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石原 潔(いしはら きよし、明治32年(1899年)12月2日 - 昭和26年(1951年)10月15日)は日本の海運会社山下汽船の社員。
略年譜[編集]
- - 台湾支店の打狗出張所詰。
- - 松山歩兵第22連隊に入営する。
- - 社業に復帰する。神戸本店近海課の貨物係りとなる。
- - 東京支店船舶係詰。
- - 小樽支店に出張する。
- - 神戸本店に復帰する。近海課配船係、配船課近海係、営業部配船課近海係などの仕事に就く。
- - 小樽出張所所長。
- - 小樽支店長(心得)。
人物像[編集]
人柄・性格[編集]
潔の妻光子が書いた『おばあちゃんの教育論』によると、潔は身長百七十五センチ、体重は八十キロもあった大男で渾名(あだな)は“クマさん”だったという。[1]
家庭[編集]
次男の裕次郎は少年時代、勉強をしないで飛行機の模型を作るのが夢中になっていたことがある。この様子を見た潔は腹を立てて、ある日模型を全て焼いてしまった。それを見た直後の裕次郎は「死にたいぐらい悔しかった」との事だが、大人になってみるとその悔しさが全くなくなってしまっていた。このことは、小樽市の石原裕次郎記念館で裕次郎生前の言葉の一つとして確認できる。
山下汽船社員として[編集]
『てっぺん野郎─本人も知らなかった石原慎太郎』31-33頁によると、「潔の山下汽船入社時の身分は「店童(てんどう)」だった。これは海運会社独特の制度で、商店でいえば 丁稚のようなものにあたり、宿舎と食事は確保してくれるかわりに、給料は一切なかった。痰壺洗い、便所掃除、社員の靴磨き、使い走りなどが仕事だった」、「慎太郎、裕次郎兄弟は十代から湘南の海でヨットを乗り回した。そのブルジョワ的イメージから、そもそもからして資産家階級の出身だと思われがちである。父親も大学出のエリートサラリーマンだったと思うのが一般的な見方だろう。だが実際の潔は中学もまともに卒業せず、当時飛ぶ鳥を落とす勢いの船会社にもぐりこんだとはいえ痰壺洗いという最末端の仕事から這いあがっていかざるをえない男だった。肉体労働者階級出身でありながら、そんなことはおくびにも出さずリッチな生活はあたかも天与のものだったかのごときにふるまう。イメージと現実のこのあまりにも大きすぎる落差のなかに、慎太郎という男の謎を解く一つのカギがかくされている。」という。
潔は江ノ島の料亭で仲間三人と一緒に、三日三晩会社をさぼってドンチャン騒ぎしたため樺太に飛ばされた。佐野眞一との対談の中で慎太郎は「…馬に乗った樺太の写真があります。僕のおふくろがその写真を見て、これはきっとお父さんが淋病か何かをもっていてそれで元気がないんじゃない、なんていっていた(笑)。あまりろくなことはしなかったんだ。樺太でもずいぶん他人にうつしたんじゃないか(笑)。」と述べている。[2]
潔と山下亀三郎の関係について、佐野眞一著『てっぺん野郎─本人も知らなかった石原慎太郎』34-35頁によると、「亀三郎と石原潔の関係についてはいろいろといわれている。それは、店童あがりの潔が、関連会社とはいえ、最後は重役にとりあげられたことと関連している。大学出でもない潔が、重役にまで出世するわけがない。亀三郎の強いひきのようなものがあったに違いない、というのが世間一般の見方である。…(中略)…慎太郎 は“石原家と亀三郎の間には血縁関係があるのですか”という質問に(亀三郎さんとは)“縁戚だと聞きました。ウソか本当か知りませんけど、そう聞いた憶えがあります。”といって山下家と石原家の縁戚説をあえて否定はしなかった。これに対し亀三郎を大叔父にもち、吉田町にある亀三郎の生家をいまも守る現山下家当主の山下源一郎は“山下家の係累の中に石原の名前はありません。聞いたこともないし、系図にも出てきません。”と血のつながりをきっぱり否定した」という。
家族・親族[編集]
- 実家
- 佐野との対談の中で慎太郎は「うちの本家はそもそも石原ではなく服部なんです。…(中略)…先祖は武田の残党でそれが松山に流れて服部姓を名乗った。…(中略)…歴代服部勘助を名乗った服部本家の血筋をひいている親父の親父が石原家に入ってそれ以来石原姓を名乗った」と述べている。
- 佐野は「ただし、服部家出身の信義の祖先が、本当に武田武士の流れをくむ服部本家の末裔だったかどうかまでは、調べようがなく確認がとれなかった。龍潭寺の住職によると約20年前の先代住職の頃、慎太郎本人から“石原家のルーツを知りたい”との連絡があったがそのときもはっきりしたことはとうとうわからずじまいだったという。」と記している[4]。
- 『てっぺん野郎─本人も知らなかった石原慎太郎』30頁によると、「石原家のルーツが、慎太郎が言うように没落士族だったとすれば、没落した元士族の信直が維新後の最も手っとりばやい生計の道として警察官となったのは、当時とすればごく常識的な選択だったといえる。」という。
- 妹・美壽(みす)
- 自家
- 死別した最初の妻との間にできた子小河氏との対談で佐野眞一は「崎山さんはその後大同海運の社長になる実力者ですね。その崎山さんが縁戚の女性を潔さんに娶(めと)らせたということは、潔さんを高く評価していたからでしょうね…」と述べている[7]
- 後妻・光子(加藤三之助の娘)
- 明治42年(1909年)9月生~平成4年(1992年)6月没。
- グレートマザー物語(テレビ朝日)参照
- 佐野眞一著『てっぺん野郎─本人も知らなかった石原慎太郎』62-65頁では、光子は大阪に生まれ、すぐに宮島に移ったと書かれている。宮島の実家は土産物店であったという。継母と折り合いが悪くなって島を出て、神戸市立第二高等女学校に編入、昭和2年(1927年)に卒業している。潔は光子と見合いだったにもかかわらず、慎太郎は結婚から二ヶ月足らずで誕生している。『てっぺん野郎─本人も知らなかった石原慎太郎』68頁によると、「男女の間に何があっても不思議はないが、それにしてもちょうど十歳年の離れた潔と光子の組み合わせは、奇妙といえば奇妙である。一方は、没落した一家から中学も出ぬまま、大正バブルそのものともいえる海運会社に入った店童あがりのサラリーマン。一方は、複雑な家庭環境で育ち、絵描きになることを夢みた、やや自己演出するところのある高女出の女性。この夫婦は明治の村落共同体が崩壊し、都市プチブル層が澎湃(ほうはい)として誕生してきた大正という時代の典型的カップルだったともいえる。」という。
- 三男
- 昭和15年(1940年)3月生~
- 『てっぺん野郎─本人も知らなかった石原慎太郎』147-148頁によると、「潔の故郷の八幡浜周辺を取材中、潔に関する思わぬ話を耳にした。潔には前妻との間にもうけた小河氏、慎太郎、裕次郎兄弟のほかにもう一人子どもがいるという。(中略)町起こしの起爆剤として、八幡浜にも小樽の裕次郎記念館のようなものをつくれないか。そう考えた町の有力者が、石原家が間違いなく八幡浜にルーツをもつかどうかを確認するため、戸籍をとったところ、潔にもうひとりの息子がいるという事実が判明したという。この有力者に会うと、驚いたことに、その場で戸籍をそっくり見せた。そこには確かに、噂を裏付ける事実が記載されていた。父の欄には潔、母の欄には光子とあり、昭和十五年三月七日出生の三男と書かれている。出生地は小樽の松ヶ枝町となっている。」という。
- 155-156頁によると、「潔はよその女との間に生まれた子どもを、死んだ真砂の妻の実家の戸籍に因果を含めて入れたのか。それとも、これとはまったく逆に、道ならぬ関係となった女性との間に子をなしながら、顔も見ずに他界した弟の真砂と、その真砂に先立たれた女性、そして二人の間に生まれた一粒種の境遇を不憫に思い、男気を出して自らの戸籍に入れたのか。単に自分本位の勝手なふるまいだったともとれるし、意外に繊細な心遣いだったともとれる。そのどちらだったかは、もはや誰にもわからない。ただここではっきり言えるのは、潔につながるもう一人の血族が、慎太郎、裕次郎とはまったく別の影のような人生をおくり、いまひっそりと老境に入ろうとしていることだけである。」という。
系譜[編集]
- 石原家
┏石原克己 ┃ ┏男 (服部) ┣石原静夫 ┃ 石原安太夫…石原信直 ┃ ┣石原慎太郎 ┃ ┣石原潔━━━┫ ┣━━━━┫ ┣石原裕次郎 ┃ ┣石原真砂 ┃ ササヨ ┃ ┗男 ┣壽万 ┃ ┗美壽
演じた俳優[編集]
参考文献[編集]
- 佐野眞一『てっぺん野郎─本人も知らなかった石原慎太郎』 講談社 2003年 19、28-36、43-68、71-76、120、171-175、206-211頁
- 朝日新聞 1951年10月17日 夕刊