「八尋史朗」の版間の差分
(個人が“崇拝している”事など無用) |
|||
1行目: | 1行目: | ||
− | '''八尋 史朗'''(やひろ しろう、[[1968年]][[8月27日]] - )は、[[日本]]の元[[プロボクサー]]。元[[プロボクシング]]日本[[ライトフライ級]][[チャンピオン]]、[[東洋太平洋ボクシング連盟|OPBF]]ライトフライ級チャンピオン、世界王座挑戦通算3度。[[福岡県]][[糟屋郡]] | + | '''八尋 史朗'''(やひろ しろう、[[1968年]][[8月27日]] - )は、[[日本]]の元[[プロボクサー]]。元[[プロボクシング]]日本[[ライトフライ級]][[チャンピオン]]、[[東洋太平洋ボクシング連盟|OPBF]]ライトフライ級チャンピオン、世界王座挑戦通算3度。[[福岡県]][[糟屋郡]]出身。 |
== 来歴 == | == 来歴 == |
2008年10月10日 (金) 13:20時点における版
八尋 史朗(やひろ しろう、1968年8月27日 - )は、日本の元プロボクサー。元プロボクシング日本ライトフライ級チャンピオン、OPBFライトフライ級チャンピオン、世界王座挑戦通算3度。福岡県糟屋郡出身。
来歴
具志堅用高に憧れ小学校在学中からライトフライ級プロボクサーを志望していた。
アマチュア時代
1984年、東福岡高等学校に入学しボクシング部に入部。高校2年時に福岡県大会決勝で豊国学園高等学校1年生だった鬼塚勝也に判定負を喫し、(鬼塚がライトフライ級に転向後)高校3年で福岡県高校モスキート級チャンピオン、高校総体ベスト8。
進学した立命館大学経済学部を1年で中退し、1年間地元身体を鍛え帝拳ジムに入門。最初の担任トレーナーは小林弘
日本王座獲得
ライトフライ級にしては抜群の長身(170cm)を誇り手足が長くリーチ(177cm)が恵まれ、それを生かしたスピーディでクレバーなアウトボクシングを体得し、1990年2月18日、大阪府立体育会館で全日本ライトフライ級新人王に輝き(同期のミドル級に竹原慎二)、1992年3月10日、JBC日本ライトフライ級王座も獲得(2度防衛後返上)し世界ランク入り。桑田勇は八尋と葛西裕一を世界ランカーに育てた功績でエディ・タウンゼント賞受賞
日本王者在位中の1992年9月27日にはアメリカ合衆国カリフォルニア州での海外試合も経験した。
世界王座挑戦・東洋太平洋王座獲得・日本王座返り咲き失敗
17戦無敗で迎えた1993年10月21日、後楽園ホールにおいて、後に世界ミニマム級~スーパーフライ級の4階級制覇を達成するレオ・ガメスと、井岡弘樹から王座奪還した柳明佑が返上し空位のWBA世界王座決定戦を行い7RTKO負け。
翌1994年3月2日、東京体育館でメキシコのホセ・マルチン・ロペスに7RKOで完勝し再起に成功したが、3ヵ月後日本ライトフライ級王者細野雄一との世界再挑戦を賭けたノンタイトル12回戦に敗北。
1995年10月9日、OPBF東洋太平洋ライトフライ級王座を獲得(1度防衛後返上)。
1996年8月10日(タイ)・1998年3月8日(横浜アリーナ)の2度に渡り、WBC世界ライトフライ級チャンピオンのサマン・ソーチャトロンに挑戦するが、いずれもTKO負け。
一年半のブランクを経て1999年10月、フライ級でカムバックし、韓国やタイのナショナルチャンピオンを破りIBF世界フライ級10位ランクイン(ただし、八尋自身は日本IBFとは無関係)。
この頃、セレス小林の持つ日本フライ級王座挑戦が内定していたが、セレスのWBA世界スーパーフライ級王座挑戦が決定し、日本王座が返上されたため白紙になった。
2001年10月、後に世界王座を獲得する当時無敗の日本フライ級チャンピオン坂田健史に挑戦し9RTKOで敗れ現役引退を表明。
プロボクシング通算33戦26勝14KO5敗2分
現在は、地元福岡で「YAHIRO BOXING CLUB」代表としてボクシングの底辺拡大に取り組んでいる。