平岡瑤子
平岡 瑤子(ひらおか ようこ、1937年(昭和12年)2月13日 - 1995年(平成7年)7月31日)は、三島由紀夫の妻。三島死後の数々の関連書籍の出版停止・回収・絶版騒動でよく知られる。
略歴
1937年(昭和12年)2月13日、父・杉山寧(画家)と母・元子の間に長女として生まれる。幼時より能に親しんで育つ。日本女子大学英文科在学中の1958年(昭和33年)6月1日、作家・三島由紀夫と見合い結婚(媒酌人は川端康成)。大学は2年で中退した。ジョン・ネイスン『三島由紀夫―ある評伝』によると、同性愛者の三島はもともと結婚を考えていなかったが、癌と診断された母・倭文重を安心させるために取り急ぎ瑤子と結婚したという(癌については、のち誤診であることが判明)。しかし実際には、母・倭文重の病気発覚以前の1957年(昭和32年)、三島は、独身時代の皇后美智子とも食事を兼ねたお見合いらしきものをしている[1]。ちなみに、同年3月、正田美智子が首席で卒業した聖心女子大学卒業式を三島は参観していた。さらに1954年(昭和29年)8月から約3年半、三島と交際していた後藤貞子(旧姓・豊田貞子)という結婚寸前の女性もいた[2]。また1952年(昭和27年)に遡ると、川端康成の養女・政子との結婚を川端夫人・秀子に切り出して断られたこともあった。
三島は瑤子を選んだ理由について、芸術家の娘であり、芸術家に対して何ら幻想を持っていないからだと語った。そして以前、ハイヒールを履いても僕より背の高くない人が花嫁候補と語っていた理由から、三島よりも瑤子がさらに小柄だった点も挙げられる。また、ジョン・ネイスンの憶測では、父親が高名な画家ではあっても杉山家は取り立てて誇るほどの家柄でなく、平岡家がコンプレックスを抱く必要がなかった点があるという。しかし一方、瑤子と三島のお見合いを仲介した湯浅あつ子(ロイ・ジェームスの妻)の証言によると、杉山家との最初の面会の後、三島は縁談を断っていたのだという(理由は、娘が大学在学中にも関わらず、自分との縁談を急ぐ杉山元子夫人とその実家に、あまりよくない印象を受けたため)。結局は瑤子本人の、三島との強い結婚への意志と要望で、両家の直の話し合いの末に結婚の運びとなったという。実は瑤子の方が三島に会って、すぐに気に入っていたというのが真相だという[3]。
ジョン・ネイスンによると、表向き瑤子は三島と仲睦まじく、数度にわたる三島の世界一周旅行に随行し、自宅でパーティを開くのが好きな三島に調子を合わせて西洋風の女主人の役を務めるなど、家庭面で三島を支え、1959年(昭和34年)6月2日に長女・紀子を、1962年(昭和37年)5月2日に長男・威一郎を出産したが、蔭では結婚後も頻繁に続行する三島の同性愛関係に厳しく警戒の目を光らせていたという。しかし、このネイスンの「頻繁に続行する三島の同性愛関係」というものが、本当にあったという定かな客観的事実関係はない(福島次郎の愛人告白も自称に留まっている)。野坂昭如『赫奕たる逆光 私説三島由紀夫』によると、瑤子は三島とレストランで食事中、衆人環視の中で三島をヒステリックに面罵したこともあったという。この間、1960年(昭和35年)にはスポーツカーレースへの参加を希望したものの、三島の許可が得られず断念したこともある[4]。しかし、湯浅あつ子によると、瑤子夫人の嫉妬の対象は男女を問わず、三島の仕事仲間の女優や過去の交友にまで及んでいたのだという[5]。
セギュール夫人のLes petites filles modèlesを『ちっちゃな淑女たち』の題名で、松原文子(あやこ)と共訳し、1970年(昭和45年)7月、小学館から刊行(序文および訳文監修は三島が担当)。同年11月25日に三島が割腹自殺(三島事件)後は、1971年(昭和46年)、三島瑤子名義で夫の遺作「天人五衰」のカバー画を描いた他、1972年(昭和47年)、『定本三島由紀夫書誌』(島崎博と共編、薔薇十字社)を完成する[6]など、三島の蔵書や遺稿の保存整理に心を砕いた。三島邸を由紀夫在世当時のままの状態で維持することにも努力したが、折々の息苦しさから逃れるため、三島邸とは別に小さなマンションを都内に求め、染付けの絵を描いたり、金属ビーズのハンドバッグを織ったりといった仕事で心を紛らせた。
1971年(昭和46年)2月28日、西日暮里の神道禊大教会で行われた楯の会解散式に出席した。杉山家は、神道と関係が深く、神道禊大教会は杉山家と縁があり、解散式の場所となったという。元楯の会メンバー(伊藤好雄)によると、瑤子は神道に関する造詣が深かったという[7]。1976年(昭和51年)7月5日、三島の小説・『午後の曳航 』を映画化した『The Sailor who fell from grace with the sea』(監督・ルイス・ジョン・カルリーノ)の試写会に倭文重と出席。帝国ホテルでの映画完成記念パーティーで、瑤子は日本語と英語で挨拶をした。1977年(昭和52年)3月3日、元楯の会メンバー(伊藤好雄)も加わった経団連襲撃事件に際して、犯人説得にあたる。
姑の倭文重に対して瑤子は、舅・平岡梓の没後、敷地内の和風屋敷から立ち退くことを強く求めた。1981年(昭和56年)、虎の門病院分院から退院した倭文重は、世田谷区用賀の老人ホーム「フランシスコ・ビラ」へ、次男・千之(三島の弟)の力添で入居する。そしてその春、瑤子は倭文重の住んでいた家を取り壊した。このことがマスコミに取り上げられると、瑤子は倭文重の高齢から来る脳軟化の兆しであると説明し、公表を差し控えるように依頼したという[8]。
1988年(昭和63年)9月9日、東京都中央区銀座に宝飾店「アウローラ」を長男の威一郎と共に開店する。1995年(平成7年)7月31日、東京都大田区南馬込の自邸にて、急性心不全で死去。営んでいた宝石店は、長男・威一郎がそのまま引き継いだ(後に閉店)。
人物像
元楯の会メンバー(伊藤好雄)は、「先生の奥さんは、よく知られているように、杉山寧画伯のお嬢さんなんですが、『お嬢さん』とか、『上流夫人』などというイメージとはほど遠い、下町のガラッパチのお姉さんみたいな気っ風のいい人なんです。先生にも、結構ズケズケものをいってましたし、僕らにもそうだった。奥さんを煙たがる隊員もいましたが、僕は日本橋育ちだから、奥さんのガラッパチな話し方とか、さばさばした性格にとても親しみを感じていまして、その奥さんに叱られたから、まいった」と言う。また、「人から聞いた噂では、先生と奥さんが不仲だった、と書いている物書きもいるようです。けれど、実際には、奥さんは、先生の思想には、とても理解がありました。奥さんは、右翼的な心性を持っていた。僕ら、『銃器を持った凶悪犯』が立てこもっている経団連に乗り込んでくるという行為そのものが、サムライ的だというのもありますが、そもそも右翼思想の素養があるんです。僕なんか、先生の思想形成に一番影響を与えたのは、奥さんじゃないかと、思いこんでいました」と語った[9]。
出版停止関連
三島の名誉や著作権の保護において、強硬にも見える断固たる対応を執り、話題となった(但し一部の書籍に関しては瑤子死後に出版されている)。
- 1974年(昭和49年)、『週刊朝日』12月13日号から始まった、紀平悌子(佐々淳行の実姉)の連載手記「三島由紀夫の手紙」に対して、書簡を無断で引用した著作権法違反にあたるとして抗議し、連載を中止に追い込んだ。
- 1976年(昭和51年)、先述のジョン・ネイスン『三島由紀夫―ある評伝』の日本語版が出版されたが、版元の新潮社に猛抗議をおこない、同書を全国の書店から回収させた。事実誤認と、「あとがき」から夫人が内容を容認したかの誤解を受けるとの申し入れにより、新潮社は本を回収し、発売中止とした。三島の同性愛生活に深く踏み込んだ内容や、瑤子との結婚のいきさつに関わる記述が逆鱗に触れたといわれている。但し、瑤子死後の2000年(平成12年)に新版刊行された。
- 1984年(昭和59年)、『フライデー』創刊号が三島の生首写真を掲載すると、版元の講談社に抗議し、同誌を店頭から回収させた。写真の出所について警視庁に調査を依頼する(警視庁撮影のものと思われるため)。
- 1985年(昭和60年)、『諸君!』1月号掲載の伊達宗克・徳岡孝夫によるインタビュー「三島家十四年の歳月」で、三島との生活や割腹事件後のマスコミへの対応を語る。
- 1985年(昭和60年)7月、三島の学習院時代の親友三谷信が『級友 三島由紀夫』を笠間書院から刊行。瑤子は三島の私信の無断引用に抗議し、同書の回収を要求、絶版に追い込んだ。しかし、瑤子死後の1999年(平成11年)に中公文庫で再版された。
- 瑤子の死後、1998年(平成10年)に刊行された『三島由紀夫―剣と寒紅』(三島との愛欲の日々を書いた実名小説)に対し、長女・冨田紀子と長男・平岡威一郎が、同書の出版差し止めを求める仮処分を東京地裁に申請する。書簡を無断で公表、複製するのは著作権法違反だとして、著者の福島次郎および文藝春秋を提訴し、2000年(平成12年)11月に勝訴が確定した。
- 2005年(平成17年)8月、それまで現存しないと考えられていた、1966年(昭和41年)公開の三島の自主製作映画『憂国』のネガフィルムが、威一郎邸で発見されて話題を呼んだ。これは三島自刃の翌年の1971年(昭和46年)、同作品を忌避した瑤子夫人の要請により、上映用フィルムはすべて焼却処分にされたものの、共同製作者藤井浩明の「ネガフィルムだけはどうか残しておいてほしい」という要望で、瑤子夫人が自宅に密かに保存していたものであった。茶箱の中に、ネガフィルムのほか、映画『憂国』に関するすべての資料が数個のケースにきちんと分類され収められていた。ネガフィルムの存在を半ば諦めていた藤井浩明はそれを発見したとき、「そこには御主人(三島)に対する愛情と尊敬がこめられていた。ふるえるほどの感動に私は立ちつくしていた」と語った[10]。
脚注
- ↑ 徳岡孝夫『五衰の人─三島由紀夫私記』(文藝春秋、1997年、のち文庫化)、および『週刊新潮』2009年4月2日号「美智子さまと三島由紀夫のお見合いは小料理屋で行われた」
- ↑ 岩下尚史『見出された恋 「金閣寺」への船出』(雄山閣 、2008年)および、岩下尚史『ヒタメン 三島由紀夫が女に逢う時…』(雄山閣 、2011年)
- ↑ 岩下尚史『ヒタメン 三島由紀夫が女に逢う時…』(雄山閣 、2011年)
- ↑ ジョン・ネイスン『新版・三島由紀夫─ある評伝』pp.179-180(野口武彦訳、新潮社、2000年)
- ↑ 岩下尚史『ヒタメン 三島由紀夫が女に逢う時…』(雄山閣、2011年)
- ↑ 序文で僅かだが回想がある。
- ↑ 伊藤好雄『召命 隊長三島の決起に取り残されて』
- ↑ 越次倶子『三島由紀夫 文学の軌跡』p.96(広論社、1983年)
- ↑ 伊藤好雄『召命 隊長三島の決起に取り残されて』
- ↑ 藤井浩明「映画『憂国』の歩んだ道」(決定版三島由紀夫全集別巻・映画「憂国」ブックレット内)(新潮社)