「飯野矢住代」の版間の差分

提供: Yourpedia
移動: 案内検索
(ページの作成:「飯野矢住代 '''飯野 矢住代'''(いいの やすよ、1950年3月9日<ref>虚名とロマンスを着飾って...」)
 
(脚注)
34行目: 34行目:
 
[[Category:1950年生]]
 
[[Category:1950年生]]
 
[[Category:1971年没]]
 
[[Category:1971年没]]
 +
[[Category:夭折した女性芸能人]]
 +
[[category:故人]]

2018年7月12日 (木) 13:42時点における版

飯野矢住代

飯野 矢住代(いいの やすよ、1950年3月9日[1] - 1971年12月28日)は、日本モデルタレント女優である。本名は、裕代(読み同じ)。

1968年昭和43年)のミス・ユニバース日本代表として知られるほか、ジャニーズ事務所として初めての女性タレントであったものの、21歳で死亡した。

人物

東京都渋谷区円山町出身。

はじめは1967年(昭和42年)、『ミス東京』のグランプリとなった。翌1968年(昭和43年)にはミス・ユニバース日本代表となり、同年7月にアメリカ・フロリダ州のマイアミビーチで行われたミス・ユニバース世界大会に出場した。飯野はその大会で、入賞は出来なかったものの、特別賞『ミス・アミティ』を受賞している。当時のサイズは身長169cm、体重51kg、スリーサイズ84-60-90cm[2]

その後、ジャニーズ事務所に所属。雑誌グラビアや、テレビドラマ『プレイガール』の第18話や、映画『やくざ刑罰史 私刑(リンチ)!』に出演したものの、後に退社した。退社後には、作詞家で後に直木賞作家となった山口洋子が経営していた銀座高級クラブ『姫』のホステスを始め、職を転々とした。

1969年(昭和44年)12月、当時交際していたドラマー・ジョニイ・レイズとの間に男児を儲けるが、出産後間もなく死亡している。

1971年(昭和46年)の暮れ、幼馴染である声優・池田秀一が当時住んでいたマンションの浴室内にて池田の不在中に死亡した。死亡原因については、風呂を沸かしていたところ、そのまま居眠りをしている最中に空焚きによるガス漏れを起こしたことによる一酸化炭素中毒であると報じられたほか[3]、風呂水が漏れて少量しか入っていなかったことが原因で空焚きを起こしてしまったとの報道もされた。

ザ・スパイダースのシングル「サマー・ガール」のB面「なればいい」の作詞者としても知られる(ペンネームは「オリベゆり」作曲はかまやつひろし)。

参考文献

  • 山口洋子 『ザ・ラスト・ワルツ - 「姫」という酒場』 双葉社、1996年 ISBN 9784575232677 63~74頁
  • 「大女優も殺人犯もいる「ミスコン100年」美女たちの栄光と転落」『週刊新潮』2008年3月20日号 52~55頁

脚注

  1. 虚名とロマンスを着飾って生きたはかない21年の生涯 飯野矢住代が過ごした死の前夜6時間『週刊平凡』1972年1月20号 40頁
  2. 東京の飯野さん ミス・ユニバース代表『中日新聞』1968年5月6日14面
  3. 読売新聞』 1971年12月29日付ほか多数