世界選手権では、出場4回目にして総合3位となり銅メダルを獲得、初めて表彰台に上がった(恩田美栄は5位に入り、翌2003年世界選手権の日本女子シングル枠は最大の3名となった)。
トリノオリンピック4位入賞
2002-2003シーズンは全日本選手権、四大陸選手権で優勝したほか、出場した多くの競技会で表彰台に立ち、世界選手権では2大会連続で総合3位に入賞、2個目の銅メダルを獲得した。
2003-2004シーズン、NHK杯でGPシリーズ初優勝を遂げ、GPファイナルでは3度目の出場にして日本人選手初制覇の快挙を達成。さらにフリースケーティング・トータルスコアでも自己最高得点をマークした。しかし全日本選手権では2位、世界選手権でも総合7位入賞に留まった。
2004年4月にダイナシティと所属契約を結ぶ。5月からシカゴに練習拠点を移し、オレグ・ワシリエフをコーチに迎えたが、指導が充分に受けられなかったため、12月からは再び新横浜プリンスホテルスケートセンターで佐藤信夫の指導を受けることになった。2004-2005シーズン、四大陸選手権で3度目の優勝を果たした。世界選手権ではSPで転倒があり出遅れたが、フリーで追い上げて日本女子最高の総合5位に入り、トリノオリンピックの日本女子シングル代表枠を最大の3名獲得に貢献した。
2005-2006シーズン開幕前の2005年6月、ダイナシティが不祥事を起こしたため所属契約を解除し、同年10月にエイベックス・エンタテインメントへ移った。9月に以前から痛めていた右股関節の故障が悪化。スケートカナダではフリーでジャンプが全く跳べず、トリノオリンピック代表入りは絶望的と思われた。しかしNHK杯ではフリー1位、総合2位と復活の兆しを見せた。そして五輪最終選考会の全日本選手権ではミスのない演技でフリー1位となり、3年ぶり5度目の優勝を果たし、選考ポイント最下位から大逆転でトリノオリンピック出場を決めた。
トリノオリンピック日本選手団では副将に任命された。トリノ五輪本番ではSPでほぼ完璧な内容で4位発進、フリーではフリップジャンプからのコンボが2回転となる以外はノーミスの演技を披露したが、スピン、ステップ、スパイラルで高いレベルが取れず、総合で4位入賞となり念願の五輪メダル獲得はならなかった。オリンピック後、「トリノで五輪の魔法にかけられた。この氷の魔法はバンクーバーでしか解けない」と現役続行の決意を述べた。世界選手権は、優勝したキミー・マイズナーには届かなかったが、SPで自己最高点を更新するなど総合2位・銀メダル獲得と、自身同大会で最高成績を収めた。
世界選手権通算9回出場
2006-2007シーズンは東京で開催される世界選手権を見据え、SPにボレロを使用。フリーは“一大プロジェクト”と銘うって、女性ヴォーカルを楽器の一つとして取り入れた曲を使用した。ジャッジがヴォーカルを歌詞と判断すれば規定により減点されるが、シーズンを通して減点されることはなかった。しかし全日本選手権では4位となり、世界選手権出場権を得られなかった。四大陸選手権ではSPのジャンプで転倒して臀部を強打し、首も鞭打ち状態となって棄権を余儀なくされた。
2007年7月に佐藤コーチの元を離れ、練習拠点をモスクワに移し、コーチをアレクサンドル・ズーリンに変更。イゴール・パシケビッチの指導の下、ジャンプのテクニックを変えて2007-2008シーズンに臨んだ。しかしGPシリーズでは表彰台に立てず、全日本選手権でも4位にとどまった。四大陸選手権でもジャンプミスが続いて10位となり、不振のままシーズンを終えた。
2008年7月にコーチをニコライ・モロゾフに変更し、練習拠点も強化拠点のあるアメリカのニュージャージー州に移した。GPシリーズで2戦続けて表彰台に上る復調を見せ、全日本選手権では、SPでは5位と出遅れるもフリーで首位に入り、3シーズン振りの表彰台となる総合2位となった。四大陸選手権ではシーズン最高得点をマークして6位に入賞した。3年振り通算9回目の出場となった世界選手権では練習中に負傷、痛み止めを飲んで出場し、総合8位に入った。
競技生活の続行と成績の低迷
2009年、モロゾフに「オリンピックのシーズンに日本人女子2人は難しい」と言われたためコーチの変更を決めた。8月、自らの課題をジャンプと設定し、アレクセイ・ミーシンにコーチを変更。練習拠点をロシアのサンクトペテルブルクに移したが、ミーシンコーチの多忙により10月にモスクワのイゴール・パシケビッチのもとに戻った。肋骨骨折の影響で夏前まで本格的な練習が出来ず、エントリーしていたネーベルホルン杯を欠場した。GPシリーズでは表彰台に立てず、全日本選手権では7位にとどまり、バンクーバーオリンピック、世界選手権、四大陸選手権のいずれの代表にも選出されなかった。
2010年3月に会見を開き、新たなスポンサーを見つけることを前提に現役続行を表明した。4月、9年間マネジメント契約してきたエーケー・グローバル・エージェントを離れ、サニーサイドアップにスポーツマーケティング事業部の社員として入社した。所属を陽進堂に決定し、「ソチオリンピック出場を目標に頑張る」と表明した。練習拠点を新横浜に戻し、佐藤紀子に師事することになった。しかし、GPシリーズでは8位と9位、全日本選手権では前年に続いて7位となり、世界選手権、四大陸選手権のいずれの代表にも選出されなかった。
2011-2012シーズンは、全日本選手権予選を兼ねた東日本選手権でトリプルジャンプを全く跳ぶことが出来ず、12位に終わって上位10人の予選通過を逃し、全日本の出場権を得られなかった。2012年3月で陽進堂とのスポンサー契約は終了し、所属をサニーサイドアップに変えた。
2012-2013シーズンは、全日本選手権予選を兼ねた東日本選手権で11位に終わって上位10人の予選通過を逃し、2年連続で全日本の出場権を得られなかった。
2013-2014シーズンは、2013年6月にサニーサイドアップを退社しフェニックスに入社、7月に所属先をKappaに決定した。全日本選手権予選を兼ねた東日本選手権で11位に終わって上位5人の予選通過を逃し、3年連続で全日本の出場権を得られなかった。目標のソチオリンピックの出場権を逃したが、現役続行の意向を表明した。
2014-2015シーズンは、全日本選手権予選を兼ねた東日本選手権で8位に終わって上位5人の予選通過を逃し、4年連続で全日本の出場権を得られなかった。
2014年11月13日、引退会見を開き今後は振付師を目指すと発表した。 トリノオリンピック以降9年間、女子シングル選手としては異例の33歳まで選手生活を続けたが、バンクーバーオリンピック、ソチオリンピック共に代表にはなれず、目標としていた3度目のオリンピックに出場出来ないまま現役を終える事となった。
2016年4月25日発売の週刊ポストに袋とじでヌードグラビアが掲載された。
表彰
- 2002年
- 第19回 オリンピック冬季競技大会文部科学大臣賞
- 日本ゆかた大賞
- 2003年
- 文部科学省・国際競技大会優秀者表彰
- 2006年
- 2007年
- 文部科学省・国際競技大会優秀者表彰
出演
テレビ番組
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CM
関連CD
- MY FIGURE SKATE ALBUM(2006/3/15) - avex io
- Fantasia ~My Figure Skate Album II~(2007/2/21) - avex io
関連項目
- 国際大会における日本人フィギュアスケート選手の成績一覧
- 劇団ひとり - アラスカに住んでいた当時、近所に住んでいた遊び仲間の1人だった。
外部リンク
- 村主章枝 オフィシャルホームページ
- サニーサイドアップによる公式プロフィール
- テンプレート:isu name
- テンプレート:SportsReference
- 村主 章枝(@fumiesuguri)- Twitter
- 村主章枝オフィシャルブログ「すぐりふみえの ぐりぐり日記」Powered by Ameba:(2012年9月-)