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'''浜田 剛史'''(はまだ つよし、1960年11月29日生まれ)は、日本の元プロボクサー。左ファイタータイプの元WBC世界ジュニアウェルター級チャンピオン。 | '''浜田 剛史'''(はまだ つよし、1960年11月29日生まれ)は、日本の元プロボクサー。左ファイタータイプの元WBC世界ジュニアウェルター級チャンピオン。 | ||
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1960年11月29日、沖縄県中城村に生まれ、15歳で[[ボクシング]]を始める。1978年のインターハイで[[フェザー級]]チャンピオンになり<ref name="directory">{{Cite book|和書|editor=ボクシング・マガジン編集部編|title=日本プロボクシングチャンピオン大鑑|date=2004年3月1日|publisher=ベースボール・マガジン社|isbn=978-4-583-03784-4|pages=p. 53|chapter=浜田剛史}}</ref><ref>{{Cite book|和書|editor=ボクシング・マガジン編集部編|title=日本ボクシング年鑑2004 (JAPAN BOXING YEAR BOOK 2004)|date=2004年4月30日|publisher=ベースボール・マガジン社|isbn=978-4-583-03799-8|pages=p. 203|chapter=アマチュア・レコード - 全日本高等学校選手権大会 第32回}}</ref>、アマチュア戦績は43戦37勝 (28KO) 6敗。翌1979年にはプロに転向し、5月21日に本名の''浜田 剛''でプロデビューした。1981年以来、左拳の骨折を4度繰り返し<ref name="history">{{Cite book|和書|editor=ボクシング・マガジン編集部編|title=日本プロボクシング史 世界タイトルマッチで見る50年 (JAPAN PRO BOXING HISTORY - 50 YEARS OF WORLD TITLE BOUTS)|date=2002年5月31日|publisher=ベースボール・マガジン社|isbn=978-4-583-03695-3|pages=pp. 256-257, 297}}</ref>、骨移植の手術を受けて2年間のブランクを作ったが、左が砕ければ右だけでバッグを叩き、ボクサーは目が大事ということで試合映像以外はテレビも観なかった<ref name="gloriousmoments" />。1983年の復帰に際し、リングネームを同じ読み方の''浜田 剛史''とした<ref name="gloriousmoments">{{Cite book|和書|authorlink=宮崎正博 (Masahiro Miyazaki)|editor=ボクシング・マガジン編集部編|title=THE GLORIOUS MOMENTS 究極の栄光・世界チャンピオン名鑑 - 日本ボクシング史に輝く41人の男たち|series=B.B.mook; '''117''', sports series; No.'''72'''|date=2000年1月15日|publisher=ベースボール・マガジン社|isbn=978-4-583-61076-4|pages=pp. 66-67|chapter=浜田剛史〜初回KOでタイトル強奪の強打者〜}}</ref><ref name="jpba">{{Cite web|url=http://jpba.gr.jp/archive/1980_08.html|title=世界王者アーカイヴス (World Champion Archives)|editor=日本プロボクシング協会|date=2008年6月1日|accessdate=2009-11-24|publisher=日本プロボクシング協会|work=浜田剛史}}</ref>。1984年には[[ロサンゼルス]]へ遠征して2試合を戦い、帰国して元WBA世界[[ライト級]]チャンピオンのクロード・ノエルを4回KOで倒した後、12月2日に日本ライト級タイトルを獲得した。翌1985年の次戦では15試合連続KO勝ちの日本記録を達成し、那覇に凱旋した7月7日の次戦ではOPBF東洋太平洋ライト級タイトルも奪取した。しかしながら、この試合前に右膝半月板を損傷し<ref name="gloriousmoments" />、次戦で東洋タイトルをKO防衛したものの、治療のために再度ブランクを作ることになった。本来は強打の左ストレートを得意としたが、長期にわたる左拳の治療を経て右フックを集中的に鍛え抜き、結果的にはその右フックで世界チャンピオンとなった<ref name="directory" />。 | 1960年11月29日、沖縄県中城村に生まれ、15歳で[[ボクシング]]を始める。1978年のインターハイで[[フェザー級]]チャンピオンになり<ref name="directory">{{Cite book|和書|editor=ボクシング・マガジン編集部編|title=日本プロボクシングチャンピオン大鑑|date=2004年3月1日|publisher=ベースボール・マガジン社|isbn=978-4-583-03784-4|pages=p. 53|chapter=浜田剛史}}</ref><ref>{{Cite book|和書|editor=ボクシング・マガジン編集部編|title=日本ボクシング年鑑2004 (JAPAN BOXING YEAR BOOK 2004)|date=2004年4月30日|publisher=ベースボール・マガジン社|isbn=978-4-583-03799-8|pages=p. 203|chapter=アマチュア・レコード - 全日本高等学校選手権大会 第32回}}</ref>、アマチュア戦績は43戦37勝 (28KO) 6敗。翌1979年にはプロに転向し、5月21日に本名の''浜田 剛''でプロデビューした。1981年以来、左拳の骨折を4度繰り返し<ref name="history">{{Cite book|和書|editor=ボクシング・マガジン編集部編|title=日本プロボクシング史 世界タイトルマッチで見る50年 (JAPAN PRO BOXING HISTORY - 50 YEARS OF WORLD TITLE BOUTS)|date=2002年5月31日|publisher=ベースボール・マガジン社|isbn=978-4-583-03695-3|pages=pp. 256-257, 297}}</ref>、骨移植の手術を受けて2年間のブランクを作ったが、左が砕ければ右だけでバッグを叩き、ボクサーは目が大事ということで試合映像以外はテレビも観なかった<ref name="gloriousmoments" />。1983年の復帰に際し、リングネームを同じ読み方の''浜田 剛史''とした<ref name="gloriousmoments">{{Cite book|和書|authorlink=宮崎正博 (Masahiro Miyazaki)|editor=ボクシング・マガジン編集部編|title=THE GLORIOUS MOMENTS 究極の栄光・世界チャンピオン名鑑 - 日本ボクシング史に輝く41人の男たち|series=B.B.mook; '''117''', sports series; No.'''72'''|date=2000年1月15日|publisher=ベースボール・マガジン社|isbn=978-4-583-61076-4|pages=pp. 66-67|chapter=浜田剛史〜初回KOでタイトル強奪の強打者〜}}</ref><ref name="jpba">{{Cite web|url=http://jpba.gr.jp/archive/1980_08.html|title=世界王者アーカイヴス (World Champion Archives)|editor=日本プロボクシング協会|date=2008年6月1日|accessdate=2009-11-24|publisher=日本プロボクシング協会|work=浜田剛史}}</ref>。1984年には[[ロサンゼルス]]へ遠征して2試合を戦い、帰国して元WBA世界[[ライト級]]チャンピオンのクロード・ノエルを4回KOで倒した後、12月2日に日本ライト級タイトルを獲得した。翌1985年の次戦では15試合連続KO勝ちの日本記録を達成し、那覇に凱旋した7月7日の次戦ではOPBF東洋太平洋ライト級タイトルも奪取した。しかしながら、この試合前に右膝半月板を損傷し<ref name="gloriousmoments" />、次戦で東洋タイトルをKO防衛したものの、治療のために再度ブランクを作ることになった。本来は強打の左ストレートを得意としたが、長期にわたる左拳の治療を経て右フックを集中的に鍛え抜き、結果的にはその右フックで世界チャンピオンとなった<ref name="directory" />。 | ||
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== 参考文献 == | == 参考文献 == | ||
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+ | [[Image:浜田剛史 3.jpg|300px|thumb|浜田剛史]] | ||
+ | [[Image:浜田剛史 4.jpg|300px|thumb|浜田ーアルレドンド 1回終了直前、浜田の猛攻でアルレドンド、マットに沈む=両国国技館。WBC世界Jウエルター級タイトルマッチで、浜田剛史がメキシコのレネ・アルレドンドに1回KO勝ち。世界チャンピオンに。1986年7月24日]] | ||
+ | [[Image:浜田剛史 6.jpg|300px|thumb|浜田剛史VS[[レネ・アルレドンド]]]] | ||
+ | [[Image:浜田剛史 5.jpg|300px|thumb|浜田剛史]] | ||
== 関連項目 == | == 関連項目 == |
2010年6月19日 (土) 12:15時点における版
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浜田 剛史 | ||||||
---|---|---|---|---|---|---|
[[画像:|0|]] | ||||||
基礎データ | ||||||
本名 | 浜田 剛 | |||||
通称 | ||||||
階級 | ジュニアウェルター級 | |||||
身長 | 170cm | |||||
リーチ | ||||||
国籍 | 日本 | |||||
生年月日 | 1960年11月29日((2024-1960)+((11-11)*100+(22-29)>=0)-1歳) | |||||
出生地 | 沖縄県中城村 | |||||
没年月日 | ||||||
死没地 | ||||||
所属 | 帝拳 | |||||
構え | 左ファイター | |||||
入場曲 | ヒーロー HOLDING OUT FOR A HERO | |||||
アマチュアボクシング戦績 | ||||||
総試合数 | 43 | |||||
勝 | 37 | |||||
KO・RSC勝 | 28 | |||||
敗 | 6 | |||||
分 | ||||||
無効試合 | ||||||
獲得メダル | ||||||
金 | 銀 | 銅 | ||||
オリンピック | ||||||
世界選手権 | ||||||
ヨーロッパ選手権 | ||||||
アジア選手権 | ||||||
世界ユース選手権 | ||||||
世界ジュニア選手権 | ||||||
世界女子選手権 | ||||||
獲得タイトル | ||||||
全日本選手権優勝 | ||||||
全日本社会人選手権優勝 | ||||||
全日本女子選手権優勝 | ||||||
全国高校総体優勝 | 1978年 | |||||
全国高校選抜優勝 | ||||||
国民体育大会優勝 | ||||||
プロボクシング戦績 | ||||||
総試合数 | 24 | |||||
勝 | 21 | |||||
KO勝 | 19 | |||||
敗 | 2 | |||||
分 | ||||||
無効試合 | 1 | |||||
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浜田 剛史(はまだ つよし、1960年11月29日生まれ)は、日本の元プロボクサー。左ファイタータイプの元WBC世界ジュニアウェルター級チャンピオン。
1960年11月29日、沖縄県中城村に生まれ、15歳でボクシングを始める。1978年のインターハイでフェザー級チャンピオンになり[1][2]、アマチュア戦績は43戦37勝 (28KO) 6敗。翌1979年にはプロに転向し、5月21日に本名の浜田 剛でプロデビューした。1981年以来、左拳の骨折を4度繰り返し[3]、骨移植の手術を受けて2年間のブランクを作ったが、左が砕ければ右だけでバッグを叩き、ボクサーは目が大事ということで試合映像以外はテレビも観なかった[4]。1983年の復帰に際し、リングネームを同じ読み方の浜田 剛史とした[4][5]。1984年にはロサンゼルスへ遠征して2試合を戦い、帰国して元WBA世界ライト級チャンピオンのクロード・ノエルを4回KOで倒した後、12月2日に日本ライト級タイトルを獲得した。翌1985年の次戦では15試合連続KO勝ちの日本記録を達成し、那覇に凱旋した7月7日の次戦ではOPBF東洋太平洋ライト級タイトルも奪取した。しかしながら、この試合前に右膝半月板を損傷し[4]、次戦で東洋タイトルをKO防衛したものの、治療のために再度ブランクを作ることになった。本来は強打の左ストレートを得意としたが、長期にわたる左拳の治療を経て右フックを集中的に鍛え抜き、結果的にはその右フックで世界チャンピオンとなった[1]。
1986年7月24日、身長でもリーチでも浜田を10センチメートル上回る[3]レネ・アルレドンドを初回ノックアウトで倒し、WBC世界ジュニアウェルター級タイトルを奪取した。12月2日の初防衛戦では、アマチュア時代にトーマス・ハーンズを倒すなど270戦の経験を持ち[3]、プロでもこの挑戦が30戦目というロニー・シールズを迎え、スプリット・デシジョンで勝利した。故障の過酷さゆえ、専門誌の評価は「KOで勝つより驚異的」とされていた[3]。1987年7月22日、2度目の防衛戦としてアルレドンドと再戦し、6回TKOの裁定でタイトルを手放した。その後、タイトル奪回を目指したが、右膝の負傷が回復せず、またアルレドンドが初防衛失敗で最早チャンピオンではなくなっていたことから、引退を決意するに至った[4] 。3度の世界タイトルマッチは全て、両国国技館で開催された。プロ戦績は24戦21勝 (19KO) 2敗1無効試合[6]。
現在は健康食品・栄養補助食品の製造販売会社の代表取締役で、日本テレビ・WOWOWの番組でボクシング解説も担当する。2007年3月以降は自らが現役プロボクサー時代に所属した帝拳ジムの関連組織である帝拳プロモーションで代表を務める。
参考文献
- ↑ 1.0 1.1 (2004年3月1日) 浜田剛史 ボクシング・マガジン編集部編 [ 日本プロボクシングチャンピオン大鑑 ] ベースボール・マガジン社 2004年3月1日 978-4-583-03784-4 p. 53
- ↑ (2004年4月30日) アマチュア・レコード - 全日本高等学校選手権大会 第32回 ボクシング・マガジン編集部編 [ 日本ボクシング年鑑2004 (JAPAN BOXING YEAR BOOK 2004) ] ベースボール・マガジン社 2004年4月30日 978-4-583-03799-8 p. 203
- ↑ 3.0 3.1 3.2 3.3 (2002年5月31日) ボクシング・マガジン編集部編 [ 日本プロボクシング史 世界タイトルマッチで見る50年 (JAPAN PRO BOXING HISTORY - 50 YEARS OF WORLD TITLE BOUTS) ] ベースボール・マガジン社 2002年5月31日 978-4-583-03695-3 pp. 256-257, 297
- ↑ 4.0 4.1 4.2 4.3 (2000年1月15日) 浜田剛史〜初回KOでタイトル強奪の強打者〜 ボクシング・マガジン編集部編 [ THE GLORIOUS MOMENTS 究極の栄光・世界チャンピオン名鑑 - 日本ボクシング史に輝く41人の男たち ] B.B.mook; 117, sports series; No.72 ベースボール・マガジン社 2000年1月15日 978-4-583-61076-4 pp. 66-67
- ↑ (2008年6月1日) 日本プロボクシング協会 世界王者アーカイヴス (World Champion Archives) 浜田剛史 日本プロボクシング協会 2008年6月1日 [ arch. ] 2009-11-24
- ↑ あるいは、25戦22勝 (20KO) 2敗1無効試合。
関連項目
外部リンク
- BoxRec - Tsuyoshi Hamada
- チャンプクロレラの浜田産業(株)
- 1986 Rene / 1986 Ronnie / 1987-0 / 1987-1, 1987-2, 1987-3, 1987-4
前チャンピオン 友成光 |
第32代日本ライト級チャンピオン 1984年12月2日 - 1985年5月11日(返上) |
空位 次タイトルホルダー シャイアン山本 |
前チャンピオン ジョンジョン・パクイン |
第28代OPBF東洋太平洋ライト級チャンピオン 1985年7月7日 - 1986年7月(返上) |
空位 次タイトルホルダー サカド・ペッチジンディー |
前王者 レネ・アルレドンド |
第18代WBC世界ジュニアウェルター級王者 1986年7月24日 - 1987年7月22日 |
次王者 レネ・アルレドンド |