「文仁親王妃紀子」の版間の差分

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[[昭和]]41年([[1966年]])[[9月11日]] 、[[川嶋辰彦]]・和代夫妻の長女として[[静岡県]][[静岡市]]で誕生。父が[[ペンシルベニア大学]]大学院に留学したことから、6歳まで[[アメリカ合衆国|アメリカ]]で過ごす。この間に[[自由学園]]幼児生活団(幼稚園)通信グループを卒園。
 
[[昭和]]41年([[1966年]])[[9月11日]] 、[[川嶋辰彦]]・和代夫妻の長女として[[静岡県]][[静岡市]]で誕生。父が[[ペンシルベニア大学]]大学院に留学したことから、6歳まで[[アメリカ合衆国|アメリカ]]で過ごす。この間に[[自由学園]]幼児生活団(幼稚園)通信グループを卒園。
  
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昭和54年([[1979年]])9月、日本へ帰国。[[学習院女子中等科]]へ編入し、[[学習院女子高等科]]を経て、昭和60年([[1985年]])、[[学習院大学]][[文学部]][[心理学科]]へ入学。大学構内の書店で、1年先輩の[[秋篠宮文仁親王|礼宮文仁親王]](当時)と出会う。サークル活動を通して交際を深めた。昭和61年(1986年)6月26日に、文仁親王から求婚を受けるが即答は避けた。一方でスキャンダルとして報道されるのを防ぐため、友人達の協力を得て、わざと離れて写真に写ったりしていた。早い段階から宮中にも招かれ、[[明仁|皇太子明仁親王]](当時)らとも面会していた。
 
昭和54年([[1979年]])9月、日本へ帰国。[[学習院女子中等科]]へ編入し、[[学習院女子高等科]]を経て、昭和60年([[1985年]])、[[学習院大学]][[文学部]][[心理学科]]へ入学。大学構内の書店で、1年先輩の[[秋篠宮文仁親王|礼宮文仁親王]](当時)と出会う。サークル活動を通して交際を深めた。昭和61年(1986年)6月26日に、文仁親王から求婚を受けるが即答は避けた。一方でスキャンダルとして報道されるのを防ぐため、友人達の協力を得て、わざと離れて写真に写ったりしていた。早い段階から宮中にも招かれ、[[明仁|皇太子明仁親王]](当時)らとも面会していた。
  
婚約内定の報道がなされた際、社内の表記基準に従い新漢字の「川島」と報道した媒体も存在したが、宮内庁関係者などからの強い要望もあり、戸籍名の「川嶋」に表記を改めた<ref>静岡新聞 1989年8月27日</ref>。
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婚約内定の報道がなされた際、社内の表記基準に従い新漢字の「川島」と報道した媒体も存在したが、宮内庁関係者などからの強い要望もあり、戸籍名の「川嶋」に表記を改めた。
  
 
平成元年(1989年)、学習院大学を卒業し同[[大学院]]進学、[[社会心理学]]を専攻する。同年[[8月26日]]、婚約内定が報道される。[[9月12日]]に開かれた[[皇室会議]]において全会一致で可決され、同日午後記者会見を行なった。平成改元後初の慶事であり、若々しい二人の結婚は国民から祝福された<ref>讀賣新聞1989年8月27日 社説「皇室にとっては久しぶりの慶事である。心からお祝いを申し上げたい」</ref>
 
平成元年(1989年)、学習院大学を卒業し同[[大学院]]進学、[[社会心理学]]を専攻する。同年[[8月26日]]、婚約内定が報道される。[[9月12日]]に開かれた[[皇室会議]]において全会一致で可決され、同日午後記者会見を行なった。平成改元後初の慶事であり、若々しい二人の結婚は国民から祝福された<ref>讀賣新聞1989年8月27日 社説「皇室にとっては久しぶりの慶事である。心からお祝いを申し上げたい」</ref>
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平成16年(2004年)からは[[皇室典範に関する有識者会議]]により女性・女系天皇容認の議論が進む中、平成18年([[2006年]])[[2月7日]]、紀子妃の懐妊が[[スクープ]]される。夫である秋篠宮に直接報告をする前の報道となり、紀子妃は動揺を受けた。その後[[2月25日]]に宮内庁から懐妊が正式発表された。
 
平成16年(2004年)からは[[皇室典範に関する有識者会議]]により女性・女系天皇容認の議論が進む中、平成18年([[2006年]])[[2月7日]]、紀子妃の懐妊が[[スクープ]]される。夫である秋篠宮に直接報告をする前の報道となり、紀子妃は動揺を受けた。その後[[2月25日]]に宮内庁から懐妊が正式発表された。
  
しかし、同年[[7月18日]]、部分[[前置胎盤]]による大量出血の危険性を考慮して、皇族としては初となる[[帝王切開]]による出産が実施されることが[[宮内庁]]より発表された<ref>[http://www.yomiuri.co.jp/feature/impr/0609article/fe_im_06071901.htm 紀子さま、出産早まる可能性 「部分前置胎盤」で帝王切開の見通し] 2006年7月19日・読売新聞</ref>。特に、皇后は紀子妃の身を非常に案じたと言う。[[8月16日]]より、東京都[[港区 (東京都)|港区]]の[[愛育病院]]に入院。前日には一家で記念撮影をしており、紀子妃の覚悟がうかがえる。
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しかし、同年[[7月18日]]、部分[[前置胎盤]]による大量出血の危険性を考慮して、皇族としては初となる[[帝王切開]]による出産が実施されることが[[宮内庁]]より発表された。特に、皇后は紀子妃の身を非常に案じたと言う。[[8月16日]]より、東京都[[港区 (東京都)|港区]]の[[愛育病院]]に入院。前日には一家で記念撮影をしており、紀子妃の覚悟がうかがえる。
  
[[9月6日]]午前8時27分、[[悠仁親王]]を出産。身長48.8&nbsp;cm、体重2558g<ref>部分前置胎盤の場合、[[胎盤]]の位置によっては通常[[分娩]]できることもあるが、本ケースの場合は全前置胎盤に近い状態であったため、主治医の[[中林正雄]]ら医師団は「自然分娩はリスクが大きいと判断した」と報道されている</ref><ref>[http://www.yomiuri.co.jp/feature/fe6800/news/20060907i101.htm 前置胎盤、実は重い状態…万全を期した医師チーム] 読売新聞2006年9月7日</ref>。男子の誕生は夫である秋篠宮文仁親王以来41年ぶり。これによって、当面の男系断絶は回避された。なお、夫妻で「国民の役に立つならば」と[[臍帯血]]の提供を申し出ていたことが話題となる<ref>[http://www.yomiuri.co.jp/feature/fe6800/news/20060906i214.htm 秋篠宮ご夫妻、さい帯血提供申し出る…愛育病院長] 読売新聞2006年9月6日</ref>。
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[[9月6日]]午前8時27分、[[悠仁親王]]を出産。身長48.8&nbsp;cm、体重2558g。男子の誕生は夫である秋篠宮文仁親王以来41年ぶり。これによって、当面の男系断絶は回避された。なお、夫妻で「国民の役に立つならば」と[[臍帯血]]の提供を申し出ていたことが話題となる。
  
 
夫である文仁親王とともに、各種公務に熱心に取り組んでいる。特に代々[[皇后]]が伝統的に受け継いでいる[[養蚕]]を手伝う等、積極的に、[[皇后美智子|皇后]]の姿を見習い、近づこうとしている。
 
夫である文仁親王とともに、各種公務に熱心に取り組んでいる。特に代々[[皇后]]が伝統的に受け継いでいる[[養蚕]]を手伝う等、積極的に、[[皇后美智子|皇后]]の姿を見習い、近づこうとしている。

2011年5月5日 (木) 00:04時点における版

紀子様
紀子様
紀子様


文仁親王妃紀子
秋篠宮妃
TennoTanjobiM1085 akishino detail.jpg
平成17年(2005年12月23日、</br>天皇誕生日の一般参賀にて、文仁親王とともに
続柄
称号
全名
身位親王妃
敬称殿下</br>Her Imperial Highness
お印檜扇菖蒲
出生1966年9月11日(2024-1966)+((11-9)*100+(28-11)>=0)-1歳) 静岡県静岡市
死去
埋葬
配偶者秋篠宮文仁親王
子女眞子内親王</br>佳子内親王</br>悠仁親王
父親川嶋辰彦
母親川嶋和代
役職結核予防会総裁</br>日本赤十字社名誉副総裁
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テンプレート:日本の皇室 文仁親王妃紀子(ふみひとしんのうひ きこ、1966年9月11日 - )は、日本皇族で、秋篠宮文仁親王の妃。旧名、川嶋紀子(かわしま きこ)。身位親王妃皇室典範における敬称殿下お印檜扇菖蒲(ひおうぎあやめ)。勲等勲一等宝冠章学位修士(心理学)学習院大学1995年)。

略歴

結婚以前

紀子様

昭和41年(1966年9月11日川嶋辰彦・和代夫妻の長女として静岡県静岡市で誕生。父がペンシルベニア大学大学院に留学したことから、6歳までアメリカで過ごす。この間に自由学園幼児生活団(幼稚園)通信グループを卒園。

父の仕事の都合から、小学校の転編入を繰り返す。昭和51年(1976年)、父が学習院大学教授に就任したことから、学習院初等科へ編入。しかし、翌年の1学期を終えた段階で、父がオーストリアウィーン郊外ラクセンブルクにある国際応用システム分析研究所(IIASA)の主任研究員に招かれたため、一家で渡墺。約2年間を同地で過ごす。

昭和54年(1979年)9月、日本へ帰国。学習院女子中等科へ編入し、学習院女子高等科を経て、昭和60年(1985年)、学習院大学文学部心理学科へ入学。大学構内の書店で、1年先輩の礼宮文仁親王(当時)と出会う。サークル活動を通して交際を深めた。昭和61年(1986年)6月26日に、文仁親王から求婚を受けるが即答は避けた。一方でスキャンダルとして報道されるのを防ぐため、友人達の協力を得て、わざと離れて写真に写ったりしていた。早い段階から宮中にも招かれ、皇太子明仁親王(当時)らとも面会していた。

婚約内定の報道がなされた際、社内の表記基準に従い新漢字の「川島」と報道した媒体も存在したが、宮内庁関係者などからの強い要望もあり、戸籍名の「川嶋」に表記を改めた。

平成元年(1989年)、学習院大学を卒業し同大学院進学、社会心理学を専攻する。同年8月26日、婚約内定が報道される。9月12日に開かれた皇室会議において全会一致で可決され、同日午後記者会見を行なった。平成改元後初の慶事であり、若々しい二人の結婚は国民から祝福された[1] 。昭和天皇の喪が明けた平成2年(1990年)1月12日に納采の儀が執り行われ、正式に婚約が成立した。当時の住居が学習院大学教職員用の共同住宅だったことから、マスコミは3LDKのプリンセスと彼女を呼んだ。一般家庭から誕生した初々しい彼女の姿は好感を与え、多くの雑誌で特集され、さらに関連書籍・アニメがつくられるなど、「紀子さんブーム」とも呼べる現象となった。

同年、6月29日に結婚の儀が行なわれ、これに伴い戸籍から消除され、皇族譜に記載される。

平成2年6月29日、自宅を出発する際に

秋篠宮妃時代

翌平成3年(1991年)10月23日眞子内親王が誕生。平成6年(1994年)12月29日には、佳子内親王誕生。 しかし、皇太子夫妻に遠慮をとの声もあり、その後は長らく子が誕生しなかった。

敬宮愛子内親王の誕生以降、皇太子夫妻に懐妊の兆候が無く、皇室は男系男子による相続が絶える危機に直面していた。平成15年(2003年)12月には湯浅利夫宮内庁長官が、「皇室の繁栄を考えると、(秋篠宮ご夫妻に)第三子を強く希望する」と発言。平成18年(2006年)の歌会始では、夫妻ともに昨平成17年(2005年)9月24日のコウノトリ放鳥に関する和歌を詠んだが、コウノトリは赤ん坊をもたらすシンボルである事から、夫妻にも第三子を望む気持ちがあったと考えられる。

平成16年(2004年)からは皇室典範に関する有識者会議により女性・女系天皇容認の議論が進む中、平成18年(2006年2月7日、紀子妃の懐妊がスクープされる。夫である秋篠宮に直接報告をする前の報道となり、紀子妃は動揺を受けた。その後2月25日に宮内庁から懐妊が正式発表された。

しかし、同年7月18日、部分前置胎盤による大量出血の危険性を考慮して、皇族としては初となる帝王切開による出産が実施されることが宮内庁より発表された。特に、皇后は紀子妃の身を非常に案じたと言う。8月16日より、東京都港区愛育病院に入院。前日には一家で記念撮影をしており、紀子妃の覚悟がうかがえる。

9月6日午前8時27分、悠仁親王を出産。身長48.8 cm、体重2558g。男子の誕生は夫である秋篠宮文仁親王以来41年ぶり。これによって、当面の男系断絶は回避された。なお、夫妻で「国民の役に立つならば」と臍帯血の提供を申し出ていたことが話題となる。

夫である文仁親王とともに、各種公務に熱心に取り組んでいる。特に代々皇后が伝統的に受け継いでいる養蚕を手伝う等、積極的に、皇后の姿を見習い、近づこうとしている。

年譜

子女

天皇一家と諸親王

逸話

  • 本籍地は川嶋家父祖の地である和歌山県和歌山市だった。
  • 「紀子」という名前は、和歌山県の旧国名紀伊国に由来するという説と、母方の祖母紀子(いとこ)に顔立ちが似ていたからという説がある[2]
  • 成婚を記念する番組内で、「平成のシンデレラ 紀子さま物語(制作スタジオコメット。1990年(平成2年)6月29日フジテレビ系特番)」というアニメが放送された。川嶋紀子と礼宮文仁親王の出会いと苦悩を描いた作品で、紀子の声優は歌手の石川秀美が、文仁親王は同局アナウンサー笠井信輔が担当した。皇室に関するアニメは極めて珍しい。
  • 結婚に際し、ナマズをあしらった婚約指輪を文仁親王に贈った[3]
  • 趣味の一つはツィターで、子女にウィーン民謡を弾き語りしたこともあった[4]
  • 学生時代より手話を習っており、手話を行ないながらの演説や、外国訪問の際には現地語の手話を披露している。
  • 学生時代の愛読書は、神谷美恵子こころの旅。また絵本児童書への関心を示し、海外の絵本などの翻訳構成を手がけている。


家系

紀子 父:
川嶋辰彦
学習院大学教授
祖父:
孝彦
(元内閣統計局長)
祖母:
川嶋紀子
母:
川嶋和代
祖父:
杉本嘉助
(元満鉄総局副参事)
祖母:
杉本栄子

訳書

ちきゅうのなかまたちシリーズ
ビッキー・イーガン著、ダニエラ・デ・ルカ画)新樹社
「秋篠宮紀子」の筆名[5]で、絵本を翻訳した。

備考

政府による正式表記(内閣告示や宮内庁告示など)では皇族に宮号が冠されることはない(「皇太子」を除く)ため、それらの告示が掲載される官報での表記は「文仁親王妃紀子」とされ、「秋篠宮」が冠されることはない。ただし、同じ政府による表記であっても、ホームページなど「国民一般へのわかりやすさ」が重視される場面では「秋篠宮妃」の表記も用いられる。マスコミ等では「紀子さま」と、表現されている。

脚注

  1. 讀賣新聞1989年8月27日 社説「皇室にとっては久しぶりの慶事である。心からお祝いを申し上げたい」
  2. 毎日新聞1989年8月27日 紀子さんは「きこ」と読ませる。字は父方の祖母、紀子(いとこ)さんと同じだ。祖母は現在拝八十二歳。川嶋辰彦さんの姉で鎌倉市に住む小菅宮子さんと同居中。この日、「紀子が生まれた時、私と顔立ちが似ているというので同じ字を当て読み方を『きこ』とした」と命名の由来を明かし喜びをかみしめていた
  3. 入倉康ジュエリー工房>ナマズの婚約指輪
  4. 紀子さまがご退院、お元気な眞子さま抱かれ 読売新聞 1991年11月1日
  5. 「秋篠宮」は文仁親王に与えられた称号であり、名字には相当しない。例えば正仁親王妃華子は「常陸宮"妃"華子」として訳書を出版しており、紀子妃の場合は意図的に"妃"の文字を外した筆名と考えるのが妥当。

外部リンク