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'''直江 兼続'''(なおえ かねつぐ)は[[戦国時代 (日本)|戦国時代]]から[[江戸時代]]前期にかけての[[武将]]である。[[上杉氏]]の[[家老]]。
 
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== 生涯 ==
 
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=== 謙信時代 ===
 
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通説では兼続は永禄3年(1560年)に[[樋口兼豊]]の[[長男]]として現在の新潟県南魚沼市に生まれ、永禄7年([[1564年]])に「上田長尾家」長尾政景が死去すると謙信の養子となった[[上杉景勝]](当時の名乗りは長尾顕景)に従って[[春日山城]]に入り、そのまま景勝の[[小姓]]・[[近習]]として近侍していたとされているがこれを立証し得る信憑性のある史料は極めて少ない。
 
通説では兼続は永禄3年(1560年)に[[樋口兼豊]]の[[長男]]として現在の新潟県南魚沼市に生まれ、永禄7年([[1564年]])に「上田長尾家」長尾政景が死去すると謙信の養子となった[[上杉景勝]](当時の名乗りは長尾顕景)に従って[[春日山城]]に入り、そのまま景勝の[[小姓]]・[[近習]]として近侍していたとされているがこれを立証し得る信憑性のある史料は極めて少ない。
  
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=== 直江家相続 ===
 
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天正8年(1580年)8月から、景勝への取次役など側近としての活動が確認できる。[[8月15日 (旧暦)|8月15日]]([[9月23日]])には景勝印判状の奏者をつとめている。天正6年([[1578年]])の[[御館の乱]]では父・兼豊と共に景勝方に付いた。
 
天正8年(1580年)8月から、景勝への取次役など側近としての活動が確認できる。[[8月15日 (旧暦)|8月15日]]([[9月23日]])には景勝印判状の奏者をつとめている。天正6年([[1578年]])の[[御館の乱]]では父・兼豊と共に景勝方に付いた。
  
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=== 豊臣政権時代 ===
 
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天正11年([[1583年]])には[[山城国|山城]]守を称する。天正12年([[1584年]])末から秀治が病に倒れると、兼続は内政・外交の取次のほとんどを担うようになる。秀治の死後、兼続は単独執政を行ない、これは兼続死去まで続くことになった。当時の家臣たちは景勝を「御屋形」、兼続を「旦那」と敬称し事実上、二頭政治に近いものであった。天正14年[[6月22日 (旧暦)|6月22日]]([[1586年]][[8月7日]])、上洛の最中、主君・景勝は[[従四位下]]・[[近衛府|左近衛権少将]]に昇叙転任するが兼続も[[従五位下]]に叙せられる。
 
天正11年([[1583年]])には[[山城国|山城]]守を称する。天正12年([[1584年]])末から秀治が病に倒れると、兼続は内政・外交の取次のほとんどを担うようになる。秀治の死後、兼続は単独執政を行ない、これは兼続死去まで続くことになった。当時の家臣たちは景勝を「御屋形」、兼続を「旦那」と敬称し事実上、二頭政治に近いものであった。天正14年[[6月22日 (旧暦)|6月22日]]([[1586年]][[8月7日]])、上洛の最中、主君・景勝は[[従四位下]]・[[近衛府|左近衛権少将]]に昇叙転任するが兼続も[[従五位下]]に叙せられる。
  
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=== 関ヶ原 ===
 
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慶長3年[[8月18日 (旧暦)|8月18日]](1598年[[9月18日]])に秀吉が死去すると、次の天下人として[[徳川家康]]が台頭するようになる。[[石田三成]]と懇意にあった兼続は、家康との対立を決意する。そして[[徳川氏|徳川家]]との融和を主張した上杉家重臣・[[藤田信吉]]と対立して追放に追い込み、さらに家康の度重なる上洛要求も拒むなどしてやがて[[関ヶ原の戦い]]の遠因となる[[会津征伐]]を引き起こした。
 
慶長3年[[8月18日 (旧暦)|8月18日]](1598年[[9月18日]])に秀吉が死去すると、次の天下人として[[徳川家康]]が台頭するようになる。[[石田三成]]と懇意にあった兼続は、家康との対立を決意する。そして[[徳川氏|徳川家]]との融和を主張した上杉家重臣・[[藤田信吉]]と対立して追放に追い込み、さらに家康の度重なる上洛要求も拒むなどしてやがて[[関ヶ原の戦い]]の遠因となる[[会津征伐]]を引き起こした。
  
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=== 江戸時代 ===
 
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慶長6年([[1601年]])7月、景勝とともに上洛して[[徳川家康|家康]]に謝罪する。家康から罪を許された景勝は出羽米沢30万石へ減移封となり、上杉氏の存続を許された。
 
慶長6年([[1601年]])7月、景勝とともに上洛して[[徳川家康|家康]]に謝罪する。家康から罪を許された景勝は出羽米沢30万石へ減移封となり、上杉氏の存続を許された。
  
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== 墓所 ==
 
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初め[[米沢市]]の[[徳昌寺]]に埋葬。その後、徳昌寺と[[米沢市]]の[[林泉寺 (米沢市) |林泉寺]]の間に争いが起こり敗れた徳昌寺が廃絶したため林泉寺に改葬された。
 
初め[[米沢市]]の[[徳昌寺]]に埋葬。その後、徳昌寺と[[米沢市]]の[[林泉寺 (米沢市) |林泉寺]]の間に争いが起こり敗れた徳昌寺が廃絶したため林泉寺に改葬された。
  
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== 死後 ==
 
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兼続の死後、兼続の息子の早世や[[本多政重]](後に加賀藩前田氏家老5万石)との養子縁組の解消などが原因で直江家は断絶する事になったが、「上杉家の減移封を招いた責任を感じていたため」「高禄の直江家の知行を返上することで少しでも上杉家の財政を助けるため」に意図的に兼続が直江家を断絶させたとする説がある。
 
兼続の死後、兼続の息子の早世や[[本多政重]](後に加賀藩前田氏家老5万石)との養子縁組の解消などが原因で直江家は断絶する事になったが、「上杉家の減移封を招いた責任を感じていたため」「高禄の直江家の知行を返上することで少しでも上杉家の財政を助けるため」に意図的に兼続が直江家を断絶させたとする説がある。
  
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== 人物・逸話 ==
 
== 人物・逸話 ==
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* 主君である上杉景勝を補佐し、豊臣秀吉から山城守・山形30万石の贈与などの引き抜き行為を幾度も断るなど忠義に厚い名将として知られている。
 
* 主君である上杉景勝を補佐し、豊臣秀吉から山城守・山形30万石の贈与などの引き抜き行為を幾度も断るなど忠義に厚い名将として知られている。
 
* 妻・お船の方との夫婦仲は大変よく兼続は生涯[[側室]]を1人ももたなかった。
 
* 妻・お船の方との夫婦仲は大変よく兼続は生涯[[側室]]を1人ももたなかった。

2014年5月1日 (木) 16:48時点における最新版

直江兼続(兼續)
ファイル:Naoe Kanetsugu.jpg
時代 戦国時代 - 江戸時代前期
生誕 永禄3年(1560年
死没 元和5年12月19日1619年1月23日
改名 樋口兼続、直江兼続、重光
別名 与六または與六(幼名)
重光(江戸開幕後改名)
直江山城守あるいは、直江城州(通称)
神号
諡号
戒名 達三全智居士
英貔院殿達三全智居士
霊名
墓所 山形県米沢市の松岬神社林泉寺
京都府京都市右京区の妙心寺
官位 従五位下山城守。贈従四位
幕府
主君 上杉景勝
出羽米沢藩家老
氏族 中原姓樋口氏藤原姓直江氏
豊臣贈姓
父母 父:樋口兼豊、母:直江親綱女(泉重歳女とも)、
養父:直江景綱
兄弟 直江兼続大国実頼樋口秀兼
きた(須田満胤室)
正室お船の方(直江景綱の娘)
於松(本多政重正室)、直江景明
女子(須田光義正室)
養子:本庄長房本多政重
阿虎(本多政重室、弟・大国実頼の娘)

直江 兼続(なおえ かねつぐ)は戦国時代から江戸時代前期にかけての武将である。上杉氏家老

父は長尾政景に仕えた樋口兼豊木曾義仲の重臣・樋口兼光の末裔といわれている)、母は上杉家重臣・直江景綱の妹(信州泉氏の娘説もある)。仙桃院謙信の実姉で景勝の母)の推薦で幼い頃から景勝に近侍していたといわれるが、当時の様子が窺える史料は皆無であり父・兼豊の身分についても見解が分かれている。米沢藩の記録書『古代士籍』『上田士籍』では長尾政景家老、上田執事との記載がある一方、『藩翰譜』によれば兼豊は薪炭吏だったという。

のちに諱を重光と改めるが、通例では初名の「兼続」と呼ばれることが多い(後述)。

生涯[編集]

謙信時代[編集]

通説では兼続は永禄3年(1560年)に樋口兼豊長男として現在の新潟県南魚沼市に生まれ、永禄7年(1564年)に「上田長尾家」長尾政景が死去すると謙信の養子となった上杉景勝(当時の名乗りは長尾顕景)に従って春日山城に入り、そのまま景勝の小姓近習として近侍していたとされているがこれを立証し得る信憑性のある史料は極めて少ない。

江戸時代後期の講談や明治時代以降の講釈本などを中心に兼続は謙信に才気と美貌を見出され、小姓・近習として近侍しその寵愛深い衆道の相手かつ信頼の篤い近臣であったという俗説が世間に「定説」として広く流布し、現代でも時代小説や一般向けの歴史解説本などがこの俗説を「事実」として頻繁に採り上げているが実際には生前の謙信と兼続の関わりを示す信憑性のある史料は存在自体一切確認されておらず、青少年期の兼続が謙信に近侍していたか否かは全く不明である[1]

次節で述べられている天正8年(1580年)の与六時代の書状は当時の兼続が景勝の配下としてその意思を代行していたことを示すものであるとされ、若年期よりの兼続と景勝の関わりを実証し得るものとされている[2]

直江家相続[編集]

天正8年(1580年)8月から、景勝への取次役など側近としての活動が確認できる。8月15日9月23日)には景勝印判状の奏者をつとめている。天正6年(1578年)の御館の乱では父・兼豊と共に景勝方に付いた。

天正9年(1581年)、景勝の側近である直江信綱山崎秀仙毛利秀広に殺害されるという事件が起きると景勝の命で直江景綱の娘で直江信綱の妻であったお船の方の婿として結婚(お船の方にとっては再婚)し、跡取りのない直江家を継いで越後与板城主となる。以後、兼続と狩野秀治の2人の執政体制に入る。

豊臣政権時代[編集]

天正11年(1583年)には山城守を称する。天正12年(1584年)末から秀治が病に倒れると、兼続は内政・外交の取次のほとんどを担うようになる。秀治の死後、兼続は単独執政を行ない、これは兼続死去まで続くことになった。当時の家臣たちは景勝を「御屋形」、兼続を「旦那」と敬称し事実上、二頭政治に近いものであった。天正14年6月22日1586年8月7日)、上洛の最中、主君・景勝は従四位下左近衛権少将に昇叙転任するが兼続も従五位下に叙せられる。

新発田重家の乱では重要な戦略地新潟を巡り激しい攻防が続いていたが天正11年(1583年)、当時新潟は湿地帯だった為に豪雨により上杉勢が敗北してしまう。兼続はこの対策として、川筋が定まらず本流と支流が網の目のように流れていたという当時の信濃川に支流の中ノ口川を開削する(味方村誌)など現在の新潟平野の基礎を造り着々と新発田勢を追い詰め天正13年11月20日1586年1月9日)、ついに新潟城沼垂城から新発田勢を駆逐した。これにより新潟港の水利権を失った新発田重家は急速に弱体化し天正15年10月13日1587年11月13日)、藤田信吉らと共に新発田城の支城の五十公野城を陥落させ、まもなく新発田城も落城。乱は終結した。

天正16年8月17日1588年10月7日)には関白太政大臣豊臣秀吉から豊臣の氏を授けられ、豊臣兼続としてあらためて山城守の口宣案を賜る。天正17年(1589年)の佐渡征伐、天正18年(1590年)の小田原征伐では景勝に従い関東諸城を攻略し、文禄元年(1592年)からの朝鮮征伐においても景勝と共に参陣して武功を挙げた。上杉領となった庄内地方においても大宝寺城の改修や、一揆の制圧などを取り仕切った。

天正23年(1595年)1月、景勝が秀吉より佐渡金山の支配を任せられると、兼続はその代官となる。

慶長3年(1598年)、秀吉の命令で景勝が越後から会津120万石に加増移封されると兼続には出羽米沢に6万石(寄騎を含めると30万石)の所領を与えられている。

関ヶ原[編集]

慶長3年8月18日(1598年9月18日)に秀吉が死去すると、次の天下人として徳川家康が台頭するようになる。石田三成と懇意にあった兼続は、家康との対立を決意する。そして徳川家との融和を主張した上杉家重臣・藤田信吉と対立して追放に追い込み、さらに家康の度重なる上洛要求も拒むなどしてやがて関ヶ原の戦いの遠因となる会津征伐を引き起こした。

このときに家康を激怒させ、会津遠征を決意させる直接のきっかけとなった直江状の筆者として有名であるが、文面自体は後世の偽作であるともいわれている(家康家臣の日記等から、上杉側から何らかの返書があり、これを見て家康が激怒したこと自体は確かなようである)。

関ヶ原の戦いでは、兼続は東軍に与した最上義光の領地である山形に総大将として3万人の精鋭を率いて侵攻した。義光は戦力集中の為、一部の支城の放棄を命じたが畑谷城を守る義光の家臣・江口五兵衛などはこの命令を拒否して篭城、上杉軍はこれらの激しい抵抗を排除して攻略した。その後、同じく義光の家臣で志村光安が守る長谷堂城里見民部が守る上山城を攻める。500名が守備する上山城攻めには4000名の別働隊があたり、守備側は野戦に出た。上杉軍は約8倍の兵力を持ちながら守備側に挟撃され大混乱の末に多くの武将を失うなど守備側の激しい抵抗に遭って攻略できず、別働隊は最後まで兼続の本隊に合流できなかった。長谷堂城攻めでは兼続率いる上杉軍本隊が1万8000名という兵力を擁して力攻めを行ったが、志村光安以下1千名の守備兵が頑強に抵抗し苦戦する。逆に守備側200名余りの決死隊の奇襲によって上杉軍陣中で同士討ちが発生するほどの大混乱に陥り、兼続の本陣近くまで攻められるという事態を招く。この戦いで上杉方の武将・上泉泰綱が戦死するなど多数の被害を出した(長谷堂城の戦い)。

その頃、美濃では関ヶ原本戦が行われていた。本戦で西軍が敗れた事が奥州に伝わると、上杉軍は長谷堂城攻略を中止して撤退を開始した。勢いに乗った最上軍と義光救援のために伊達政宗が援軍として派遣した留守政景軍が追撃してきて激戦になるが水原親憲前田利益ら上杉勢の諸将の奮戦もあって米沢への撤退に成功した。この撤退戦は語り草となり兼続は敵である義光、家康にも称賛され旧日本陸軍参謀本部の日本戦史でも取り上げられているほど見事なものだったという。

結果として上杉軍の最上侵攻は山形の攻略が成らなかったばかりか逆に反撃に出た最上軍に庄内地方を奪回され、また伊達軍の福島侵攻を誘発した。

江戸時代[編集]

慶長6年(1601年)7月、景勝とともに上洛して家康に謝罪する。家康から罪を許された景勝は出羽米沢30万石へ減移封となり、上杉氏の存続を許された。

その後は徳川家に忠誠を誓い、慶長13年1月4日1608年2月19日)に重光に改名する。そして米沢城下に堤防を築いて町を整備し、殖産興業・鉱山の開発を推進するなど米沢藩の藩政の基礎を築いた。その一方で上杉家と徳川家の融和を図り、本多正信とも交流があり慶長14年(1609年)には正信の取り成しで10万石分の役儀が免除されるなど上杉家に大きく貢献している。また、正信の息子である本多政重が一時兼続の養子となっていた時期がある。政重とは養子縁組が解消されても親交が続いている。

慶長19年(1614年)からの大坂の陣においても徳川方として参戦し、武功を挙げた。

元和5年12月19日(1619年1月23日)、江戸鱗屋敷で病死した。享年60。

墓所[編集]

初め米沢市徳昌寺に埋葬。その後、徳昌寺と米沢市林泉寺の間に争いが起こり敗れた徳昌寺が廃絶したため林泉寺に改葬された。

昭和13年(1938年4月30日、米沢市丸の内鎮座の松岬神社に配祀。以後、終戦まで米沢市祭として直江祭を毎年4月30日に執行する。

死後[編集]

兼続の死後、兼続の息子の早世や本多政重(後に加賀藩前田氏家老5万石)との養子縁組の解消などが原因で直江家は断絶する事になったが、「上杉家の減移封を招いた責任を感じていたため」「高禄の直江家の知行を返上することで少しでも上杉家の財政を助けるため」に意図的に兼続が直江家を断絶させたとする説がある。

兼続が亡くなった際には上杉景勝から銀50枚、徳川秀忠から銀50枚が送られた。

兼続死去から18年後の寛永14年(1637年)に妻・お船の方死去。兼続とお船の方が行っていた藩政運営は兼続の右腕として働いていた平林正興に引き継がれた。正興は兼続亡き後の寛永]4年(1640年)に製作された往古御城下絵図に陪臣で唯一「殿」の尊称がついており別格扱いを受けていた事が証明されている。正興によって兼続の祐筆を務めていた木次左近が郡代に就任している等、米沢藩内での直江派閥である与板組の権力は保持され続けた。

当初、兼続とお船の方は直江家菩提寺の徳昌寺に葬られたが徳昌寺と上杉家菩提寺の林泉寺との間で争いが起こり敗れた徳昌寺は米沢を去る。それにより直江夫妻の墓と位牌は東源寺を経て米沢春日山林泉寺へと移った。ただ遺骨に関しては東源寺に残っているともいわれ、現在でも東源寺にあるのか林泉寺にあるのか定かではない。なお遺骨の一部は高野山清浄心院に分骨されている。

当初の法名は達三全智居士であったが100回忌の時に法名が追加されて英貔院殿達三全智居士となる。

大正13年(1924年2月11日、宮内省より従四位を追贈された(なお、改名後の重光としてではなく兼続に対して追贈)。この経緯から重光ではなく、後世に兼続の名で知られることになる。

人物・逸話[編集]

ファイル:Noae Kanetugu Yoroi.jpg
直江兼続所用「金小札浅葱糸威二枚胴具足」
  • 主君である上杉景勝を補佐し、豊臣秀吉から山城守・山形30万石の贈与などの引き抜き行為を幾度も断るなど忠義に厚い名将として知られている。
  • 妻・お船の方との夫婦仲は大変よく兼続は生涯側室を1人ももたなかった。
  • 関ヶ原の戦いで中央の戦況が早々に東軍勝利に終わってしまったという事情があるとはいえ、2万近い大軍を率いながら1000名ほどで長谷堂城を守る最上勢に苦戦するなど軍事能力に関しては疑問が残るところがある(長谷堂城の戦い)。
  • 南化和尚西笑承兌などと親交があり文化人としても知られており蔵書家で有名であった。兼続蔵書である宋版『史記』『漢書』『後漢書』は南化和尚から贈られた物でありいずれも国宝に指定されている。また日本初の銅活字といわれる『文選』(直江版)の出版や米沢藩の学問所である禅林寺を創立している。
  • 」という字を前立にあしらったをかぶっていた。「愛」は「愛染明王」又は「愛宕権現」からの由来といわれているが実際は不明。俗説として「仁愛」の精神に由来するともいう。そのときの兜が米沢市の上杉神社稽照殿や米沢市の宮坂考古館に保管されている。
  • 現在、兼続が用いた家紋には混乱があり「三つ盛り亀甲に花菱」あるいは「三つ盛り亀甲に三つ葉」などが見られる。また旗印も「三つ山」や「雁金」など混乱が見られる。
  • あるとき、兼続の家臣(三宝寺勝蔵)が下人(五助)を無礼討ちした。すると、その五助の遺族たちが兼続に「あれの粗相は何も無礼討ちにされるほどのものではなかった」と訴え出た。兼続が調べてみると遺族の訴えの通りだったので、兼続は家臣に慰謝料を支払うように命じた。しかし遺族たちは下人を返せと言って譲らない。兼続は「死人は生き返らないのだから、慰謝料で納得してくれないか」と言ったが、遺族たちはあくまでも下人を返せと言い張る。すると兼続は「よしわかった。下人を返して取らそう。だが、あの世に遣いにやれる者がおらぬゆえ、すまぬがそのほうたちが行ってくれぬか?」と言って遺族3人の首をはね、その首を河原に晒してその横に立て札を立て、そこに「この者どもを使いに出すから死人を返せ 慶長二年二月七日 直江山城守兼続判」と閻魔大王への嘆願書を書いたという。
  • 景勝の代理として大坂城に上った際、伊達政宗が同席の諸大名に「めずらしいものを」と天正大判を回覧した際、素手ではなく扇子で受け撥ねるようにして表裏を見たという。政宗は、兼続が陪臣であるために遠慮していると思い「山城、手にとって見るも苦しゅうないぞ」といったところ、兼続は「冗談召さるな。不肖兼続の右手は戦場にあっては先代・上杉謙信の代よりの采配を預かるもの。左様に不浄なものを触れるわけには参りません」と政宗の膝元へ投げて返したという。
  • 後年、江戸城内で伊達政宗とすれ違った時、兼続は知らぬ顔で会釈をしなかった。政宗が「陪臣の身で大名に会釈せぬとは無礼ではないか」と咎めると「これはご無礼いたしました。これまで兼続は中納言様(政宗)とは戦場で相まみえる間柄だったゆえ、(戦に負けて逃げる)後姿しか拝見した事がなく、お顔を存じ上げませんでした」と慇懃に答えたという。
  • 常山紀談』では「大男にて、百人にもすぐれたるもったいにて、学問詩歌の達者、才知武道兼ねたる兵なり。恐らく天下の御仕置にかかり候とも、あだむまじき仁体なり」とあり、それに続いて「長高く容儀骨柄並びなく、弁舌明に殊更大胆なる人なり」と兼続を高く評価している。
  • 御館の乱では謙信の遺言を偽造しているとの説がある。謙信が病気に倒れたときに世話役を勤めていた直江景綱の継室(未亡人)と共謀してこの遺言を偽造したことが『上杉年譜』に記されており、一説ではこの未亡人と密通していたのではないかとまでされている。しかし、この頃の兼続は史料においても正確な行動が明らかではない。身分のうえでも上田衆出身の小姓の1人に過ぎず、とても府内長尾家譜代家臣直江実綱の未亡人と共謀する力など持ち合わせているはずがないので俗説といえるであろう。
    「直江景綱後室と樋口与六、声高に御家督はいよいよ景勝公へ御譲り給はんものと申延べしに、管領(謙信)御言舌止まり給へしかども、御納得あれば、只御首うなずき給ふばかりなり。左右列侯の諸臣ら、ここにおいて邦家安堵の思ひをなす」

脚注[編集]

  1. 現在、研究者の間で一般に謙信の寵臣と目されている河田長親中条景泰は10代の頃から謙信に近侍し、寵用されていたことが謙信直筆の書状をはじめとする複数の一次史料によって立証されている。近年、山田邦明は謙信の母の父とされる長尾顕吉を発給文書の署名より景勝の祖父である長尾房長の一代前の上田長尾家当主であるとの説を唱えている。謙信の母が上田長尾家出身であるのかどうかはまだ多くの疑問点があるものの、上田長尾家家臣団の中には栗林政頼や謙信の命で甘糟家を相続した甘糟景継等、謙信配下で活躍したものたちも少なくない。謙信時代ないし謙信配下としての兼続の立場・処遇については今後の研究が待たれる。
  2. 後年新井白石が『藩翰譜』上杉譜内、大田錦城が随筆『梧窓漫筆』内において、また昭和に入り南方熊楠岩田準一との往復書簡内において景勝と兼続は衆道関係にあったと断言しているがそれを裏付ける一次史料等は皆無であり、信憑性は全く無い。

参考文献[編集]

関連作品[編集]

小説
TVドラマ
ゲーム
CD
漫画

また、2004年6月2日放送の『トリビアの泉』にて「愛をかぶった戦国武将がいる」と兼続のエピソードが紹介された際には榎木孝明が演じている。2009年放送のNHK大河ドラマ天地人』では、主役としてその生涯が初めて描かれることになった。

隆慶一郎の小説『一夢庵風流記』およびその関連作品においては、主人公・前田慶次郎の無二の親友として物語上も重要な役割を果たす人物として登場する。実際にも長谷堂城の戦いで西軍敗北を知り自害しようとした兼続を諫めたり、兼続が所有していた史記に注釈を付けた等の記述が残っている。

関連項目[編集]

外部リンク[編集]

先代:
直江信綱
越後直江氏当主
直江兼続
次代:
断絶
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