「徳川義親」の版間の差分
細 (→帰還命令) |
細 (→2度目のマレー旅行: 内部リンク追加) |
||
(同じ利用者による、間の3版が非表示) | |||
32行目: | 32行目: | ||
==== 八雲村の農地解放 ==== | ==== 八雲村の農地解放 ==== | ||
− | 東大在学中の1909年に、尾張徳川家の家従・[[五味末吉]]、北海道・[[八雲村]]の[[ | + | 東大在学中の1909年に、尾張徳川家の家従・[[五味末吉]]、北海道・[[八雲村]]の[[徳川開墾地]]の農場主任・[[大島鍛]](きとう)とともに北海道一周旅行を計画し、[[駅逓所]]を利用して[[網走]]まで約200キロメートルを馬を乗り換えて旅した{{Sfn|大石|1994a|p=9}}{{Sfn|徳川|1963|pp=105-106}}。 |
翌1910年には、徳川家の名義となっていた八雲村の土地を開拓に成功した農民に譲渡することを宣言{{Sfn|大石|1994a|pp=91-93}}{{Sfn|中野|1977|p=71}}{{Sfn|徳川|1963|pp=105-106}}。1912年に、抵当権を解除し、土地の所有権移転の手続きを終えて、開墾に成功して定着した60戸に1戸あたり37,500坪、総計225万坪を無償配分して独立させ、尾張徳川家は残る土地・山林を「徳川農場」として経営した{{Sfn|大石|1994a|pp=91-93}}{{Sfn|中野|1977|p=71}}{{Sfn|徳川|1963|pp=105-106}}。 | 翌1910年には、徳川家の名義となっていた八雲村の土地を開拓に成功した農民に譲渡することを宣言{{Sfn|大石|1994a|pp=91-93}}{{Sfn|中野|1977|p=71}}{{Sfn|徳川|1963|pp=105-106}}。1912年に、抵当権を解除し、土地の所有権移転の手続きを終えて、開墾に成功して定着した60戸に1戸あたり37,500坪、総計225万坪を無償配分して独立させ、尾張徳川家は残る土地・山林を「徳川農場」として経営した{{Sfn|大石|1994a|pp=91-93}}{{Sfn|中野|1977|p=71}}{{Sfn|徳川|1963|pp=105-106}}。 | ||
74行目: | 74行目: | ||
==== 北海道での熊狩り ==== | ==== 北海道での熊狩り ==== | ||
[[File:Tokugawa_Yoshichika_1919.JPG|thumb|岡本一平の漫画漫文「殿様の熊狩り」より、[[函館桟橋]]の特別室で休憩中に永田某の訪問を受ける徳川義親{{Sfn|岡本|1929|p=46}}]] | [[File:Tokugawa_Yoshichika_1919.JPG|thumb|岡本一平の漫画漫文「殿様の熊狩り」より、[[函館桟橋]]の特別室で休憩中に永田某の訪問を受ける徳川義親{{Sfn|岡本|1929|p=46}}]] | ||
− | + | 1918年以降、毎年3月頃に[[徳川開墾地]]のある北海道・八雲村を同地を訪れて熊狩りをした{{Sfn|大石|1994a|p=177}}{{Sfn|科学朝日|1991|p=191}}{{Sfn|小田部|1988|p=31}}{{Sfn|徳川|1963|pp=110-112}}。 | |
義親自身、1918年3月の「熊狩雑話」{{Sfn|徳川|1921|pp=1-28}}、1920年3月の「熊狩記」{{Sfn|徳川|1921|pp=113-203}}、1921年3月の「熊をたづねて」{{Sfn|徳川|1921|pp=205-258}}などの体験記を執筆。また熊狩りに同行した[[岡本一平]]が『朝日新聞』に連載した漫画漫文{{Harv|岡本|1929}}の中で義親を題材にしたことから、義親は「熊狩りの殿様」として知られるようになった{{Sfn|大石|1994a|pp=178-179}}{{Sfn|中野|1977|p=75}}{{Sfn|徳川|1963|p=111}}。 | 義親自身、1918年3月の「熊狩雑話」{{Sfn|徳川|1921|pp=1-28}}、1920年3月の「熊狩記」{{Sfn|徳川|1921|pp=113-203}}、1921年3月の「熊をたづねて」{{Sfn|徳川|1921|pp=205-258}}などの体験記を執筆。また熊狩りに同行した[[岡本一平]]が『朝日新聞』に連載した漫画漫文{{Harv|岡本|1929}}の中で義親を題材にしたことから、義親は「熊狩りの殿様」として知られるようになった{{Sfn|大石|1994a|pp=178-179}}{{Sfn|中野|1977|p=75}}{{Sfn|徳川|1963|p=111}}。 | ||
109行目: | 109行目: | ||
=== 革新華族 === | === 革新華族 === | ||
− | ==== | + | ==== 農村美術運動と林政史研究 ==== |
欧州旅行中に、スイスでペザントアート([[民芸品]])を見て、八雲町での冬の農閑期の授産に役立てることを考え、見本品を購入{{Sfn|大石|1994a|pp=11-12}}{{Sfn|中野|1977|p=84}}{{Sfn|徳川|1963|pp=108-109}}。帰国後の1923年2-3月、熊狩りのため八雲町を訪れた後、同年5月に八雲町に見本を送り、同年8月にも家族や石川らとともに八雲町を訪問して農場関係者と相談、翌1924年3月の「農村美術工芸品評会」開催を決めた{{Sfn|大石|1994a|pp=12-27,27-30}}。 | 欧州旅行中に、スイスでペザントアート([[民芸品]])を見て、八雲町での冬の農閑期の授産に役立てることを考え、見本品を購入{{Sfn|大石|1994a|pp=11-12}}{{Sfn|中野|1977|p=84}}{{Sfn|徳川|1963|pp=108-109}}。帰国後の1923年2-3月、熊狩りのため八雲町を訪れた後、同年5月に八雲町に見本を送り、同年8月にも家族や石川らとともに八雲町を訪問して農場関係者と相談、翌1924年3月の「農村美術工芸品評会」開催を決めた{{Sfn|大石|1994a|pp=12-27,27-30}}。 | ||
八雲町では1923年以前から、[[トラクター]]の導入による機械化や[[有畜農業]](畜産の兼営)の奨励などが推進されて成果を挙げていたが、「農村美術工芸品」の制作は、小規模な農家が初期費用をかけずにできる副業として導入がはかられた{{Sfn|大石|1994a|pp=21-22}}。また義親は、農村美術工芸品の制作のほかに、模範的な住宅建設・屋内暖房設備の設置を奨励した{{Sfn|大石|1994a|pp=30-31}}{{Sfn|徳川|1963|pp=106-108}}。 | 八雲町では1923年以前から、[[トラクター]]の導入による機械化や[[有畜農業]](畜産の兼営)の奨励などが推進されて成果を挙げていたが、「農村美術工芸品」の制作は、小規模な農家が初期費用をかけずにできる副業として導入がはかられた{{Sfn|大石|1994a|pp=21-22}}。また義親は、農村美術工芸品の制作のほかに、模範的な住宅建設・屋内暖房設備の設置を奨励した{{Sfn|大石|1994a|pp=30-31}}{{Sfn|徳川|1963|pp=106-108}}。 | ||
− | + | また1923年7月に、私邸(東京・[[麻布区]]の富士見邸)内に、[[尾張藩]]が領地としていた[[木曾郡|木曾]]の林政史の調査・研究のため、林政史研究室(のちの[[徳川林政史研究所]])を設立した{{Sfn|林政研|2013}}{{Sfn|小田部|1988|pp=18,29}}{{Sfn|徳川|1963|p=101}}。 | |
− | + | *設立の動機については諸説あるが([[徳川林政史研究所#設置の経緯]]を参照)、{{Harvtxt|大石|1994a|p=91}}は、藩史研究の念頭にあり、実践の場となったのは、既に官有となっていた木曾のことではなく、[[八雲町]]の[[徳川農場]]の運営のことだった、と指摘している。 | |
− | * | + | |
− | + | ||
− | + | ||
− | + | ||
==== 関東大震災 ==== | ==== 関東大震災 ==== | ||
186行目: | 182行目: | ||
==== 2度目のマレー旅行 ==== | ==== 2度目のマレー旅行 ==== | ||
− | 1929年に[[ジャワ]] | + | 1929年に[[ジャワ]]で開催された[[太平洋学術会議#第4回|第4回汎太平洋学術会議]]に、服部広太郎ら生物学研究所の研究者を含む40数名の科学者たちとともに出席し、帰途、長男・義知らと再びマレー半島を旅行した{{Sfn|小田部|1988|pp=34-35}}{{Sfn|徳川|1931}}。 |
同年6月にジョホール王国を再訪して[[スルタン・イスマイル|イスマイル皇太子]]に謁見、狩猟をし<ref>{{Harvtxt|中野|1977|p=158}}は、スルタン・イブラヒムと再会した、としているが、{{Harvtxt|徳川|1931|p=321}}によると、スルタン・イブラヒムは英国行のため不在で、事前に来訪の連絡を受けて、義親たちが狩猟をするための手配をしておいた。</ref>、同年7月に[[トレンガヌ州]]{{仮リンク|ケママン|ms|Kemaman|Kemaman}}で[[石原産業|南洋鉱業]]が開発していた[[太陽鉱山]]を視察するなどした後<ref>{{Harvtxt|中野|1977|p=158}}は、マレー半島各州にある9家のスルタンを訪問した、としているが、{{Harvtxt|徳川|1931}}によると、訪問したのはジョホール州とトレンガヌ州のみ。</ref>、同7月末に[[北野丸 (1909)|北野丸]]に乗船して帰国した{{Sfn|徳川|1931|pp=321,330,363}}。 | 同年6月にジョホール王国を再訪して[[スルタン・イスマイル|イスマイル皇太子]]に謁見、狩猟をし<ref>{{Harvtxt|中野|1977|p=158}}は、スルタン・イブラヒムと再会した、としているが、{{Harvtxt|徳川|1931|p=321}}によると、スルタン・イブラヒムは英国行のため不在で、事前に来訪の連絡を受けて、義親たちが狩猟をするための手配をしておいた。</ref>、同年7月に[[トレンガヌ州]]{{仮リンク|ケママン|ms|Kemaman|Kemaman}}で[[石原産業|南洋鉱業]]が開発していた[[太陽鉱山]]を視察するなどした後<ref>{{Harvtxt|中野|1977|p=158}}は、マレー半島各州にある9家のスルタンを訪問した、としているが、{{Harvtxt|徳川|1931}}によると、訪問したのはジョホール州とトレンガヌ州のみ。</ref>、同7月末に[[北野丸 (1909)|北野丸]]に乗船して帰国した{{Sfn|徳川|1931|pp=321,330,363}}。 | ||
− | 義親はこの旅行で[[マレー語]] | + | 義親はこの旅行で[[マレー語]]習得の必要性を感じたといい、帰国後、[[朝倉純孝]]に師事してマレー語の勉強を始めた{{Sfn|徳川|朝倉|1937|p=2}}。 |
==== 投出しの尾張侯 ==== | ==== 投出しの尾張侯 ==== | ||
581行目: | 577行目: | ||
しかし、狩猟の許可を得るため最初にジョホールのスルタンを訪問したときスルタンは不在で面会できていない(事前連絡なしで訪問している)ことや、1ヵ月ほど後にスルタンを再訪して狩猟の許可を得た後、かなりの期間を狩猟に費していて、スルタンが狩猟に同行しなくなった後も義親たちは狩猟を続けていることから、「成行きで狩猟をした」わけではない、と考えられている{{Sfn|小田部|1988|p=33}}。 | しかし、狩猟の許可を得るため最初にジョホールのスルタンを訪問したときスルタンは不在で面会できていない(事前連絡なしで訪問している)ことや、1ヵ月ほど後にスルタンを再訪して狩猟の許可を得た後、かなりの期間を狩猟に費していて、スルタンが狩猟に同行しなくなった後も義親たちは狩猟を続けていることから、「成行きで狩猟をした」わけではない、と考えられている{{Sfn|小田部|1988|p=33}}。 | ||
− | + | マレー半島での狩猟に同行した[[吉井信照]]は、1913年頃、[[ジョホール州]]でのゴム園経営の傍らで行っていた猛獣狩が日本の新聞などに取上げられて話題となったことがあり<ref>吉井信照(述)「南洋で成功するには暢気も必要」実業之世界社『実業の世界』v.10 n.14、1913年7月15日、pp.65-68、{{NDLJP|10292872/48}}{{閉}}</ref>、旅行の2年前の1919年に著書『馬来半島に於ける余の猛獣狩』<ref>吉井信照、泰盛社、1919年、{{NDLJP|960677}}</ref>を刊行していた。吉井は[[上野国]]の[[吉井藩]]の旧藩主の弟で、『吉井町誌』は吉井を「虎狩の殿様」と呼んでいる<ref>堀一二三「虎狩の殿様」吉井町誌編さん委員会『吉井町誌』吉井町誌編さん委員会、1974年、{{NCID|BN02124622}}、pp.695-698</ref>。義親の狩猟旅行はこれに触発された可能性がある。 | |
義親は1921年の最初のマレー旅行の後、1929年にジャワ島で国際会議に出席した後にもマレー半島を旅行している([[#2度目のマレー旅行]]参照)。{{Harvtxt|小田部|1988|p=33}}や{{Harvtxt|徳川|1942a|p=要頁番号}}は、マレー旅行の本当の目的は、軍用地図の作成のための資料収集だったとし、{{Harvtxt|科学朝日|1991|pp=190-191}}は「会議出席のため」だったとしているが、最初のマレー旅行の旅行記{{Harv|徳川|1926}}からは、軍事情報の収集に努めたという雰囲気はあまり感じられない。他方で1929年のジャワでの会議の後で行なわれた2度目のマレー旅行の旅行記{{Harv|徳川|1931}}によれば、2度目の旅行で義親らが狩猟に費やした日数は僅かで、旅行の本当の目的は狩猟ではなかったことが伺われる。また最初の旅行の旅行記の内容自体、吉井の狩猟体験記を参考にして書かれた可能性があり、実際の旅程は旅行記のとおりではなかった可能性も考えられる。 | 義親は1921年の最初のマレー旅行の後、1929年にジャワ島で国際会議に出席した後にもマレー半島を旅行している([[#2度目のマレー旅行]]参照)。{{Harvtxt|小田部|1988|p=33}}や{{Harvtxt|徳川|1942a|p=要頁番号}}は、マレー旅行の本当の目的は、軍用地図の作成のための資料収集だったとし、{{Harvtxt|科学朝日|1991|pp=190-191}}は「会議出席のため」だったとしているが、最初のマレー旅行の旅行記{{Harv|徳川|1926}}からは、軍事情報の収集に努めたという雰囲気はあまり感じられない。他方で1929年のジャワでの会議の後で行なわれた2度目のマレー旅行の旅行記{{Harv|徳川|1931}}によれば、2度目の旅行で義親らが狩猟に費やした日数は僅かで、旅行の本当の目的は狩猟ではなかったことが伺われる。また最初の旅行の旅行記の内容自体、吉井の狩猟体験記を参考にして書かれた可能性があり、実際の旅程は旅行記のとおりではなかった可能性も考えられる。 |
2021年6月11日 (金) 19:11時点における最新版
徳川 義親(とくがわ よしちか、1886年10月5日 - 1976年9月6日)は、尾張徳川家第19代当主、戦前の侯爵・貴族院議員。1908年に尾張徳川家の養子となり家督を継ぐと、同家の愛知県下の財産を大胆に処分し、豊富な財力を背景に徳川生物学研究所、徳川林政史研究所、徳川美術館などを創設。ヴァイオリニストの諏訪根自子や、ジョン・バチェラーによるアイヌの研究・保護活動、西川吉之助の口話法によるろう教育など、様々な人物・活動のパトロンとなった。歴史学や植物学の研究のほか、外国語の習得や音楽、写真撮影、冒険旅行や狩猟を趣味とし、1918年以降、徳川農場のあった北海道八雲町で熊狩りをし、1921年にマレー半島で虎狩りをして「熊狩りの殿様」「虎狩りの殿様」として知られた。
1924年に社会主義者の石川三四郎を支援して貴族院改革案を作成、1925年の治安維持法案に反対するなどして注目されたが、財産処分を巡る旧藩士との対立や、貴族院での政治的孤立もあり、1927年のダンス不敬事件により貴族院議員を辞職。その後は、右翼団体を主催する清水行之助や大川周明を支援して1931年の三月事件の黒幕となり、南進論を提唱する石原広一郎らと神武会・明倫会を創設するなど、国家革新運動に傾斜。1938年に大和倶楽部を設立し排英運動を推進、1942年に日本軍政下のマラヤで第25軍の軍政顧問となった。
戦後、公職追放を受け、華族制度廃止等により爵位と資産の8割以上を喪失。1947年から約20年間にわたり共栄火災の会長を務めた。公職追放解除後、1956年に名古屋市長選挙に立候補したが落選した。
目次
経歴[編集]
生い立ち[編集]
幼少期[編集]
1886年10月5日、東京・小石川の安藤坂上にあった越前松平家の本邸(松平茂昭邸)で、元越前福井藩主・松平慶永(春嶽)の五男として生まれる[1][2][3][4]。幼名は春嶽の幼名と同じ、錦之丞[1][2][5][3]。生後間もなく巣鴨の別邸に移り[1]、その後、小石川関口台町にあった慶永邸に転居[1][6]。3歳のとき父を亡くし[1][7]、8歳まで生母・糟屋婦志子(かすや ふじこ)に育てられた[8][9][10]。婦志子は慶永の側室だったため、義親やその兄姉は身分の違いを意識するよう育てられ、礼儀作法などを厳しく躾けられたという[8][9][11][10]。
1892年11月、学習院初等科に入学[3][12]。1年生時に落第したため、学習院初等科の教師をしていた宇川信三の家に預けられる[1][13][3][14][15]。宇川の家は紀尾井町の長屋が多い地域の一角にあり、長屋に住む庶民層の子供たちと石蹴りやめんこ、ねっきなどをして遊び、清水谷の小川でエビやダボハゼを釣るなどして過ごすうちに、逞しさを身につけたとされる[16][13][17][15]。教科書は読まずに「少年世界」の雑誌や小説を読み耽っていたため、成績は最劣等のままだった[18][17]。
1902年9月、学習院中等科4年から、麻布桜田町にあった時習舎[19]に入塾し、共同生活を送る[1][6][20]。時習舎の規律は厳正で、1対1での勉強指導もあり、この頃義親は本気で勉強を始めたという[21][22]。
尾張徳川家第19代当主[編集]
1906年8月、軽井沢で尾張徳川家第18代当主・徳川義禮の長女・米子と見合い[23][24][25]。当初、入婿となることを嫌い、縁談を断わったが、井上馨など周囲からの説得を受けて同年末に承諾した[1][26][18][27][28]。
1908年1-2月に同家の養子となり、米子と婚約。同年3月に「徳川義親」と改名し、同年4月に従五位に叙せられた[1][26][18][29]。同年5月、義父・義禮の死去に伴い、尾張徳川家の家督を相続して第19代当主となり、同年6月に侯爵を襲爵した[1][26][18][30][31]。
1908年7月に学習院高等科を卒業[32]。成績は最劣等だった[32][33]。同月、時習舎を出て牛込区市谷仲之町の尾張徳川家の屋敷に移り[1]、屋敷内に設けられた「一渓塾」で同家の御相談人の1人だった加藤高明から理財の指導を受けた[34][35]。
学位[編集]
1908年9月、東京帝国大学文科大学史学科に無試験入学[18][36][32][37]。徳川 (1963 99)は、史学科へ進学した理由を、文科大学は無試験で入学することができ、歴史は嫌いだったが、(他学科入学の)手続きが間に合わなかったため、と説明している。在学中の1911年4月号の『歴史地理』誌に、「吾妻(あづま)」の語源説に関するメモを寄稿した[38]。尾張藩が領地としていた木曾(長野県西筑摩郡)の経営史をテーマに「木曾山」(徳川 1915 )と題した卒業論文を執筆したが[18][36][39]、学位は得られなかった[40]。
- 史学科の学位については、徳川 (1971 )に、後日、徳川林政史研究所の研究主事が学位を請求したが、東京大学文学部国史科に断られた、との記述があるため、学位は取得できていないと考えられる。科学朝日 (1991 192)は、卒業論文は力作だったが、経済史の分野が日本で定着していなかったため、指導教授らからは不評だった、とし、卒業したかに言及していない。小田部 (1988 18,28)は、経済史研究だったため、指導教師に「そんなものは歴史ではない」と言われたとしながらも、卒業した、と記している。中野 (1977 54-55)および徳川 (1963 100)は、卒業した、としている。しかし経済史研究が歴史研究と認められなかったという説は信じ難く、別人が論文を執筆したことが問題視された可能性があるように思われる。いずれにしても、徳川 (1971 )の内容から、学位は取得していないと考えられる。
1911年9月に服部広太郎の口利きにより、同大学理科大学動植物学科[41]に入学[42][43][44][39]。
- 科学朝日 (1991 194)は、もともと生物学にそれほど興味があったわけではなく、同学科に所属していた尾張藩出身の服部広太郎の口利きにより、簡単な面接のみで入学が許可されたためらしい、としており、中野 (1977 54-55)は、服部広太郎に相談して形式的に試験を受けることになったが、植物分類学の松村任三教授が「植物にはいるのに植物の試験はいらん(…)」として合格にした、としている。
植物学を専攻して、服部らの指導を受け、イチョウの生殖について研究した[45][36][46][47]。
この間、1909年11月に米子と結婚し[48][18][49]、同年12月から小石川区の小日向水道端の邸宅で米子と義母の故義禮夫人・良子と同居生活に入った[50]。1911年には、長男・五郎太(義知)が誕生した[51]。
八雲村の農地解放[編集]
東大在学中の1909年に、尾張徳川家の家従・五味末吉、北海道・八雲村の徳川開墾地の農場主任・大島鍛(きとう)とともに北海道一周旅行を計画し、駅逓所を利用して網走まで約200キロメートルを馬を乗り換えて旅した[52][53]。
翌1910年には、徳川家の名義となっていた八雲村の土地を開拓に成功した農民に譲渡することを宣言[54][55][53]。1912年に、抵当権を解除し、土地の所有権移転の手続きを終えて、開墾に成功して定着した60戸に1戸あたり37,500坪、総計225万坪を無償配分して独立させ、尾張徳川家は残る土地・山林を「徳川農場」として経営した[54][55][53]。
貴族院議員[編集]
1911年10月4日、満25歳到達により自動的に貴族院侯爵議員に就任[57][58][59][60]。就任当初は就学中だったため議会を欠席することが多かったが、大学卒業後、本格的に登院するようになると、貴族院の現状に不満を抱くようになり、このことがのちの貴族院改革運動につながったという[59]。貴族院の特権的空気と白々しい議場風景を嫌い、1914年1月のシーメンス事件後の第1次山本内閣倒閣運動の議事などを除いて、ほとんど議会に出席しなかった、ともいわれている[61]。
尾張徳川家の東京移転と美術館設立構想[編集]
先代・義禮が当主のとき、尾張徳川家の本邸は名古屋の大曽根にあったが[62]、義禮が没し、1908年12月に義禮夫人・良子が名古屋から東京に転居すると、名古屋の本邸は当主不在となり、資産の整理・処分が課題となった[63]。
1910年4月12日に名古屋第3師団東練兵場(現・名城公園内)で行なわれた「名古屋開府300年紀念大祭」に米子・良子とともに祭主として出席[64]。尾張徳川家は祝賀行事の一環として名古屋で什宝の展覧会を2度開催して好評を博し[65]、尾張徳川家の什宝は美術雑誌『国華』で度々特集されるようになった[66]。
1910年5月に、名古屋に保管していた什宝の処分を目的として、御相談人の1人・片桐助作に什宝の整理・調査と目録作成を委嘱、片桐は同年から、5年がかりで作業にあたった[67]。
1912年4月には、東京帝国大学・京都帝国大学の文科大学が義親に什宝の観覧を申し入れて両大学の教授・講師が名古屋・大曽根邸を訪問し、同行した国華社が什宝の写真を撮影。、同年5月18日に東京帝国大学文科大学の集会所でこの写真の展示会が行なわれ、反響を呼んだ。[68][69]
1913年7月11日、小日向水道端から麻布富士見町の新邸に転居し、このとき尾張徳川家の事務所を名古屋から東京に移した[70]。
また1915年5月29日には、東京帝国大学の山上御殿で源氏物語絵巻3巻など尾張徳川家所蔵の絵巻物6点の展覧が行なわれ、約700人が観覧に訪れた[71][72]。
こうした什宝の展覧会がたびたび話題を呼んだことから、義親は、什宝の保存や公開の必要性を感じるようになったとみられている[72][73]。
研究と冒険[編集]
明倫中学校問題[編集]
義親が大学を卒業した1914年頃から、尾張徳川家では、堀鉞之丞を家令に迎え、拠点を名古屋から東京へ移すことを念頭に、名古屋にあった土地家屋や家財の処分、拠点・事業の整理・縮小が進められた[74]。
大学卒業後、義親は東京・麻布富士見町の自邸内に研究室を設けて植物学の研究を継続していたが、1916年頃に本格的な研究所設立を構想、1916年12月に東京府荏原郡平塚村小山に用地を取得した[75]。
1917年には、生物学研究所の新設等を理由として、尾張徳川家が運営に注力していた名古屋・大曽根の明倫中学校と同校附属博物館の愛知県への移管を決めた[76]。また同年以降、名古屋にあった大曽根邸以外の建物・所有地や、大曽根邸の「不要建物」を売却処分し、名古屋における拠点を大曽根邸の最小限の建物・所有地に集約した[77]。
愛知県下の尾張徳川家の財産処分を大胆に進めた義親に対して、これに否定的な旧藩士との間には意見の対立もあり、1914年頃から新聞で義親との不和が報じられていた明倫中学校の校長・森本清蔵が1916年に辞任した後、明倫中学校の校長は長く空席となり[78]、「明倫中学校問題」は「新旧思想の衝突」と評された[79]。中野 (1977 59)によると、尾張徳川家の御相談人だった加藤高明や八代六郎も、生物学研究所や林政史研究所(後述)の設立構想に反対した。
生物学研究[編集]
1918年4月に徳川生物学研究所が開設され[75][80][81]、同研究所は多くの生物学者の研究を支援するとともに、義親自身も研究所でヒガンバナやカンナの生殖の研究を行なった[82]。
1920年には、学習院の植物科の教授を兼ねていた服部広太郎が欧州行きで不在にする間、代理で同科の講師を引き受けた[83][84]。このとき義親は、学習院の校風が成績本位に変ったと感じたといい、息子の義知と義龍を暁星中学へ入学させることにした[85]。
1923年から生物学研究所の所長となった服部広太郎は皇太子時代からの昭和天皇の生物学の師でもあり、義親と昭和天皇の間には、義親が各地で収集した珍しい動植物を昭和天皇に献上するなど、学者としての交流もあった[86][87]。
北海道での熊狩り[編集]
1918年以降、毎年3月頃に徳川開墾地のある北海道・八雲村を同地を訪れて熊狩りをした[89][3][90][91]。
義親自身、1918年3月の「熊狩雑話」[92]、1920年3月の「熊狩記」[93]、1921年3月の「熊をたづねて」[94]などの体験記を執筆。また熊狩りに同行した岡本一平が『朝日新聞』に連載した漫画漫文(岡本 1929 )の中で義親を題材にしたことから、義親は「熊狩りの殿様」として知られるようになった[95][96][97]。
この頃からアイヌの生活にも関心を持つようになり、1920年にたまたま八雲町を訪れたアイヌ語とアイヌ研究の権威・ジョン・バチェラー博士と意気投合し、後に博士の活動を支援することになった[98]。同年5月以降、毎年東京の松坂屋でアイヌ慈善バザーを主催し、徳川農場の作物などを販売した[98]。
1919年7月末には、約1ヶ月間かけて北千島・占守島へ船で旅行[99]。柳田一郎、その紹介を受けた音楽教育家の鈴木鎮一、千島列島と縁の深い郡司成忠、その妹でピアニストの幸田延子ら14人が同行した[100]。
大川周明、清水行之助との出会い[編集]
1918年の米騒動の後、大川周明が設立した老壮会への参加を勧誘される[101]。1920年に清水行之助が大川や北一輝の支援を受け右翼団体・大化会を結成した頃に、尾張徳川家の御相談人だった八代六郎海軍大将を通じて大川や清水と面識を得た[102][101]。
また1918年の暮れ頃には、旧尾張藩出身の加藤勘十の訪問を受け、無産運動の話を聞いたとされる[103]。
博物館構想の発表[編集]
1920年1月12日、1910年から片桐助作が行なっていた尾張徳川家の什宝類の整理と品位鑑定が1915年までに完了したことを受けて[104]、新聞を通じて、大曽根邸の敷地に尾張徳川家の宝物を公開する博物館を設立する構想を発表した[105]。
1921年11月に東京美術倶楽部・名古屋美術倶楽部で入札を行い、尾張徳川家の什宝類のうち、品位鑑定で重複品・不要品と判断された10-15%を売却した[106]。入札での売上総額約57万円は、博物館の設立準備金として運用された[107]。
1920年8月1日には、本籍を名古屋から東京へ移した[75][63]。
マレーでの虎狩り[編集]
1921年5月から7月にかけ、吉井信照らとともに賀茂丸に乗船してマレー半島・ジャワ島を旅行[108][109][110]。
同年5月21日にシンガポールに到着した後、犀・象・野牛の狩猟許可を得るためジョホールのスルタンを訪問したが、不在だったため[111]、スルタンの帰還を待つ間にジャワ島を周遊[112]。翌6月上旬にマレー半島に戻り、スルタン・イブラヒムに謁見し、狩猟好きのスルタンに歓待されて共にムアル で虎を狩り、許可を受けてムアル川上流のブキット・ケポン 周辺のジャングルで象・野牛を狩った[113][114][115][116]。スルタンと別れた後、ジョホールの皇太子に付き添われて、更にムアルで鹿狩り、コタ・ティンギ で象狩り、センガラン で鰐狩りをした[117]。
またこの旅行中、バトゥ・パハ で南洋鉱業公司が経営していた鉄鉱山を見学し、スルタンを介して石原広一郎兄弟と出会った[118][116][119]。
欧州旅行[編集]
1921年10月、箱根丸に乗船し、米子夫人と欧州旅行に出発[116]。同月13日に神戸から乗船し、45日間かけてフランス・マルセイユへ向かい[120]、スペイン、イギリス、ドイツ、スイス、ベルギー、オランダを周遊した[121]。義親は大学を卒業してから「洋行見学の志」を持ち続け、第一次世界大戦のために計画中止を余儀なくされていたが、このとき漸く実現した[79]。旅行中に英国で議会制度について見聞したことは、日本の貴族院の存在意義について考える上で参考になったという[122]。
翌1922年11月に帰国[121]。帰国後、旅行中に船中で知り合った社会主義者の石川三四郎を娘のフランス語の家庭教師として雇入れた[123]。
また旅行中の1921年11月に宮内省の主猟官に任命され[48][124]、帰国後、御料林の害獣駆除などを行なった[125][126]。
革新華族[編集]
農村美術運動と林政史研究[編集]
欧州旅行中に、スイスでペザントアート(民芸品)を見て、八雲町での冬の農閑期の授産に役立てることを考え、見本品を購入[127][121][128]。帰国後の1923年2-3月、熊狩りのため八雲町を訪れた後、同年5月に八雲町に見本を送り、同年8月にも家族や石川らとともに八雲町を訪問して農場関係者と相談、翌1924年3月の「農村美術工芸品評会」開催を決めた[129]。
八雲町では1923年以前から、トラクターの導入による機械化や有畜農業(畜産の兼営)の奨励などが推進されて成果を挙げていたが、「農村美術工芸品」の制作は、小規模な農家が初期費用をかけずにできる副業として導入がはかられた[130]。また義親は、農村美術工芸品の制作のほかに、模範的な住宅建設・屋内暖房設備の設置を奨励した[131][132]。
また1923年7月に、私邸(東京・麻布区の富士見邸)内に、尾張藩が領地としていた木曾の林政史の調査・研究のため、林政史研究室(のちの徳川林政史研究所)を設立した[133][134][135]。
- 設立の動機については諸説あるが(徳川林政史研究所#設置の経緯を参照)、大石 (1994a 91)は、藩史研究の念頭にあり、実践の場となったのは、既に官有となっていた木曾のことではなく、八雲町の徳川農場の運営のことだった、と指摘している。
関東大震災[編集]
1923年8月初、家族連れで八雲町へ避暑に出ての帰途、函館から青函連絡船に乗船中に関東大震災発生を知り、仙台で家族と別れ、同行していた市川猿之助らと東京に戻る[136]。
麻布の自邸[137]が無事であることを確認した後[138]、田端に住んでいた石川三四郎が警察に拘引されていたため、田端警察署へ行って石川を釈放させ、衰弱していた石川を八雲町の徳川農場へ移動させて匿った[139]。
1923年の関東大震災では、震災被害の補填のため、義親の実家の越前松平家など多くの華族が経済基盤を損なったが、尾張徳川家の震災被害は少なかったとされる[140]。
貴族院改革運動[編集]
1924年1月、貴族院から多くの閣僚を登用した清浦内閣が発足すると、義親は貴族院の腐敗を批判[141][142]。
- 中野 (1977 89-90)は、義親は、小笠原長幹らが貴族院で形成していた「研究会」が、貧乏な下級大名・公卿を資金で集め、政権と癒着して利権を漁っている、と批判していた、としている。
- 徳川 (1963 120-122)は、貴族院の使命は衆議院の行き過ぎを是正することにあって、華族議員が入閣したりすることは本来の使命から外れていたとして、当時の「研究会」と政権の癒着について批判している。
帰京した石川とともに貴族院改革案をまとめ[143]、同年3月に「貴族院改造私見概要」と題した小冊子(徳川 1924 )を作成して貴族院の議員に配布した[144][145][146]。
義親の貴族院改革案は、公侯爵議員の世襲制を廃止して華族議員を全て互選制とすること、皇族・華族議員の歳費廃止など華族特権の廃止を主張したほかに、華族議員の定数を100人に制限し、新たに職業議員(職業団体の代表)250人を選出することで世論を反映させるようにし、また朝鮮・台湾からも華族議員を選出、職業議員については、所属する職業団体において女性や朝鮮人・台湾人にも被選挙権・選挙権を付与するとしていた点が特徴的だった[147][148][149]。
同年8月頃、貴族院「研究会」の筆頭常務となっていた近衛文麿や、清浦に代わって首相となった加藤高明と面会して改革案を説明して回ったが、調整は不調に終った[150]。改革案は議会への法案提出段階で他の貴族院議員から反対され、没案となった[151][152]。
この件以来、義親は他の議員から異端として白眼視されるようになり、義親の貴族院離れは更に進んだという。また言動が国体を軽視しているとして右翼団体などから狙われるようになった。この頃、義親は、初対面の来客があった際には、実弾を装填した護身用の拳銃をちらつかせながら応対していたという。[153]
大行社設立支援[編集]
1924年には、清水行之助による右翼団体・大行社の創立を大川周明や八代六郎とともに支援し、安田共済事件で大川と北が対立した後は、清水がついた大川を支援した[102]。1926年には船橋にあった清水の自宅に招待されるなど、清水との関係は親密だった[154][155]。
農村美術工芸品評会[編集]
1924年3月、八雲小学校で第1回の「農村美術工芸品評会」が開催された[156]。品評会は事前に『函館毎日新聞』[157]や『北海道タイムス』[158]で紹介され、他の農村からも参加者が出るなど、反響を呼び[159]、多くの参観者が八雲町を訪れた[160]。品評会には、義親も自ら製作した木彫の彫刻品を出品した[161]。同年5-6月には北海道庁が北海道商品陳列所で「家庭手工芸品展覧会」を開催し、八雲町の品評会への出品作品や取組み内容を紹介した[162]。
八雲町は翌1925年3月の「農村美術工芸展覧会」開催に向けて準備を進めたが、義親は貴族院議員としての政治活動に忙殺され、この年の展覧会の準備にはあまり関与することはなかった[163]。
治安維持法に反対[編集]
1925年3月に加藤高明内閣が普通選挙法と併せて治安維持法案を提出した際には、貴族院が法案賛成を基調とする中[164]、貴族院本会議で、警察が法律を逸脱した運用を行う懸念や、共産主義者や無政府主義者を弾圧すれば却って運動の過激化につながる懸念があるとして反対演説を行うなどした[165]。
しかし法案に反対したのは義親と細川護立のみで[166]、同法は同月19日に貴族院を無修正で通過、成立した[167][168][169][170]。[171]
熊の木彫り[編集]
治安維持法可決により政治活動に区切りがついた後、1925年5月から8月にかけて、同年3月に八雲町で開催された「農村美術工芸展覧会」が盛況に終わったことを受けて、義親は、外国製の木彫りの彫刻の見本品、美術手芸機械、大工道具や参考資料などを徳川農場に送付して彫刻品の制作を促すなど、翌1926年3月に開催が予定されていた「八雲農村美術及手工芸品陳列会」の準備に積極的に関与[172]。同陳列会の開催にあたっては、出品された民芸品の中でも特に木彫りの彫刻、竹細工、編物・刺繍については作品1つ1つを講評し、更に完成度を高めることを要求した[173]。
1926年3月にも熊狩りに出猟し、捕獲した仔熊を彫刻のモデルとして徳川農場で飼育した[174]。1926年12月には、八雲町に初めて熊の木彫りの購入注文があり、その後も熊の木彫りを中心に木彫品の製作・販売の注文が増加していった[175]。1927年以降、八雲町では制作する民芸品の種類を減らし、「熊彫」などの木彫品を中心に製作を行なうようになった[176]。
借金問題への介入[編集]
1925年に、実姉・里子の嫁ぎ先だった徳川慶喜の四男・徳川厚男爵の借金問題について厚の息子・喜翰から相談を受け、高利貸からの借金の返済について警察に相談し、1927年5月に厚を隠居させ、喜翰に家督を譲らせた[177]。
- 小田部 (1988 60)は、旧態を改められずに没落していく華族の姿に直面したことが、義親に「天皇の藩屏」としての華族と貴族院の機能低下への危機感を抱かせ、義親の貴族院革新志向を支えていたのだろう、としている。
ろう教育の支援[編集]
1925年に西川吉之助と娘・はま子の訪問を受け、以後、ろう教育、特に西川による「聾口話普及会」の設立など「口話法」の普及・啓蒙活動を支援した[178]。
1937年4月にヘレン・ケラーが来日して日本各地を講演して回ったときには、歓迎会を準備するなど接待役を務めた[179]。
バチェラー博士の支援[編集]
1926年頃から、バチェラー博士によるアイヌ語の辞書の改訂とアイヌ保護学園の財団法人化の活動を支援した[180]。1926年11月に東京で開催された第3回の汎太平洋学術会議の際には、バチェラー博士を会員に推薦し、同年10月に会員20名を帯同してのウサックマイや白老のアイヌの部落の視察旅行が企画され[181]、博士は大会で「アイヌ民族、その起源ならびに他民族との関係」について講演を行なった[180][182]。
ダンス不敬事件[編集]
1926年12月12日、麻布富士見町の自邸をカトリック教会主催のクリスマスのチャリティーダンスパーティー・バザーのために貸し出したところ[183][184][185][186]、翌年初にかけて、大正天皇の容態が悪化して自粛ムードだったときに華族の仲間130-140人を集めてパーティを開いていたことが不敬だ、として批判を受けた[186][187][188]。
1927年1月に宮内省に隠居届を提出[189]。その後も、右翼団体・黒竜会から恐喝を受け[190]、「親せきをはじめいろいろな人間が」[185]義親の責任を追及したことから、同年4月に貴族院議員を辞任した[191][184][48][190][192]。
1927年8月、八雲町を訪問した義親は、約1ヶ月弱と異例の長期間にわたって同地に逗留し、外出を控え、民芸品の木彫品などの製作に打ち込む日々を送った[176]。この頃、八代六郎は義親に宛てて、八雲での滞在が長期に及んでいることを案じる手紙を送っている[193]。
満州事変[編集]
金融恐慌の影響[編集]
1927年の金融恐慌では、多くの華族が出資していた十五銀行が倒産した[194]。尾張徳川家は、加藤高明の助言により十五銀行の増資への応募を控えていたことから被害額を抑えることができたとされ、また同銀行の倒産直後に世襲財産を十五銀行株から国債に切替えて被害を軽減した[195]。
二十日会[編集]
1929年夏、大川周明が「武力行使も辞さない満蒙問題の早期解決」を主張して清水行之助らと時局懇談のため結成した「二十日会」の発足当初のメンバーに加わり(秘書の渋谷三が名を連ねた)、毎月20日に開催された同会の会合に有馬頼寧、近衛文麿、鶴見祐輔らとともに出席[196][197]。これと前後して、1928年の第16回衆議院議員総選挙、1930年の第17回衆議院議員総選挙に清水が立候補した際には、清水の応援演説をした[198]。
2度目のマレー旅行[編集]
1929年にジャワで開催された第4回汎太平洋学術会議に、服部広太郎ら生物学研究所の研究者を含む40数名の科学者たちとともに出席し、帰途、長男・義知らと再びマレー半島を旅行した[199][200]。
同年6月にジョホール王国を再訪してイスマイル皇太子に謁見、狩猟をし[201]、同年7月にトレンガヌ州ケママン で南洋鉱業が開発していた太陽鉱山を視察するなどした後[202]、同7月末に北野丸に乗船して帰国した[203]。
義親はこの旅行でマレー語習得の必要性を感じたといい、帰国後、朝倉純孝に師事してマレー語の勉強を始めた[204]。
投出しの尾張侯[編集]
1929年に尾張徳川家は愛知銀行から鈴木信吉を家令に迎え、1920年の構想発表、翌年の什宝類売却の後、諸事情から停滞していた博物館設立構想が急速に具体化した[205][206][207]。
- 1921-1922年の外遊や、1923年の関東大震災などがあり、また1926年1月に尾張徳川家の財務を取り仕切っていた加藤高明が急逝したなどの事情があった[207]。
この頃から、初代・義直以来、尾張徳川家が東京・名古屋の様々な寺院に造営した墓所170基を掘り起こして遺体を火葬し、名古屋市郊外の定光寺にある義直の墓所の隣地の地下に鉄筋コンクリート造の納骨堂を造成し、遺骨をまとめて納骨した[55][208]。
- 中野 (1977 71,223)は、墓所の整理は1936年に完了し、廃した墓所の墓石は、東京・目白の自邸の石垣として使用した、としている。
- 徳川 (2006 82)は、280数体の遺体を火葬して、定光寺の納骨堂に納め終えたのは1953年頃だった、としている。
1930年9月、名古屋市の土地7,000坪を建屋も含めて名古屋市に寄付し[209][210]、古戦場として知られる小牧山の土地68,000坪を小牧町に寄付した[211][209][210]。先年に北海道・八雲村で開墾者へ土地を譲渡した件もあり、思い切った財産の寄付により、華族仲間からは「投げ出しの尾張侯」と呼ばれた[212]。
かうして家を縮小すれば財産の大部分は失ふけれども同時に心も軽くなる(…)そして私自身はやはり今迄同様研究室に立て籠って従来の研究をつゝけてゆく、そして出来るならば小供の時から希望であった探検の事業を死ぬまでやって見たいと思って準備をしてゐる、これはどれだけ実現出来るかそれも知らない
– 徳川義親、1930年10月9日、麻布富士見邸での新聞記者会見の中で[213]
1931年12月、財団法人尾張徳川黎明会を設立し、尾張徳川家伝来の什宝・書籍類のほとんどを同財団に寄付、義親は財団の会長に就任した[214][215][133][55][216]。生物学研究所と林政史研究所の管理は財団に移管され、林政史研究所は財団の1機関として設置された蓬左文庫の附属歴史研究室となった[214][133][210]。
黎明会は、翌1932年に、名古屋にあった蓬左文庫と品川区小山にあった生物学研究所を東京府高田町雑司ヶ谷に新設・移転し[133][214]、什宝・美術品等の保存・研究・公開のため、愛知県名古屋市東区大曽根町の尾張徳川邸宅跡地に徳川美術館を建設した[133][217]。
3月事件[編集]
1931年2月17日、清水行之助と大川周明から、宇垣一成陸相を首相にするクーデター計画を明かされ、資金援助を求められる[218][219][220]。資金援助を承諾し、鈴木信吉らと相談して、金塊を処分して資金を捻出、同年3月上旬に3回に分けて合計20万円を清水に渡した[218][219][221][222]。
同月11日、清水から決行予定日が同月20日であるとの連絡を受けた[223]。しかし、決行予定日直前の同月18日になって、小磯國昭の使いの河本大作が来訪し、永田鉄山ら陸軍の中堅幹部が反対し、宇垣が「寝返り」したため、計画は中止になったが、大川と清水が自分達だけでクーデターを決行すると主張しているとして、2人の説得を依頼された[224][225][226][227]。
義親は、河本と東亜経済調査局へ行き、「失敗することが分かっている以上、感情的になって暴挙に出ても仕方がない、自重して再起を図るべきだ」と説得、2人は計画中止を受け入れた[224][225][226][228]。
義親は自身の説得によりクーデターが未遂に終った後も大川や清水のことを気に懸け、同月下旬に2人と会って慰めるなどした[229][230]。事件後、義親は大川と「真に親しくなった」といい、また清水との関係もそれまで以上に親密になったとされる[231]。
事件の際に清水は陸軍の橋本欣五郎中佐から騒乱を起こすための擬砲弾300発を受取り、計画中止決定後も返還を拒否していたが、1931年末ないし1932年初頃、義親から要請を受けて、返還した。
- 小田部 (1988 71)は、清水は、1931年12月に閑院宮載仁が参謀総長になった後、「宮様が心配しているから」と義親から要請を受けて擬砲弾を参謀本部の根本博中佐に返還した、としている。
- 中野 (1977 133-135)は、1932年1月に習志野の歩兵学校の倉庫で小火があった際に、橋本が購入していた擬砲弾500発のうち残りの200発が見つかり、300発が清水に提供されていることを知った荒木貞夫が小磯國昭に返却を命じ、小磯から義親に清水の説得依頼があり、同年3月頃に擬砲弾が返還された、としている。
義親は、この事件の後も清水から様々な政治工作への出資を持ちかけられ、資金援助をした[102][232]。
貴族院復帰[編集]
1931年2月に麻布富士見町の邸宅を日本政府に売却し、目白に邸宅を新築する間、麻布桜田町の後藤新平旧邸に転居。新邸の完成後、1932年11月に目白に転居した。[233]
1931年12月には、貴族院議員に復帰したが[48][234]、復帰後も議会にはほとんど出席しなかったとされる[235]。
1933年には、鈴木鎮一を介して、有島生馬から逃れるため家出をした諏訪根自子とその母を助け、所三男の家に諏訪を預からせ、1936年にフランスないしベルギーに留学させた[236]。
5.15事件[編集]
1932年2月、大川周明による神武会の設立を支援し、顧問となった[237][238]。
同年5月に起きた5.15事件では、事件に関与したとして同年6月に大川と清水が逮捕され、3月事件の経緯が検察側の知るところとなったことから、同年7月に3月事件に関する検察の取調べを受けた。しかし、3月事件には陸軍首脳が関与しており、それが不問に付されたこともあって、そのまま釈放された。[239][230][240][241]
大川の逮捕後、神武会の会長だった石原広一郎が大川の急進主義的な方針と一線を画した明倫会を組織すると、石原と行動を共にし、明倫会の結成に関与した[242][243]。
1934年11月9日に東京控訴院で5.15事件に関して大川に禁固7年の判決が下ると、小原直法相に大川の仮出所を要請し、神武会の解散を条件に、同月12日に大川の保釈が認められた[244][245]。
南進の夢[編集]
1934年3月、ジョホールのスルタン・イブラヒムが来日し、石原兄弟とともに接待役を務めた[246][247][248]。
中野 (1977 158)によると、スルタン・イブラヒムは英国からの独立を志向し、早くから日本訪問を希望していたが、英国の監視が厳しかったため、義親は口実を作ってスルタン夫妻の日本訪問を実現した。
スルタン夫妻は、大阪、京都、名古屋を訪問した後、同年4月3日に東京で昭和天皇に謁見し、勲一等旭日大綬章を贈られ、更に名古屋、京都を訪問[249][247][250]。日本訪問を終えた後、米国経由で欧州へ向かった[250][251]。
1935年12月、スルタン・イブラヒムからダルジャ・カラバット第1等勲章 を授与された[252]。
1937年3月には、ハリウッド訪問の途中で東京に立ち寄ったサラワク王国の王妃を歓待し、日沙協会の近藤正太郎夫妻とともに買物に随行した[253]。またこの頃までに、英領マラヤだけでなく、英領ビルマ、仏印、蘭印など、マレー語圏の欧米列強植民地の独立勢力と幅広く交友関係をもった[254]。
1937年2月には、朝倉純孝と共著でマレー語の入門書『マレー語4週間』(徳川 朝倉 1937 )を出版している[255][256]。
徳川美術館の開設[編集]
1933年、徳川美術館と蓬左文庫の一般公開を控え、蜂須賀正氏の「豊国祭礼図屏風」、紀伊徳川家の徳川頼貞の「清正公兜」など、他の華族が経済的に逼迫して競売に出した家宝を落札[257]。1935年には近衛文麿から「侍中群要」を交換で入手するなどして、開館準備を進めた[257]。
1935年に徳川美術館と蓬左文庫が名古屋・東京でそれぞれ一般公開を開始[258][133][259]。
1937年7月3日には、昭和天皇が徳川美術館を訪問し、義親は案内役をつとめた[260]。
黎明会設立の事につきて特に有り難き御言葉を賜る。総てを捨ててすべてを得たり。光栄これにすぎず。
– 徳川義親、1937年7月3日の『日記』の予記として[260]
日中戦争[編集]
2.26事件[編集]
1936年2月の2.26事件発生直後、藤田勇から知らせを受け、事件で殺害された渡辺錠太郎[261]に見舞いを出し、自身も錦町署の小栗一雄警視総監を見舞う一方で、叛乱軍の山口一太郎大尉の実弟だった生物学研究所の研究員・山口清三郎と徳川林政史研究所の所三男を山王ホテルの旧館に宿泊させ、同ホテルの新館を占拠していた丹生誠忠の部隊の動向を探らせた[262][263]。
義親は、大川、藤田、清水、山科敏、石原らと、決起軍との調停について相談し[264][265][266]、決起した将校に資金を提供していた石原と明倫会の陸軍予備少将・斎藤瀏を通じて、事件の首謀者の1人である栗原安秀に、自分が決起将校を引率して宮中に参内することを申し出たが、栗原に断わられた[244][267][268]。
- なお、中野 (1977 167-169)および徳川 (1973 159-160)は、事件発生後の同月27日に、義親が事件の収拾のため、5.15事件で服役中だった大川周明を出所させることを小原直法相と交渉し、神武会の解散を条件に大川の仮出所が認められた、としているが、粟屋 (1984-7 307-308)および小田部 (1988 83-84)は、義親の日記の記事から、大川は事件発生当日の26日から義親らと共に行動しており、また神武会は1935年4月に解散しているため、大川は事件にあたって釈放されたのではなく、事件以前から収監されていなかった、とし、大川は、1934年11月に釈放された後、大審院の判決後も入獄せず、保釈されたままだったのではないか、と推測している。
事件後、同月29日に義親は市谷刑務所で司法省の光行次郎検事総長に会って大川の刑の執行猶予を依頼し、同年3月5日に大川を聖路加病院に入院させ、同年6月16日に大川は入監した[269]。
同年6月13日に事件の資金提供者となった石原が逮捕され、同月24日に石原の取調べ結果に基づく取調べを受けた[270]。義親の宮中参内計画は事件の軍事裁判でも問題となり、石原や斎藤瀏が計画の概要について証言、北一輝は自分が西田税に命じて義親からの申し出を拒否させたと証言した[271]。しかし、義親は検挙されず、また石原も無罪となった[270]。
2.26事件の裁判で法務官を務めた小川関治郎は旧尾張藩士の出身で、事件後しばしば義親邸を訪問し、事件の軍事裁判の情報を伝えていた。このとき義親は小川に石原の釈放を要請したと考えられている。[270]
1937年1月に宇垣一成が組閣の大命を受け、組閣参謀の鶴見祐輔から、近衛文麿への辞退働きかけや、宇垣組閣への陸軍の反対意見を抑えて欲しいとの依頼を受けた際には、3月事件における宇垣不信の念から難色を示し、居留守を使うなどして不支持に回った[272][230]。
1939年末から1940年頃、小川は2.26事件の裁判関係資料を義親邸に持ち込んで保管を依頼し、1973年現在、資料は未公開のまま徳川林政史研究所に保管中とされている[273][274]。
理財の天才[編集]
義親は、尾張徳川家の家政整理を成功させた経験から、相談を受けて徳川一門や姻戚の家政問題の解決にも関わった[275]。
1936年から翌1937年にかけて、紀伊徳川家・徳川頼貞の財政逼迫の問題に関与した[276]。1936年暮れには同家に4万円を貸し付け、家財や代々木の邸宅の売却による債務の返済、銀行への返済条件の緩和要請などに奔走、頼貞に隠居するよう説得した[276]。
1937年1月には、2.26事件で拘束されていた石原の弟・高田儀三郎らと会い、石原の処遇について話をするとともに、紀伊徳川家の財産である、タンカーや日本(某金鉱)・朝鮮半島(全羅鉱業会社)の鉱山の売却譲渡を持ちかけている[277]。
1937年に、もともと財政的に逼迫していた上に、家扶・森田実の使い込み問題が起きた田安徳川家・徳川達孝の家政整理の相談を受けて達孝に債務の整理を強く迫った[278]。同年、三女・百合子の嫁ぎ先となる予定だった佐竹侯爵家の家政整理にも介入した[279]。
田安家の債務整理は成功し、達孝や徳川家達からお礼の挨拶を受けたが、佐竹家の家政整理はうまくいかず、義親は日記の中で、佐竹侯爵夫妻に財政逼迫への危機感がないことを嘆き、家が没落してもやむを得ないだろう、記した[279]。
冀東防共自治政府の支援[編集]
1937年2月、華北から東京へ戻った和知鷹二の訪問を受け、藤田勇、渋谷三、山科敏と話を聞く[280]。同年4月には所三男と和知の使いとして来た山科の報告を聞き、同月結城豊太郎蔵相、日本産業・鮎川義介と相談、同月許斐氏利・冀東防共自治政府秘書の孫錯と会い、同政府への援助について話し合った[280]。
翌5月、山科を通じて和知に冀東政府支援問題について連絡し、同年6月にも孫錯と冀東政府参政・殷体新と会って、山科とともに北支問題について相談した[280]。
日中全面戦争[編集]
1937年7月7日に盧溝橋事件が起ると、塩野季彦法相や風見章内閣書記官長に大川周明の仮釈放を働きかけ、同年10月13日に釈放が実現した[281]。
同月25日、帰国していた和知から開戦の事情を聞き、政府・第1次近衛内閣が陸軍の要求を容れて内地の3個師団の現地派遣を決定したために衝突が拡大したのに、その後も優柔不断な態度をとっていることが中国・国民政府を付け上がらせているとして、戦争拡大は止むを得ないとしながらも、同月下旬に松平康昌内大臣秘書官長、有馬頼寧農相を通じて近衛文麿首相に不拡大の方針を取るよう働きかけた[282]。
その後の戦線の拡大を受けて同年9月には石原広一郎が近衛を訪問し改めて不拡大の方針を取るよう進言し、近衛との会談の結果を徳川に報告している[282]。
上海派遣慰問団[編集]
盧溝橋事件の後、華族による戦争協力が活発に行なわれ、義親は妻・米子、長男・義知と相談して、陸・海軍省への恤兵金などとして約4万5千円を献金した[283]。
1937年11月、陸軍省新聞班の後援を受けて、貴族院議員の上海派遣軍慰問団10名の団長として樺山愛輔らとともに上海へ渡航[284][285]。同月17日から28日にかけて、上海の政府施設や戦死者遺骨奉安所を訪問、尾張徳川家の御相談人の1人だった上海派遣軍司令官・松井石根と会い、上海戦の戦跡を視察、名古屋第3師団など各部隊の慰問、俘虜収容所・病院などの視察を行なった[286][287]。
義親は、同月28日に慰問団の行程が終了した後も帰国せず、前線の視察に向かった[288]。同月30日に蘇州、翌12月2日無錫に到着して第11師団歩兵第44連隊長として南京に進軍中の和知と再会し、同月3日に陥落後間もない丹陽に到着、第16師団長・中島今朝吾と会い、「第一線の兵士を慰問したい」と申し出て、馬で白兔鎮にあった歩兵第19旅団・草場部隊に合流し、同月5日-6日にかけての句容への進軍に従軍し戦場を視察した[288]。
南京陥落は目前であったが、日本で娘の結婚式に出席する予定があったため、同月7日に句容から丹陽、常州、無錫と引き返し、同月10日に上海から帰国した[289][290]。
同月、帰国後、視察で知った「前線の人々」の意思・希望を踏まえて大川と「支那問題解決案」を取りまとめて木戸幸一文相や有馬農相に示したが、停戦は実現しなかった[291]。南京虐殺事件については、翌1938年2月に松井が更迭されたことについて、松井の立場に同情し、粛軍の必要を感じる、と日記に記した[292]。
修身教育への関与[編集]
1937年12月、内閣教育審議会委員に就任[48]。
1938年2月、文部省の要請で作法教授要項調査委員長に就任し、「徳川流礼儀作法」の指導書を作成した[48][293][294]。この頃、東京YWCA附属駿河台女学院や山脇高等女学校などいくつかの女子校で、礼法の講師を務めた[295]。
礼法の指導書作成後は、藩祖・徳川義直が著した史書・『類聚日本紀』174巻の複製に取り組んだ[296][294]。
同年8月、名古屋から上京して進学する学生のため、目白の自邸内に木造2階建の寮舎・「啓明寮」を築造[296][294]。
その後も修身教育に関与し、1941年の『国民学校礼法教授要項案』(徳川 1941a )の中では、国民学校において「廊下を走らない」などの日常作法を躾ける方法について述べている[297]。
排英運動[編集]
南京が陥落した1937年12月頃から、大川周明と、「支那問題解決」のために南進して英国をはじめとする列強の勢力を排除する強攻策を取るべきだと主張[298]。
翌1938年1月-2月にかけて、英国の動静を探るために、大角岑生大将や石原広一郎を交えて、対日宥和を探っていた駐日英国大使・クレーギーやピゴットと非公式な意見交換を行なった[298]。
1938年4月には、3月事件、10月事件、血盟団事件、5.15事件、神兵隊事件の関係者で在京の者を組織し、石原を創設者、大川を幹事、義親を会長とする国家主義団体・大和倶楽部を結成し、排英運動や末次信正海軍大将擁立運動などを推進した[299]。
同年11月頃から、大川と「アメリカからの借款を実現することにより、蒋介石政権に決定的な打撃を与えて日中戦争を収拾し、南進に転じ(て英国と対決す)る」ことを目的として、米国からの大規模な借款を計画し、翌1939年を通じて日本政府への働きかけを続けたが、実現しなかった[300]。
- 小田部 (1988 122)は、義親らの排英運動は米英可分論を前提にして進められていたが、現実には米国は援蒋政策に加わっており、借款計画は、現実を無視して行なわれた、もともと実現不可能な、自分たちに都合のよい計画だった、と評している。
1939年6月14日、北支那方面軍が天津のイギリス租界を封鎖し、日英間の緊張が高まった際には、これを打開するため7月15日に行なわれた有田・クレーギー会談[301]を準備し、他方で小磯拓相や参謀本部の樋口季一郎、軍事課長の岩畔豪雄らと情報交換して日独伊防共同盟を強化し対象に英国を加えさせようとしたが、同年8月下旬の独ソ不可侵条約締結により、計画はいったん頓挫し、排英運動は継続されたが目標は定まらなかった[302]。
産業組合中央会[編集]
1939年5月、学習院中等科の同窓生だった有馬頼寧からの誘いを受けて、産業組合中央会の理事となる[303][304]。当時、同会には、千石興太郎、荷見安らがいた[304]。
このとき、産業組合中央会は保険会社の経営を志向しており、当初、金光庸夫から保険会社を買収することを検討していたが、買収先の保険会社の経営状況に問題があることが発覚して政治問題化した。義親は三月事件を通じて面識があり、当時拓相となっていた小磯国昭に口添えを依頼して、買収話を白紙化させた[304]。
同会が改めて大東海上と大福海上を買収、合併させようとしたときには、軍部への介添役となって合併を推進し、また私財で買収資金を賄った[304]。
1941年10月には同会副頭取に就任[305][306]。1942年7月に合併が成立して共栄火災が設立され、井川忠雄が社長となり、義親は会長となったが、このとき義親は第25軍の軍政顧問となってマラヤに赴任していた[304]。
蘭印進駐の陰謀[編集]
1940年8月、第2次近衛内閣が蘭印との交易維持交渉再開(第2次日蘭会商)を模索した際に、使節団長に任じられた小磯国昭から同行を依頼され、承諾。軍艦と陸戦隊を同行してオランダ総督を威嚇し、現地で義親が銃撃される事件を起こして、それを理由に陸戦隊を進駐させる計画を進言した。この計画を小磯から聞いた近衛文麿は、小磯を交渉担当から外し、代わりに小林一三を派遣したという。[307]
日米民間交渉[編集]
1940年7月、第2次近衛内閣の下で日中戦争の解決と軍需物資の輸入を重要課題として米国との交渉が進められ、1940年11月に米国メリノール会のウォルシュ司教とドラウト神父が来日して産業組合中央金庫理事の井川忠雄と民間交渉を行なった[308]。
このとき義親は、井川から交渉の経緯を聞き、翌1941年2月の井川の米国行きに際して、海軍の岡敬純軍務局長、高木惣吉調査課長らへの根回しを行なった[308]。
井川は翌1941年2月に渡米して井川・ドラウト案を作成、更に岩畔陸軍軍事課長が交渉に加わり、同年4月に「日米諒解案」が作成され、野村吉三郎とハルの日米交渉の下地とされた[309]。
しかし、1941年7月の南部仏印進駐と翌8月の石油禁輸により交渉は頓挫した。同年8月に井川は帰国、義親を訪問して、外務省ルートを外れて交渉を行なった井川への風当たりが強かったことなど、交渉失敗の経緯について報告している。[310]
太平洋戦争[編集]
南方工作への関与[編集]
1941年5月には、海軍の高木惣吉らから相談を受けて、石原広一郎とシンガポール軍港に人を潜入させる手配をし、同年9月には、陸軍の桜井徳太郎の紹介で工作員の日高みほらとインド人工作について話合うなど、対英開戦を前にして、英領マラヤで行なわれた謀略工作に関与した[311]。
また、第1次・第2次近衛内閣の下では、1930年代前半のクーデター事件により収監されていた受刑者の、恩赦や大赦による刑期満了前の仮出所が相次いだが[312]、このうち5.15事件に関与した三上卓、血盟団事件に関与した四元義隆、井上日召らと釈放後に連絡を取り、彼等が南進のための謀略工作に携わるように斡旋した[313]。
南方軍政の青写真[編集]
1941年10月、懇意にしていたサルタン(イブラヒム?)宛てに、マレー作戦の実行部隊となった第25軍の参謀長に就任した鈴木宗作の紹介状を送付[314]。
同月から同年12月にかけて、第25軍の軍政要員・高瀬通らの訪問を受けて、華僑工作や「軍政実施の基本要領」など、英領マラヤ占領後の軍政の実施方針について打ち合わせを重ねた[315]、
同年12月には、高瀬に同行してきた白浜宏少佐と対英米諜報網の構築について相談[314]。
同年12月7日、太平洋戦争の開戦前日、鶴見貞雄(鶴見祐輔の弟)、清水行之助とともに、南方軍政部の一員として同月11日に日本を出発する予定となっていた高瀬の送別会を行なった[316]。
回想録などでは、南方行の動機について、太平洋戦争開戦後に、親しかったマレーのスルタンの安否を気遣い、南方行きを志願した、とされているが[317]、義親の日記によると、開戦前の同年11月22日に、高瀬・清水と「南方策の打合せ」をする中で、義親は「事ある時には南方にゆく筈」となっていた[315]。
第25軍軍政顧問[編集]
義親のマレー赴任の希望は陸軍に伝えられ、1941年12月18日に陸軍・武藤章中将から井川忠雄を通して内示があり、1942年1月30日に永田秀次郎、村田省蔵、砂田重政とともに正式に「軍政顧問」の事務委託が発令された[318][319][320]。
同年2月4日・9日付の『朝日新聞』には手記が掲載された[321]。
- 2月4日付の手記では、大正14年(1925年)以来考えていた夢が現実になった、かつてのジョホールでの虎狩りは英領マラヤに入国するための手段であったが、スルタン・イブラヒムが親日家になったことには貢献できたと自信を持っている、一介の宣撫班員として、習得した南方諸語を役に立て、一生懸命やりたい、など
- 2月9日付の手記「文化啓発の手引役」では、欧米列強が設立した研究所での活動の再開・継続など、文化行政に関する抱負を述べ、他に、各国語で共通の唱歌を作りたい、史跡名勝・天然記念物を保護し、熱帯の珍しい動物を日本に紹介したい、など「大東亜の文化啓発の大使命」のため、現地の土俗、人類、言語等の研究をしていきたい、など
が赴任にあたっての抱負として述べられている。
同月11日に第25軍軍政顧問としてシンガポールへ出発[318][319][320]。到着したのは、出発から1ヶ月弱後の同年3月5日だった[322]。
- 小田部 (1988 146)は、日本からシンガポールへ直行せず、政情が落着くまでバンコクあたりで待機していたのではないか、としている。
- 中野 (1977 204-205)は、2月初旬に秘書の石川善兵衛を帯同してサイゴンへ飛び、2月15日の英軍降伏後、ジョホールバルのスルタン・イブラヒムのもとへ急行し感謝された、としている。
その後、同年3月25日から4月3日までマレー半島の視察旅行を行なって各州の(日本人の)州知事やスルタンを訪問・視察し、同月13日には各州のスルタンが義親のお茶会に招待されて昭南に集まった[322][323][324]。
同年5月、日本に一時帰国[325]。
スルタン統治の窓口役[編集]
1942年6月初旬、東京で、参謀本部、陸軍省、軍務局を訪問し、首相官邸で行われた「大東亜建設審議会関係講演会」に出席し、砂田重政に続いて現地の事情と軍政の方針について説明した[326][327]。
大東亜建設審議会 (1942 21-33)によると、講演会での義親の報告の要旨は以下のようなものだった。
- ジョホールのスルタンの様子からすると、英国の統治に対する不満が相当あったようで、マレーのスルタンからは驚くほど日本の軍政に対する不満が聞かれない。スマトラの事情は分からない。
- こうした状況から、英国時代よりも俸給を減らしたり、政治的主権を日本に移譲させる方針を採っても大丈夫だと思う。しかしスルタンが日本の軍政に不満を持たないようにできるだけ配慮してほしい。
- マレー人は怠惰だといわれているが、英国による植民地統治がそうさせているのであって、マレー人の本来の思考は日本人と同じで、忠節を重んじるので、教育すれば日本人の「魂」を持たせることはできる。
- 教育にはほとんど着手できていないが、英国式の教育を排除して、日本式の教育を進めていけば、イスラム教と日本の精神が融合して、マレー人も昭南神社の天照大神を崇拝するようになる。英語を使わせず、日本語教育を推進することが重要だ。
- マレー半島、スマトラ島、ボルネオ島、ジャワ島などのマレー系の民族は、列強の植民地となって分断されたが、民族的には同質であるから、旧植民地時代の区分にとらわれない大インドネシア主義的な見地から統治すべきだ。
1942年6月27日、再び昭南島へ渡り、スルタンの統治方針について軍政部の渡辺渡、鈴木宗作参謀長、斎藤弥平太軍司令官らと相談した結果、同年7月に極秘文書「王侯処理に関する件」が作成された[325]。同文書は、スルタンに統治権を自発的に軍司令官を通して天皇に「奉納」させるよう「誘導処理」するという「版籍奉献」を推進するという方針だった[328]。
同月、義親は長男・義知を通じ、懇意にしていたジョホールのスルタン・イブラヒムに「版籍奉献」を打診し、同月20日に長男の義知を通してスルタンから「一任する」との回答を得た[328]。
その後も、第25軍のスルタン統治の窓口役として、昭南忠霊塔建設に際して各州のスルタンから寄付金を徴収、1942年9月10日に行なわれた忠霊塔の除幕式の後、同月13日にジョホール州のスルタンから5,000円、翌10月9日にケダ州のスルタンから5,000円を受領したり、同年9月下旬にトレンガヌ州のスルタンが死去した際の後継者問題について、久慈学州長官から意見を求められ、これに関与したりしていた[329]。
日本語教育の推進とマレー語研究[編集]
義親は、1942年2月に太平洋協会の機関紙『太平洋』に寄稿した「南方経営私見」の中では、性急な日本化を戒め、日本語教育の強要に反対し、一般民衆にはマレー語で教育を行なう、としていた[330]。同年5月には、ジャワ・スマトラ・ボルネオ・マライなど、占領各地のマレー系諸語を標準化した「統一馬来語」の普及促進を軍政部に提言したとされる[331]。
しかし、同年6月の大東亜建設審議会では日本語教育の推進を説き、同年7月に『太平洋』に寄稿した「南方建設の進展」でも、適切な日本語教育を施し、通用語を日本語にしなければならない、として日本語教育の必要性を強調する姿勢をとるようになった[330]。
同年6月に日本に帰国した際に、女学校での礼法講師時代に知り合った大森松代と土田美代子に「文化活動の手伝い」を依頼し、秘書としてシンガポールに帯同[332]。2人に昭南博物館附属図書館の書籍の翻訳をさせ、大森は英語の書籍(主に英国の行政関係文書)を翻訳し、土田はマレー語の書籍をマレー人の元国語教師と共同で日本語に翻訳し、日本語・マレー語の辞書の作成に従事した[333]。
義親は、日常生活ではマレー人との日常会話にマレー語を用いることもあったが、公務では日本語教育を推進する立場にあり、秘書たちに日本語教師をさせるなどして、積極的に現地住民の日本語教育に関与した[334]。
またインド独立工作にも関与し、秘書をインド独立連盟や光機関の手伝いに派遣していた[335]。
昭南博物館長[編集]
1942年8月31日に、昭南特別市からの辞令を受けて、昭南博物館・附属図書館、植物園の館長・園長となる[336][337]。昭南博物館は、軍の協力を得て、放棄された敵性の文化施設や個人宅から図書類や貴重な家財・美術品等を収集(略奪)し、博物館の収蔵品として保管、一部を日本へ送った[338][339][340][341]。
徳川留学生[編集]
1942年10月頃、第25軍の方針「秘・南方建設の人材養成機関設置要領」に基づいて設立された20-30代の日本人の養成機関「経綸学園」の設置に関与[342]。また同方針における、中国人・インド人・マレー人の中の優秀な人材を養成するための「図南塾」構想により設立された興亜訓練所で訓練を受けるなどした後、1943年1月に日本に留学したマレー人留学生17人のうち5人を「徳川奨学生」として個人的に援助した[343]。
帰還命令[編集]
英領マラヤでは、占領直後から生活必需品などの物資不足によるインフレが起こり、日本軍政への不満が嵩じつつあったことから、1942年7月に東條内閣はマレー人の宗教・慣習への不干渉をはじめとして、第25軍の強硬な統治方針の修正を求めた[329]。
1942年8月に大本営は斎藤弥平太・第25軍司令官や鈴木宗作・同軍政監にスルタン対策の緩和を指示し、同年11月9日に軍司令部は現地軍に寛大方針遵守の命令を発出した[329]。
渡辺渡・総務部長は歩み寄りをみせたが、義親は命令に反発し、また現地軍も大本営方針を留保して抵抗したため、同年12月、陸軍次官・木村兵太郎は西大条胖軍政監に緊急電報を繰り返し送り、戦前支給されていたスルタンの俸禄を減じたり、取扱いを変更して名誉を毀損するような第25軍軍政監部の政策を非難し、大本営方針の励行を迫った[344][345]。
1943年1月11日-12日、義親は貴族院の議会出席のため日本に帰還するよう軍政監を通じて指令を受けたが、これを拒否[346][345]。
同月20日-21日に、第25軍軍政監部はマライ・スマトラのスルタンをシンガポールに招いて会議(サルタン会同)を開き、各州スルタンの、回教の首長としての地位・尊厳と、財産所有権を公式に承認した。他方で、会同に先立って、斎藤軍司令官や義親は、行事の一環として各州のスルタンに基金を献納させ、忠霊塔を参拝させ、昭南神社を訪問させた。会同では宗教・慣習への不干渉の方針が確認されたが、会同を含めた一連の行事の中では、回教の慣習に反する神社への参拝が強制されていた。[347]
会同の後、義親は、議会報告のため日本に帰国する大塚惟精・軍政顧問に、東條首相宛の、軍中央の寛大方針に反対する所見を託した[348]。
南方科学委員会への参与[編集]
1943年2月23日に、南方軍軍政総監部調査部が、昭南博物館の付属研究室として南方民族研究室の設置を提言し、南方科学委員会を組織しようとした際には、昭南博物館長として委員会の運営について相談を受け、調整機関の恒久的設置と、定期刊行物の発行を提言[349]。
同年7月19日に開催された「南方学術機関に関する打合せ会」には、昭南博物館を代表して郡場寛、羽根田弥太とともに出席[350]。同年10月に編成が決められた南方科学委員会の5つの専門分科会のうち、「民族分科会」に所属し、主に「言語対策の研究(マライ語、日本語)」を担当した[351]。
戦局の悪化と帰国[編集]
その後、戦局が悪化する中で、軍中央は統治方針を軟化させていったのに対して、義親は強硬な姿勢を変えず、1943年7月には、東條内閣によるビルマ2州・マライ4州のタイへの移譲に反発している[352]。
1943年後半になると、シンガポールでは戦局の悪化とともに食料品、医薬品など物資の不足が深刻化し、義親自身は衣食住を軍から保証されており生活にはさほど不自由しなかったが、軍政顧問としての課題はインフレ対策、人口疎散、生活必需品の調達などが主になった[353]。
(いつ?)ジャングルに天然に生育する植物の中に、食料に充てられるものがないか、ラッフルズ植物園の資料を整理・編集して出版させる方針を立てた[354]。
1944年になると、華僑協会との協力関係の構築、マライ義勇軍によるマレー人の民心把握など、占領当初の強硬策からの転換が軍政の重要課題となった[353]。
1944年5月、義親は日本に一時帰国し、同年8月、日本からの帰還命令発出を受けて、軍政顧問を辞任して日本に帰国した[355][356]。徳川 (1963 142,143-144)は、帰国の理由を、一時帰国した際に日本本土の惨状が看過できないものになっていることを知り、帰国して戦争中止を意見しようとしたため、としており、背景には戦況の悪化があった。
帰国当日の日記では、マライの軍政を失敗だったと総括した[357]。
今日昭南を出発して内地に帰還する。2年半経過する。軍政が失敗だけに心残りが多い。再び来る日は命を賭して来るのである。馬来が好きなのである。
– 徳川義親、1944年8月20日、日本帰国直前の『日記』の中で[357]
徳川 (1963 142,143-144)には、「(…)残念ながらマレー語の辞書は未完成に終わった。」との述懐がある。日・マ辞書の作成に従事していた土田美代子は、2度遭難しそうになりながら船で日本に帰国し、戦後も徳川研究所(徳川林政史研究所?)で辞書の作成を続けた[358]。
戦争末期[編集]
東條内閣打倒運動[編集]
1944年5月に日本に一時帰国した際に、藤田勇から「一刻も早く中国・米国と講話し戦争を終結しなければ、日本は大敗北し、流血の革命が起きて皇室もろとも崩壊する」として東條内閣打倒を呼びかけられ、木戸幸一と会って相談したが前向きな返事はなく、シンガポールに戻っていた同年7月に東條内閣が総辞職し、話が立ち消えたとされる[359]。
兵器研究[編集]
同じく日本に一時帰国した際に、兵器行政本部の野村恭雄技術課長、第7研究所野村政彦大佐らの訪問を受けて生物学研究所による研究支援を要請され、兵器行政本部、第7研究所に協力することを決定[360]。生物学研究所での研究内容は不明だが、帰国後の同年11月には「兵器行政本部第7研究所臨時嘱託」に任命された[361]。
翌1945年1月に萱場製作所の萱場資郎と会って新兵器についての話を聞き、翌月朝香宮鳩彦に萱場の新兵器を紹介するなどした[361]。
疎開[編集]
1944年の後半-1945年の初め頃、家族を奥多摩に疎開させ、長男・義知と所三男のほか2,3人の研究員とともに目白の自邸に残った[362]。
1945年3月の空襲で女子学習院が全焼した後、被災を免れた義親邸の本邸は女子学習院の教室として使用された。また学生が疎開・帰郷して空室になっていた啓明寮は社会主義者の宿泊所になっていた。[363]
錦旗革命[編集]
1945年7月-8月のポツダム宣言受諾前には、清水行之助、佐治謙譲らとともに、少壮将校と頻繁に会合を開き、徹底抗戦を主張する稲葉正夫や井田正孝らと面会していた[364]。
同年8月11日には日本が「国体護持」の条件付きでポツダム宣言受諾を申し入れたことを聞き、木戸幸一に、国体護持のためには連合国に対する示威活動として錦旗革命を断行するしかない、用意はある、と記した書簡を送った[365][366]。
しかし、同月14日には、清水、藤田勇、石原広一郎らと会合した後、高松宮邸に参殿して夕食を供され、「(…)事決す。何もいふことなし、と共に泣く。又、元の学究に戻るのみ。無力事ここに到る。(…)」と日記に記した[367][368]。
このことから、義親らは同日夜の宮城事件の決行には直接関与していなかったとみられている[369]。
戦後[編集]
辞意[編集]
1945年8月15日に参内した際、宗秩寮総裁をしていた実兄・松平慶民に自主的に辞爵願を提出したが、受理されなかった[370]。同年11月には宮内省から「特別の事情による爵位返上の承認」見解が出されたが、このときも義親の辞爵は認められなかった[371][372]。
新党結成への関与[編集]
1945年8月16日以降、藤田勇を通じて、旧日本無産党の加藤勘十、鈴木茂三郎、片山哲らによる「勤労大衆を基盤とし、国体護持を前提とする」全国的な無産政党の結成を支援[373]。同月25日に清水行之助から、3月事件の際に清水が義親から借りた資金20万円を含む50万円を藤田に寄附したと報告を受けている[374][375]。
義親の辞爵を前提に新党の党首にするという話も出たが[376]、旧社会民衆党系の水谷長三郎が義親や藤田の入党に反対、会合でも戦争協力者の入党に反発する意見があり、同年11月2日の日本社会党結党の際には、義親は党顧問として名を連ねたが、藤田は排除され、松岡駒吉らと世界恒久平和研究所を創設した[377][378]。
同年12月には、有馬頼寧が支援し、船田中をはじめとする旧護国同志会、翼壮議員同志会および産業組合関係の指導者が中心となって議会内少数派による第三党を志向した日本協同党結成の相談が義親邸で行なわれた[379]。義親は社会党との関係から同党への参加は辞退したが、産業組合中央会の役員であった関係から、協同党の中心人物となった井川忠雄とはその後も連絡を取り合っていた[379]。
- 小田部 (1988 199-200)は、徳川邸で結党の会合が行われたとの記録から、義親が日本協同党の結成に関与した、としているが、雑誌『共済と保険』によるインタビューに対して義親は、「国民協同党」を設立したのは荷見安、黒沢酉蔵、千石興太郎らであって、自身は関係していない、と述べている[380]。
天皇退位論[編集]
1945年12月、東久邇宮御殿や宮内省を訪問し、三笠宮崇仁や宗秩寮総裁の兄・松平慶民に「マッカーサー元帥の意向が陛下に及びそうだ」として天皇退位を説いた。突然の行動であり、宮中内部でも特に議論にはならなかったとみられている。[381]
- 小田部 (1988 200-201)は、当時、長男・義知の友人だった濠軍の将校ジョージ・ケジャー(George Caiger)が頻繁に徳川邸を訪問していたため、オーストラリアの強硬な天皇戦犯論に基づいた行動だった可能性を指摘している。
東京裁判[編集]
東京裁判では、義親の1925年から1945年までの日記が国際検察局によって押収され、その分析結果から「米英に対する戦争準備の共同謀議」の容疑で検察局にマークされた[382]。
特に、1938年に大和倶楽部を組織し排英運動を推進したことや、太平洋戦争開戦後、シンガポールで軍政顧問の公職に就いていたことが問題視された[382]。
しかし徳川の日記の分析は東京裁判の開廷後に行なわれており、また日記の記述が簡単で証拠に適さないと判断され、戦犯裁判の被告として訴追されることはなかった[383]。
公職追放[編集]
1946年1月[384]または同年8月[385][386]に公職追放令を受け、黎明会会長[384]、社会党顧問を辞任[387]。[388]
1947年2月に、井川忠雄の急逝を受け、共栄火災の宮城孝治からの依頼を受けて同社の会長となり、以後20年間在職した[389]。
1949年4月に徳川林政史研究所の所長に就任[306]。同年9月に全国聾唖連盟総裁に就任。また、鷹司公爵から話を持ちかけられて[390]、大日本猟友会会長となった[386][306]。
また目白に住んでいた柳家小さんや桂小金治らと「目白文化会」をつくり、落語や講談の会を催し、目白駅に花壇を設ける美化運動をした[391]。
華族制度廃止[編集]
1947年5月3日、新憲法の公布により華族制度が廃止され、爵位を喪失[392]。
華族制度の廃止により財産税の適用を受けることになり、1947年3月11日に課税価格16,989千円、税額13,906千円を申告、課税価格・税額は1951年2月28日にそれぞれ18,003千円、14,818千円に更正され、莫大な財産の大半(約8割)を喪失することになった[392][393]。
財産税適用後、家政維持のため目白の邸宅を西武に売却し、元家令の役宅に引越し、跡地に外国人居留者向けの賃貸住宅を建てて収入源とした[392]。
1950年に徳川黎明会は財団存続のため、蓬左文庫を所蔵文献・史料のうち約6万4千冊とともに愛知県名古屋市に売却譲渡[395][133]。
徳川農場は、農地法の適用を受け、一部の山林を残して解放された[396]。
徳川生物学研究所は、資金源としていた南満州鉄道の株券が無価値となったため運営難に陥り[394]、文部省や米国のロックフェラー財団、スローン・ケタリング財団から研究費の拠出を受けて研究活動を続けた[397]。
名古屋の邸宅は焼失したため、名古屋に滞在時は徳川美術館の事務室に寝台を持ち込んで宿泊したという[394]。
共栄火災会長[編集]
共栄火災の会長としての職歴について、徳川 (1974 47)は、「会長は何もしなくてもよかった」と述懐しつつも、在職中に自身が関与したこととして、共栄開発(株)の(株)ユニックへの改組を挙げている。
1963年には共栄火災との関連から池袋地下道駐車場会社の社長に就任[398][306][399]。徳川 (1974 48)では、「小さな会社に重役が18人もいた」ので、「阿部さん」を専務にして重役を8人に減らし、「大池さん」を社長に戻して身を引いた、と回想している。
その他の職歴[編集]
1951年8月に公職追放解除となり[385]、解除後、1953年4月に文化服装学院短期大学学長、1957年5月に愛知県文化会館館長などの公職を務めた[400][306][398]。
- 徳川 (1973 155-156)によると、愛知県文化会館の館長時代に、文化短大での教え子だった上原美佐が、卒業して故郷の福岡に帰る前に義親に挨拶をしに訪れた際に東宝の関係者にスカウトされ、その後も上原が東京で暮らすのに住まいなどを世話したため、上原との関係を疑われた。
- 徳川 (2006 82-83)によると、義親本人が、義理の孫にあたる義宣に対して、関係を持った女性の数は多かった、と語っていたという。
1956年、自民党の加藤鐐五郎の勧めにより、無所属で、名古屋市長選挙に立候補したが、落選[385][400][401]。
1957年、日ソ親善協会愛知県連合会の会長に就任[402][306]。1965年には日ソ交流協会の会長を務めた[402][306]。
- 徳川 (1974 60)は、終戦直前にソ連へ和平使節として派遣することが検討されたことから話がきたが、中ソとの交流は必要に駆られて行なったもので、日露戦争を経験した世代なのでソ連は嫌いだった、としている。
晩年[編集]
1969年11月、83歳のとき、特発性血小板減少性紫斑病のため神田の同和病院に入院し、その後国立第1病院に移り、1972年4月まで断続的に3年近く入院[400][306]。
この間、1970年に生物学研究所は閉鎖され、乳酸飲料会社(ヤクルト本社)に譲渡された[397]。
1971年、85歳のときに、華族会館幹部に不正があったと憤り、日本刀による決闘を申し込んだ[403]。
1973年秋には、『中京(日か)新聞』紙上に、天皇は軍事や政治の中心である東京を離れて愛知県に移り、平和と文化の象徴となるべきだとする皇居移転論を発表し、物議をかもした[404]。
徳川 (2006 87)によると、1976年に死去する数年前から、家族の眼からみて、認知症の症状が進行していたという。
1976年9月6日、脳内出血により目白の自邸で死去、享年89[405][406][407][408]。同月19日に東京・青山葬儀場で、同月22日に名古屋・建中寺で告別式が行われた[409]。
遺骨は定光寺にある尾張徳川家の納骨堂に納められた。骨壷には、狩猟で殺傷した虎、象、鰐、熊、鹿、猪の6種類の動物があしらわれた。戒名は生前自ら定めた「昭徳院殿勲誉義道仁和大居士」。[410]
評価[編集]
政治活動[編集]
小田部 (1988 17,51-52,222)は、義親はその斬新な改革の主張から、1920年代に「革新華族」の1人と目されるなど、政治的に注目されることはあったが、十一会を結成して戦時中重要な官職についた木戸幸一、近衛文麿、原田熊雄らとは異なり、宮中や政府中枢に通じる有力なブレーンを持たなかったため、合法的な機構・組織を通じての政治的な影響力は弱く、このことが冒険主義的で、陰謀めいた政治行動に結びついた、とし、戦後の華族制度の廃止によって、侯爵としての社会的権威と尾張徳川家の巨額の資産を失った後の義親の活動は精彩を欠き、華族制度の廃止によって「革新華族」としての思想と行動はその歴史的使命を終えた、と評している。
また小田部 (1988 146-149)は、太平洋戦争中の軍政顧問としての政治活動について、回想録などには、義親は強攻策を主張する日本軍(第25軍)からスルタンを保護した、イギリスの圧政に比べて日本の宣撫工作は成果を挙げた、と記されているが[411][320]、1942年の大東亜建設審議会講演会での義親の主張は、「スルタンの政治的権限の剥奪と待遇改悪の容認」「日本語教育の推進、英語教育の排除」など、現地の第25軍首脳の強硬策そのものだった、と指摘している。
植物学者?[編集]
英国人の植物学者・E.J.H.コーナー(Corner)は、1946年に『ネイチャー』紙に日本軍による占領期間中の体験記事を寄稿し、また義親の没後に著書The Marquis: A tale of Syonan-to(日本語訳:コーナー 1982 )を出版して、日本占領下のシンガポール植物園で、田中館秀三らの庇護により、自身が日本軍の収容所に収容されずに植物園の維持・管理を続けることができ、義親が羽根田弥太らとともに文化遺産の保護や自然科学の諸研究にいそしんでいたことを紹介した[412][413]。このことは、「義親が羽根田や田中館、郡場寛とともに博物館や植物園を戦火や略奪から守り通し、敗戦後、ほとんど無傷のまま返還した」として科学朝日 (1991 199-200)などにも紹介されており、義親は日本植物学会編『日本の植物学100年の歩み』(1982年)でも植物生理学者として扱われているという[414]。
しかし、義親は、生物学を学んだ華族の多くが幼少期から生物に興味を持っていたのとは異なり、1911年に東京帝国大学理科大学動植物学科に学士入学するまで生物に強い関心を持っていなかったとされ、同学部では縁故のある服部広太郎の指導を受けており、また徳川生物学研究所の設立後、やがて植物学からは遠ざかり、研究所のスポンサーに徹したとされている[415]。特に、回想録(徳川 1963 101)で、徳川生物学研究所の設立後、貴族院議員としての俗用が多くなったため、1927年4月以降は「理科を思いきって、また歴史に逆戻り」し、以後は林政史の研究の続きをした、と述懐している点が注目される。1927年以降も、『徳川生物学研究所輯報』に紹介されている植物学の研究論文の中には、共著者に義親の名を冠している論文が散見されるが、もし回想録の記述が本当であれば、論文の執筆には本人は関わっていなかった可能性がある。
虎狩りの殿様[編集]
1921年にマレー半島を旅行して狩猟をした話(#マレーでの虎狩り参照)は、新聞などで取り上げられ、「虎狩りの殿様」としての評判が世間に流布し、帰国後に「虎狩り」と「虎刈り」の語呂合わせから日本理容師協会の名誉会長に推薦された(或は理容業界の組合から会長就任を打診され、承諾した)との逸話があるが[417][3]、出典は不明で、「虎狩りの殿様」と呼ばれるようになった経緯はそれほどはっきりしていない。1926年に義親本人が旅行記(徳川 1926 )を執筆・刊行しており、その後のことかもしれない。
義親はマレー旅行の前にも1918年頃から毎年のように北海道の八雲町で熊狩りをしており、本人が執筆・刊行した旅行記や岡本一平が『朝日新聞』に連載した漫画漫文により「熊狩りの殿様」として知られていた(#北海道での熊狩り参照)。
旅行の目的について、当時の旅行記(徳川 1926 4)に健康を害していた旨の記述があり、戦後の本人の回想に基づく記録では、原因不明の蕁麻疹に悩み、医師に転地療養を勧められたためで、『朝日新聞』を通して「義親が虎狩りをしに来る」という誤報を伝え聞いて待ち構えていたジョホールのスルタンに誘われて成り行きで狩猟をすることになった、と説明されていること[418][85][419]が多い。
しかし、狩猟の許可を得るため最初にジョホールのスルタンを訪問したときスルタンは不在で面会できていない(事前連絡なしで訪問している)ことや、1ヵ月ほど後にスルタンを再訪して狩猟の許可を得た後、かなりの期間を狩猟に費していて、スルタンが狩猟に同行しなくなった後も義親たちは狩猟を続けていることから、「成行きで狩猟をした」わけではない、と考えられている[115]。
マレー半島での狩猟に同行した吉井信照は、1913年頃、ジョホール州でのゴム園経営の傍らで行っていた猛獣狩が日本の新聞などに取上げられて話題となったことがあり[420]、旅行の2年前の1919年に著書『馬来半島に於ける余の猛獣狩』[421]を刊行していた。吉井は上野国の吉井藩の旧藩主の弟で、『吉井町誌』は吉井を「虎狩の殿様」と呼んでいる[422]。義親の狩猟旅行はこれに触発された可能性がある。
義親は1921年の最初のマレー旅行の後、1929年にジャワ島で国際会議に出席した後にもマレー半島を旅行している(#2度目のマレー旅行参照)。小田部 (1988 33)や徳川 (1942a 要頁番号)は、マレー旅行の本当の目的は、軍用地図の作成のための資料収集だったとし、科学朝日 (1991 190-191)は「会議出席のため」だったとしているが、最初のマレー旅行の旅行記(徳川 1926 )からは、軍事情報の収集に努めたという雰囲気はあまり感じられない。他方で1929年のジャワでの会議の後で行なわれた2度目のマレー旅行の旅行記(徳川 1931 )によれば、2度目の旅行で義親らが狩猟に費やした日数は僅かで、旅行の本当の目的は狩猟ではなかったことが伺われる。また最初の旅行の旅行記の内容自体、吉井の狩猟体験記を参考にして書かれた可能性があり、実際の旅程は旅行記のとおりではなかった可能性も考えられる。
中野 (1977 76)は、マレーでの虎狩りの後、義親は無駄に生物の生命を奪うことを反省し、虎狩の殿様といわれるようになったが、狩猟らしい狩猟はやめた、としているが、その後も義親は狩猟を続けている。マレー旅行の後で宮内庁主猟官に任命され、1925年9月まで在任しており[423]、1926年に加藤高明が亡くなったときには伊豆半島で猟をしていたとされている[205]。1929年の2度目のマレー旅行のときにも狩猟をしている(徳川 1931 )。また徳川 (1973 120)は、戦争を契機に殺生をやめた、としているが、1949年に大日本猟友会の会長に就任している[424][386]。
パトロンとして[編集]
義親は様々な人物・活動のパトロンとなり、パトロンを自認していた。徳川 (1963 145-146)は、パトロンはどうあるべきかを論じ、「その人の成功を助けるもので、自分のため、自分のなぐさみのためにするものであってはいけない。援助すればそれでいいのである。『いい』と思ったからこそ助けるのであって、成功さえすればそれでいい、なまじっかな世話はやかない方がいいのである。」としている。特にヴァイオリニスト・諏訪根自子の留学を支援したことについて、「バイオリンなんて好きでもなんでもなかった」が、「彼女が気の毒だったので」支援した、「パトロンがいちいち口を出したら、当人もやりきれまい。ただよくなってくれたらいい。」と述懐し、日本社会党の結成についても同じことだった、としている。
「経歴」の節で紹介した他にも、徳川 (1973 巻末)の「徳川義親関係略年表」には以下の資金提供が紹介されている。
- 1918年 名古屋市の米価廉売資金に2万円寄附
- 1921年11月 済生会へ3万円寄附
- 1922年 八雲中学校建設に6万円寄附
- 1923年9月 震災救護局に15万円寄附
- 1925年3月 東照宮300年祭記念会に1万円寄附
- 1925年7月 名古屋公会堂建設に10万円寄附
- 1928年8月 八雲産牛馬組合へ土地4町4反7畝と1万円寄附
- 1930年6月 聾教育振興会へ2万円寄附
家族[編集]
- 長男・義知(五郎太)は、1935年に松平恒雄の次女・正子と結婚。
- 次男・次郎太は夭逝した。
- 長女・絹子は旧公卿の大炊御門経輝(侯爵)と結婚した。
- 次女・春子は西郷吉之助(侯爵)と結婚した(のち離婚)。
- 三男・義龍は大給左(おぎゅう きちじ)伯爵の養子となり、朝香宮湛子(きよこ)と結婚した。
- 三女・百合子は佐竹義栄(侯爵)と結婚した。
趣味[編集]
栄典[編集]
- 1908年4月 従五位[29]
- 1915年6月 従四位[427]
- 1921年11月 紺綬褒章[428]
- 1924年5月 勲三等瑞宝章[429]
- 1927年11月 紺綬褒章飾版[428]
- 1933年7月 正三位[430]
- 1934年4月 旭日中綬章[431]
- 1935年12月 ダルジャ・カラバット(Darjah Kerabat)第1等勲章(ジョホール王族勲章)[252]
- 1940年4月 勲二等瑞宝章、支那事変従軍記章[432]
- 1966年 八雲町名誉町民第1号[433][434]
著作物[編集]
日記と自伝[編集]
義親は、旅行などの期間を除いて日記を付け続けており、また旅行中の記録は別途まとめられ、手記や新聞・雑誌記事として公刊されている場合が多い。
1925年から1945年の日記は、1946年の東京裁判の際に国際検察局(IPS)によって裁判の証拠資料として押収され、戦後も返還されないまま、ワシントンの米国国立公文書館に保管されていた[435]。粟屋 (1984-7 )・粟屋 (1984-8 )は、1983年夏に同館のIPS資料群[436]の中にあった日記のコピーを入手し、当時の政治情勢が日単位で正確に把握できる貴重な記録として、内容を『中央公論』で紹介したもの。小田部 (1988 )はこの日記を参照して書かれている。翌1984年に徳川黎明会の関係者らも粟屋らに所在を確認して、これを入手している[437]。『徳川林政史研究所紀要』に掲載された大石 (1994a )や大石 (1995 )にも日記からの引用がみられる。
他方で、「自伝」と題している『最後の殿様‐徳川義親自伝』(徳川 1973 )は、中野 (1977 243)によると自伝ではなく、中野の筆によるものである。内容・文調は、中野 (1977 )と似ており、義親本人に取材しながら、中野がまとめたものとみられる。義親には自著の旅行記などがあり、また義親本人へのインタビュー記録として『日本経済新聞』による徳川 (1963 )と『共済と保険』による徳川 (1974 )があるが、語り口が(徳川 1973 )とはやや異なっている。
著書[編集]
- ― (1973) 徳川義親『最後の殿様 徳川義親自伝』講談社、1973年、JPNO 73011083
- ― (1963) ―(述)「私の履歴書‐徳川義親」日本経済新聞社『私の履歴書 文化人 16』1984年、pp.85-151、ISBN 4532030862 初出は1963年12月。
- ― (1959b) ―『とくがわエチケット教室』黎明書房、1959年、NDLJP 9543592
- ― (1959a) ―『尾張藩石高考』徳川林政史研究所、1959年、NDLJP 2490629
- ― (1958) ―『木曽の村方の研究』徳川林政史研究所、1958年、NDLJP 3008795
- ― (1942b) ―『新国民礼法』目黒書店、1942年、NDLJP 1450596
- ― (1942a) ―『きのふの夢』那珂書店、1942年、NDLJP 1123504
- ― (1941b) ―『日常礼法の心得』実業之日本社、1941年、NDLJP 1449739
- ― (1941a) ―「4 日常生活における礼法の修練」東京高等師範学校附属国民学校初等教育研究会『国民科修身教育の実践‐国民学校礼法教授要項案』大日本出版、1941年、NDLJP 1275481 、pp.20-26
- ― (1940) ―『七里飛脚』国際交通文化協会、1940年、NDLJP 1685487
- ― (1939) ―『江南ところどころ』モダン日本社、1939年、NDLJP 1878583
- ― 朝倉 (1937) ―・朝倉純孝『馬来語四週間』大学書林、1937年、NDLJP 1222953
- ― (1931) ―『じゃがたら紀行』郷土研究社、1931年、NDLJP 1879360
- ― (1926) ―『馬来の野に狩して』坂本書店出版部、1926年、NDLJP 983300
- ― (1924) ―『貴族院改造私見概要』私家版、1924年、NDLJP 1910485
- ― (1921) ―『熊狩の旅』精華書院、1921年、NDLJP 964324
- ― (1915) ―『木曽山』私家版、1915年、NDLJP 950927
雑誌記事[編集]
- 植物学関係の論文については、徳川生物学研究所#徳川義親の研究を参照。
- ― (1974) 徳川義親「"最後の殿様"徳川義親氏に聞く」共済保険研究会ほか編『共済と保険』vol.16、no.9、通巻185号、1974年9月、pp.41-60、NDLJP 2648882/21
- ― (1971) ―「びっくりした話」名古屋郷土文化会『郷土文化』vol.26、no.1、通巻100号、1971年6月、pp.4-5、NDLJP 6045131/4
- ― (1958) ―「親友大川君のこと」『新勢力 大川周明特集号』v.3、no.12、新勢力社、1958年11月[438]
- ― (1942) ―「南方建設の進展」『太平洋』太平洋協会、1942年7月[439]
- ― (1942) ―「南方経営私見」『太平洋』太平洋協会、1942年2月[439]
- ― (1911) ―「説苑 吾妻国考を読みて」日本歴史地理学会『歴史地理』vol.17、no.4、吉川弘文館、1911年4月、pp.59-60、NDLJP 3566387/42
新聞記事[編集]
- 1942年のマライ半島視察旅行の紀行文[440]
- ― (1942-08-07) 徳川義親「馬来縦断記 (12)」『朝日新聞』1942年8月7日
- ― (1942-07-25) ―「馬来縦断記 (1)」『朝日新聞』1942年7月25日
- ― (1942-02-09) ―「文化啓発の手引役」『朝日新聞』1942年2月9日[441]
- ― (1942-02-04) ―「(赴任の抱負)」『朝日新聞』1942年2月4日[442]
- 1921年-1922年の欧州旅行前半の紀行文[443]
- ― (1922-06-29) ―「西に旅して (NA)」『報知新聞』1922年6月29日
- ― (1922-02-07) ―「西に旅して (1)」『報知新聞』1922年2月7日
徳川資料[編集]
義親が保存して日本に持ち帰った軍政顧問在任期間中の軍政関係資料(徳川資料)は、防衛庁戦史部に寄贈され、マレー・スマトラの軍政の実態を知る上で貴重な資料となっている[444]。
- 徳川資料の一部の電子化資料:アジア経済研究所図書館TOP > 近現代アジアの中の日本 > 岸幸一コレクション > D.南方軍政 > D6. マラヤ・スマトラ 2017年4月20日更新
付録[編集]
関連文献[編集]
- 川渕(2000) 川渕依子『手話讃美‐手話を守り抜いた高橋潔の信念』サンライズ出版、2000年、ISBN 4883250792
- 中野(1973) 中野雅夫『昭和史の原点‐2 満州事変と10月事件』講談社、1973年、JPNO 73023190
- 中野(1972) 中野雅夫『昭和史の原点‐1 幻の反乱・三月事件』講談社、1972年、JPNO 73004214
- 中野(1963) 中野雅夫『橋本大佐の手記』みすず書房、1963年、NDLJP 2989228
脚注[編集]
- ↑ 1.00 1.01 1.02 1.03 1.04 1.05 1.06 1.07 1.08 1.09 1.10 香山 2014 2
- ↑ 2.0 2.1 小田部 1988 14
- ↑ 3.0 3.1 3.2 3.3 3.4 3.5 科学朝日 1991 191
- ↑ 中野 1977 27-28
- ↑ 中野 1977 27
- ↑ 6.0 6.1 徳川 1963 89
- ↑ 徳川 (1963 88)は、「5歳のとき」父を亡くした、としている。
- ↑ 8.0 8.1 小田部 1988 16-17
- ↑ 9.0 9.1 中野 1977 28
- ↑ 10.0 10.1 徳川 1941b 序1
- ↑ 徳川 1963 90-92
- ↑ 中野 1977 30
- ↑ 13.0 13.1 小田部 1988 19
- ↑ 中野 1977 30-31
- ↑ 15.0 15.1 徳川 1963 92
- ↑ 科学朝日 1991 191-192
- ↑ 17.0 17.1 中野 1977 31
- ↑ 18.0 18.1 18.2 18.3 18.4 18.5 18.6 科学朝日 1991 192
- ↑ 井上馨が、旧長州藩主の毛利家の人材育成のために毛利家に出資させて開設していた私塾で、義親の入塾時には、教員・事務員27名で、皇族や財閥、華族の子弟94名を指導していた(香山 2014 2,22、小田部 1988 19-20、中野 1977 31-33)。
- ↑ 科学朝日 (1991 192)、小田部 (1988 19-20)および中野 (1977 31,33-34)は、学習院中等科3年のとき、としている。
- ↑ 小田部 1988 20
- ↑ 中野 1977 33-34
- ↑ 小田部 1988 21-22
- ↑ 中野 1977 34
- ↑ 義禮には男子嫡子がなく、病状を悪化させていたため、婿養子を探していた(小田部 1988 21-22、中野 1977 34、香山 2014 2)。
- ↑ 26.0 26.1 26.2 小田部 1988 22
- ↑ 徳川 1963 97-98
- ↑ 中野 1977 34-36
- ↑ 29.0 29.1 中野 1977 37-38
- ↑ 中野 1977 38
- ↑ 徳川 1963 98-99
- ↑ 32.0 32.1 32.2 中野 1977 39
- ↑ 徳川 (1963 99)は、成績がよくなかった理由を、尾張徳川家への入婿に伴う一連の出来事のため、ほとんど学校へ行けず、名古屋にいたため、としている。
- ↑ 小田部 1988 41-43
- ↑ 香山 (2014 2)は、市ヶ谷仲之町の邸宅の隣に「一渓舎御学問所」が建てられ、義親はそこに住んだ、としているが、理財の指導には言及がない。
- ↑ 36.0 36.1 36.2 小田部 1988 28
- ↑ 徳川 1963 99
- ↑ 徳川 1911 。同誌同年6月号に、岡部精一が徳川稿をほぼ全否定する論考を寄稿しており(岡部精一「説苑 吾妻国追考に就きて徳川義親君に答ふ」日本歴史地理学会『歴史地理』vol.17、no.6、吉川弘文館、1911年6月、pp.37-40、NDLJP 3566389/37 )、続稿は確認できない。
- ↑ 39.0 39.1 徳川 1963 100
- ↑ 徳川 1971
- ↑ 入学先の学科に関して、生物学科(科学朝日 1991 194、徳川 1963 100)、生物科(小田部 1988 28)、植物科(小田部 1988 18)など記載に揺れがあるが、小倉謙(編)『東京帝国大学理学部植物学教室沿革』東京帝国大学理学部植物学教室、1940年、NDLJP 1115186 、p.120によると、1912年まで東京帝国大学理科大学では「動植物学科」に入学した後、3年次に動物学科か植物学科のいずれかを選択していたが、同年(義親が2年次のとき)に制度変更があり、動物学科と植物学科が入学時から分離されるようになった。このため、義親は、動植物学科1年から植物学科2年に進学した(同書p.128)。なお「理科大学」は1919年に「理学部」に改組されている。
- ↑ 科学朝日 1991 194
- ↑ 小田部 1988 18,28
- ↑ 中野 1977 54-55
- ↑ 科学朝日 1991 194,196
- ↑ 中野 1977 61
- ↑ 徳川 1963 61
- ↑ 48.0 48.1 48.2 48.3 48.4 48.5 48.6 小田部 1988 18
- ↑ 徳川 1963 102
- ↑ 香山 2014 2,3,22-23
- ↑ 51.0 51.1 徳川 2006 84
- ↑ 大石 1994a 9
- ↑ 53.0 53.1 53.2 徳川 1963 105-106
- ↑ 54.0 54.1 大石 1994a 91-93
- ↑ 55.0 55.1 55.2 55.3 中野 1977 71
- ↑ 徳川 1963 121
- ↑ 『官報』8489号、大蔵省印刷局、1911年10月5日、NDLJP 2951846/7、p.90
- ↑ 小田部 1988 50
- ↑ 59.0 59.1 徳川 1963 120
- ↑ 中野 (1977 57)では、1912(大正元)年10月に就任した、としている。
- ↑ 中野 1977 57-60
- ↑ 家職の多くは名古屋に居住しており、東京には東京在住の御相談人と米子の身の回りの世話をする最低限の人員しかいなかった(香山 2014 3)
- ↑ 63.0 63.1 香山 2014 3
- ↑ 香山 2014 6
- ↑ 香山 2014 3-8
- ↑ 香山 2014 16
- ↑ 香山 2014 11
- ↑ 香山 2014 15
- ↑ 徳川 1963 103-104
- ↑ 香山 2014 3,31
- ↑ 香山 2015 28
- ↑ 72.0 72.1 香山 2014 20
- ↑ 徳川 (1963 103-104)では、源氏物語絵巻を一般公開すると、見せて欲しいという人が多かったため、田中親美に依頼して7年がかりで模写を作成し、更に絵巻を裁断して展示することにした、としている。
- ↑ 香山 2015 27
- ↑ 75.0 75.1 75.2 香山 2015 31
- ↑ 香山 2015 27-28,30-31。同年11月に交渉が妥結し、1919年4月に移管が実施された。
- ↑ 香山 2015 27-28,31-32
- ↑ 香山 2015 38
- ↑ 79.0 79.1 79.2 長江 1921 150
- ↑ 科学朝日 1991 195
- ↑ 小田部 (1988 14,28)は、設立時期を1914年9月とし、徳川 (1963 101)は、1914年9月に武蔵小山に設立、初代所長は服部、としているが、前述のとおり小山の用地取得は1916年12月のことで、1914年9月は自邸内の植物学研究室の開設時期と思われる。
- ↑ 科学朝日 1991 195-198
- ↑ 中野 1977 74
- ↑ 徳川 1963 112
- ↑ 85.0 85.1 中野 1977 74-75
- ↑ 科学朝日 1991 196
- ↑ 小田部 1988 29
- ↑ 岡本 1929 46
- ↑ 大石 1994a 177
- ↑ 小田部 1988 31
- ↑ 徳川 1963 110-112
- ↑ 徳川 1921 1-28
- ↑ 徳川 1921 113-203
- ↑ 徳川 1921 205-258
- ↑ 大石 1994a 178-179
- ↑ 中野 1977 75
- ↑ 徳川 1963 111
- ↑ 98.0 98.1 大石 1994a 181
- ↑ 「北千島紀行」(1919年10月、徳川 1921 29-111)。徳川 (1921 30,33-34)は、他人からは研究や探検に行ったと思われがちだったが、単なる避暑旅行だった、としている。
- ↑ 徳川 1921 31
- ↑ 101.0 101.1 中野 1977 72-73
- ↑ 102.0 102.1 102.2 小田部 1988 70
- ↑ 中野 1977 67-68
- ↑ 香山 2014 11-15
- ↑ 香山 2015 28,32-33。博物館開設の予算は50-100万円で、収蔵点数は約1万点、刀剣が多いと見積もられていた(香山 2015 32-33)。香山 (2014 2)では、1919年に美術館建設計画を発表した、としているが、採らない。
- ↑ 香山 2015 28,32-36
- ↑ 香山 2015 35
- ↑ 小田部 1988 32-33
- ↑ 中野 1977 75-76
- ↑ 徳川 1926
- ↑ 徳川 1926 28-29,32-33
- ↑ 徳川 1926 35-36,57-62,77-95
- ↑ 徳川 1963 113-120
- ↑ 徳川 1926 127-229
- ↑ 115.0 115.1 小田部 1988 33
- ↑ 116.0 116.1 116.2 中野 1977 76
- ↑ 徳川 1926 pp.229-232,235-264,267-275
- ↑ 小田部 1988 33-34
- ↑ 徳川 1926 235-267
- ↑ 中野 1977 76-77。北白川宮成久王が同行した。
- ↑ 121.0 121.1 121.2 中野 1977 84
- ↑ 徳川 1963 120-121
- ↑ 中野 1977 77-85
- ↑ 中野 1977 85
- ↑ 小田部 1988 25
- ↑ 1925年9月に退官(小田部 1988 18、中野 1977 157)。
- ↑ 大石 1994a 11-12
- ↑ 徳川 1963 108-109
- ↑ 大石 1994a 12-27,27-30
- ↑ 大石 1994a 21-22
- ↑ 大石 1994a 30-31
- ↑ 徳川 1963 106-108
- ↑ 133.0 133.1 133.2 133.3 133.4 133.5 133.6 林政研 2013
- ↑ 小田部 1988 18,29
- ↑ 徳川 1963 101
- ↑ 中野 1977 85-86
- ↑ 中野 (1977 86-87)は、震災当時、麻布の後藤新平邸を仮住居としていた、としているが、香山 (2016 124)によれば、目白の邸宅新築のための後藤新平旧邸の借用期間は1931年2月15日から1932年11月末日までで、当時は麻布の富士見邸を本邸としていたとみられる。
- ↑ 大石 1994a 36
- ↑ 中野 1977 86-87
- ↑ 小田部 1988 44
- ↑ 大石 1994b 40-43
- ↑ 中野 1977 89-90
- ↑ 中野 1977 88-90
- ↑ 中野 1977 88-92
- ↑ 小田部 1988 50。1923年の加藤友三郎内閣のときに「貴族院改正私見概要」を発表した、としている。
- ↑ 徳川 1963 123-124
- ↑ 大石 1994b 48-53
- ↑ 小田部 1988 50-51
- ↑ 中野 1977 90-91
- ↑ 大石 1994b 53-55。このときの経験から、義親は近衛に対して「頭はいいが実行力はない」という否定的な評価を持つようになったという(大石 1994b 55)。
- ↑ 大石 1994b 53-55
- ↑ 中野 1977 92
- ↑ 中野 1977 92-95
- ↑ 小田部 1988 68-69
- ↑ 粟屋 小田部 1984-7 304
- ↑ 大石 1994a 52-57
- ↑ 1924年2月9日付記事「農村工芸品評会 新しき催し」(大石 1994a 49-50)
- ↑ 1924年2月19日付記事「熊狩りの殿様が農村振興に懸命」(大石 1994a 49)
- ↑ 大石 1994a 48-52
- ↑ 大石 1994a 52-57。品評会は3日間開催され、初日に1千人以上、3日目には2,500人以上の来場があった(同)。当時の徳川農場の総戸数は205戸、人口は1,283人だった(同)。
- ↑ 大石 1994a 45。なお、このとき出品された作品は木細工品141点、藁細工品138点、染色品・編物各101点、竹細工品73点、自然木細工品42点、刺繍品29点、木彫品21点、その他200点となっており、木彫りの彫刻以外の工芸品も数多く出品されている(大石 1994a 57)。
- ↑ 大石 1994a 76-80
- ↑ 大石 1994a 111-119
- ↑ もともと同法は普通選挙法への枢密院や貴族院の賛成を得るために提出されていた経緯があり、貴族院は法案賛成を基調としていた(中野 1977 7-20)。
- ↑ 衆議院本会議での同法案可決後、同月11日に貴族院で行なわれた第一読会の席上「普通選挙が行なわれれば、労働党・社会党のような政党が組織されることは自然な成り行きで、それを阻害し弾圧すれば、反体制運動を助長し、過激化させるのではないか」「司法権の独立が謳われているが実際には政権の意向で穏健な運動まで弾圧の対象になるのではないか」と反対質問をし(中野 1977 7-20)、特別委員会での審議(義親は委員外)を経て同月17日に行なわれた貴族院本会議でも、警察が法律を逸脱した運用を行う懸念や、共産主義者や無政府主義者を弾圧することが却って運動の過激化につながる懸念があるとして反対演説を行った(同)。
- ↑ 大石 1994b 58
- ↑ 中野 1977 7-20
- ↑ 小田部 1988 52
- ↑ 徳川 1963 123
- ↑ 「第50回帝国議会 貴族院本会議 議事録」第25号、p.664、1925年3月19日。
- ↑ 中野 (1977 7)は、この当時、目白の邸宅を新築中で、麻布広尾町の後藤新平邸を仮住まいにしていた、としているが、香山 (p.124 )によれば、目白の邸宅新築のための後藤新平旧邸の借用期間は1931年2月15日から1932年11月末日までで、この頃は麻布富士見町の邸宅に居住していた。
- ↑ 大石 1994a 135-145
- ↑ 大石 1994a 157-160
- ↑ 大石 1994a 186-189
- ↑ 大石 1994a 166-170
- ↑ 176.0 176.1 大石 1994a 200-205
- ↑ 小田部 1988 53-55
- ↑ 徳川 1963 129
- ↑ 小田部 1988 27-28
- ↑ 180.0 180.1 小田部 1988 25-26,34-35
- ↑ 第三回汎太平洋学術会議常務委員会 1926 11
- ↑ 第三回汎太平洋学術会議常務委員会 1926 8
- ↑ 大石 1994a 197-198
- ↑ 184.0 184.1 大石 1994b 59
- ↑ 185.0 185.1 徳川 1963 124-125
- ↑ 186.0 186.1 広田 1927
- ↑ 中野 1977 94 は、義親はダンスなどしておらず、恐喝の内容には根拠がなかった、としている。
- ↑ 徳川 1963 124-125 は、麻布の自邸を「慈善ダンスパーティ」に貸し出したところ、金をゆするために義親が主催したと難くせをつけてきた、としている。
- ↑ 大石 1994a 198
- ↑ 190.0 190.1 中野 1977 94
- ↑ 大石 1994a 198-199
- ↑ 徳川 1963 124-125 は、辞任の時期を「1925年の秋」としている。
- ↑ 『八代海軍大将書翰集』尾張徳川黎明会、1941年収載、大正6年8月13日付書簡。NDLJP 1058270
- ↑ 小田部 1988 43-46
- ↑ 小田部 1988 45-46
- ↑ 小田部 1988 68
- ↑ 中野 1977 178
- ↑ 小田部 1988 67。清水は2回とも落選(同)。
- ↑ 小田部 1988 34-35
- ↑ 徳川 1931
- ↑ 中野 (1977 158)は、スルタン・イブラヒムと再会した、としているが、徳川 (1931 321)によると、スルタン・イブラヒムは英国行のため不在で、事前に来訪の連絡を受けて、義親たちが狩猟をするための手配をしておいた。
- ↑ 中野 (1977 158)は、マレー半島各州にある9家のスルタンを訪問した、としているが、徳川 (1931 )によると、訪問したのはジョホール州とトレンガヌ州のみ。
- ↑ 徳川 1931 321,330,363
- ↑ 徳川 朝倉 1937 2
- ↑ 205.0 205.1 小田部 1988 43
- ↑ 香山 2016 104
- ↑ 207.0 207.1 香山 2015 36-37
- ↑ 徳川 2006 82
- ↑ 209.0 209.1 中野 1977 70-71
- ↑ 210.0 210.1 210.2 徳川 1963 127
- ↑ 小田部 1988 47
- ↑ 小田部 1988 47 - (山口 1932 )からの引用として。
- ↑ 香山 2016 105,122,126-128。香山 (2016 126)は場所を「麻布桜田町本邸」としているが、香山 (2016 124-125)によると、麻布桜田町への転居は1931年2月のことで、香山 (2016 122)の通知文には「麻布区富士見町の拙邸」とあるため、それによった。
- ↑ 214.0 214.1 214.2 科学朝日 1991 198
- ↑ 小田部 1988 18,46-47
- ↑ 徳川 1963 127-128
- ↑ 小田部 1988 46-47
- ↑ 218.0 218.1 小田部 1988 62-63
- ↑ 219.0 219.1 粟屋 小田部 1984-7 305
- ↑ 中野 1977 94-98
- ↑ 中野 1977 94-98,106-108
- ↑ 徳川 1963 131-132。同書は、渡した資金の額を50万円としている。
- ↑ 小田部 1988 63
- ↑ 224.0 224.1 小田部 1988 64-66
- ↑ 225.0 225.1 粟屋 小田部 1984-7 305-306
- ↑ 226.0 226.1 中野 1977 112-113
- ↑ 徳川 1963 132
- ↑ 徳川 1963 132-133
- ↑ 小田部 1988 65-66
- ↑ 230.0 230.1 230.2 粟屋 小田部 1984-7 306
- ↑ 小田部 1988 69,70
- ↑ 1931年10月に起きた十月事件には関与しなかったとみられている(小田部 1988 72、中野 1977 116)
- ↑ 香山 2016 124
- ↑ 中野 1977 137-138。貴族院事務局からたびたび再就任の要請があり、同局から依頼を受けた徳川家達の説得を受けて復帰を決めたという。
- ↑ 中野 1977 137-138
- ↑ 小田部 (1988 26-27)はフランス、徳川 (1963 145)はベルギーに留学させたとしている。
- ↑ 小田部 1998 18,74,81
- ↑ 中野 1977 123-130
- ↑ 小田部 1988 78
- ↑ 中野 1977 113
- ↑ 徳川 1963 134
- ↑ 中野 1977 144-145
- ↑ 小田部 1988 82
- ↑ 244.0 244.1 小田部 1988 83-84
- ↑ 大川はその後、同年10月24日に大審院で禁固5年の判決を受けた(小田部 1988 83-84)。
- ↑ 小田部 1988 89
- ↑ 247.0 247.1 中野 1977 158
- ↑ 南洋及日本人社 1938 458-459。スルタン夫妻は同年3月12日にシンガポールで日本郵船の伏見丸に乗船して日本へ出発した。
- ↑ 小田部 1988 89-90
- ↑ 250.0 250.1 南洋及日本人社 1938 458-459
- ↑ 小田部 (1988 89-90)は、スルタン・イブラヒムは4月12日に帰国し、接待のお礼として義親に犬4頭を贈った、とし、中野 (1977 158)は、スルタン・イブラヒムは神戸から帰国した、としている。
- ↑ 252.0 252.1 中野 1977 158-159
- ↑ 小田部 1988 98
- ↑ 大石 1995 46
- ↑ 小田部 1988 34。小田部 (1988 25)は、この頃、マレー語の辞書を作成した、としているが、この本のことかもしれない。
- ↑ 徳川 1963 140-141
- ↑ 257.0 257.1 小田部 1988 47-49
- ↑ 名古屋市 2017
- ↑ 小田部 1988 29,46-47
- ↑ 260.0 260.1 小田部 1988 49
- ↑ 尾張徳川家の御相談人の1人だった(小田部 1988 82)。
- ↑ 粟屋 小田部 1984-7 307
- ↑ 中野 1977 168-169,171-172
- ↑ 小田部 1988 83
- ↑ 中野 1977 159-173
- ↑ 徳川 1963 134-135
- ↑ 中野 1977 173-175
- ↑ 徳川 1963 134-135。石原が栗原と話している途中で、傍聴していた憲兵によって電話が切断された、としている。
- ↑ 小田部 1988 84-85。この経緯は義親の日記にも記載がある由。
- ↑ 270.0 270.1 270.2 小田部 1988 87
- ↑ 小田部 1988 87 - 林茂他編『2.26事件秘録』からの引用として。
- ↑ 小田部 1988 64
- ↑ 小田部 1988 87-88 - 徳川 (1973 )からの引用として。
- ↑ 中野 1977 178-179
- ↑ 小田部 1988 53,60
- ↑ 276.0 276.1 小田部 1988 55-58
- ↑ 小田部 1988 92
- ↑ 小田部 1988 58-59
- ↑ 279.0 279.1 小田部 1988 59
- ↑ 280.0 280.1 280.2 小田部 1988 102
- ↑ 小田部 1988 85-86
- ↑ 282.0 282.1 小田部 1988 104-106
- ↑ 小田部 1988 107
- ↑ 小田部 1988 18,107
- ↑ 徳川 1939 4
- ↑ 小田部 1988 107-109 - 「皇軍慰問日誌」(徳川 1939 1-57)による。
- ↑ 中野 1977 186
- ↑ 288.0 288.1 小田部 1988 110-114 - 「江南ところどころ覚書」(徳川 1939 59-243)による。
- ↑ 小田部 1988 110-114
- ↑ 徳川 1939 要頁番号
- ↑ 小田部 1988 115
- ↑ 小田部 1988 115-116
- ↑ 中野 1977 196
- ↑ 294.0 294.1 294.2 徳川 1973 180
- ↑ 小田部 1988 163-164
- ↑ 296.0 296.1 中野 1977 197
- ↑ 徳川 1941a 20-26
- ↑ 298.0 298.1 小田部 1988 117-118
- ↑ 小田部 1988 204
- ↑ 小田部 1988 121-122
- ↑ 英国の中国権益の保全・活動の自由を認めるかわりに、中国における日本の一般的な優越性と満州・華北・内蒙での排他的独占権の承認を求めた(小田部 1988 118)。
- ↑ 小田部 1988 118-121
- ↑ 小田部 1988 18,124
- ↑ 304.0 304.1 304.2 304.3 304.4 徳川 1974 42-45
- ↑ 徳川 1974 42-43
- ↑ 306.0 306.1 306.2 306.3 306.4 306.5 306.6 306.7 徳川 1973 巻末年表
- ↑ 徳川 1963 135-137
- ↑ 308.0 308.1 小田部 1988 18,122-125
- ↑ 小田部 1988 122-124
- ↑ 小田部 1988 124-125
- ↑ 小田部 1988 126-128
- ↑ 5.15事件について、1937年10月に大川周明、1938年に三上卓が釈放され、血盟団事件について、1940年9月に古内栄司・四元義隆、同年10月に井上日召、同年11月に小沼正と菱沼五郎が釈放され、1940年11月に浜口雄幸を狙撃した佐郷屋留雄が釈放された(小田部 1988 125-126)。
- ↑ 小田部 1988 125-126
- ↑ 314.0 314.1 小田部 1988 127
- ↑ 315.0 315.1 小田部 1988 127-129
- ↑ 小田部 1988 128
- ↑ 中野 (1977 202-205)は、東條内閣が成立した1941年10月頃、知り合いの海軍軍令部や陸軍参謀本部の将校がマレーやシンガポールの地図を借りに来て、何に使うのか不審に思っていたところ、太平洋戦争が開戦、マレー作戦が始まり、驚いて、マレーのスルタンを守ろうと考え、陸軍省へ行って、東條英機の秘書官に南方行きを志願した、としている。また徳川 (1963 137-138)は、友人に軍人・右翼が多かったので、話を聞いているうちに戦争になるのではないかとの予見を持ち、開戦後に陸軍省を訪問して宣撫班入りを志願した、としている。
- ↑ 318.0 318.1 フォーラム 1998 660-665
- ↑ 319.0 319.1 小田部 1988 18,129-130
- ↑ 320.0 320.1 320.2 徳川 1963 138
- ↑ 小田部 1988 144-145
- ↑ 322.0 322.1 小田部 1988 146
- ↑ 徳川 1942-07-25
- ↑ 徳川 1942-08-07
- ↑ 325.0 325.1 小田部 1988 147
- ↑ 小田部 1988 146-149
- ↑ 大東亜建設審議会 1942 21-33
- ↑ 328.0 328.1 小田部 1988 148
- ↑ 329.0 329.1 329.2 小田部 1988 149
- ↑ 330.0 330.1 小田部 1988 153
- ↑ 大石 1995 48-49
- ↑ 小田部 1988 162-164
- ↑ 小田部 1988 164
- ↑ 小田部 1988 153,164
- ↑ 小田部 1988 162-166 - 義親の日記による。
- ↑ 大石 1995 40-41 - 義親の日記による。同年9月2日には、秘書・石井善兵衛も昭南特別市兼務の辞令を受けている。
- ↑ 小田部 1988 18,170 では、8月ないし9月に就任、としている。
- ↑ 徳川 1963 140
- ↑ 中野 1977 208-210
- ↑ 大石 1995 41-42
- ↑ 加藤 1998
- ↑ 小田部 1988 156-158
- ↑ 小田部 1988 156-159。男性3人、女性2人で、男性3人はジョホールのスルタンの親戚だった(同)。日本に留学した奨学生は早稲田大学や東京農業大学に通学し、うち男性3人は1945年2月に帰国した(同。女性2人については不詳)。
- ↑ 小田部 1988 149-150
- ↑ 345.0 345.1 粟屋 小田部 1984-8 299-300
- ↑ 小田部 1988 150
- ↑ 小田部 1988 150-151
- ↑ 小田部 1988 151
- ↑ 小田部 1988 171
- ↑ 小田部 1988 172-173
- ↑ 小田部 1988 173-175
- ↑ 小田部 1988 151-152
- ↑ 353.0 353.1 小田部 1988 183-185
- ↑ 大石 1995 36
- ↑ 小田部 1988 18,185
- ↑ 徳川 1963 142,143-144
- ↑ 357.0 357.1 小田部 1988 185
- ↑ 小田部 1988 164,166,
- ↑ 中野 1977 211-212
- ↑ 小田部 1988 189-190
- ↑ 361.0 361.1 小田部 1988 190
- ↑ 中野 1977 214-215
- ↑ 中野 1977 223-224
- ↑ 小田部 1988 192-193
- ↑ 小田部 1988 193-194
- ↑ 中野 1977 215-217 は、義親は1944年後半から1945年の初め頃、近衛文麿や鈴木貫太郎、広田弘毅、若槻礼次郎らに早期終戦を説いたが、皆共産主義革命が起ることをおそれて戦争継続を主張し、高松宮に昭和天皇へ直言するよう主張したが聞き入れられず、クーデターによる政権奪取以外に和平の道はない、と考えて木戸幸一に「いつでもクーデターを決行し、和平への道を切り開く覚悟がある」との書簡を送った、としている。
- ↑ 小田部 1988 194
- ↑ 中野 1977 222 は、高松宮邸訪問を8月10日の出来事としている。
- ↑ 小田部 1988 194。
- ↑ 小田部 1988 206
- ↑ 小田部 1988 207
- ↑ 徳川 1963 144 は、宮内大臣・石渡荘太郎に提出した、としている。
- ↑ 小田部 1988 195-197
- ↑ 小田部 1988 63,197
- ↑ 中野 1977 225-227
- ↑ 小田部 1988 195-196
- ↑ 小田部 1988 18,197-198
- ↑ 中野 1977 226
- ↑ 379.0 379.1 小田部 1988 199-200
- ↑ 徳川 1974 51
- ↑ 小田部 1988 201-202
- ↑ 382.0 382.1 小田部 1988 202-203
- ↑ 小田部 1988 204-205
- ↑ 384.0 384.1 徳川 2006 102-103
- ↑ 385.0 385.1 385.2 小田部 1988 18,210
- ↑ 386.0 386.1 386.2 中野 1977 230
- ↑ 徳川 1963 148
- ↑ 徳川 (1963 148)は、終戦を期に家督を長男・義知に譲った、としているが、時期は不定。徳川 (2006 102-103)によると、公職追放を契機に黎明会会長を辞職し、代わって義知が黎明会会長となっているため、このことに言及しているように思われる。
- ↑ 徳川 1974 47
- ↑ 徳川 1974 50-51
- ↑ 中野 1977 230-231
- ↑ 392.0 392.1 392.2 392.3 小田部 1988 209
- ↑ 徳川 1963 146 は、9割を取り上げられた、としている。「財産税法」によると、「課税価格1,500万円超」の場合、「税率90%」が適用されており、「9割」はこれに合致しているが、超過累進課税方式のため課税価格の総額に対する税率はこれよりも低く、課税価格の総額が1,800万円であれば、10*0%+(11-10)*25%+(12-11)*30%+...+(1500-500)*85%+(1800-1500)*90%=1481.6(万円)となり、小田部 (1988 209)に記載の税額とほぼ一致している。このとき税率は約81-82%である。
- ↑ 394.0 394.1 394.2 徳川 1963 146
- ↑ 名古屋市 2015
- ↑ 徳川 1963 110,146
- ↑ 397.0 397.1 科学朝日 1991 200
- ↑ 398.0 398.1 徳川 1963 150
- ↑ 徳川 1974 48
- ↑ 400.0 400.1 400.2 中野 1977 232
- ↑ 徳川 1963 148-150
- ↑ 402.0 402.1 中野 1977 236
- ↑ 小田部 1988 210
- ↑ 中野 1977 235-236
- ↑ 科学朝日 1991 201
- ↑ 小田部 1988 210-212
- ↑ 中野 1977 239-240
- ↑ 徳川 1963 151
- ↑ 吉川 1977 1,5
- ↑ 中野 1977 71,211,240
- ↑ 中野 1977 205-206
- ↑ 小田部 1988 159-162
- ↑ コーナー 1982 3
- ↑ 科学朝日 1991 190
- ↑ 科学朝日 1991 194,198
- ↑ 徳川 1926 口絵
- ↑ 小田部 1988 34
- ↑ 科学朝日 1991 190-191
- ↑ 徳川 1963 112-113
- ↑ 吉井信照(述)「南洋で成功するには暢気も必要」実業之世界社『実業の世界』v.10 n.14、1913年7月15日、pp.65-68、NDLJP 10292872/48
- ↑ 吉井信照、泰盛社、1919年、NDLJP 960677
- ↑ 堀一二三「虎狩の殿様」吉井町誌編さん委員会『吉井町誌』吉井町誌編さん委員会、1974年、NCID BN02124622、pp.695-698
- ↑ 小田部 1988 18,25
- ↑ 徳川 1973 75,巻末年表
- ↑ 小田部 1988 22-24 は、2男3女をもうけた、とし、義龍を次男としている。
- ↑ 徳川 2006 81
- ↑ 中野 1977 61。家人から「四位さま」と呼ばれるようになった(同)。
- ↑ 428.0 428.1 徳川 1973 巻末
- ↑ 『官報』3533号、大蔵省印刷局、1924年6月4日、NDLJP 2955681 掲載頁不詳
- ↑ 中野 1977 145-146
- ↑ 中野 1977 157
- ↑ 中野 1977 200
- ↑ 徳川 1974 59-60
- ↑ 八雲町 1984 第3編第4章第1節 要頁番号
- ↑ 小田部 1988 4-5
- ↑ 「公文書館のRG331文書中に所蔵されているIPS文書のなかのEntry329のEvidentiary Documentsに分類されるもので、途中、欠番はあるが、11,529番までの文書番号を付された1万点をこえる文書」(粟屋 小田部 1984-7 301)。
- ↑ 粟屋 小田部 1984-7 300-302
- ↑ 小田部 1988 216
- ↑ 439.0 439.1 小田部 1988 218
- ↑ 小田部 1988 145,218
- ↑ 小田部 1988 145
- ↑ 小田部 1988 144
- ↑ 香山 2015 40
- ↑ 小田部 1988 131
参考文献[編集]
- 本人の著書については著書の項を参照。
- 名古屋市 (2017) 名古屋市蓬左文庫トップページ 2017年7月24日更新、2017年9月2日閲覧。
- 香山 (2016) 香山里絵「『尾張徳川美術館』設計懸賞」徳川美術館『金鯱叢書』v.43、2016年3月、pp.103-131
- 香山 (2015) 香山里絵「明倫博物館から徳川美術館へ‐美術館設立発表と設立準備」徳川美術館『金鯱叢書』v.42、2015年3月、pp.27-41
- 名古屋市 (2015) 名古屋市蓬左文庫 > 蓬左文庫の沿革 2015年9月30日更新、2017年9月5日閲覧。
- 香山 (2014) 香山里絵「徳川義親の美術館設立想起」徳川美術館『金鯱叢書』v.41、2014年3月、pp.1-29
- 林政研 (2013) 徳川林政史研究所ホーム > 徳川林政史研究所の歴史 2013年7月31日更新版、2017年8月30日閲覧。
- 徳川 (2006) 徳川義宣『徳川さん宅の常識』淡交社、2006年、ISBN 4473033120
- 加藤 (1998) 加藤一夫「日本の旧海外植民地と図書館‐東南アジアの図書館接収問題を中心に(未定稿)」国立国会図書館『参考書誌研究』no.49、1998年3月、DOI 10.11501/3051416、pp.50-70
- フォーラム (1998) 「日本の英領マラヤ・シンガポール占領期史料調査」フォーラム編『日本の英領マラヤ・シンガポール占領:1941~45年:インタビュー記録』〈南方軍政関係史料33〉龍溪書舎、1998年、ISBN 4844794809
- 中村・増田 (1996) 中村輝子・増田芳雄「山口清三郎博士の戦中日記」帝塚山大学『人間環境科学』vol.5、1996年、pp.85-112、NAID 110000481506
- 大石 (1994a) 大石勇『伝統工芸の創生‐北海道八雲町の「熊彫」と徳川義親』吉川弘文館、1994年、ISBN 4642036563
- 大石(1994a,p.249)によると、下記の4つの論文をもとに若干の加筆修正を行なったもの。
- 大石(1993) 大石勇「徳川義親と八雲町の『熊彫』」『徳川林政史研究所研究紀要』no.27、1993年、pp.93-158
- 大石(1992) 大石勇「伝統工芸『熊彫』の創生‐大正14年度、北海道八雲町の農村美術運動」『徳川林政史研究所研究紀要』no.26、1992年、pp.155-191
- 大石(1991) 大石勇「徳川義親と八雲町の農村美術運動」『徳川林政史研究所研究紀要』no.25、1991年、pp.135-196
- 大石(1990) 大石勇「北海道八雲町における農村美術運動‐大正末期北海道八雲町における農村美術運動の展開」『徳川林政史研究所研究紀要』no.24、1990年、pp.215-269
- 科学朝日 (1991) 科学朝日編『殿様生物学の系譜』朝日新聞社、1991年、ISBN 4022595213
- 小田部 (1988) 小田部雄次『徳川義親の十五年戦争』青木書店、1988年、ISBN 4250880192
- 伊香(1989) 伊香俊哉「書評 小田部雄二著『徳川義親の十五年戦争』」立教大学史学会『史苑』vol.49、no.2、1989年9月、pp.100-103、DOI 10.14992/00001260
- 八雲町 (1984) 八雲町史編さん委員会(編)『改訂 八雲町史 上』八雲町、1984、NDLJP 9571213
- 粟屋 小田部 (1984-8) 粟屋憲太郞・小田部雄次「『大東亜戦争』と徳川義親」『中央公論』vol.99 no.8 (1182)、1984年8月、pp.284-303、NDLJP 3365998/145
- 粟屋 小田部 (1984-7) 粟屋憲太郞・小田部雄次「『徳川義親日記』と三月事件」『中央公論』vol.99 no.7 (1181)、1984年7月、pp.300-308、NDLJP 3365997/153
- コーナー (1982) E.J.H.コーナー(著)石井美樹子(訳)『思い出の昭南博物館‐占領下シンガポ−ルと徳川侯』〈中公新書〉中央公論社、1982年、JPNO 82050003
- 中野 (1977) 中野雅夫『革命は芸術なり‐徳川義親の生涯』学芸書林、1977年、JPNO 78013751
- 吉川 (1977) 吉川芳秋「尾張徳川家十九代の殿様・徳川義親さん」名古屋郷土文化会『郷土文化』vol.31、no.2、通巻117号、1977年1月、pp.1-5、NDLJP 6045148/3
- 大東亜建設審議会 (1942) 大東亜建設審議会「大東亜建設審議会関係講演会速記録」於内閣総理大臣官舎、1942年6月9日、NDLJP 3465284/15 、pp.21-33。
- 南洋及日本人社 (1938) 南洋及日本人社『南洋の五十年』章華社、1938年、NDLJP 1462610
- 山口 (1932) 山口愛川「投出しの尾張侯」『横から見た華族物語』一心社出版部、1932年、pp.19-22、NDLJP 1466470/21
- 岡本 (1929) 岡本一平「殿様の熊狩り」『一平全集 第9巻』先進社、1929年、pp.46-52、NDLJP 1170441/36
- 広田 (1927) 広田苓洲『不逞侯爵徳川義親の罪を問ふ』社会評論社出版部、1927年、NDLJP 1024484
- 第三回汎太平洋学術会議常務委員会 (1926) 第三回汎太平洋学術会議常務委員会『第三回汎太平洋学術会議第二要報』第三回汎太平洋学術会議事務所、1926年、NDLJP 1885829
- 長江 (1921) 長江銈太郎「侯爵 徳川義親君」『東京名古屋現代人物誌 第2編』金鱗社、1921年、pp.149-152、NDLJP 909228/82
あまり参考にならなかった文献[編集]
以下の文献も参照したが、ヨイショが過剰な印象があり、また参照している文献が少ないため、あまり参考にならなかった。
- 大石 (1998) 大石勇「昭和恐慌と凶作の東北農村‐北海道農民が観た凶作地」『徳川林政史研究所研究紀要』no.32、pp.1-35
- ― (1997) ―「東南アジアの視座から見た太平洋戦争」『徳川林政史研究所研究紀要』no.31、pp.1-28
- ― (1996) ―「シンガポールにおける日本の軍政‐東南アジア民俗理解への道と軍政の相克」『徳川林政史研究所研究紀要』no.30、pp.11-36
- ― (1995) ―「太平洋戦争(時)下の昭南島‐第25軍最高軍政顧問徳川義親と軍政」『徳川林政史研究所研究紀要』no.29、pp.21-51
- ― (1994b) ―「大正13年、徳川義親の貴族院改造運動‐徳川義親「貴族院改造私見」を中心に」『徳川林政史研究所研究紀要』no.28、pp.37-61