大野伴睦
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大野 伴睦(おおの ばんぼく、1890年9月20日 - 1964年5月29日、本名は「伴睦」を「ともちか」と読む)は日本の政治家である。岐阜県山県郡美山町(現・山県市)出身、明治大学政治経済学部中退。立憲政友会の院外団に入り東京市会議員を経て中央政界に入った典型的な党人政治家。衆議院議員選挙に通算13回当選して、北海道開発庁長官、衆議院議長や自由民主党副総裁を歴任した。従二位勲一等旭日桐花大綬章。
運輸大臣・労働大臣を務めた大野明は伴睦の四男。また、大野つや子前参議院議員は明の妻で伴睦の嫁にあたる。岐阜県議会議員の大野泰正は明・つや子夫妻の次男で伴睦の孫。
略歴[編集]
- 1930年 第17回衆議院議員総選挙に岐阜1区から出馬して初当選。政友会鳩山派に属す。
- 1939年 政友会の分裂に際し、鳩山一郎とともに正統派(久原房之助派)に所属。
- 1941年 同交会の結成に参加。
- 1942年 非推薦で翼賛選挙に立候補するが落選。
- 1945年 日本自由党の結成に参加した。
- 1946年 第22回衆議院議員総選挙に自由党公認で立候補し当選して国政復帰。幹事長の河野一郎が公職追放されたのを受け吉田茂のお目付け役として後任の幹事長就任。
- 1948年 昭電事件に連座し起訴される。
- 1951年 昭電事件の裁判で無罪判決。
- 1952年 衆議院議長に就任。
- 1953年 第5次吉田内閣に国務大臣・北海道開発庁長官として入閣、次いで自由党総務会長に就任。
- 1954年 三木武吉と和解し、保守合同を進める。
- 1955年 自由民主党結成で総裁代行委員に就任。
- 1957年 初代自民党副総裁に就任。
- 1960年 岸信介首相退陣後の総裁選出馬を表明したが直前で断念、党人連合を組み石井光次郎を支持したが池田勇人に敗れる。
- 1961年 池田に接近し再び自民党副総裁に就任。
- 1964年(昭和39年)5月29日 心筋梗塞により死去。享年73。
エピソード[編集]
- 政界入りは政友会の院外団と衝突したことで三多摩壮士のドン・村野常右衛門にスカウトされたのがきっかけである。
- 院外団時代に衝突事件を起こして逮捕された時に起訴をした検事・小原直から法廷で「本当ならば極刑に処すべきだ」とまで言われてしまった。ところが第5次吉田内閣で入閣した時に、同じく政治家に転身していた小原も法務大臣として入閣する事になった。その際、首相の吉田茂に対して冗談交じりに「ここに私を極刑にした方がいいとおっしゃった方がいるのですが同席してもいいのでしょうか?」と訊ねた。
- 旧政友会時代からの鳩山一郎の側近であり吉田茂とは対立関係にあったが、鳩山の追放解除後は三木武吉、河野らと対立し吉田派に転じた。特に戦前は政友会とは対立関係であった立憲民政党出身でありながら、戦時中の翼賛議会以後に急速に鳩山と接近してその無二の腹心となった三木に対しては激しい反発を持っていた。
- 林譲治・益谷秀次とともに「党人御三家」と呼ばれた。
- 1952年8月26日に衆議院議長に就任したが、わずか2日後に抜き打ち解散が行われてわずか3日で議長職を失う。10月の議長選挙で再選されたものの、今度は5ヵ月後にバカヤロー解散が行われた。
- 岸内閣時代に当時の岸首相から大野派を主流派として内閣に協力させることの見返りに後継総裁の念書をもらったが反古にされた(この密約自体は孫である安倍晋三が「祖父から直接聞いた」とテレビ等で発言しており、その際に岸は「政治家は目的のためになら嘘をついてもかまわない」と語ったという)。この事を岸は「床の間に肥溜めをおけるわけがない」と言い放ったという(コメントに関しては俗説との意見もあり)。この出来事がきっかけ大野は終生岸のみならず弟の佐藤栄作にまで強い反感を抱くようになり「俺の目が黒いうちは佐藤は総裁にさせない。」とうそぶくほどであった。(ただし佐藤に対しては、もともと佐藤が当選前に官房長官についたころから態度がでかい官僚だとして毛嫌いしていた。)また岸が首相辞任直後に右翼に襲撃され負傷した際には「ざまあみやがれあの法螺吹きが。」と発言したという説もある
- 「伴ちゃん」の愛称で親しまれ「政治は義理と人情だ」「猿は木から落ちても猿だが、代議士は選挙に落ちればただの人だ」等の名言を残した。政治に限らず義理と人情に関してのエピソードについて、自分の選挙区とは関係もないある老婦人から「家の近くのドブ板に整備を役所に頼んでも一向にやってもらえない」と訪ねてきた。伴睦が早速役所に電話すると今まで老婦人の声を聞き入れもしなかった担当課長が菓子折りを持ってきて謝罪し、すぐに作業が始まった。他にも伴睦が在宅の際、自宅に泥棒が入ってきて外遊のために用意していた金を渡し、「今これだけしかないがもっといるのか?」と聞いた。泥棒は伴睦の思いもよらない対応に呑まれ、逆に「これから一生懸命働いて、必ずこのお金をお返しに行きます」とまで言わしめた。また、事務所に全く見知らぬ青年が駆け込んできて「お金を貸してください」と言ってきたとき、伴睦は全く疑いもせず快くお金を貸したこともあった。以上のような態度・対応をとったのは、政治家のところに泥棒に入ったり金を借りにくるのはよほど困ったことがあったのだから、できるだけのことをしてやろうという考え方があったではないかといわれている。
- 犬養健の吉田自由党入りを拒否する姿勢を見せるなど、犬養のことを相当嫌っていた。しかしその後、造船疑獄による指揮権発動で犬養一人だけが責任を取らされると、犬養に同情して急速にその仲が接近した。犬養を大野派に客分格として迎え、再び入閣させて犬養の名誉回復を図ろうと苦心したと言われる。大野の人情に厚いエピソードである。
- 地元岐阜県に東海道新幹線岐阜羽島駅を誘致したとされ、政治駅と騒がれた(鉄道と政治も参照)。2008年現在も岐阜羽島駅前には大野夫妻の銅像が立つ。産経新聞の「戦後史開封」によると、岐阜県は岐阜市または大垣市への新幹線駅設置を要望するが、その場合、新幹線路線を大幅に迂回しなくてはならないため、建設予算や名古屋駅以西の所要時間が延びる関係上、国鉄は難色を示した。これに地元は激しく反発し、一時国鉄は岐阜県内での測量ができない状態になった。この為国鉄が大野に斡旋を依頼し、結局新幹線路線を迂回させること無く岐阜羽島駅の設置となったらしい。なお、国鉄樽見線(現在の樽見鉄道樽見線)の建設にも関わり、セメント工場を誘致したのも彼の働きかけだということは意外に知られていない。
- 国道293号の国道指定に尽力したため、この道の栃木 - 茨城県境の峠は「伴睦峠」と名付けられている。
- 渡邉恒雄は政治記者時代、彼の番記者だった。渡邉が来ると、常に人払いをするほど親密だった。
- 酒豪として知られ「酒は飲む以上わけがわからなくなるまで飲むべきだ」という名言がある。
- 俳人としても有名で、万木(ばんぼく)の俳号で多くの俳句を残した。そのうちの一部は句碑になっている。
- 総裁・総裁になれなかったことについて、自民党内からは「肥え桶は床の間に置けないから」という評があった。
- 力道山を可愛がり、プロレスのコミッショナーを務めていたことでも知られている。力道山も伴睦を非常によく慕っており、伴睦から「酒を控えろ」と言われた際には(粗暴な性格だった本人も)素直に控えたという。
- キリスト教団体美濃ミッション排撃運動を推進し「市民は合法的に、実力で美濃ミッションを閉鎖せよ」と述べた。
政治語録[編集]
- 「政治は義理と人情だ」
- 「猿は木から落ちても猿だが、代議士は選挙に落ちればただの人だ」
大野伴睦関連の映画・オリジナルビデオ[編集]
- 『やくざ戦争 日本の首領』(1977年、東映)、小野伴水のモデルは、大野伴睦。小野伴水役は、神田隆
関連項目[編集]
- 岐阜羽島駅
- 衆議院議長
- 立憲政友会
- 益谷秀次
- 林譲治 (政治家)
- 明治大学の人物一覧
- 自由民主党副総裁
- 池上本門寺・・・大野の墓所がある。また彼と親交の深い者の墓所も多数あり、色々な意味で興味を惹かれる。
- 船田中
- 村上勇
- 上草義輝・・・元秘書
外部リンク[編集]
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