人間
この項目では、人間について説明しています。その他の用法については「人間 (曖昧さ回避)」をご覧ください。 |
人間(にんげん)とは、社会的なありかた、関係性、人格を中心にとらえた、生物「ヒト」の別名である。また、その存在のありかた全体を指すこともある。関係性に着目するために「人 - 間(あいだ)」という名称があてられたとされている。人間の学名は「ホモ・サピエンス」(学名: Homo sapiens, 知恵のあるヒトの意)で、言語や文化など、生物学的存在以上に多くの側面を備えているとされている。
人間は、生物学上は、動物界・脊椎動物門・哺乳綱・霊長目・真猿亜目・狭鼻下目・ヒト上科・ヒト科・ヒト属・ヒト種に属する生物とされ、カタカナを用いて「ヒト」と呼ばれている。(生物学上の人間については、「ヒト」の記事を参照)
性質
人間の特徴として、社会を形成する傾向や言葉を使うことが挙げられる。また、他にも様々な性質がある。
人間は文字や言語を抽象的なシンボル(象徴)として扱ったり、論理思考(論理学)を行い、多様な事象に様々な解釈を行う。多くの研究者の主観では知能は地球上の全ての生物の中で最も高度であると考えられている。
好奇心や知識欲は比較的旺盛で、その多くは少なからず自身の関心事に対して「知ること」と「考えること」を好む性質も見られる。一般的には、様々な意味で人間自身が最も人間の関心を引くようである。
人間には、知識だけでなく、自らの精神や心にも注意を向ける個体がいる。「心のありかた」や感じ方そのものを探求するだけでなく、それを自ら積極的に変革する努力を行うこともあり、例えば瞑想や内観などを行うこともある。宗教体系を持ち、それによって生活様式を整えている人間も多い(例えばアブラハムの宗教の信者だけでも30億人を超えている)。
道具を作り利用する能力が他の生物よりも長けていることも挙げられる。現在では機械装置といった高度化した道具を作り利用する事で、ほぼ他の生物が生存不可能な極限環境でも生活することができるまでになっている。ただし極限環境での生活は一般に負担が大きいため(コスト等)、大抵は着衣のみの調節で生活可能な地域に分布している。
その他の生物的な特長としては、雑食性であることも挙げられる。農業(農耕・牧畜)・漁業などといった食糧の生産や獲得を組織的に行う事から、食物連鎖の頂点の一部にいると現在では考えられている。
生活様式は多様で、例えば食生活に限っても、肉食が多い集団、草食が多い集団、どちらも同程度に食べる集団があり、個人個人の違いも大きいため一概に言う事は出来ない。活動の時間帯についても、もともとは昼行性動物で暗くなれば殆ど何もしなかったが、火を使えるようになり、灯りを手に入れてからは夜間も活発に活動するようになった、とされている。この傾向は文明の発達と共に加速する傾向にあり、もっぱら夜間に行動する個体も増える傾向にある。
活動範囲は広く、熱帯雨林などの温暖な地域から、シベリア等の寒冷地帯、砂漠などの乾燥地帯など様々な場所に分布する。また道具の補助により、海中、空中、さらには地球外にまで進出している(もっとも21世紀初頭現在では月が最遠地点である)。
哺乳類の中では唯一、ほぼ全般的に直立二足歩行をすることができる。
身長は一般的に 140cm から 190cm 程度。ただし人種によってその傾向は異なる。また体毛は薄く、体温の保持については、もっぱら服を着る事で行なっている。
歴史
- 考古学的な人類の進化については、ヒトの記事参照。
現生人類は、アフリカで生まれ、その生息範囲を次第に広げ、中近東を経由してヨーロッパやアジア、さらに氷河期などの気候の変動も影響して南アメリカまで到達した。6000-5000年前にもなると、世界の様々な地域で農業が始まり、同時期に文明が発生した。そして、文明は範囲を広げ、現代ではヒトはそのほとんどが文明の下に暮らすようになっている。(初期の文明としてはナイル川、ユーフラテス川、インダス川、黄河流域に発生したものが有名ではあるが、これらの地域のみで文明が発生したとする「世界四大文明」という概念はほぼ否定されている)。
生活
その生息地域は極地を除くほぼ全ての地域である。特にアジアやアフリカに集中している。その中でもインドや中国の人口が特に多く、およそ三分の一を占める。
生活は民族間の差異が大きく、その中でも気候で暮らし方が違う。例えとしてみれば、日本では、沖縄などの亜熱帯気候では服が薄く、食べ物も暑さに負けないようなものが多いが、対して北海道では服を厚く着込み、食べ物は炭水化物などが多くなる。
そのため、各地域ごとにそれを探るのが適当であるが、最近はヨーロッパ、アメリカから派生した生活が主流となってきていて、違いが少なくなっている面もある。しかし、古い生活を大切にしようというスローライフ運動という運動も盛んとなり、また灯りによって夜間の活動が活発になるにつれ、生活習慣は個別化している。
人間の特徴と人間論
人類を他の生物種から際立たせる特徴は幾つかある。最もよくかつ古くから指摘される事は言語の発達使用と思考の能力である。知性をもつ生物は人間以外にもあるという指摘はあるが、言語の使用が人間が発達した社会をもつことを可能にした事は確かであろう。社会は大抵の場合人間相互の支配関係によって特徴付けられるため、古くから支配と権力の形態により社会を分類する事が行われてきた。
言語はコミュニケーション能力として社会の基礎を与えるだけではない。人間は世界を把握・言語化しそれを操作して快適さを追求し、又、外界の変化を行っている。又、人間は自らについて考察を行う。人間は古来より人間自身の思考の対象としてきた。人間と人間自らの行為を考察の対象とする学問には、倫理学、歴史学、考古学、人文地理学、文化人類学、人間学、心理学などがある。
なお人間は「社会にあるヒト」を指す言葉である。アリストテレスは人間を指して社会的動物と呼んだ。人間の社会に属さないヒトは一般に野人とも呼ばれ、人間の範疇の外にあると考えられる。
一般的ではないが、自我の発達が人格やアイデンティティの形成に繋がり、人間らしさを特徴付けるという考えもある。
人間と遊び
人間はその社会に於いて、生存に必要な消費物を余剰生産する段階にまで入っている。この余剰生産分は、非生産的な活動に従事する人間に供される。これら非生産的な活動は、所謂遊びと呼ばれる活動であるが、人間は余暇を遊ぶ事で、更なる生産性の維持を可能としている。
この余暇を生み出す生産性によって維持される遊びは、所謂文化と呼ばれる人間を人間たらしめている特長の原点であるともされ、又、多くの人間は趣味と呼ばれる非生産的な活動様式をもっており、自身の生活を購う労働とその生産物を消費する活動とは別に、この趣味を行う事を求めている。
動物では遊びを通して自身の能力を開発する様式を持っているが、これは成長の上で実利的な意味を持つのに対して、人間の遊びは実利的側面が無い場合も多い。人間の遊びや趣味は生物的に成熟した後でも続けられ、特に社会的な価値観(→常識)においては、趣味が有る人間の方が尊重される傾向すら見られる。
なお、人間は貨幣経済によりその生産力を貨幣単位に換算し、この単位を消費する事で遊ぶ事が出来る。
人間を活動面から特徴付けている要素として、この遊びに注目する学問も多い。詳しくは遊びの項を参照されたし。
人間観の遷移
今日、現代科学を信じる多くの人々は、我々人間が、猿から、ネズミのような哺乳類から、さらには、単細胞の微生物から進化してきたと知らされている。このような人間観は、ダーウィンの進化論が契機となりもたらされている。
かつては、人間自ら最も進化した生物として「万物の霊長」と称していた時代があったが、その進化した能力の故に、大量殺戮兵器を使用した世界レベルの戦争や、大量消費による自然破壊などの問題が続発し、現在では地球的観点での人間のあるべき姿が問い直されている。
備考・ホモサピエンス以外
近代以前の言語で日本語の「人間」に相当する表現が、ホモ・サピエンスを指し示さない場合がある。つまり、奴隷、農奴その他が自明当然の存在として扱われ、日本語の「人間」に相当する表現が「自由人」の意で用いられ、筆者自身がそのことを意識さえしていないという時代的制約がある場合である。一部の文献の解読に際しては注意しなければならないことである。
今日に於いて、所謂「人間」という表現が指している存在は、確認されているモノはヒト科ヒト属に属するヒトという動物以外には存在しない。これは現在の地球上に於いて、ヒトが作った分類学上の区分によるためであると同時に、ヒトがヒトの持つ文化を(部分的にではなく、包括的に)継承し得るのはヒト以外には無いためである。
しかし同時に、生れ付いての夢想家でもある人間は、このヒトならざるヒトとして、所謂宇宙人や人造人間等といった、想像上に於いてヒトと同等の能力を持った存在を想定する事が出来る。例えば、ヒトの文化を継承する事が可能で、又、実際に独自のヒトの文化を有する他種族が居たとして、これを我々人類の持つ文化圏の中に招き入れると仮定した場合、その扱いが争点となる。
古く人種差別等では他民族を排斥する上で、相手の民族を貶めるため、彼らが所謂「人間」ではない(野生の動物である)等という思想が存在した。今日では非常に忌避される発想ではあるが、このような考えが観念の上では常識とされていた時代もある。勿論その時代にあっても実際には相手も同じ人間である(子供も作れるし理解もし合える)ということを本能的に理解はしていた。そしてこのような差別的な考え方は現在では否定されている。
このような歴史を経て来た人類にとって、果たしてヒトという動物の中の一種族のみが人間と言えるのか、それとも文化や知能・またはそれ以外の何かしかのレベルの一定段階以上に在る存在が人間なのか…という問題が哲学や社会学などといった学術の分野でも、長らく論争の元となっている。
この問題は地球外生命探査の分野においても例外ではなく、もし地球外で発生した生命が、独自の文化や社会を形成していたとした場合に、どの段階から「人間として相手を尊重すべきか?」という問題も含み、議論を呼んでいる。(まだ見ぬ)彼ら地球外生命は我々人類を含む地球の生物とは全く別の進化系統・生態系に属していると考えられているが、彼らがその形質上において地球上の生物とは異なる存在であろうとも生命と認識されるのと同様に、その何等かの特徴を持って「人間」として扱うべきであろうと考えられている。(→地球外文明)
もし彼らが、我々の考える所の人道と同じ概念を共有出来るなら、それは即ち人間であるとする考えは、広くSF等の仮定や創作物の分野で見られる。その一方で知能の一定段階をもって人間とする考え方は古くからあったが、今日ではコンピュータ等の計算や論理思考を行う装置(人工知能)が普及した事にも関連して、やや曖昧な部分を含むようになってきており、この「人間か、機械装置か」というテーマを掲げたSF作品も少なくない(→チューリング・テスト)。「精神の有無」に関しては、精神が手にとって眺めたり、口にして味わったり、匂いを嗅いだり出来ない(現代科学では所定の計測方法が存在しない)、いまだその定義が議論(主に哲学)の対象となる概念のため、「人間かどうか」の判定方法としては利用出来ない。