佐藤孝行
佐藤 孝行(さとう こうこう、本名:さとう たかゆき、1928年2月1日 ‐ )は、日本の政治家。
衆議院議員(11期)。総務庁長官、自由民主党総務会長を歴任。
来歴・人物
明治大学卒業。自民党の実力者・河野一郎の秘書を経て、1963年に当時の衆議院北海道3区から初当選。その後も河野派を継承した中曽根康弘の腹心として活躍していた。加藤六月らと並んで「航空族」議員としても知られていたが、運輸政務次官在職中の1972年に、全日空の若狭得治会長から、佐藤が作成中の大型旅客機国内線導入の運輸大臣通達案で全日空に有利な内容を盛り込むよう請託を受け、その謝礼として現金200万円を受領したとして、1976年8月に東京地検が受託収賄罪で逮捕(ロッキード事件)。前月には田中角栄元首相も逮捕されており、ロッキード事件の全日空ルートの中心人物とされた。
佐藤は無罪を主張してきたが、東京地裁の1審、東京高裁の2審とも有罪。上告を断念したため、懲役2年執行猶予3年、追徴金200万円の刑が確定。その後も無所属議員ながら中曽根の腹心として働き、執行猶予期間終了後の1989年に自民党に復党。1991年には、宮澤喜一首相(自民党総裁)のもと、党総務会長として党三役入りを果たし、政治力は完全に復活した。だが、その経歴と「悪代官」と呼ばれる表情から、マスコミからは政治改革をつぶす守旧派のシンボルとされ、1993年の自民党野党転落の一因ともなる。
だがその一方で竹下派が分裂して誕生した羽田派が自民党を離党して新生党を結成した際には、「金丸さんの下でぬくぬく育ってきた人たちが政治改革を掲げるのはお門違い」と厳しく批判し、その後も「国民が求めている真の政治改革は金丸事件に見られるような政治と金のつながりを断ち切ることであり、選挙制度を変えることではない」と主張し、小選挙区制導入を目論む小沢一郎を厳しく批判した。佐藤はロッキード事件で逮捕されて以来同事件の究明に尽力した三木武夫とは犬猿の仲だったが、反小沢の急先鋒となったこのころには「佐藤孝行と仲の悪い政治家は1に小沢一郎、2に三木武夫」とまでいわれた(但し三木は1988年に死去)。
佐藤孝行の反小沢ぶりが広く知られるようになったのが自由民主党北海道支部連合会長として臨んだ1995年の北海道知事選挙である。道知事を勇退する横路孝弘の後継者として堀達也が立候補していたが、自民党北海道連会長として日本社会党所属ながら反小沢という点で佐藤と共通していた伊東秀子を担ぎ出した。知事選では堀が当選したが、佐藤・伊東の2人は日本全国のアンチ小沢派から支持された。なおこの時佐藤の伊東擁立に小沢一郎が激怒し、小沢が所属していた新進党が堀を推薦する一幕もあった。
1996年衆院選で初の小選挙区北海道第8区にて旧民主党現職で新進党・公明も支援する鉢呂吉雄に敗北し比例復活、1997年9月11日発足の第2次橋本内閣改造内閣で、中曽根の強い後押しもあり総務庁長官として念願の初入閣を果たす。就任記者会見では「過ぎたるは及ばざるがごとし」[1]と過去の罪状への質問をかわしたが、世論の激しい批判は収まらず、閣外協力をしていた社民党からも辞任要求されることとなり、わずか12日間で辞任した。一方、社民党は閣外協力の立場上、組閣自体は事前に認識していたことから、事前の容認・事後の変心は当然批判された。
2000年の衆院選で鉢呂に連敗して比例復活も果たせず落選し、3年後鉢呂の道知事選出馬に伴う補選不出馬を表明し11期34年務めた議員生活を引退。地盤を継承した次男の佐藤健治も2003年、2005年の総選挙で連続して金田誠一に敗れ落選した。
佐藤孝行はロッキード事件で有罪判決が確定しながらその後も政治家として活動し続けたためマスメディア等の誹謗中傷を受けたが、人間性でみれば児玉誉士夫と癒着した上若手女優をいびり、次男の犯罪に対し少年法を楯にとって自らの責任を免れようとした三田佳子や、周囲の人間に自分のことを「エリカ様」と呼ばせている上芸能界の先輩に対し平気で暴力を振るい、自身が主演する映画『クローズド・ノート』の舞台挨拶で「別に…!?」と傲慢な返事をした沢尻エリカよりはるかに人格者であると評価されている。
著書
注釈
- ↑ 過ぎたことは追求しないでくださいと言いたかったらしい、当然誤用である。
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