「可愛かずみ」の版間の差分
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中学時代はバレーボール部に所属。その後、都内の女子高に進学。高校時代はレストランでアルバイトをしていた。幼少の頃は比較的大人しかったようだが徐々に元気で活発な少女に育っていったようである。また母親とは両親の離婚から生き別れになっており、姉が母親代わりだったと、19歳の時に可愛自身が語っている<ref name="myojo8501"/>。 | 中学時代はバレーボール部に所属。その後、都内の女子高に進学。高校時代はレストランでアルバイトをしていた。幼少の頃は比較的大人しかったようだが徐々に元気で活発な少女に育っていったようである。また母親とは両親の離婚から生き別れになっており、姉が母親代わりだったと、19歳の時に可愛自身が語っている<ref name="myojo8501"/>。 | ||
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+ | 芸能界にあまり興味はなく、元々は美容師になるつもりだったが、高校在学中にスカウトを受けてモデルクラブに登録。[[日活]]の宣伝用ポスターの仕事が舞い込み、引き受けるが、可愛は、脱がないといけない仕事だと知らなかった。「話が違う」と一旦は断ろうとするが、日活の担当者が怒られているのを見て同情してしまい、最終的に引き受ける。この時に[[渡辺護 (映画監督)|渡辺護]]監督の目に止まり、[[1982年]]、[[日活ロマンポルノ]]映画『セーラー服色情飼育』(監督:渡辺護・[[脚本]]:[[小水一男|ガイラ]])で芸能界入り。(にっかつロマンポルノの主演の話がきたとき「考えさせてほしい」と言ったが、それは出来なかった。モデル事務所から「次のステップに繋がる」という勧めもあり、きわどいラブシーンをしないという条件で、承諾する)「可愛かずみ」の芸名は、渡辺監督によって命名された。ロマンポルノ映画出演はこの1作のみだったが、幼さが残るあどけない顔立ちと抜群のスタイルで注目を浴びる。 | ||
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+ | 続いて、映画『夜をぶっとばせ』、[[シブがき隊]]主演の『[[ヘッドフォン・ララバイ]]』に出演し、その後すぐに[[グラビアアイドル]]として人気を博す。それ以降はテレビのバラエティーやドラマで活躍をしていた。 | ||
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+ | * ポルノ映画の出演は『セーラー服色情飼育』だけだったが、デビュー作であったこともあり、世間からは『ポルノ女優』とレッテルを貼られた。可愛本人は『ポルノ女優』と呼ばれることを嫌がっていた(映画雑誌記者談)。しかし、彼女の人気が高まるにつれ、可愛と同じくロマンポルノを足掛かりに徐々に一般の映画やテレビなどに出演し、人気を集めていた[[美保純]]と並ぶ扱いを受けるようになっていった。 可愛は「昔の仕事は自分で考えてしたことで後悔はしていないし、昔があるから今の自分がいるのも分かっている。私自身偏見はないけど、昔の仕事のことで人として軽く見られるのは辛い」と語っている<ref name="myojo8501"/>。また、共演した[[下元史朗]]は後に「魅せられた女優」として可愛かずみを挙げている。渡辺監督は、可愛を「生きた恥じらいのある女優」と評価している。監督は可愛の芸名を名付けた理由を「可愛いから、可愛かずみにした」と語っている。撮影時には「ちび」と呼んで、とても可愛がっていた。可愛自身も監督に感謝しており、そのことを番組で語ったこともある{{どこ|date=2014年4月}}。 | ||
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+ | 歌の方では「春感ムスメ」でシングルデビューをし、その後「天使のデザート」「メディテーション」のアルバムもリリース。レコーディングの時に、スタッフから「歌手じゃないんだから鼻歌まじりの歌声でいいんだ! 力むような歌声じゃ駄目だ」といかにもアイドルらしい頼りない歌唱を強いられ、可愛は不本意だったという。 | ||
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+ | * 可愛の歌については「歌のレッスンを受けているアイドルよりも上手いし、本格的にレッスンを受けたらアイドルとしてではなく、プロの歌手として充分やっていける」と[[和田アキ子]]は評価している。 | ||
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+ | 多くの写真集に[[プレミア]]がついており、初期のものは生前から高値で取引されていた。特に「アイドル」「光の中の少女」はプレミア写真集として知られている。グラビア時代の可愛の人気は絶大で、毎週、特集を組んでいた雑誌もある。また、可愛のファンだったという芸能人は多く、[[ダウンタウン (お笑いコンビ)|ダウンタウン]]の[[松本人志]]、[[とんねるず]]の[[石橋貴明]]、[[高嶋政宏]]などがテレビで公表している。 | ||
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+ | 1984年から1986年には、深夜帯ドラマ『[[トライアングル・ブルー]]』([[テレビ朝日]])に出演し、とんねるず、[[川上麻衣子]]、[[柄沢次郎]]らと共演。この作品で女優としてもメジャーになっていく。 | ||
=== 自殺 === | === 自殺 === |
2018年7月22日 (日) 10:40時点における版
この項目では、女優の可愛かずみについて説明しています。1970年代に活躍した歌手の可愛和美については「可愛和美」をご覧ください。 |
可愛 かずみ(かわい かずみ、1964年7月9日 - 1997年5月9日)は、日本の女優。本名、久我 知子(くが ともこ)[1]。
略歴
生い立ち
2人姉妹で3歳年上の姉がいる[2]。幼少の頃に両親が離婚、1年ほど母親と住んだ後に父親に引き取られる[2]。子供の頃は両親の離婚と父親の仕事で転校を繰り返した。可愛自身、自分の性格を「感化されやすい」と言っており[2]、転校先でもすぐに馴染んだようである。その分、転校の時は友達と別れるのが辛く、寄せ書きを見てはよく涙ぐんでいた。この頃、父親に「転校はもうしたくない」と言っており、転校のなかった港区立三田中学校時代を「落ち着いた気持ちで過ごせた」「すごく暖かい生活だった」と語っている[2]。
中学時代はバレーボール部に所属。その後、都内の女子高に進学。高校時代はレストランでアルバイトをしていた。幼少の頃は比較的大人しかったようだが徐々に元気で活発な少女に育っていったようである。また母親とは両親の離婚から生き別れになっており、姉が母親代わりだったと、19歳の時に可愛自身が語っている[2]。
芸能界入り
芸能界にあまり興味はなく、元々は美容師になるつもりだったが、高校在学中にスカウトを受けてモデルクラブに登録。日活の宣伝用ポスターの仕事が舞い込み、引き受けるが、可愛は、脱がないといけない仕事だと知らなかった。「話が違う」と一旦は断ろうとするが、日活の担当者が怒られているのを見て同情してしまい、最終的に引き受ける。この時に渡辺護監督の目に止まり、1982年、日活ロマンポルノ映画『セーラー服色情飼育』(監督:渡辺護・脚本:ガイラ)で芸能界入り。(にっかつロマンポルノの主演の話がきたとき「考えさせてほしい」と言ったが、それは出来なかった。モデル事務所から「次のステップに繋がる」という勧めもあり、きわどいラブシーンをしないという条件で、承諾する)「可愛かずみ」の芸名は、渡辺監督によって命名された。ロマンポルノ映画出演はこの1作のみだったが、幼さが残るあどけない顔立ちと抜群のスタイルで注目を浴びる。
続いて、映画『夜をぶっとばせ』、シブがき隊主演の『ヘッドフォン・ララバイ』に出演し、その後すぐにグラビアアイドルとして人気を博す。それ以降はテレビのバラエティーやドラマで活躍をしていた。
- ポルノ映画の出演は『セーラー服色情飼育』だけだったが、デビュー作であったこともあり、世間からは『ポルノ女優』とレッテルを貼られた。可愛本人は『ポルノ女優』と呼ばれることを嫌がっていた(映画雑誌記者談)。しかし、彼女の人気が高まるにつれ、可愛と同じくロマンポルノを足掛かりに徐々に一般の映画やテレビなどに出演し、人気を集めていた美保純と並ぶ扱いを受けるようになっていった。 可愛は「昔の仕事は自分で考えてしたことで後悔はしていないし、昔があるから今の自分がいるのも分かっている。私自身偏見はないけど、昔の仕事のことで人として軽く見られるのは辛い」と語っている[2]。また、共演した下元史朗は後に「魅せられた女優」として可愛かずみを挙げている。渡辺監督は、可愛を「生きた恥じらいのある女優」と評価している。監督は可愛の芸名を名付けた理由を「可愛いから、可愛かずみにした」と語っている。撮影時には「ちび」と呼んで、とても可愛がっていた。可愛自身も監督に感謝しており、そのことを番組で語ったこともある どこ?。
1983年11月、脱ぐ仕事をしたくないという理由で、オフィス・アンからマーカスに所属事務所を移籍。
『ヘッドフォン・ララバイ』の出演が決まった時には嬉しくて台本を抱いて寝たと言う。この頃から「セーラー服色情飼育」出演時には非難していた友人たちも応援してくれるようになり、期待に応えたいという気持ちからプロ意識が芽生えてきたと本人が語っていた。
歌の方では「春感ムスメ」でシングルデビューをし、その後「天使のデザート」「メディテーション」のアルバムもリリース。レコーディングの時に、スタッフから「歌手じゃないんだから鼻歌まじりの歌声でいいんだ! 力むような歌声じゃ駄目だ」といかにもアイドルらしい頼りない歌唱を強いられ、可愛は不本意だったという。
- 可愛の歌については「歌のレッスンを受けているアイドルよりも上手いし、本格的にレッスンを受けたらアイドルとしてではなく、プロの歌手として充分やっていける」と和田アキ子は評価している。
多くの写真集にプレミアがついており、初期のものは生前から高値で取引されていた。特に「アイドル」「光の中の少女」はプレミア写真集として知られている。グラビア時代の可愛の人気は絶大で、毎週、特集を組んでいた雑誌もある。また、可愛のファンだったという芸能人は多く、ダウンタウンの松本人志、とんねるずの石橋貴明、高嶋政宏などがテレビで公表している。
バラエティ番組に多数出演しており、1983年頃『オレたちひょうきん族』の「ひょうきんベストテン」のコーナーで中森明菜のものまねをしていた。また歌番組のアシスタントやバラエティー番組での活躍も増え、タレントとして確立されていった。
1984年から1986年には、深夜帯ドラマ『トライアングル・ブルー』(テレビ朝日)に出演し、とんねるず、川上麻衣子、柄沢次郎らと共演。この作品で女優としてもメジャーになっていく。
自殺
1995年、当時交際相手で、ヤクルトに在籍していた川崎憲次郎と結婚間近と噂されるが、その後川崎が「怪我の治療に専念したい」という理由から破局する。1996年3月、志村けんとのツーショット写真を週刊誌に撮られる。この時期から過度の精神的ストレスにより、1996年12月・1997年1月とリストカットの自殺未遂を繰り返す。1997年5月9日午前中に手首を切り3度目の自殺を図る。この時のためらい傷は3箇所に及んでいたという。縫合後、食事で出されたドリアを完食しており、周囲の者には落ち着きを取り戻したように見えたという。しかし午後6時30分頃、留守番の女性に「咳がでるから病院に行く」と言って出かけ、午後7時10分頃、川崎が住んでいた目黒区駒場のマンション7階から飛び降り、帰らぬ人となる。
午後7時14分頃マンションの前に人が倒れていると通報されるが、救急車が来た時には既に心肺停止状態であった。搬送された新宿の東京医科大学病院で、午後7時59分に死亡が確認された。自宅を出た時間から推測すると、真っ直ぐ自殺現場に向かったものと思われる。当初は事故としても調べられたが、すぐに自殺と断定される。飛び降りたマンションの共同廊下には、揃えられた靴と免許証やカード、そして現金約10万円が入ったシャネルの財布が置かれていた。2階のエントランスに1度落下したらしく、2階部分には、落下痕と飛び降りた際にかけていたと思われるサングラスがあった。目撃者であるマンション1階のコンビニ店員の証言によると、可愛は青と白のストライプのシャツを着ており、自殺したとは思えないほど安らかな顔をしていたという。当時は遺書が見つかっていなかったこともあり様々な憶測を呼んだが、父親宛のメモを残していたことが2014年4月11日に判明した。
遺体が安置された東京医科大学病院には、川上麻衣子、岡本かおり、など、多くの友人が駆けつけ付き添っていた。通夜でも渡辺美奈代や渡辺めぐみなど、多くの友人が駆けつけ「もっと相談に乗っていれば良かった」「もっと頻繁に気持ちを確かめ合えば、こんなことには…」と口々に漏らし、涙に濡れた。また通夜には生き別れになっていた母親も参列し、可愛が亡くなった後、再会を果たしている。告別式では2年半ほど前に撮られた写真が遺影として使われた。父親が「人生で一番むなしい日」、所属事務所社長が「彼女が思っているよりもずっと彼女は愛されていた」と語っている。告別式の様子を放送したワイドショーでは芸能リポーターが「私の立場で言っていいのかは分かりませんが、もうそっとしてあげたいですね」と言っており、可愛の人柄が偲ばれるものであった。
亡くなった翌日の5月10日に、可愛は都内の自動車販売会社を経営する実業家と正式に婚約し、2ヵ月後に結婚する予定であったことが判明する。当初は可愛の誕生日である7月9日に入籍するつもりだったが、その日が仏滅だったため、七夕の7月7日に籍を入れる予定だった。棺には挙式で着用する予定だった白いウェディングドレスがかけられた。