「松村謙三」の版間の差分
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'''松村 謙三'''(まつむら けんぞう、[[1883年]][[1月24日]] - [[1971年]][[8月21日]])は、[[富山県]][[福光町]](現在の[[南砺市]])出身の[[日本]]の政党[[政治家]]。[[衆議院]]議員選挙に通算13回当選し、[[厚生大臣]]・[[農林水産大臣|農林大臣]]・[[歴代の文部大臣|文部大臣]]を歴任した。[[位階|従二位]][[勲一等旭日桐花大綬章]]。 | '''松村 謙三'''(まつむら けんぞう、[[1883年]][[1月24日]] - [[1971年]][[8月21日]])は、[[富山県]][[福光町]](現在の[[南砺市]])出身の[[日本]]の政党[[政治家]]。[[衆議院]]議員選挙に通算13回当選し、[[厚生大臣]]・[[農林水産大臣|農林大臣]]・[[歴代の文部大臣|文部大臣]]を歴任した。[[位階|従二位]][[勲一等旭日桐花大綬章]]。 | ||
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− | *[[1906年]]:[[早稲田大学]][[政治経済学部]]を卒業、[[報知新聞社]]に入社。 | + | * [[1906年]]:[[早稲田大学]][[政治経済学部]]を卒業、[[報知新聞社]]に入社。 |
− | *[[1911年]][[8月31日]]:祖父・清治死去。 | + | * [[1911年]][[8月31日]]:祖父・清治死去。 |
− | *[[1912年]][[1月31日]]:父・和一郎死去。報知新聞社を退社して帰郷。 | + | * [[1912年]][[1月31日]]:父・和一郎死去。報知新聞社を退社して帰郷。 |
− | *[[1917年]]:福光町会議員に当選。 | + | * [[1917年]]:福光町会議員に当選。 |
− | *[[1919年]]:富山県会議員に当選。 | + | * [[1919年]]:富山県会議員に当選。 |
− | *[[1928年]]:普通選挙法による初めての総選挙である[[第16回衆議院議員総選挙]]に[[立憲民政党]]公認で立候補し初当選。 | + | * [[1928年]]:普通選挙法による初めての総選挙である[[第16回衆議院議員総選挙]]に[[立憲民政党]]公認で立候補し初当選。 |
− | *[[1929年]]:[[濱口内閣]]で農相に就任した[[町田忠治]](のち民政党総裁)の秘書官となり、以降町田を師と仰ぐことになる。 | + | * [[1929年]]:[[濱口内閣]]で農相に就任した[[町田忠治]](のち民政党総裁)の秘書官となり、以降町田を師と仰ぐことになる。 |
− | *[[1940年]]:政党解消に対して町田民政党総裁らと最後まで抵抗したものの力尽き[[大政翼賛会]]に合流。 | + | * [[1940年]]:政党解消に対して町田民政党総裁らと最後まで抵抗したものの力尽き[[大政翼賛会]]に合流。 |
− | *[[1945年]]:[[東久邇宮内閣]]に厚相として入閣、その後[[幣原内閣]]に農相として入閣。[[日本進歩党]]の結成に参加。 | + | * [[1945年]]:[[東久邇宮内閣]]に厚相として入閣、その後[[幣原内閣]]に農相として入閣。[[日本進歩党]]の結成に参加。 |
− | *[[1946年]]:[[第21回衆議院議員総選挙|翼賛選挙]]で推薦候補だったことと、[[大日本政治会]]の[[幹事長]]を務めたことが原因で[[公職追放]]。 | + | * [[1946年]]:[[第21回衆議院議員総選挙|翼賛選挙]]で推薦候補だったことと、[[大日本政治会]]の[[幹事長]]を務めたことが原因で[[公職追放]]。 |
− | *[[1951年]]:追放解除。民政旧友会を経て[[新政クラブ]]を結成。 | + | * [[1951年]]:追放解除。民政旧友会を経て[[新政クラブ]]を結成。 |
− | *[[1952年]]:新政クラブと[[国民民主党 (日本)|国民民主党]]等が合併して結成された[[改進党]]公認で[[第25回衆議院議員総選挙]]に立候補し政界に返り咲く。 | + | * [[1952年]]:新政クラブと[[国民民主党 (日本)|国民民主党]]等が合併して結成された[[改進党]]公認で[[第25回衆議院議員総選挙]]に立候補し政界に返り咲く。 |
− | *[[1955年]]:[[第2次鳩山一郎内閣]]に文相として入閣。この年、[[保守合同]]によって[[自由民主党 (日本)|自由民主党]]結成(「保守二党論」者のため参加を躊躇するが、周囲の説得により参加) | + | * [[1955年]]:[[第2次鳩山一郎内閣]]に文相として入閣。この年、[[保守合同]]によって[[自由民主党 (日本)|自由民主党]]結成(「保守二党論」者のため参加を躊躇するが、周囲の説得により参加) |
− | *[[1959年]]:[[岸信介]]首相の[[タカ派]]的な姿勢を批判して、自由民主党総裁選挙に出馬するが落選。 | + | * [[1959年]]:[[岸信介]]首相の[[タカ派]]的な姿勢を批判して、自由民主党総裁選挙に出馬するが落選。 |
− | *[[1962年]]:日中貿易に関する[[岡崎嘉平太]]([[全日本空輸|全日空]]社長)提案をもって訪中。日中長期総合貿易に関する覚書([[廖承志]]と[[高碕達之助]]の頭文字をとってLT協定と呼ばれる)締結に尽力。翌年から[[LT貿易]]が開始された。 | + | * [[1962年]]:日中貿易に関する[[岡崎嘉平太]]([[全日本空輸|全日空]]社長)提案をもって訪中。日中長期総合貿易に関する覚書([[廖承志]]と[[高碕達之助]]の頭文字をとってLT協定と呼ばれる)締結に尽力。翌年から[[LT貿易]]が開始された。 |
− | *[[1964年]]:[[池田勇人]]首相退陣時の後継総裁選出について、日中友好及び党人の立場から[[河野一郎]]を推す。派閥共同代表の三木幹事長が、[[川島正次郎]]副総裁とともに、池田指名に従い[[佐藤栄作]]を推したことに反発。脱派して松村派を再結成。 | + | * [[1964年]]:[[池田勇人]]首相退陣時の後継総裁選出について、日中友好及び党人の立場から[[河野一郎]]を推す。派閥共同代表の三木幹事長が、[[川島正次郎]]副総裁とともに、池田指名に従い[[佐藤栄作]]を推したことに反発。脱派して松村派を再結成。 |
− | *[[1969年]]:[[片岡清一]]を後継者に指名して政界から引退。 | + | * [[1969年]]:[[片岡清一]]を後継者に指名して政界から引退。 |
== 業績 == | == 業績 == | ||
− | *戦後、幣原内閣の農相として[[農地改革]]を提案推進した。松村自身の土地もこの時没収されている。 | + | * 戦後、幣原内閣の農相として[[農地改革]]を提案推進した。松村自身の土地もこの時没収されている。 |
− | *新体制運動には抵抗したものの戦争を阻止できなかったことに対する反省、及び環日本海における産業発展の観点から日中友好、日中国交回復に尽力した。 | + | * 新体制運動には抵抗したものの戦争を阻止できなかったことに対する反省、及び環日本海における産業発展の観点から日中友好、日中国交回復に尽力した。 |
== 文献 == | == 文献 == | ||
− | *松村謙三『三代回顧録』[[東洋経済新報社]]、1964年 | + | * 松村謙三『三代回顧録』[[東洋経済新報社]]、1964年 |
− | *[[田川誠一]]『松村謙三と中国』[[読売新聞社]]、1972年 | + | * [[田川誠一]]『松村謙三と中国』[[読売新聞社]]、1972年 |
− | *[[島善高]]ほか編『松村謙三』 資料編、伝記編上・下、桜田会、1999年 | + | * [[島善高]]ほか編『松村謙三』 資料編、伝記編上・下、桜田会、1999年 |
== 関連項目 == | == 関連項目 == | ||
− | *[[日中記者交換協定]] | + | * [[日中記者交換協定]] |
− | *[[三木武夫]] | + | * [[三木武夫]] |
− | *[[鶴見祐輔]] | + | * [[鶴見祐輔]] |
− | *[[中村三之丞]] | + | * [[中村三之丞]] |
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2012年3月26日 (月) 11:56時点における最新版
松村 謙三(まつむら けんぞう、1883年1月24日 - 1971年8月21日)は、富山県福光町(現在の南砺市)出身の日本の政党政治家。衆議院議員選挙に通算13回当選し、厚生大臣・農林大臣・文部大臣を歴任した。従二位勲一等旭日桐花大綬章。
略歴[編集]
- 1906年:早稲田大学政治経済学部を卒業、報知新聞社に入社。
- 1911年8月31日:祖父・清治死去。
- 1912年1月31日:父・和一郎死去。報知新聞社を退社して帰郷。
- 1917年:福光町会議員に当選。
- 1919年:富山県会議員に当選。
- 1928年:普通選挙法による初めての総選挙である第16回衆議院議員総選挙に立憲民政党公認で立候補し初当選。
- 1929年:濱口内閣で農相に就任した町田忠治(のち民政党総裁)の秘書官となり、以降町田を師と仰ぐことになる。
- 1940年:政党解消に対して町田民政党総裁らと最後まで抵抗したものの力尽き大政翼賛会に合流。
- 1945年:東久邇宮内閣に厚相として入閣、その後幣原内閣に農相として入閣。日本進歩党の結成に参加。
- 1946年:翼賛選挙で推薦候補だったことと、大日本政治会の幹事長を務めたことが原因で公職追放。
- 1951年:追放解除。民政旧友会を経て新政クラブを結成。
- 1952年:新政クラブと国民民主党等が合併して結成された改進党公認で第25回衆議院議員総選挙に立候補し政界に返り咲く。
- 1955年:第2次鳩山一郎内閣に文相として入閣。この年、保守合同によって自由民主党結成(「保守二党論」者のため参加を躊躇するが、周囲の説得により参加)
- 1959年:岸信介首相のタカ派的な姿勢を批判して、自由民主党総裁選挙に出馬するが落選。
- 1962年:日中貿易に関する岡崎嘉平太(全日空社長)提案をもって訪中。日中長期総合貿易に関する覚書(廖承志と高碕達之助の頭文字をとってLT協定と呼ばれる)締結に尽力。翌年からLT貿易が開始された。
- 1964年:池田勇人首相退陣時の後継総裁選出について、日中友好及び党人の立場から河野一郎を推す。派閥共同代表の三木幹事長が、川島正次郎副総裁とともに、池田指名に従い佐藤栄作を推したことに反発。脱派して松村派を再結成。
- 1969年:片岡清一を後継者に指名して政界から引退。
業績[編集]
- 戦後、幣原内閣の農相として農地改革を提案推進した。松村自身の土地もこの時没収されている。
- 新体制運動には抵抗したものの戦争を阻止できなかったことに対する反省、及び環日本海における産業発展の観点から日中友好、日中国交回復に尽力した。
文献[編集]
関連項目[編集]
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