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佐藤 鐡太郎(さとう てつたろう、1866年8月22日(慶応2年7月13日) - 1942年(昭和17年)3月4日)は、日本の海軍軍人。最終階級は海軍中将。山形県鶴岡市出身。
略歴[編集]
旧制鶴岡朝陽学校より海軍兵学校第14期入校。入校時成績順位51名中第6位、卒業時成績順位45名中第5位。
日清戦争に砲艦「赤城」航海長として参加。その際、坂元八郎太艦長が戦死し代わりに艦の指揮を執る。その後海軍大学校教官などを経て、日露戦争には上村彦之丞率いる第2艦隊参謀として参加。仮装巡洋艦香港丸・日本丸の南洋派遣に同行[1]。日本海海戦ではロシア艦隊の偽装転進を見破り、的確な意見具申を行ったことで勝利に貢献した。
日露戦争後に海軍大学校選科学生在籍のまま同時に海軍大学校教官に任命されると言う一見すると矛盾の様に見える人事を拝命するが、当時は海軍大学校が開設されて日も浅い事から学生のまま他方自己の専門分野を他の学生に教授する事例も存在した様である。
軍令部次長や海軍大学校校長、舞鶴鎮守府司令長官などを務めたが、加藤友三郎と軍縮を巡る見解の溝が埋まらず1923年(大正12年)に予備役に編入される。1934年(昭和9年)勅選の貴族院議員となる。
人物像[編集]
幼い頃からどうしても海軍に入りたいと意思を持っていた佐藤は何とか両親を説得して上京する事になる。しかし、当時の東北地方では戊辰戦争の際に朝敵とされた事から中央に対して好印象を持つ者が少なく通っていた学校の教師などには何も告げず休み時間にこっそり学校を抜け出してそのまま上京した。
兵学校時代の確執から広瀬武夫と犬猿の仲であったが後に和解した。海軍兵学校同期の小笠原長生とは、同じ伊庭想太郎の剣道道場に通っていたため交友があり、佐藤の妻・艶子は小笠原長生の妹である。また、佐藤の長女は下村正助海軍中将、3女・昭子は岡田啓介の長男・岡田貞外茂海軍大佐、4女は大井 篤海軍大佐に嫁ぐ。
年譜[編集]
- 1866年(慶応2年)8月22日- 出羽国鶴岡城下(現在の山形県鶴岡市)生
- 1884年(明治17年)9月4日- 海軍兵学校入校 入校時成績順位51名中第6位
- 1885年(明治18年)7月15日- 学術及び品行優等章受章
- 1886年(明治20年)7月25日- 海軍兵学校卒業 卒業時成績順位45名仲第5位・任 少尉候補生・砲艦「筑波」乗組
- 1887年(明治21年)7月6日- 帰着
- 1889年(明治22年)6月7日- 砲艦「大和」乗組
- 1890年(明治23年)12月15日- 砲艦「鳥海」航海長心得
- 1891年(明治24年)8月6日- 海軍大学校丙号学生
- 1892年(明治25年)7月28日- 海軍大学校丙号卒業
- 1895年(明治28年)9月28日- 兼分隊長
- 12月14日- 横須賀鎮守府附海兵団分隊長
- 1896年(明治29年)4月6日- 2等巡洋艦「浪速」航海長兼分隊長
- 1897年(明治30年)4月1日- 海軍省軍務局軍事課僚
- 1898年(明治31年)6月28日- 任 海軍少佐
- 1899年(明治32年)5月13日- 在イギリス日本公使館附海軍駐在武官
- 1901年(明治34年)1月16日- 在アメリカ日本公使館附海軍駐在武官
- 10月12日- 帰朝
- 1902年(明治35年)1月10日- 海軍大学校教官
- 1903年(明治36年)9月26日- 装甲巡洋艦「出雲」副長
- 1905年(明治38年)6月14日- 戦艦「朝日」副長
- 1906年(明治39年)1月25日- 海軍大学校選科学生
- 1907年(明治40年)4月22日- 兼 海軍大学校教官
- 1908年(明治41年)9月25日-2等巡洋艦「宗谷」艦長
- 1909年(明治42年)10月1日- 2等巡洋艦「阿蘇」艦長
- 1910年(明治43年)9月26日- 海軍大学校教官
- 1911年(明治44年)5月20日- 海軍大学校教頭兼教官
- 1912年(大正元年)12月1日- 任 海軍少将・兼 海軍省軍令部第4班長
- 1913年(大正2年)12月1日- 第1艦隊参謀長
- 1914年(大正3年)4月17日- 海軍省軍令部第1班長 兼 海軍大学校教官
- 1915年(大正4年)8月10日- 海軍省軍令部次長 兼将官会議議員
- 12月13日- 海軍大学校長
- 1916年(大正5年)12月1日- 任 海軍中将
- 1920年(大正9年)8月16日- 舞鶴鎮守府司令長官
- 1921年(大正10年)12月1日- 将官会議議員
- 1922年(大正11年)4月10日- 待命
- 1923年(大正12年)3月31日- 予備役編入
- 1926年(大正15年)7月13日- 後備役編入
- 1931年(昭和6年)7月13日- 退役
- 1934年(昭和9年)7月3日- 勅撰貴族院議員
- 1942年(昭和17年)2月28日- 貴族院議員辞任
- 3月4日- 死去 享年75
主要著述物[編集]
- 帝国国防論
- 帝国国防史論・上巻(原書房) ISBN 4-562-00375-8 C3331
- 帝国国防史論・下巻(原書房) ISBN 4-562-00376-6 C3332
- 帝国国防新論
参考文献[編集]
- 佐藤鉄太郎海軍中将伝(石川泰志著・原書房明治百年史叢書) ISBN 4-562-03329-0 C3332
関連項目[編集]
脚注[編集]
- ↑ 『極秘明治三十七八年海戦史』(防衛研究所所蔵)第2部1巻・「戦記」第1篇「露国増遣艦隊ニ対スル作戦準備」第5章「香港丸日本丸ノ南洋巡視 附 新高ノ南清巡視」 <<アジア歴史資料センターで閲覧可能>>