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2007年5月30日 (水) 13:08時点における版

源 義経(みなもと の よしつね、源 義經平治元年(1159年)- 文治5年4月30日(1189年6月15日)は、平安時代末期の河内源氏武将仮名(けみょう)が九郎、実名(じつみょう)が義經(義経)である。

河内源氏の棟梁である源義朝の九男として生まれ、幼名牛若丸(うしわかまる)と呼ばれた。平治の乱平清盛と戦った父の敗北により鞍馬寺へと預けられるが、後に奥州平泉へと下り奥州藤原氏の当主藤原秀衡の庇護を受ける。兄頼朝平家打倒の兵を挙げる(治承寿永の乱)とそれに馳せ参じ、一ノ谷屋島壇ノ浦の合戦を経て平家を滅ぼし、その最大の功労者となった。その後、兄の許可を得ることなく官位を受けたことで頼朝の怒りを買い、それに対し自立の動きを見せた為、頼朝と対立し朝敵とされた。全国に捕縛の命が伝わると難を逃れ再び藤原秀衡を頼ったが秀衡の死後、頼朝の追及を受けた当主藤原泰衡に攻められ衣川館で自刃し果てた。

その最期は世上多くの人の同情を引き、判官贔屓(ほうがんびいき)という言葉、多くの伝説、物語を産んだ。

テンプレート:武士/開始 テンプレート:武士/時代 テンプレート:武士/生誕 テンプレート:武士/死没 テンプレート:武士/改名 テンプレート:武士/別名 テンプレート:武士/官位 テンプレート:武士/氏族 テンプレート:武士/父母 テンプレート:武士/兄弟 |- | style="border-style:none none solid" | 妻 | style="border-style:none none solid solid" | 正妻河越太郎重頼の娘(郷御前)、静御前、他 テンプレート:武士/子 テンプレート:武士/終了

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源義経(菊池容斎・画、明治時代)

生涯

出生

清和源氏の流れを汲む河内源氏棟梁である源義朝の九男として生まれ、牛若丸(うしわかまる)と名付けられる。母常盤御前は九条院の雑仕であった。父が平治元年(1159年)の平治の乱で平清盛に敗死した時、まだ幼少の牛若は、母に連れられて2人の同母兄今若乙若とともに大和奈良県)の山中を逃亡した。しかし常盤は実母が捕まったことを知り清盛の元に出頭し、清盛の妾となることを条件に、牛若と二人の兄と母の助命の許しを得た。

後に常盤は公家で院近臣の一条長成に嫁ぎ、牛若丸は7歳の時鞍馬寺京都市左京区)に預けられ、稚児名を遮那王と名乗った。そして、11歳(15歳説も)の時、自分の出生を知った。鞍馬山の牛若丸伝説(鞍馬山で、天狗の面を被った落人から剣術の手解きを受ける。実際は平治の乱で敗れた時、治外法権の地でもあった寺院に逃げ、僧や僧兵として生き延びた源義朝の郎党たちであろう)は、この時の逸話がもとになって形成されたものである。牛若は16歳の時奥州平泉奥州藤原氏宗主、鎮守府将軍藤原秀衡を頼って下った。秀衡の舅で政治顧問であった藤原基成は一条長成の従兄弟の子で、その伝をたどった可能性が高いと考えられている。その途で父義朝の最期の地でもある尾張国にて元服する(義経記による。平治物語では滋賀県竜王町で元服したとある)。儀式は熱田神宮にて行い、源氏ゆかりの通字である「義」の字と、初代経基王の「経」の字を以って実名(じつみょう)義経とした。藤原秀衡の庇護を得た事について、伝承によれば牛若16才の時に、金売吉次という金商人の手配によったというが、この人物の実在性は今日疑われている。

治承寿永の乱

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黄瀬川八幡神社にある頼朝と義経が感激の対面をし平家追討を誓ったとされる対面石

治承4年(1180年8月17日に兄頼朝伊豆で挙兵すると、その幕下に入ることを望んだ義経は、兄のもとに馳せ参じた。秀衡から差し向けられた佐藤継信佐藤忠信兄弟等およそ80騎が同行した。義経は富士川の戦いで勝利した頼朝と黄瀬川の陣(静岡県駿東郡清水町)で対面した。頼朝は、義経ともう一人の弟の範頼に遠征軍の指揮を委ねるようになり、本拠地の鎌倉に腰を据え東国の経営に専念することになる。

平家伊勢平氏)を破り、京を支配していた源義仲と頼朝が対立。寿永元年(1182年)に範頼と義経は大軍を率いて近江国へ進出した。翌寿永2年(1183年)正月、範頼と義経は宇治川の戦いで義仲を破り、頼朝の代官として入京した。

この間に平家は西国で勢力を回復し、福原兵庫県神戸市)まで迫っていた。義経は、範頼とともに平家追討を命ぜられ、2月4日、義経は搦手軍を率いて播磨国へ迂回し、三草山の戦い平資盛らを撃破。範頼は大手軍を率いて出征した。2月7日、鎌倉軍は一ノ谷の戦いで平家軍に大勝する。『平家物語』などではこの戦いで義経は鵯越の峻険な崖から逆落としをしかけて一ノ谷の平家の陣営を奇襲して源氏が大勝したことになっている。信頼性の高い『吾妻鏡』でも義経が精兵70騎で鵯越から一の谷を攻撃したとあり、義経はこの合戦で大きな働きをしている。

一ノ谷の戦いの後の元暦元年(1184年8月6日後白河法皇によって左衛門少尉検非違使少尉判官)に任官し、従五位下に叙せられ院への昇殿を許された。これに激怒した頼朝は義経を平家追討から外してしまう。8月に範頼が大軍を率いて山陽道を進軍して九州へ渡り、平家を包囲する遠征に向かう。9月、義経は河越太郎重頼の娘(郷御前)を正室に迎えた。

範頼の遠征軍は兵糧と兵船の調達に苦しみ進軍が停滞してしまった。やむなく、頼朝は義経の起用を決める。元暦2年(1185年)2月、新たな軍を編成した義経は四国讃岐瀬戸内海沿いにある平家の拠点屋島を速攻で攻略(屋島の戦い)。

範頼も九州へ渡ることに成功し、最後の拠点である長門国彦島に拠る平家の背後の遮断した。義経は水軍を編成して彦島に向かい、3月24日(西暦4月)の壇ノ浦の戦いで勝利して平家を滅ぼした。

『平家物語』や『源平盛衰記』などの軍記物語では、治承・寿永の乱において義経の参加した合戦は、義経の戦法や機転が戦況を左右したように描かれている。

戦後は頼朝の代官としてにある時は河内源氏重代の館であった堀川御所に住まった。

頼朝との対立

平家を滅ぼした後、義経は、兄頼朝と対立し、自立を志向したが果たせず朝敵として追われることになる。

元暦2年(1185年)4月15日に頼朝は、内挙を得ず朝廷から任官を受けた関東の武士らに対し、任官を罵り、での勤仕を命じ、東国への帰還を禁じた。また4月、平家追討で侍所所司として義経の補佐を勤めた梶原景時から、「義経は頻りに追討の功を自身一人の物としている」と記した書状が頼朝に届いた。一方、義経は、先の頼朝の命令を重視せず、壇ノ浦で捕らえた平宗盛父子を護送して、5月7日京を立ち、鎌倉に凱旋しようとした。しかし義経に不信を抱く頼朝は鎌倉入りを許さず、宗盛父子のみを鎌倉に入れた。このとき、鎌倉郊外の山内荘腰越(現鎌倉市満幅寺に義経は留め置かれた。5月24日兄頼朝に対し自分が叛意のないことを示し頼朝の側近大江広元に託した書状が有名な腰越状であり、その中で義経は次のように記している。

「生まれてすぐ父が亡くなり、母の懐に抱かれ大和に赴いて以来、片時も心の休まる事は無かった。諸国を流浪し所々に身を隠し身分の低い者に仕えた。しかし機は熟し、平家一族の追討の為、上洛し木曽義仲を誅し、平氏を傾ける為、或る時は岩に馬を走らせ命を落とすことを顧みず、或る時は大海に風波を凌ぎ身が海底に沈むのも痛まなかった。甲冑を枕とし戦ったのは、亡父の憤りを休め、宿願を遂げるが為に他ならない。五位検非違使に補任された事に他意は無く、許されれば必ず一門と子孫を栄えさせる」

頼朝が義経と対立した原因は、許可なく官位を受けたことのほか、軍監として義経の平氏追討に従っていた梶原景時と義経の間に合戦のやり方を巡って対立があり、景時が頼朝に義経の行動は軍規を乱すと主張したこと、そして平家追討の功労者である義経の人望が源氏の棟梁である頼朝を脅かすことを怖れたことが指摘されている。特に前者の許可無く官位を受けたことは重大で、まだ官位を与えることが出来る地位に無い頼朝の存在を根本から揺るがすものだった。また腰越状に源義経と自署したことも、源氏姓の私称とみなされ、かえって頼朝の怒りを募らせたという指摘がある。この頃頼朝は政権内の論功行賞のため、源氏姓を自身や一部の親族重臣にのみ公的に名乗ることを許す命令を出していた(御門葉)。しかし、これに義経はもちろん範頼も入っていなかったのである。

義経は許可なく官位を受けた事を咎められ、東国への帰還禁止と領地を没収を命じられ、京に戻った。6月9日に頼朝が、義経に対し宗盛父子と平重衡を伴わせ帰洛を命じると、義経は頼朝を深く恨み、「関東に於いて怨みを成す輩は、義経に属くべき」と述べた。これを聞いた頼朝は、義経の所領をことごとく没収した。義経は近江国で宗盛父子を斬首し、重衡を自身が焼き討ちにした東大寺へ送った。一方京に戻った義経に、頼朝は9月に入り京の六条堀川の屋敷にいる義経の様子を探るべく梶原景季を遣わし、かつて義仲に従った叔父源行家追討を要請した。義経は憔悴した体であらわれ、自身の病と行家が同じ源氏である事を理由に断った。

謀叛

10月、頼朝は義経討伐を決め、家人土佐坊昌俊を京へ送った。10月17日、土佐坊ら六十余騎が京の義経邸を襲った(堀川夜討)が、応戦する義経に行家が加わり、合戦は敗北に終わった。捕らえた昌俊から兄の命であることを確認すると、同じく頼朝と対立していた叔父の源行家らとともに京で頼朝打倒の旗を挙げた。彼らは後白河法皇に再び奏上して頼朝追討の院宣を得たが、頼朝が父、義朝供養の法要を24日営み、家臣を集めたこともあり賛同する勢力は少なかった。さらに後、法皇が今度は義経追討の院宣を出したことから一層窮地に陥った。

29日に頼朝が軍を率いて義経追討に向かうと、義経は西国で体制を立て直すため九州行きを図った。11月1日に頼朝が駿河国黄瀬川に達すると、義経らは西国九州の菊池氏を頼って京を落ちた。義経一行の船団は摂津国大物浦尼崎市)から船団を組んで九州へ船出しようとしたが、途中暴風のために難破し、主従散り散りとなってともに摂津に押し戻されてしまった。これにより義経の九州落ちは不可能となった。一方11月11日、義経と行家を捕らえよとの院宣が諸国に下された。さらに頼朝は、義経らの追捕の為として、諸国への守護地頭の設置を求め、入洛させた北条時政の交渉の末、設置を認めさせた。

そこで義経は郎党や愛妾の白拍子静御前を連れて吉野に身を隠したが、ここでも追討を受けて静御前が捕らえられた。逃れた義経は藤原秀衡を頼り、義経追捕の網をかいくぐって奥州へ到り、平泉に身を寄せた。伝承は、北陸道を通り、東大寺再建のための勧進の一行に身をやつしての旅であったと伝えている。

最期

平泉の藤原秀衡は、義経の追討によって関東以西を制覇した頼朝の勢力が奥州に及ぶことを警戒し、義経を将軍に立てて鎌倉に対抗しようとしたが、文治3年(1187年10月29日に没した。頼朝は秀衡の死を受けて後を継いだ藤原泰衡に圧力をかけた。泰衡はこれに屈して父の遺言を破り、義経を慕っていた弟の頼衡忠衡という説もある)を殺害した。そして文治5年(1189年)閏4月30日、500騎の兵をもって10数騎の義経主従を藤原基成衣川館奥州市衣川区)に襲った。

館を平泉の兵に囲まれた義経は、一切戦うことをせず持仏堂に篭り、まず正妻と4歳の女子を殺害した後、自害して果てた。享年で31であった。

義経の首は43日かけて、泰衡の弟・高衡に護衛されて鎌倉に送られ、文治5年(1189年)6月13日首実検和田義盛梶原景時らによって、腰越の浦で行われた。

伝承ではその後、首は藤沢に葬られ白旗神社に祀られたとされ、その際に使われたという首洗い井戸が残されている。また、栗原市栗駒沼倉の判官森に胴体が埋葬されたと伝えられる。

系譜

義経は九郎の通称から明らかなように、父義朝の九男にあたる。一説には実は八男だったが武名を馳せた叔父為朝が鎮西八郎という仮名(けみょう)であったのに遠慮して「九郎」としたともいわれるが、伝説の域を出ない。

源義平、源頼朝、源範頼らは異母兄であり、義経の母常盤御前から生まれた同母兄として阿野全成(今若)、義円(乙若)がいる。また母が再婚した一条長成との間に設けた異父弟として一条能成があった。

義経の正妻は河越太郎重頼の娘であるが、愛妾の白拍子静御前が義経の夫人として非常に有名である。子は女児二人と男児一人があった。頼朝の挙兵前、奥州で数年を送っていた間に娶った妻から生まれた女子は、後に伊豆源有綱摂津源氏源頼政の孫)に嫁いだ。静御前を母として生まれた男児は出産後間もなく鎌倉の由比が浦に遺棄された。

容貌

義経の容貌に関して、同時代の人物が客観的に記した史料や、生前の義経自身を描いた確かな絵画は存在しない。ただ、身長に関しては大山祇神社に甲冑が奉納されているのでこれを元に推測すると150cm前後くらいではないかと言われている。

義経の死後まもない時代にまとまったとされる『平家物語』では、義経の風貌に関して「色白で反っ歯の小男」と記されている。これは武士の容姿の表現としてはかなり悪意のあるものであり、平家物語の作者、あるいは当時一般の義経に対する評価は低かったと思われる。義経の印象を形成するのに大きな影響のあった『義経記』では風貌に関する記述は無かった。しかし、『平治物語』では、母親の常盤は絶世の美女とされており、容姿が重視されて源義朝の側室となった。一方、父親の義朝は苦みばしった美男子と伝えられる。

江戸時代には猿楽(現)や歌舞伎の題材として義経物語が「義経物」と呼ばれる分野にまで成長し、人々の人気を博したが、そこでの義経は容貌を美化され、美男子の御曹子義経の印象が定着していった。

郎党その他

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京阪三条駅に展示された源義経と武蔵坊弁慶の人形


伝説

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義経と弁慶、明治時代の浮世絵師・月岡芳年による版画

優れた軍才を持ちながら非業の死に終わった義経の生涯は、人々の同情を呼び、このような心情を指して判官贔屓(ほうがんびいき、判官(ほうがん)とは義経が後白河法皇から与えられた官位による呼称であり、はんがんびいきという読み方は間違い)というようになった。また、義経の生涯は英雄視されて語られるようになり、次第に架空の物語や伝説が次々と付加され、史実とは大きくかけ離れた義経像が形成された。

義経伝説の中でも特に有名な武蔵坊弁慶との五条の大橋での出会い、陰陽師鬼一法眼の娘と通じて伝家の兵書『六韜』『三略』を盗み出して学んだ話、衣川合戦での弁慶の立ち往生伝説などは、死後200年後の室町時代初期の頃に成立したといわれる『義経記』を通じて世上に広まった物語である。特に『六韜』のうち「虎巻」を学んだことが後の治承・寿永の乱での勝利に繋がったと言われ、ここから成功のための必読書を「虎の巻」と呼ぶようになった。

また後代には、様々な文物が由緒の古さを飾るために義経の名を借りるようになった。例えば、義経や彼の武術の師匠とされる鬼一法眼から伝わったとされる武術流派が存在する。

不死伝説

後世の人々の判官贔屓の心情は、義経は衣川で死んでおらず、奥州からさらに北に逃げたのだという不死伝説を生み出した。このような伝説、あるいは伝説に基づいて史実の義経は北方に逃れたとする主張を、源義経北行説と呼んでいる。

義経北行伝説の原型となった話は、室町時代の御伽草子に見られる「御曹子島渡」説話であると考えられている。これは、頼朝挙兵以前の青年時代の義経が、当時「渡島」と呼ばれていた北海道に渡ってさまざまな怪異を体験するという物語である。このような説話が、のちに語り手たちの蝦夷地(北海道)のアイヌに対する知識が深まるにつれて、衣川で難を逃れた義経が蝦夷地に渡ってアイヌの王となった、という伝説に転化したと考えられる。

義経=ジンギス・カン説

概要

北行伝説の中でも荒唐無稽にして最大のものが「義経=ジンギス・カン説」である。この説は、義経が衣川で自刃したのが1189年であり、ジンギス・カン(チンギス・ハーン、チンギス・カン)の名が中国歴史書に初めて登場するのが1200年頃であるという時間の関係に着目して、義経は北海道を経て大陸に渡り、モンゴルの諸部族を統一してチンギス・カンになったのだという。この主張の根拠は、モンゴルで使われていた紋章が源氏の旗印である笹竜胆に似ている、「源義経」の音読みであるゲンギケイがジンギスになまったのだ、などといったものである。紋章の話に対しては、笹竜胆は村上源氏のものであり、義経は清和源氏なので、笹竜胆は用いないという反論があり、信憑性はないとされる。

なお、チンギス・カンに生年に関しては、現存資料での記述がおのおの異なっているため諸説あって厳密に確定しがたいだけで、家系は判明している。昔の家系図は書き換えることも多く確実に断言は出来ないともいわれるが、中央ユーラシア遊牧民は個々の遊牧集団の指導者層の家系に関してはうるさく、祖先からの遊牧貴族に属することを保障する家系伝承と、子飼いの牧民集団を持たない者が、徒手空拳で政治的指導者に納まることはきわめて困難であることが知られている。祖先の系譜については、『元朝秘史』に取材した井上靖の小説などの影響で、日本などではモンゴル部族の先祖として「ボルテ・チノ」との関係が強調される傾向にあるが、実際にモンゴル帝国やその後継政権おいて中央アジアイランモンゴル本土でチンギス・カン家の先祖として重要視されていたのは、むしろその子孫で日月の精霊と交わってモンゴルの支配階層の諸部族の祖となったとされるアラン・コアとその息子ボドンチャルであった。また、チンギスの属すキヤト氏族は『元朝秘史』、モンゴル帝国の正史的な位置づけで編纂された『集史』などによるとチンギスの曾祖父カブル・カンに始まるが、『集史』の記述に従えばチンギスの出自はカブル・カンの次男バルタン・バアトルの三男イェスゲイ・バアトルの長男とされている。アラン・コアからカブル・カンまでの系譜については資料によって異同が多いものの、上記以外でも『蒙古源流』、『五族譜』や『ムイッズ・アル=アンサーブ』などの歴史書や系譜資料が13、14世紀以降に多く編纂されたが、どの資料もカブル・カンバルタン・バアトルイェスゲイ・バアトルテムジンチンギス・カン)という流れは共通して記録している。

チンギス・カンに関する現存資料からは、源義経と関連づけるべき必然性や証拠は存在しないため実証史学的に証明できない。またそのこと以上に、先述の遊牧民の政治文化の伝統ゆえに、この説は中央ユーラシア史の研究者からは否定的に受け止められている。

ただし、チンギス・カンのユーラシア大陸の攻め方、統一の仕方が日本の武士的戦略であることも注目されている要出典。また、源義経像がシベリア各地に存在していたことも注目された要出典

経緯

この伝説の萌芽もやはり日本人の目が北方に向き始めた江戸時代にあり、乾隆帝の御文の中に「朕の先祖の姓は源、名は義経という。その祖は清和から出たので国号を清としたのだ」と書いてあった、という噂が流布したり、12世紀に栄えたの将軍に源義経というものがいたと記した偽書『金史別本』(偽作者は日本人)が珍本として喜ばれたりした。

このように江戸時代に既に存在した義経が大陸渡航し女真人満州人)になったという風説は、明治時代になると日本人が世界に名だたる征服者であって欲しいという願望から、義経がチンギス・ハーンになったという説が唱えられるようになった。

明治に入り、これを記したシーボルト の著書『日本』を留学先のロンドンで読んだ末松謙澄は卒業論文にまとめて発表、『義経再興記』として和訳出版される。大正に入り、アメリカに学び牧師となっていた小谷部全一郎は、北海道に移住してアイヌ問題の解決を目指す運動に取り組んでいたが、アイヌの人々が信仰するオキクルミが義経であるという話を聞き、義経北行伝説の真相を明かすために大陸に渡って満州モンゴルを旅行した。彼はこの調査で義経がチンギス・ハーンであったことを確信し、大正13年(1924年)に著書『成吉思汗ハ源義經也』を出版した。

小谷部の著書は判官贔屓の民衆の心を掴んで大ベストセラーになり、日本人の間に義経=ジンギス・カン説を爆発的に広めることになった。同書は昭和初期を通じて増刷が重ねられ、また増補が出版されたりしたが、この本が受け入れられた背景として、日本人の判官贔屓の心情だけではなく、日本の英雄が大陸に渡って世界を征服したという物語が、日本が大陸へ進出していた当時の時代的な風潮に適合したことが指摘されている。

近年の研究

菱沼一憲

菱沼一憲国立歴史民俗博物館科研協力員)は著書「源義経の合戦と戦略 ―その伝説と実像―」(角川選書、2005年)で、源義経について以下の説を述べている。

頼朝との対立の原因については、確かに、『吾妻鏡』元暦元年(1184年)八月十七日条には、同年8月6日、兄の許可を得ることなく官位を受けたことで頼朝の怒りを買い、追討使を猶予されたと書かれている。しかし、同じく『吾妻鏡』八月三日条によると、8月3日、頼朝は義経に伊勢平信兼追討を指示しているので、任官以前に義経は西海遠征から外れていたとも考えられる。また、同月26日、義経は平氏追討使の官符を賜っている。源範頼が平氏追討使の官符を賜ったのが同29日なので、それより早い。つまり、義経が平氏追討使を猶予された記録はないのである。よって、『吾妻鏡』十七日条は、義経失脚後、その説明をするために創作されたものと思われる。

義経は優れた戦略家であり戦術家であった。どの合戦でも、神がかった勇気や行動力ではなく、周到で合理的な戦略とその実行によって勝利したのである。

一ノ谷の戦いでは、義経は夜襲により三草山の平家軍を破った後、平家の地盤であった東播磨を制圧しつつ進軍している。これは、平家軍の丹波ルートからの上洛を防ぐためでもあった。また、義経自身の報告によると、西の一ノ谷口から攻め入っているのであり、僅かな手勢で断崖を駆け下りるという無謀な作戦は実施していない。

屋島の戦いでは、水軍を味方に付けて兵糧・兵船を確保し、四国の反平家勢力と連絡を取り合うなど、1箇月かけて周到に準備している。そして、義経が陸から、梶原景時が海から屋島を攻めるという作戦を立てていたのであり、景時が止めるのも聞かずに嵐の海に漕ぎ出したわけではない。

壇ノ浦の戦いの前にも、水軍を味方に引き入れて瀬戸内海の制海権を奪い、軍備を整えるのに1箇月を要している。また、義経が水手・梶取を弓矢で狙えば、平家方も応戦するはずである。当時、平家方は内陸の拠点を失い、弓箭の補給もままならなかった。そのため序盤で矢を射尽くし、後は射かけられるままとなって無防備な水手・梶取から犠牲になっていったのである。そもそも当時の合戦にルールは存在せず(厳密に言うならば、武士が私的な理由、所領問題や名誉に関わる問題で、自力・当事者間で解決しようとして合戦に及ぶ場合には一騎打ちや合戦を行う場所の指定などがあったことが『今昔物語集』などで確認できる)、義経の勝因を当時としては卑怯な戦法にある、と非難することに対する反論もある。

義経は頼朝の代官として、平家追討という軍務を遂行しつつ、朝廷との良好な関係を構築するという相反する任務をこなし、軍事・政治の両面で成果を上げた。また、無断任官問題は『吾妻鏡』の創作であり、「政治センスの欠如」という評価は当らない。

鎌倉政権内部には、発足当初から「親京都派」と「東国独立派」の路線対立があった。東国御家人は親京都政策と武家棟梁の権威・権力による支配に反発していた。このことが、親京都政策の先鋭であり、武家棟梁権の代行者であった義経の失脚を招いたのである。

佐藤進一

また、佐藤進一は頼朝と義経の対立について、鎌倉政権内部には関東の有力御家人を中心とする「東国独立派」と、頼朝側近と京下り官僚ら「親京都派」が並立していたことが原因であると主張している。義経は頼朝の弟であり、平家追討の搦手大将と在京代官に任じられるなど、側近の中でも最も重用された。上洛後は朝廷との良好な関係を構築するため、武士狼藉停止に従事しており、頼朝の親京都政策の中心人物であった。その後、関東の有力御家人で編成された範頼軍が半年かかっても平家を倒せない中、義経は西国の水軍を味方に引き入れることで約2箇月で平家を滅ぼした。この結果、政策決定の場でも論功行賞の配分でも親京都派の発言力が強まった。しかし、東国独立派は反発し、親京都政策の急先鋒であった義経を糾弾した。頼朝は支持基盤である有力御家人を繋ぎ止めるため、義経に与えた所領を没収して御家人たちに分け与えた。合戦を勝利に導いたにもかかわらず失脚させられた義経は、西国武士を結集して鎌倉政権に対抗しようとしたのである。

元木泰雄

関連項目

史料

古典

能・歌舞伎・人形浄瑠璃

ミュージカル

小説

漫画

TVドラマ

映画

ゲーム

歴史ゲーム

音楽

銅像

その他

参考文献

  • 菱沼一憲『源義経の合戦と戦略 その伝説と虚像』角川選書、2005、ISBN 404703374X
  • 角川源義氏 高田実氏『源義経』角川新書 1966
  • 高橋富雄氏 『義経伝説 歴史の虚実』 中公新書 1966
  • 五味文彦氏『源義経』岩波新書 2004
  • 『書物の王国20 義経』国書刊行会ISBN 4336040206

外部リンク

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