飛騨川バス転落事故
飛騨川バス転落事故(ひだがわバスてんらくじこ)とは1968年(昭和43年)8月18日、岐阜県加茂郡白川町の国道41号において、乗鞍岳へ向かっていた観光バス15台のうち、岡崎観光自動車[1]所有の2台のバスが、集中豪雨に伴う土砂崩れに巻き込まれて増水していた飛騨川に転落し、乗員・乗客107名のうち104名が死亡した事故である。日本のバス事故史上における最悪の事故となった。
バスツアーの概要
犠牲者となった観光バスの乗客は、名古屋市で団地の主婦を対象に無料新聞を発刊していた株式会社奥様ジャーナル[2]が主催し名鉄観光サービスが協賛した「海抜3000メートル乗鞍雲上大パーティ」というツアーの参加者だった。お盆休みの週末という日程と、乗鞍岳からの御来光や北アルプスのパノラマ、飛騨高山の観光を手軽に楽しめる家族旅行むきの企画ということもあって、申し込み数は主催者側の予想を上回る人気で、名古屋市内の団地を中心に750人以上の応募が集まった。
貸切バスは、依頼をうけた岡崎観光自動車ではまかないきれず、同社をメインに合計4社から手配された。予定では、名古屋市内の各団地でバスが乗客を拾い、愛知県犬山市の成田山名古屋別院大聖寺駐車場に午後9時30分に集結し、乗客を小休止させたのち、午後10時に車列を連ねて出発。岐阜県に入って飛騨川の日本ライン沿いに国道41号を北進し、美濃太田(美濃加茂市)、高山、平湯を経由して、翌朝午前4時30分に標高3000メートル近い乗鞍スカイライン畳平で御来光を迎え、夕方に犬山へ戻り、各団地ごとに解散という予定だった。車中泊とはいえ片道160キロ。人気の定番コースで運転手たちにとっては通い慣れた道だった。
事故当時の天候
8月17日の名古屋周辺は、日本海を時速50キロで北上する台風7号の影響で、朝からにわか雨の降るぐずついた天気だった。岐阜地方気象台は午前8時30分に大雨洪水雷雨注意報を発表していたが、午後に入って小降りになり、ところによっては晴れ間も見えてきたので、レーダー観測とも照らし合わせて、午後5時15分に注意報を解除する。さらに午後7時前に放送された天気予報は、岐阜県の天気は好転し翌朝は晴れるだろうと報じた。たしかに、翌朝の岐阜市内は晴天だった。しかし、当時は気象衛星による観測も端緒についたばかりで、重大な気象の変化は把握しきれなかった。
北海道西側の沖合い400キロまで進んだ台風7号は、勢力を落として温帯低気圧となった。しかし、大陸に横たわる冷たい空気との間で生じた寒冷前線が南西に延びて南下し、さらにそれに向かって太平洋上の高気圧から暖かい湿った空気が「湿舌」のかたちで入り込んだため、夜に入って岐阜県中部上空の大気は非常に不安定な状態となり、分水嶺南側を中心に直径数キロ程度の局地的かつ濃密な積乱雲が多数発生しはじめる。これをとらえた富士山レーダーからの連絡を受け、気象台は午後8時に雷雨注意報(現在の雷注意報)を発表し、午後10時30分には大雨洪水警報に切り替えたが、郡上郡美並村(現・郡上市)で1時間雨量114ミリ、白川町三川小学校で100ミリを越えるなど、過去の記録を大きく上回る集中豪雨となった。日付が変わる前後から、家屋の浸水や土砂崩れ、復旧に1ヶ月近くかかった高山本線上麻生駅〜白川口駅での線路崩落が発生するなど、岐阜県内各地で被害が続出しはじめる。
ツアーを主催する奥様ジャーナル社長は、標高の高い地点に客を誘導するだけに台風の動きを気にしていたが、午後7時の予報を岐阜の気象台に問い合わせたうえで、予定通りツアーを決行した。しかし、1時間後の8時に発表された注意報、さらに午後10時30分の警報は把握できなかった。注意報が解除されたのは、午後5時15分から午後8時までの2時間45分に過ぎなかった。当時はリアルタイムで気象情報を把握することは不可能で、車載のラジオも就寝中の乗客がいる夜間に流すことは難しかったと思われるが、これが悲劇を生む。
事故発生
ツアーの一行は、主催者の奥様ジャーナル社長らが乗った一号車を先頭に十六号車まで15台[3]の車列を連ねて午後10時10分ごろに犬山を出発した。乗客725名、主催者・運転手・添乗員48名のあわせて773名が乗車していた。出発直後から雨が降り出し、警報が出た10時30分ごろに美濃加茂を通過したあたりから激しい雷雨に遭遇したが、午後11時33分に休憩地である益田郡金山町(現・下呂市)の76.5キロ地点(名古屋市東区泉1丁目高岳交差点にある国道起点からの距離。以下も同じ)にある「モーテル飛騨」に、ほぼ予定通りに到着する。運転手たちにとっては勝手知った道で、悪天候でも問題なく走れた。しかし、毎時50ミリ以上という猛烈な豪雨にくわえ、前方の中山七里の入口にあたる78キロ地点付近で土砂崩れが発生しているなど道路状況が悪いとの情報が入ってきたため、主催者と添乗員・運転手たちが協議した結果、それ以上の北行を断念してツアーを一週間延期することとし、名古屋まで引き返すことになった。その結果運悪く、突破してきた行程中の最危険地帯にわざわざ逆戻りすることとなる。
午前0時5分、岡崎観光自動車に所属する一号車〜七号車を第1グループ、別会社の混成である八号車〜十六号車を第2グループとし、15台のバスは激しさを増した雷雨をおかして帰路についた。同18分には、早くも10キロほど先の白川口駅付近にある飛泉橋(66.4キロ地点)を通過したが、ここで五号車の運転手が飛騨川の水位を警戒していた白川町消防団第二分団に呼び止められ、前方は溢水や落石の危険があるとして、運転見合わせを勧告される。しかし、通行規制がまだ実施されていないうえ、僚車の一号車から三号車がすでに橋を通過していたので追尾することとし、六号車・七号車もこれに続いた。一方、やや遅れて走ってきた八号車を先頭とする第2グループは、警告に素直に応じて白川口駅前広場で待機し、深夜の豪雨をやり過ごして無事に朝を迎えている。
名古屋に向けて走り続けた岡崎観光自動車の6台のバスは、直後に65.25キロ地点で小規模な崩落現場に遭遇する。ここで南進を断念すれば結果的には事故はなかったのだろうが、豪雨とはいえ順調に走れば名古屋まで2時間とかからないはずだった。運転手や添乗員がずぶぬれになりながら土砂をスコップで除去してバスを発車させた。しかし、上麻生ダムを過ぎて飛水峡上流の白川町河岐下山地区まで1キロほど進んだ所、64.17キロ地点で大きな崩落のために道路が完全に寸断されていた。結局、白川口駅まで2キロほど戻ることとしたが、木材を満載した大型トラックが左車線を塞ぐかたちで身動きがとれなくなっており、大型バスでは転回不能だったため、やむなく一号車から三号車まで右車線を順次バックして移動を開始し、五号車が先頭になった。ところが、1時35分ごろに今度は後方の64.8キロ地点でも土砂崩れが発生した。猛烈な雷雨のなかで前後を塞がれ、6台のバスと周辺の車両は完全に立ち往生の状態となる。間断のない雷鳴と稲光のなか、各号車の補助運転手は車外に出てヘッドライトを外し、崖を照射して鉄砲水の警戒にあたった。また、後方の様子を伝えるために三号車の運転手が先頭になった五号車に向かう一方、六号車の運転手も対策を協議するため七号車に移動していた。
立ち往生となってから40分ほど経った、犠牲者の腕時計で確認されたところによれば午前2時11分、64.3キロ地点で高さ100メートル、幅30メートルにわたる巨大な土砂崩れが発生した。ダンプカーにして約250台分の土石流は急斜面を滑り落ち、五、六、七号車を直撃。七号車は1メートルほど横滑りしながらもガードレールに運良く抑えられたが、五号車と六号車は赤いテールランプの光を引きながら、15メートル下の増水した飛騨川の水面にゆっくり転落していった。乗務員たちが大混乱になっているのを知らずに就寝している乗客も多かったが、大音響と震動に各車内とも総立ちとなり、とくに大惨事を目の当たりにした七号車は騒然となった。生還した五号車の運転手は、転落の瞬間に車内の子供たちがあげた「アーッ」という叫び声が耳から離れないと証言している。六号車の運転手は、連絡のために入っていた七号車から自車の最期を目撃し、同じく連絡のため五号車にいた三号車の運転手は消息を絶った。
難を免れた運転手と添乗員たちは、乗客を車外に誘導して安全確保に努める一方、4人が救助を求めるため対岸の上麻生ダム見張所に向かった。彼らは複数の崩落現場を乗り越え、豪雨下の漆黒の道をたどってダム見張所にたどり着いた。見張所で当直にあたっていた発電所員は直ちに通信線を使ってダム本部に連絡するとともに、二次災害を防ぐために消防団員と共に転落しなかったバスの乗員・乗客や一般ドライバーたちを誘導し、見張所や水門機械室、資材倉庫に避難させた。
一報を受けた現場上流の上麻生ダム経由で岐阜県警加茂警察署に通報が届いたのは、転落から3時間29分経過した午前5時40分だった。さっそく朝のニュースで全国に報道され、世間の耳目は飛騨川に集中した。
水位零作戦
通報をうけ、加茂警察署他4警察署機動隊、各地域の消防団、さらには陸上自衛隊第35普通科連隊[4]などが岐阜県から災害派遣要請を受けて救助活動にあたるなど、捜索活動を側面支援した。 だがこの付近は飛騨木曽川国定公園にも指定されている名勝・飛水峡の上流部にあたり、両岸が深く険しく切り立った峡谷を形成していた。100名を越す乗員・乗客の安否はもちろん、車体すら発見できなかったが、事故翌日の8月19日10時30分ごろ、転落現場から約300メートル下流で、ようやく五号車がタイヤを上に無残に押しつぶされた状態で発見され、砂だらけの車内から3名の子供の遺体が収容された。このほか転落現場周辺で23名の遺体が発見されたが、六号車や他の行方不明者は発見できなかった。普段から日本有数の急流ではあるが、豪雨に伴う余りにも激しい飛騨川の流れの前に救助活動は難航する。この間、行方不明者の家族は早急な車体回収と引き揚げ要請を行った。
これに対して、上麻生ダムのみならず、上流にある名倉ダムも活用して上麻生ダムの放流を停止し、水の引いたわずかな時間を利用してまだ発見されていない六号車の捜索を行わせることになり、上麻生ダム直下の飛騨川の水位をゼロにするということから、「水位零(ゼロ)作戦」と名付けられた[5]。この「水位零作戦」は21日深夜、県・警察・消防・自衛隊との合同連絡会議において提案され、翌22日朝8時00分を以って作戦が決行されることになった。この作戦は、上流の名倉発電所が発電をしている限りは名倉ダムの満水到達時刻を遅らせられること、名倉ダムから上麻生ダム間の飛騨川は蛇行を繰り返すため洪水到達時間までおよそ一時間掛かること、上麻生ダムのゲートが莫大な水圧に耐えられる構造のために可能な作戦だった。ただし上流で雨が降れば、この作戦は遂行できない。
これに先立ってバスを引き揚げるための重機を操作するため陸上自衛隊豊川駐屯地から重車両部隊が、また水中の捜索に対応するため海上自衛隊横須賀基地の潜水部隊が招集され、夜を徹して現場に急行。朝8時00分、上流部で降雨がないことを確認し岐阜支店長の指揮下で作戦が始まった。以下は作戦の概要を時系列で記載する。
- 8:00 上麻生ダムのゲートを全開にして、上麻生ダム湖の貯水を全て放流する。同時に上流の名倉発電所では全出力運転を行い、名倉ダム湖の貯水を可能な限り使用し下流への放水を可能な限り抑える。
- 9:50 名倉発電所の運転を急停止し、名倉ダムからの放流を開始する。
- 10:00 上麻生ダムのゲートを全閉にして、貯水を開始する。同時に上麻生発電所はダム湖から可能な限り取水を行い全出力運転を行い、ダム湖の満水を少しでも遅らせる。
このゲート全閉によってダム直下流の飛騨川は流量がゼロとなって、ため池のような状態になった。そして六号車は転落地点から900メートル下流の川底から半分砂に埋もれ岩に引っかかった状態で見つかる。30分後の10時30分、ダム湖が満水になり危険な状態となったので捜索隊全員に退避命令を下し、再度上麻生ダムは放流を始めた。上麻生ダムは発電専用ダムであり、洪水調節機能は持たない。しかも1925年(大正15年)完成の古いダム[6]である上総貯水容量はわずか24万トンしかなく、豪雨時にはいつもゲートを全開にしていた。玄倉川水難事故の際にも取り沙汰されたが、洪水調節機能がなく貯水容量の少ないダムの場合、増水時におけるゲート閉鎖はダム本体の決壊という重大な影響を及ぼす可能性がある。しかし飛騨川バス転落事故に際しては緊急事態であったこと。もはや生存者の発見は絶望的とはいえ、あくまで可能性がある人命救助のためという考え方による異例の緊急措置であったが、難航する捜索活動に大きく貢献した。
この「水位零作戦」は翌8月23日と24日にも再度実施され、ようやく六号車の引き揚げに成功する。しかし、車体はひらがなの「く」の字に折れ曲がり、屋根も座席等もえぐりとられて見る影もなく、五号車よりもさらに無残な状態で、子供の1遺体が発見されただけだった。濁流による水圧がどれほどすさまじいものだったかを、あらためて捜索隊に見せつけた。下流の捜索が必要として今度は川辺ダムの人造湖である飛水湖に捜索範囲が拡大し、川辺ダムの貯水を全放流して飛水湖を空にした。1937年(昭和12年)に川辺ダムが完成してから初の試みであった。空になった飛水湖に捜索隊1,000名が入って捜索を行った。
被害と影響
行方不明者はすべて急流渦巻く飛騨川に投げ出されており、事故の翌日には知多半島にまで遺体が漂着したため、捜索は下流の広い範囲に拡大されていった。最終的には、陸上・海上・航空自衛隊員9,141名を始め、警察・消防、バス会社・名鉄グループの関係者など、のべ36,683名が投入され、飛騨川・木曽川、さらには伊勢湾まで1か月以上にわたり捜索が続けられたが難航する。魚が死体を食っているという根拠のない風評被害で伊勢湾の漁業者が打撃を受けるほどだった。多くの遺体は堆積した土砂に埋もれており、重機ですくっては消防車の高圧放水で洗い流すという措置までとられたが、最終的には9名の遺体が未回収となっている。収容された遺体も腕だけが発見されたりするなど航空機事故さながらに損傷が激しく、DNA鑑定のない時代でもあり身元特定は困難を極め、取り違えによるトラブルまで起きた。
結局、2台のバスに乗っていた3歳から69歳までの乗員・乗客107名のうち、当時30歳だった5号車の運転手と21歳の添乗員、家族4人でツアーに参加していた14歳の男子中学生の3名が転落の途中で割れた窓ガラスから投げ出されたことで立ち木に引っかかった、といった理由で奇跡的に生還したのみで、死者104名とバス事故史上最悪の惨事となった。
乗客は大幸住宅、仲田住宅、千種東住宅、若水住宅、引山住宅、天神下住宅の団地住民で、ファミリー向けのツアーだったことから、一家全滅が4家族発生している。そのうち、中日新聞の社員一家を除いた市営引山住宅の3家族は、いずれも旧満州からの引揚者だった。乗客で唯一生存した中学生も大幸住宅に両親と姉と住んでいて、家族全員をこの事故で失っている。戦後の混乱が収まり、高度経済成長のなかで、ようやく家族で旅行を楽しめるようになった本格的旅行ブームのなかでの大惨事だった。
産経新聞の記者が伝えたエピソードに次のようなものがある。
- 事故の一報を聞いて、大阪からタクシーを飛ばし、現地取材していた記者が、はるばる仙台から遺体安置所を訪れた男性と遭遇する。取材すると、名古屋の実家に帰省していた妻と娘二人が事故に遭遇し、一家で彼一人だけが取り残されたという。敬虔なクリスチャンなのか、妻の遺体が入った棺を前に「神の与えた試練です」とインタビューにきわめて平静に応じていた。くだんの記者が「ちょっと冷たすぎるのでは?」と思うほどの落ち着き払った態度だった。数日後、新たに女の子の遺体が事故現場近くで引き上げられたという情報が 遺体安置所に流れ、多くの人が現場に駆けつけたが、そのなかにあの男性もいた。彼は50メートル上の国道41号から、見る影もない遺体を見るや、瞬時に判別して娘の名を絶叫し、足場の悪い崖を一気に駆け下りて遺体に抱きつき、もらい泣きする周辺の救助隊員たちの手を借りることなく、号泣しながら道路まで駆け上がってきたという。
この男性のように、家族をすべて失った人も少なくない。大幸住宅に住んでいたツアー主催の「奥様ジャーナル」社長も、5号車に乗っていた妻と長男を失い、なおかつ大惨事をもたらした当事者として、被告人とし法廷に立つこととなる。
事故の要因
現在でもそうであるが、前述のように集中豪雨は降水量の正確な予報を出すことが難しい。また、当時は気象警報の発表をリアルタイムで知ることが困難だった。ただし、国道の危険箇所への行政の対応は万全とはいえなかっただろう。生存した運転手たちは、地元消防団の警告無視など業務上過失致死の容疑があるとして書類送検されたが、1972年、岐阜地裁は、消防団の警告に従わなかった運転手の判断に誤りはあったものの、災害回避に全力を尽くしたなどの理由で無罪の判決を言い渡した。主催者「奥様ジャーナル」社長の状況判断も裁判で問われたが、過失の認定はされず、無罪となった。
偶発的な誤った判断に伴う人災に、悪い偶然が重なるという、自然災害によってもたらされる大惨事にありがちな悲劇だったといえる。
天心白菊の塔
1969年(昭和44年)8月18日、一周忌を迎えて事故現場近くの国道41号脇に慰霊のため「天心白菊の塔」が建立された。題字は当時の内閣総理大臣であった佐藤榮作による。塔の脇にある碑文には次の通り記されている。
昭和43年8月17日夜半から18日未明にかけこの中濃地方を襲った豪雨の為、41号線上で避難していた観光バスが、山間から流出してきた土石流に押し流され、濁流渦巻く飛騨川に転落水没し、一瞬にして命を奪われた104名の魂と、時を同じくしてこの地方で豪雨災害のため亡くなられた14名の魂を偲ぶために、全国からの浄財で建立された。
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偶然にも、この日に現場から1キロ下流の河原で白骨化した男性の遺体が発見された。乗客で唯一の生存者である中学生は、以下のような追悼文を朗読している。
お母さん、私は昨日も夢の中でお母さんに会いました。お星様の中からお母さんの優しい顔が私を見つめていたのです。いくら呼んでもお母さんは返事をしてくれません。悲しくなって目を覚ますと私の顔は涙に濡れていました。でも今日、亡くなった人たちのおうちができました。皆さん仲良く暮らしてください。二度とこのようなことがないように、塔の中からしっかり見守っていてください。
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この中学生も後に孤独感から自殺している[7]。
現場近くの上麻生発電所員により、毎月清掃活動が続けられている。なお、慰霊祭は毎年命日である8月18日に「天心白菊の塔」で行われてきたが、遺族たちも高齢化し、2002年に実施された33回忌を期に遺族会は解散した。2008年8月18日に事故から40年目の慰霊祭が白川町仏教会の主催で実施され、遺族のほか白川町長、町会議員など約60人が参列している。その際、2006年に死去した遺族会会長の息子により、かつてバス会社社長から遺族会に贈られたブロンズ製の母子観音像が初めて会場に安置された。
対策
事故の責任をめぐり、不可抗力の天災か、主催者および旅行会社・バス会社の判断ミスによる人災かが争点となった。当時第2次佐藤内閣の内閣総理大臣であった佐藤榮作は事故発生を知ると、その翌日には対策に乗り出し、「岐阜バス事故対策連絡会」を内閣に設置。道路管理には瑕疵(かし)がないことを前提にした上で、自動車損害賠償責任保険(自賠責)の適用を軸とした遺族補償が可能かどうかを関係省庁に検討させた。
だが現地を調査した損害保険会社調査団や刑事責任の有無について現場検証を行った岐阜県警は事故の原因となったがけ崩れは不可抗力であり、バス会社への業務上過失致死傷罪は問えず、自賠責保険は「無責」として支払いの対象外であるとの認識が下された。この岐阜県警の判断は9月26日に国家公安委員会が追認している。また岐阜地方検察庁も不起訴とした。
しかし佐藤内閣は交通行政の主務官庁である運輸省に命じて独自の調査を行い、その結果、当時の運輸大臣であった中曾根康弘が10月11日に見解をまとめて閣議で報告した。すなわち、自賠責法第三条における完全無責の条件は業務上の過失がないことを完全に証明できた場合にのみ適用され、飛騨川バス転落事故の場合は運転を行った岡崎観光自動車が事故発生を未然に防ぐための注意義務に欠けていたため、業務上過失責任は立証されるとして自賠責の対象とするべきであるとの結論であった。
この運輸省による結論は閣議で承認され、4日後の10月15日より特例での自賠責保険支払いが殉職した運転手を除く全遺族に支払われることとなった。またこの一件は後に道路施設賠償責任保険が誕生する契機にもなった。
一方、遺族は10月に「飛騨川バス事故遺族会」を結成。天候が不順であるにもかかわらずツアーを決行した主催者の奥様ジャーナルと後援の名鉄観光サービス、および運転を担当した岡崎観光自動車の三社に対して損害賠償を求めた。交渉は半年近くに及んだが翌1969年(昭和44年)3月9日、総額4,090万円(当時の金額)での補償案に合意し、示談が成立した。
しかしながら、国が当初から道路管理は適正と主張していたことに対して不満を持っていた遺族会は、国道41号の整備が不良であるために起きた人災であるとして国の国道管理に対する責任を問うため、一周忌に併せて開かれた遺族会において訴訟を行うことを満場一致で採択。総額6億5,000万円の国家賠償を求める訴訟を名古屋地方裁判所に起こした(飛騨川バス転落事故訴訟)。名古屋地裁は1973年(昭和48年)3月30日の第一審判決において、「国の過失六割、不可抗力四割」と認定して約9,300万円の賠償を国に求める判決を下したが、原告の遺族会はこれを不服として控訴した。1974年(昭和49年)11月20日の名古屋高等裁判所の控訴審判決は、土石流を防止することは当時の科学技術の水準では困難であったとして道路自体の欠陥は否定しながらも、事故現場付近で斜面崩壊が起きる危険性は予測可能であったとし、通行禁止などの措置をとらなかったことを瑕疵と認めるなど原告側主張を全面的に認め、国に約4億円の支払いを命じている。国側は上告せず、結審した。
この事故は多くの教訓を残したが、特に災害時における国道の防災体制が整備される契機となった。事故の翌月には全国の国道で総点検が実施されていたがこれは後に「道路防災点検」として制度化され、5年ごとに実施されるようになった。また雨量にもとづく事前通行規制も制度化され、一定量以上の降水量が記録された場合にはゲートを閉じて国道を通行止めにする対策が採られた。この雨量規制は現在は国道だけでなく都道府県道などすべての道路において、沿線に常住人口がいない山岳部の区間で実施されている。現場の国道41号は連続雨量が80ミリを超えた場合、加茂郡七宗町中麻生の上麻生橋から白川町の白川口までが通行止めになると定められている[8]。なお、この基準は道路や区間により異なる。
年 | 月日 | 時刻 | 動き |
---|---|---|---|
1968年 (昭和43年) |
8月17日 | 8:30 | 岐阜地方気象台、岐阜県下に大雨洪水雷注意報を発表。 |
17:15 | 岐阜地方気象台、岐阜県下の大雨洪水雷注意報を解除。 | ||
21:30 | ツアー一行、愛知県犬山市の成田山名古屋別院大聖寺に集合。 | ||
22:00 | ツアー一行、犬山を出発。 | ||
22:30 | 岐阜地方気象台、岐阜県下に大雨警報を発表。 | ||
23:00 | 加茂郡白川町(事故現場近く)三川小学校観測地点で時間雨量が100ミリを超える。国道41号、各所で寸断される。 | ||
8月18日 | 0:00 | ツアー一行、中継地の岐阜県益田郡金山町(現在の下呂市)に到着。悪天候により引き返すことを決定。 | |
1:31 | 上麻生ダム付近でがけ崩れ発生、一号車から七号車までの六台が国道41号で立ち往生する。 | ||
2:11 | 五号車・六号車、がけ崩れの直撃を受け飛騨川に転落。飛騨川バス転落事故発生。 | ||
運転手ら、上麻生ダム見張所に救援要請。見張所職員と消防団員、上麻生発電所に通報し残余のバス乗客を避難させる。 | |||
5:40 | 上麻生発電所、岐阜県警加茂警察署に事故第一報を通報。 | ||
警察、消防が現場に急行。岐阜県知事、陸上自衛隊に災害派遣要請を行い、守山駐屯地から自衛隊員が出動。 | |||
8月19日 | 飛騨川の水位を下げる。 | ||
10:30 | 五号車、河岸の中段で発見。26遺体を収容。 | ||
知多半島に事故被害者の遺体が漂着する。 | |||
8月21日 | 0:00 | 「水位零作戦」了承される。 | |
陸上自衛隊豊川駐屯地、海上自衛隊横須賀基地より六号車引き揚げのための増援部隊が招集される。 | |||
8月22日 | 8:00 | 第一次「水位零作戦」が開始される。上麻生ダム放流・名倉発電所全出力運転開始。 | |
9:50 | 名倉発電所運転停止・名倉ダム放流開始。 | ||
10:00 | 上麻生ダム放流停止。飛騨川の水量がゼロになり、六号車が川底から発見される。 | ||
10:30 | 上麻生ダム満水になり、再び放流開始。 | ||
8月23日 | 第二次「水位零作戦」が開始される。 | ||
8月24日 | 第三次「水位零作戦」が開始される。六号車が収容され、1遺体が発見される。 | ||
下流にある飛水湖の捜索開始。 | |||
8月25日 | 木曽川へ捜索を拡大。 | ||
9月 | 伊勢湾まで捜索を拡大。最終的に95遺体を収容するが、9遺体は発見できず。 | ||
10月11日 | 第2次佐藤内閣の運輸大臣・中曽根康弘、自賠責による特例補償を行う方針を閣議で報告、閣議これを了承する。 | ||
10月15日 | 各損害保険会社、閣議の決定に基づき遺族に自賠責保険の支払いを開始する。 | ||
10月18日 | 秩父宮妃、慰霊献花のため現場を訪問。 | ||
10月 | 被害者遺族、「飛騨川バス事故遺族会」を結成。 | ||
1969年 (昭和44年) |
3月9日 | 第五回遺族会総会開催。主催者側(奥様ジャーナル・岡崎観光自動車・名鉄観光サービス)との示談が成立する。 | |
8月18日 | 事故現場に天心白菊の塔が建立され、一周忌が執り行われる。この際1遺体が発見される。 | ||
8月 | 遺族会、国の道路行政の責任を問い行政訴訟(飛騨川バス転落事故訴訟)を名古屋地方裁判所に起こす。 | ||
1973年 (昭和48年) |
3月30日 | 事故訴訟の名古屋地方裁判所第一審判決が下る。原告・被告双方が判決を不服として名古屋高等裁判所に控訴する。 | |
1974年 (昭和49年) |
11月20日 | 事故訴訟の名古屋高等裁判所控訴審判決で原告遺族全面勝訴。国は上告せず補償金を支払い、判決が確定。 |
補足
ちなみに、この時の豪雨は地元の人間にとっても普段の比ではなく凄まじいものであった。
この事故の現場からほど近い旧日本国有鉄道(国鉄)高山本線の白川口駅の駅長は、経験のない程の豪雨に恐怖と不安を感じ、その豪雨の中やってきた列車に駅長判断として青信号(進行現示)を出さなかった。列車が遅れており苛立つ乗客に詰め寄られても頑として拒んだという。
果たして駅長の勘は当たっており、上述した様に白川口駅付近で路盤崩壊が発生しているのが発見された(上麻生駅 - 白川口駅間が9月12日まで不通となる)。当時の高山本線はまだCTCが運用されておらず[9]、進行現示を出していれば列車が突っ込みこちらも大事故になっていたであろうと言われている。
なお、東海旅客鉄道(JR東海)移管後の高山本線はCTCによる監視がなされており、白川口駅は白川町による簡易委託駅になっている。
現場付近の高山本線は国道41号の対岸を走っているため、その後も事故当時の面影が残っているのを車窓から確認できる。
脚注
- ↑ のちに合併により名鉄東部観光バスを経て現在は名鉄観光バス岡崎営業所
- ↑ 今日でいうフリー・ペーパーのはしりで、1963年に創刊され、2014年廃刊。
- ↑ 四号車は験を担いで欠番となっていたが、結局三、五、六号車で死者を出した。
- ↑ 守山駐屯地
- ↑ 自衛隊においては、旧軍や諸外国の軍隊同様、戦時以外においても目標を達成するための計画的行動を「作戦」と呼んでいる。
- ↑ 1964年(昭和39年)に改定された河川法におけるダムの規定は高さ15.0メートル以上であり、高さ13.2メートルの上麻生ダムは法律上では堰にあたる。
- ↑ 新潮45第26巻2号 「飛騨川バス転落事故104人死亡の惨劇」
- ↑ ただし、30年後の1998年9月25日にも現場付近で土砂崩れが発生し、車両90台が閉じ込められている。幸い、人的・物的被害はなかった。
- ↑ 高山本線は本線格ながらも災害が多発する、国鉄にとってもある意味特異な路線で、地方路線としては1968年時点では異例のCTC整備が行われた。この事故はその1ヶ月半前に発生している。
参考文献
- 岐阜県庁ホームページ 「飛騨川バス転落事故」
- 日新火災 飛騨川バス事故と日新火災
- 「ブンヤのたわ言」(産経新聞記者による事故取材体験談)
- 新潮45第26巻2号 「飛騨川バス転落事故104人死亡の惨劇」:2007年2月
- 第059回国会衆議院交通安全対策特別委員会第3号(国会会議検索システム)
- 第059回国会衆議院災害対策特別委員会第3号(国会会議検索システム)
- 1968年ニュースダイジェスト(「ニコニコ動画」)
関連項目
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