「ヴィニフレート・ワーグナー」の版間の差分

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彼女の転機は[[1930年]]に訪れた。コジマが亡くなった後、ジークフリートが急逝し、彼女は一人で音楽祭運営を行わなければならなくなったのだ。
 
彼女の転機は[[1930年]]に訪れた。コジマが亡くなった後、ジークフリートが急逝し、彼女は一人で音楽祭運営を行わなければならなくなったのだ。
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当面は劇場の支配人経験のある[[ハインツ・ティーチェン]]を協力者にすえ、[[ヴィルヘルム・フルトヴェングラー]]を招くことに成功したが、求心力の低下は免れなかった。この時期から彼女は急速に[[アドルフ・ヒトラー]]に接近していく。
 
当面は劇場の支配人経験のある[[ハインツ・ティーチェン]]を協力者にすえ、[[ヴィルヘルム・フルトヴェングラー]]を招くことに成功したが、求心力の低下は免れなかった。この時期から彼女は急速に[[アドルフ・ヒトラー]]に接近していく。
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この接近にはいくつか理由がある。一つにはバイロイト音楽祭の運営・演出の方向性を巡って[[ヨーゼフ・ゲッベルス|ゲッベルス]]らを中心に反感を持ったり、修正を要求する者が多かったことが挙げられる。当時のナチ要人、文化指導者の中にあってヒトラーはヴィニフレートの方針に援助と支持を惜しまない数少ない一人だったのである。
 
この接近にはいくつか理由がある。一つにはバイロイト音楽祭の運営・演出の方向性を巡って[[ヨーゼフ・ゲッベルス|ゲッベルス]]らを中心に反感を持ったり、修正を要求する者が多かったことが挙げられる。当時のナチ要人、文化指導者の中にあってヒトラーはヴィニフレートの方針に援助と支持を惜しまない数少ない一人だったのである。
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ヴィニフレートが、[[ナチズム]]の思想に早い段階から共感と信奉を表明していたことも事実である。[[1923年]]に初めて出会って以来、ヒトラーが[[ミュンヘン一揆]]に失敗して投獄された際には、食べ物や原稿用紙を差し入れ、結果的に『[[我が闘争]]』の執筆の手助けをするという献身ぶりだった。彼らはドイツ人の[[ナショナリズム]]や、北方人種の自己実現、「民族的''völkisch'' 」な願望を、義父ヴァーグナーの美的理念として解釈し、共有した。
 
ヴィニフレートが、[[ナチズム]]の思想に早い段階から共感と信奉を表明していたことも事実である。[[1923年]]に初めて出会って以来、ヒトラーが[[ミュンヘン一揆]]に失敗して投獄された際には、食べ物や原稿用紙を差し入れ、結果的に『[[我が闘争]]』の執筆の手助けをするという献身ぶりだった。彼らはドイツ人の[[ナショナリズム]]や、北方人種の自己実現、「民族的''völkisch'' 」な願望を、義父ヴァーグナーの美的理念として解釈し、共有した。
  
こういった事情により、[[バイロイト音楽祭]]は、ヒトラーの好み通り、ドイツのオペラ興行の最高峰にして、[[ナチス・ドイツ]]の国家的行事の頂点を飾るという事態に至った。二人は結婚するのではないかという[[デマ]]が流れるほど親しい関係を築き、[[バイロイト]]のワーグナー家の邸宅であるヴァーンフリート荘は、ヒトラーのお気に入りの休息所となった。その後もヒトラーはバイロイト音楽祭に協賛を続け免税も行い、ヴィニフレートの子供たちにも格別のとりはからいを見せた。
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こういった事情により、[[バイロイト音楽祭]]は、ヒトラーの好み通り、ドイツのオペラ興行の最高峰にして、[[ドイツ国 (1933年-1945年)|ナチス・ドイツ]]の国家的行事の頂点を飾るという事態に至った。二人は結婚するのではないかという[[デマ]]が流れるほど親しい関係を築き、[[バイロイト]]のワーグナー家の邸宅であるヴァーンフリート荘は、ヒトラーのお気に入りの休息所となった。その後もヒトラーはバイロイト音楽祭に協賛を続け免税も行い、ヴィニフレートの子供たちにも格別のとりはからいを見せた。
  
 
[[第三帝国]]崩壊後はナチズムへの加担責任を問われ、実刑は免れたものの事実上の[[公職追放]]を迫られた。バイロイト音楽祭の経営はヴィーラントならびにヴォルフガングの兄弟に担われることになる。
 
[[第三帝国]]崩壊後はナチズムへの加担責任を問われ、実刑は免れたものの事実上の[[公職追放]]を迫られた。バイロイト音楽祭の経営はヴィーラントならびにヴォルフガングの兄弟に担われることになる。

2014年6月2日 (月) 03:00時点における最新版

ヴィニフレート・ワーグナーWinifred Wagner, 1897年6月23日 ヘイスティングス - 1980年3月5日 ユーバーリンゲン)は、ジークフリート・ワーグナー未亡人でバイロイト音楽祭の主宰者。

経歴[編集]

本名はウィニフレッド・マージョリー・ウィリアムズといい、イングランド出身だが、2歳にならずして両親を相次いで失い、親戚をたらい回しにされた末、母方の遠縁にあたるドイツ人ピアニストカール・クリントヴォルトに引き取られた。クリントヴォルトはリヒャルト・ワーグナーの親友で、このためヴィニフレートは筋金入りのワグネリアンとして育てられた。

バイロイト音楽祭ワーグナー家の家業として構想されたため、指導権はリヒャルト・ワーグナーから未亡人コジマを経て、息子ジークフリート・ワーグナーに受け継がれなければならなかった。だが、ジークフリートは両性愛ないしは同性愛的傾向があり、結婚に興味を示さず、男ばかりの取り巻きを好んでいた。1914年バイロイト音楽祭で、17歳の「ヴィニフレート・クリントヴォルト嬢」が呼び付けられ、45歳のジークフリートに引き合わせるべく手はずが整えられる。翌1915年9月22日に二人は結婚した。結婚によって、ジークフリートの同性愛と、それにかかわる手痛いスキャンダルに終止符が打たれることが期待されたためである。二人は矢継ぎ早に4人の子供をもうけている。

  1. ヴィーラント・ワーグナー1917年-1966年
  2. フリーデリント・ワーグナー1918年-1991年
  3. ヴォルフガング・ワーグナー1919年-2010年
  4. ヴェレーナ(1920年

その後は敗戦の財政難の中、夫の新演出実現のために資金集めに奔走したり、逆にトスカニーニの音楽祭出演を説得するなど、良妻ぶりを発揮、音楽祭に欠かせぬ存在となる。

彼女の転機は1930年に訪れた。コジマが亡くなった後、ジークフリートが急逝し、彼女は一人で音楽祭運営を行わなければならなくなったのだ。

当面は劇場の支配人経験のあるハインツ・ティーチェンを協力者にすえ、ヴィルヘルム・フルトヴェングラーを招くことに成功したが、求心力の低下は免れなかった。この時期から彼女は急速にアドルフ・ヒトラーに接近していく。

この接近にはいくつか理由がある。一つにはバイロイト音楽祭の運営・演出の方向性を巡ってゲッベルスらを中心に反感を持ったり、修正を要求する者が多かったことが挙げられる。当時のナチ要人、文化指導者の中にあってヒトラーはヴィニフレートの方針に援助と支持を惜しまない数少ない一人だったのである。

ヴィニフレートが、ナチズムの思想に早い段階から共感と信奉を表明していたことも事実である。1923年に初めて出会って以来、ヒトラーがミュンヘン一揆に失敗して投獄された際には、食べ物や原稿用紙を差し入れ、結果的に『我が闘争』の執筆の手助けをするという献身ぶりだった。彼らはドイツ人のナショナリズムや、北方人種の自己実現、「民族的völkisch 」な願望を、義父ヴァーグナーの美的理念として解釈し、共有した。

こういった事情により、バイロイト音楽祭は、ヒトラーの好み通り、ドイツのオペラ興行の最高峰にして、ナチス・ドイツの国家的行事の頂点を飾るという事態に至った。二人は結婚するのではないかというデマが流れるほど親しい関係を築き、バイロイトのワーグナー家の邸宅であるヴァーンフリート荘は、ヒトラーのお気に入りの休息所となった。その後もヒトラーはバイロイト音楽祭に協賛を続け免税も行い、ヴィニフレートの子供たちにも格別のとりはからいを見せた。

第三帝国崩壊後はナチズムへの加担責任を問われ、実刑は免れたものの事実上の公職追放を迫られた。バイロイト音楽祭の経営はヴィーラントならびにヴォルフガングの兄弟に担われることになる。

1975年に、ヴィニフレートはハンス=ユルゲン・ジューバーベルクのドキュメンタリー・フィルムでインタビューに応じたが、自らの過去についてまったく悪びれた様子を見せなかった。「彼と出逢ったことは……避けようのない体験だったのでしょう」 と言い、ヒトラーへの変わらぬ敬意も告白した。彼女とヒトラーの親密さが、性的なものだったか否かはしばしば勘ぐりがなされるが、そうと決め付けるだけの確証は今のところはない。

関連文献[編集]

  • ブリギッテ・ハーマン著、鶴見真理訳 吉田真・監訳『ヒトラーとバイロイト音楽祭 ヴィニフレート・ワーグナーの生涯 上巻 戦前編 1897-1938』(アルファベータ、2010年)
  • ブリギッテ・ハーマン著、鶴見真理訳 吉田真・監訳『ヒトラーとバイロイト音楽祭 ヴィニフレート・ワーグナーの生涯 下巻 戦中・戦後編 1938-1980』(アルファベータ、2010年)

外部リンク[編集]


アドルフ・ヒトラー
経歴 第一次世界大戦 - ドイツ革命 - 国家社会主義ドイツ労働者党 - ミュンヘン一揆 - ヒトラー内閣 - ナチス・ドイツ - 権力掌握 - 長いナイフの夜 - ベルリンオリンピック - ミュンヘン会談 - 第二次世界大戦 - ヒトラー暗殺計画 - ベルリン市街戦 -
尊属 父・アロイス・ヒトラー - 母・クララ・ヒトラー - 祖母・マリア・シックルグルーバー
兄弟 異母姉・アンゲラ・ヒトラー - 異母兄・アロイス・ヒトラー - 妹・パウラ・ヒトラー
親族 姪・ゲリ・ラウバル - 甥・レオ・ラウバル - 甥・ウィリアム・パトリック・ヒトラー - 義姉・ブリジット・ダウリング
女性関係 妻・エヴァ・ブラウン - ヴィニフレート・ワーグナー - ユニティ・ヴァルキリー・ミットフォード - エルナ・ハンフシュテンゲル - レナーテ・ミュラー - マリア・ロイター
副官 フリッツ・ヴィーデマン - ヴィルヘルム・ブリュックナー - ユリウス・シャウブ - フリードリヒ・ホスバッハ - ルドルフ・シュムント - ハインツ・ブラント - ヴィルヘルム・ブルクドルフ - カール=イェスコ・フォン・プットカマー - オットー・ギュンシェ
側近 ルドルフ・ヘス - マルティン・ボルマン - エミール・モーリス - ハインツ・リンゲ - ヘルマン・フェーゲライン - ゲルダ・クリスティアン - トラウデル・ユンゲ - クリスタ・シュレーダー - エーリヒ・ケンプカ - コンスタンツェ・マンツィアリ
主治医 テオドール・モレル - カール・ブラント - ヴェルナー・ハーゼ - エルンスト=ギュンター・シェンク - ルートヴィヒ・シュトゥンプフエッガー
影響を受けた人物 ディートリヒ・エッカート - フリードリヒ2世 - ルートヴィヒ2世 - リヒャルト・ワーグナー - アルトゥル・ショーペンハウアー - フィヒテ - シェリング - ヘーゲル - カール・マルクス - ニーチェ - カール・ルエーガー - ゲオルク・フォン・シェーネラー - ヒューストン・ステュアート・チェンバレン - ヘンリー・フォード
影響を与えた人物 戸塚宏 - 小村基 - 本村洋 - 松葉裕子 - 逝け惰性面 - ウーソキマスラの戯言 - ウマスラ - ウーソキマラ
関連人物 カール・マイヤー - エルンスト・レーム - エリック・ヤン・ハヌッセン - ハインリヒ・ホフマン - ローフス・ミシュ - ヘルマン・ラウシュニング - アウグスト・クビツェク - エドゥアルド・ブロッホ - ブロンディ(犬)
分野別項目 政治観 - 宗教観 - 演説一覧 - 健康 - 菜食 - 性的関係
場所 ブラウナウ・アム・イン - パッサウ - ハーフェルト - ランバッハ - リンツ - ウィーン - ミュンヘン - ビュルガーブロイケラー - ランツベルク刑務所 - ベルリン - ベルヒテスガーデン - オーバーザルツベルク - ベルクホーフ - 総統官邸 - ケールシュタインハウス - 総統大本営 - ヴォルフスシャンツェ - 総統地下壕
公的関連 総統 - ドイツ国首相 - 親衛隊 - RSD - 第1SS装甲師団 - 総統随伴部隊 - 忠誠宣誓 - ナチス式敬礼 - ハイル・ヒトラー - ジーク・ハイル - バーデンヴァイラー行進曲
著作・思想 我が闘争 - ナチズム - 背後の一突き - 反ユダヤ主義 - ファシズム
関連事象 フォックスレイ作戦 - ヒトラーのキンタマ - ヒトラー女性化計画 - ヒトラーの日記 - ヒトラー論法
関連項目 ヴァイマル共和政 - 非ナチ化 - ネオナチ - 総統閣下シリーズ