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'''女性騎手'''(じょせいきしゅ)とは、[[競馬]]における女性の[[騎手]]のことである。
 
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== 概要 ==
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日本では[[1898年]]頃、[[横浜競馬場]]において[[日本レース・倶楽部]]委員であったW・F・ミッチェルの妻ら3人の女性がレースにおいて騎乗し、ミッチェルの妻が優勝したという記録が残されている。その後、[[1936年]]に[[斉藤澄子]]が[[京都競馬倶楽部]]での騎手免許試験に合格した。しかし、競馬関係者が「女性騎手の存在は風紀を乱す」と反対運動を展開した結果、[[農林省]]および[[東京帝国競馬協会]]が斉藤のレース出場を禁止する通達を出したためレースに騎乗することができず、さらに[[1937年]]に発足した[[日本競馬会]]が男性であることを騎手の要件とした(当時)ため[[引退]]を余儀なくされた。[[吉永みち子]]の[[小説]]『繋(つな)がれた夢』の主人公は斉藤がモデルとなっている。
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なお、チェコの[[ヴェルカパルドゥビツカ]]を[[1937年]]に制したノルマ(Norma)の騎手はブランダイズ伯爵夫人(Lata Brandisova)で、同レース6度目の挑戦で優勝した。この夫人は[[1916年]]からパルドゥビツェ競馬場で騎乗している。またドイツなどでも婦人騎手の活躍が目立ち、同じく1937年にはドイツ、オーストリアで婦人騎手限定競走が27回(分割で28競走)行われ31人の婦人騎手が参戦した。もっとも成績が良かったエー・ブルーメ夫人はそのうち27レースに騎乗し10勝を挙げている。
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事実上は日本の植民地であった[[満州国]]の[[ハルビン競馬場]]では1937年に[[白系ロシア人]]の女性騎手が確認され、また女性騎手戦も行われていた。ただし、ハルビン競馬場ではロシア人が好む[[繋駕速歩競走]](トロットレース)が多く行われていたので彼女たちも[[繋駕速歩競走|トロットレース]]のドライバーだったのかもしれない。日本国内では国籍や性別による差別があり、また馬券や競馬そのものも細かく規則で管理されていたが、満州国の競馬場では民族差別や性差別は少なく競馬自体がおおらかにおこなわれていたという。ハルビンの女性騎手は[[関東州の競馬|大連競馬場]]にも出場している。
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しかしその後、[[1960年代]]後半から起こった[[ウーマンリブ]]の世界的広がりなどの影響から、競馬界においても不当な男女差別が問題視されるようになり、以後実際にレースで騎乗し活躍を見せる女性騎手が登場し始める。
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最も成功した女性騎手はアメリカの[[ジュリー・クローン]]である。クローンは通算3704勝、[[重賞]]132勝、[[1993年]]の[[ベルモントステークス]]に優勝するなど超一流騎手と呼ぶに相応しい実績をあげ、[[2000年]]8月に女性騎手として初めて[[アメリカ競馬名誉の殿堂博物館|競馬の殿堂]]入りを果たした。
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[[21世紀]]以降も、カナダの[[シャンタル・サザーランド]]などの超一流クラスの女性騎手が登場している。サザーランドはモデル業と騎手を兼任しているめずらしい騎手でもある。
  
 
=== 日本における女性騎手 ===
 
=== 日本における女性騎手 ===
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地方競馬での[[NARグランプリ]]では「優秀女性騎手賞」の部門を設置し、その年に最も活躍した女性騎手を表彰している。
 
地方競馬での[[NARグランプリ]]では「優秀女性騎手賞」の部門を設置し、その年に最も活躍した女性騎手を表彰している。
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=== 女性騎手に対する減量特典 ===
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女性騎手に対してレース時の[[負担重量]]を減量する特典を付与する制度を実施している競馬主催者もある。平地競走においては1キログラム、ばんえい競馬は10キログラム優遇される。ただし、重賞競走においては適用されない。
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*[[ばんえい競走|ばんえい競馬]]
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*[[名古屋競馬場]]
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*[[笠松競馬場]]
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*[[高知競馬場]]
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*[[佐賀競馬場]]
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また、中央競馬でも2019年3月より女性騎手の減量制度を導入し、平地競走に限り2キログラムの減量を実施する。([[見習騎手]]の場合、50勝以下は4キログラム減、51勝 - 100勝の間は3キログラム減)
  
 
== 主な女性騎手 ==
 
== 主な女性騎手 ==
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==== 現役で他界 ====
 
==== 現役で他界 ====
 
*[[高橋優子 (騎手)|高橋優子]](岩手) - 日本初の平地女性騎手。水沢・高橋武(優子の父でもある)厩舎所属。1,776騎乗209勝(1969年 - [[1974年]]、通算5年6か月)。1969年4月にデビューしたが1974年、急性心不全のため死去。
 
*[[高橋優子 (騎手)|高橋優子]](岩手) - 日本初の平地女性騎手。水沢・高橋武(優子の父でもある)厩舎所属。1,776騎乗209勝(1969年 - [[1974年]]、通算5年6か月)。1969年4月にデビューしたが1974年、急性心不全のため死去。
*[[松沼緑]](大井) - 1992年10月デビュー。顔立ちは「[[美人]]タイプ」。将来を期待されていたが、21歳の若さで突然自殺した。
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*[[松沼緑]](本名:阿井緑)(大井) - [[1992年]]10月デビュー。顔立ちは「[[美人]]タイプ」。将来を期待されていたが、21歳の若さで突然自殺した。
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=== 日本国外の女性騎手 ===
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*ペニー・アン・アーリー([[アメリカ合衆国|アメリカ]])
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*メアリー・ベーコン(アメリカ) - [[1978年]]、大井競馬場の招待競走などで来日。
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*[[ジュリー・クローン]](アメリカ) - [[1990年]]、[[ワールドスーパージョッキーズシリーズ]]で来日。
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*[[エマ=ジェーン・ウィルソン|エマ=ジェイン・ウィルソン]](カナダ)
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*[[リサ・クロップ]]([[ニュージーランド]]) - [[1994年]]にJRAの[[短期騎手免許|短期免許]]を取得し来日(女性短期免許騎手第1号)。
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*[[リサ・オールプレス]](ニュージーランド)
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*[[ロシェル・ロケット]](ニュージーランド) - [[2002年]][[中山大障害]]優勝、JRAの重賞競走で唯一の女性G1ジョッキー。
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*アンヌソフィ・マドレーヌ([[フランス]]) - [[1999年]]、インターナショナルジャンプジョッキーズで来日。
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*アレックス・グリーヴス([[イギリス]]) - [[1997年]][[ナンソープステークス]]優勝、欧州の平地競走で史上初の女性G1ジョッキー。
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*[[カースティ・ミルクザレク]](イギリス) - 2011年に[[2011年発覚イギリス競馬八百長事件|イギリス競馬八百長事件]]で騎乗停止を受ける。
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*[[バーナデット・クーパー]]([[オーストラリア]]) - 大井競馬場に短期免許(期間は2003年[[8月5日]] - [[11月4日]])で来日歴あり。
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*[[ヘイリー・ターナー]](イギリス) - [[2006年]]、[[2007年]][[シャーガーカップ]]イギリス代表として出場。[[2011年]][[ジュライカップ]]([[競馬の競走格付け|G1]])、2011年ナンソープステークス(G1)優勝。
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*[[シャンタル・サザーランド]]([[カナダ]])
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*カシー・オハラ(オーストラリア)
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*[[ロージー・ナプラヴニク]](アメリカ) - 2012年[[ケンタッキーオークス]](G1)優勝。
  
 
== 脚注 ==
 
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2019年12月8日 (日) 09:52時点における最新版

松沼緑さん

女性騎手(じょせいきしゅ)とは、競馬における女性の騎手のことである。

概要[編集]

日本では1898年頃、横浜競馬場において日本レース・倶楽部委員であったW・F・ミッチェルの妻ら3人の女性がレースにおいて騎乗し、ミッチェルの妻が優勝したという記録が残されている。その後、1936年斉藤澄子京都競馬倶楽部での騎手免許試験に合格した。しかし、競馬関係者が「女性騎手の存在は風紀を乱す」と反対運動を展開した結果、農林省および東京帝国競馬協会が斉藤のレース出場を禁止する通達を出したためレースに騎乗することができず、さらに1937年に発足した日本競馬会が男性であることを騎手の要件とした(当時)ため引退を余儀なくされた。吉永みち子小説『繋(つな)がれた夢』の主人公は斉藤がモデルとなっている。

なお、チェコのヴェルカパルドゥビツカ1937年に制したノルマ(Norma)の騎手はブランダイズ伯爵夫人(Lata Brandisova)で、同レース6度目の挑戦で優勝した。この夫人は1916年からパルドゥビツェ競馬場で騎乗している。またドイツなどでも婦人騎手の活躍が目立ち、同じく1937年にはドイツ、オーストリアで婦人騎手限定競走が27回(分割で28競走)行われ31人の婦人騎手が参戦した。もっとも成績が良かったエー・ブルーメ夫人はそのうち27レースに騎乗し10勝を挙げている。

事実上は日本の植民地であった満州国ハルビン競馬場では1937年に白系ロシア人の女性騎手が確認され、また女性騎手戦も行われていた。ただし、ハルビン競馬場ではロシア人が好む繋駕速歩競走(トロットレース)が多く行われていたので彼女たちもトロットレースのドライバーだったのかもしれない。日本国内では国籍や性別による差別があり、また馬券や競馬そのものも細かく規則で管理されていたが、満州国の競馬場では民族差別や性差別は少なく競馬自体がおおらかにおこなわれていたという。ハルビンの女性騎手は大連競馬場にも出場している。

斉藤の引退から30年以上を経た1968年11月にアメリカで騎手免許を取得したペニー・アン・アーリーがデビューした。しかし男性騎手がストライキを起こすなどして抵抗し、斉藤と同様に一度もレースに出場することなく引退した。

このように完全なる男尊女卑の社会であったかつての競馬界において異色の存在であった女性騎手は、それゆえにその誕生から不遇に満ちたものだった。

しかしその後、1960年代後半から起こったウーマンリブの世界的広がりなどの影響から、競馬界においても不当な男女差別が問題視されるようになり、以後実際にレースで騎乗し活躍を見せる女性騎手が登場し始める。

最も成功した女性騎手はアメリカのジュリー・クローンである。クローンは通算3704勝、重賞132勝、1993年ベルモントステークスに優勝するなど超一流騎手と呼ぶに相応しい実績をあげ、2000年8月に女性騎手として初めて競馬の殿堂入りを果たした。

21世紀以降も、カナダのシャンタル・サザーランドなどの超一流クラスの女性騎手が登場している。サザーランドはモデル業と騎手を兼任しているめずらしい騎手でもある。

日本における女性騎手[編集]

日本では勝利数の面において、中央競馬よりも地方競馬において女性騎手が活躍している。名古屋競馬場に所属している宮下瞳が、日本における女性騎手の最多勝利記録の626勝を挙げ(地方競馬のみ)、短期騎手免許で騎乗した韓国でも50勝以上を挙げている。なお、2002年に中央競馬の短期免許を取得したニュージーランドロシェル・ロケットが、中山大障害に優勝。これが中央競馬初の女性騎手による重賞優勝、かつGI(J・GI)優勝である。

対する日本中央競馬会(JRA)所属の日本人女性騎手については、後述の藤田菜七子を除き、目立った活躍は見られなかった。また西原玲奈で一旦は競馬学校の騎手課程を卒業した女性は途絶え、2013年9月30日付けで増沢が引退したことで、JRAに所属する女性騎手は一時的にいなくなったが、2016年3月1日から藤田がデビューし、16年ぶりの女性騎手誕生および3年ぶりのJRA女性騎手在籍が復活した。

日本全国の女性騎手を招待して開催されるシリーズとして、「レディースジョッキーズシリーズ」(LJS)があった。これは荒尾競馬場2004年および2005年に行われた「全日本レディース招待競走」を前身とし、1997年から2000年まで中津競馬場で行われていた「卑弥呼杯」、2001年新潟競馬場で行われた「駒子賞」を起源とする。そのほか「レディスカップ」(1981年 - 1984年水沢競馬場上山競馬場、新潟競馬場)、「国内女性騎手招待競走」(1982年 - 1984年、水沢競馬場)、「ANJレディースカップ」(1988年札幌競馬場)、「インターナショナルクイーンジョッキーシリーズ」(1989年 - 1993年)などがあった。2016年より「レディスヴィクトリーラウンド」が創設されている。

地方競馬でのNARグランプリでは「優秀女性騎手賞」の部門を設置し、その年に最も活躍した女性騎手を表彰している。

女性騎手に対する減量特典[編集]

女性騎手に対してレース時の負担重量を減量する特典を付与する制度を実施している競馬主催者もある。平地競走においては1キログラム、ばんえい競馬は10キログラム優遇される。ただし、重賞競走においては適用されない。

また、中央競馬でも2019年3月より女性騎手の減量制度を導入し、平地競走に限り2キログラムの減量を実施する。(見習騎手の場合、50勝以下は4キログラム減、51勝 - 100勝の間は3キログラム減)

主な女性騎手[編集]

日本の女性騎手[編集]

現役(2018年7月2日現在)[編集]

引退[編集]

現役で他界[編集]

  • 高橋優子(岩手) - 日本初の平地女性騎手。水沢・高橋武(優子の父でもある)厩舎所属。1,776騎乗209勝(1969年 - 1974年、通算5年6か月)。1969年4月にデビューしたが1974年、急性心不全のため死去。
  • 松沼緑(本名:阿井緑)(大井) - 1992年10月デビュー。顔立ちは「美人タイプ」。将来を期待されていたが、21歳の若さで突然自殺した。

日本国外の女性騎手[編集]

脚注[編集]