百年戦争

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百年戦争(ひゃくねんせんそう、The Hundred years War / La Guerre De Cent-Ans)は、フランス王国の王位継承をめぐるヴァロワ朝フランス王国と、プランタジネット朝およびランカスター朝イングランド王国の戦い。「百年戦争」は19世紀初期にフランスで用いられるようになった呼称で、イギリスでも19世紀後半に慣用されるようになった。

伝統的に1337年11月1日のエドワード3世によるフランスへの挑戦状送付から1453年10月19日のボルドー陥落までの116年間の交戦状態を指すが、歴史家によっては、始まりを1294年5月19日のギュイエンヌ(アキテーヌの別名)押収、終結をピッキニー条約が締結された1475年8月29日とする場合もある。また、エドワード3世がノルマンディーに上陸した1338年や、ギュイエンヌ、カンブレーにおいて戦闘が開始された1339年を開始年とする説もある。いずれにしても戦争状態は間欠的なもので、休戦が宣言された時期もあり、終始戦闘を行っていたというわけではない。

現在のフランスイギリスの国境線を決定した戦争であり、両国の国家体系と国民の帰属意識は、この戦争を通じて形成されたといっても過言ではない。

 
百年戦争
 
 


背景[編集]

詳細は百年戦争の背景を参照

百年戦争はプランタジネット家とヴァロワ家との確執によってもたらされた。対立の第一義的な火種はギュイエンヌ問題で、その意義は両家にとって極めて大きい。

ギュイエンヌ問題[編集]

ファイル:Conquetes Philippe Auguste.gif
1180年と1223年のフランスにおけるプランタジネット朝の版図(赤)とフランス王領(青)、諸侯領(緑)、教会領(黄)

プランタジネット・イングランド王朝の始祖ヘンリー2世は、アンジュー伯としてフランス王を凌駕する広大な地域を領地としていたが、ジョン欠地王の失策とフィリップ尊厳王の策略によって、13世紀はじめまでにその大部分を剥奪されていた。大陸に残ったプランタジネット家の封土はギュイエンヌ公領のみであったが、これは1259年ヘンリー3世聖王ルイに臣下の礼をとることで安堵されたものである。このため、フランス王は宗主権を行使してしばしばギュイエンヌ領の内政に干渉し、フィリップ端麗王シャルル4世は一時的にこれを占拠することもあった。イングランドは当然、これらの措置に反発し続けた。

フランス王位継承問題[編集]

ファイル:100 Years War family tree.png
百年戦争前のフランス王家の家系図

987年ユーグ・カペー即位以来フランス国王として君臨し続けたカペー朝は、1328年、シャルル4世の死によって男子の継承者を失い、王位はシャルル4世の従兄弟にあたるヴァロワ伯フィリップに継承された。フィリップは、1328年フィリップ6世としてランスでの戴冠式を迎えたが、戴冠式に先立って、イングランド王エドワード3世は自らの母(シャルル4世の妹イザベル)の血統を主張して、フィリップのフランス王位継承に異を唱えた。エドワード3世は自らの王位継承権を認めさせるための特使を派遣したが、フランス諸侯を説得することができず、1329年にはフィリップ6世に対し、ギュイエンヌ公として臣下の礼を捧げて王位を認めた。

フランドル問題[編集]

フランドルは11世紀頃からイングランドから輸入した羊毛から生産する毛織物によりヨーロッパの経済の中心として栄え、イングランドとの関係が深かった。フランス王フィリップ4世は、豊かなフランドル地方の支配を狙い、フランドル伯はイングランド王エドワード1世と同盟し対抗したが、1300年にフランドルは併合された。しかしフランドルの都市同盟は反乱を起こし、フランスは1302年の金拍車の戦いに敗北し、フランドルの独立を認めざるを得なかった。しかし、1323年に親フランス政策を取ったフランドル伯ルイ・ド・ヌヴェールが都市同盟の反乱により追放されると、フランス王フィリップ6世は1328年にフランドルの反乱を鎮圧してルイを戻したため、フランドル伯は親フランス、都市市民は親イングランドの状態が続いていた。

スコットランド問題[編集]

13世紀末からイングランド王国はスコットランドの征服を試みていたが、スコットランドの抵抗は激しく、1314年にはバノックバーンの戦いでスコットランド王ロバート・ブルースに敗北した。しかし、1329年にロバートが死ぬと、エドワード3世はスコットランドに軍事侵攻を行い、傀儡エドワード・ベイリャルをスコットランド王として即位させることに成功した。このため、1334年にスコットランド王デイヴィッド2世は亡命を余儀なくされ、フィリップ6世の庇護下に入った。エドワード3世はデイヴィッド2世の引き渡しを求めたが、フランス側はこれを拒否した。エドワード3世は意趣返しとしてフランスから謀反人として追われていたロベール3世・ダルトワを歓迎し、かねてより険悪であった両者の緊張はこれによって一気に高まった。

戦争の経過[編集]

宣戦[編集]

スコットランド問題によって両家の間には深刻な亀裂が生じた。フィリップ6世は、ローマ教皇ベネディクトゥス12世に仲介を働きかけたようであるが、プランタジネット家が対立の姿勢を崩さなかったため、1337年5月24日、エドワード3世に対してギュイエンヌ領の没収を宣言した。これに対してエドワード3世はフィリップ6世のフランス王位を僭称とし、1337年10月7日、ウェストミンスター寺院において臣下の礼の撤回とフランス王位の継承を宣誓した。11月1日にはヴァロワ朝に対して挑戦状を送付した。これが百年戦争の始まりである。

エドワード3世の遠征による勢力圏の拡張[編集]

詳細は百年戦争 (1337-1368)を参照

フランドルの反乱[編集]

百年戦争にいたるまでのヴァロワ朝との関係悪化にともない、エドワード3世は1336年にフランスへの羊毛輸出の禁止に踏み切った。このため、材料をイングランドからの輸入に頼るフランドル伯領の毛織物産業は大きな打撃を受け、 1337年にはアルテべルデの指導によりヘント(ガン)で反乱が勃発、これにフランドル諸都市が追従し、反乱軍によってフランドル伯は追放され、1340年にフランドル都市連合はエドワード3世への忠誠を宣誓した。

1338年、イングランド王エドワード3世は神聖ローマ皇帝ルートヴィヒ4世と結び、舅であるエノー伯等の低地(ネーデルラント)諸侯の軍を雇って北フランスに侵入した。何度か中世騎士道物語さながらに挑戦状を送り決戦を迫ったが、フランス王フィリップ6世は戦いを避け、低地諸侯も戦意が低かったため特に成果を挙げることができないままだった。

ファイル:BattleofSluys.jpeg
スロイスの海戦、フロワサールの年代記の挿絵

これに対してフランス王軍は直接対決を避け、海軍を派遣してイングランド沿岸部を攻撃、海上輸送路を断つ作戦をとった。両王軍は海峡の制海権をめぐり、1340年6月24日にエクリューズで激突、イングランド王軍はフランス王軍200隻の艦隊を破った(スロイスの海戦)。しかし、内陸部ではフランス王軍にたびたび敗北を喫し、両者とも決定的な勝利をつかめないまま、1340年9月25日、約2年間の休戦協定が結ばれた。休戦の最中、スコットランド王デイヴィッド2世が帰国したため、エドワード3世はスコットランド問題にも手を回さなければならなかった。

ブルターニュ継承戦争[編集]

1341年、ジャン3世が亡くなるとブルターニュ公領の継承をめぐって、ジャン3世の異母弟であるモンフォール伯ジャンと、姪のパンティエーヴル女伯ジャンヌの間で争いが起きた。ジャンヌの夫シャルル・ド・ブロワがフィリップ6世の甥であったため、モンフォール伯はエドワード3世に忠誠を誓い、ナントを占拠してフランス王軍に対峙した。

フィリップ6世はシャルル・ド・ブロワを擁立するために軍を差し向けナントを攻略し、モンフォール伯を捕らえたが、モンフォール伯妃ジャンヌ・ドゥ・フランドルの徹底抗戦によってブルターニュの平定に時間がかかり、休戦協定の期限切れを迎えたエドワード3世の上陸を許した。このブルターニュ継承戦争は、1343年に教皇クレメンス6世の仲介によって休戦協定が結ばれたが、一連の戦闘によってイングランドはブルターニュに対しても前線を確保することができた。

フランス王軍の大敗[編集]

1346年7月、イングランド王軍はノルマンディに上陸し、騎行を行った。このためフィリップ6世はクレシー近郊に軍を進め、8月26日、クレシーの戦いが勃発した。フランス王軍は数の上では優勢であったが、指揮系統は統一できておらず、戦術は規律のない騎馬突撃のみで、長弓を主力とし作戦行動を採るイングランド王軍の前に大敗北を喫した。

勢いづいたイングランド王軍は港町カレー陥落させ、アキテーヌでは領土を拡大、ブルターニュではシャルル・ド・ブロワを、スコットランドではデイヴィッド2世を捕縛するなどの戦果を挙げた。クレシーの敗戦で痛手を被ったフィリップ6世はこれらに有効な手を打つことはできなかったが、フランドル伯ルイ・ド・マールがフランドルの反乱を平定し、フランドルについてはイングランドの影響力を排除することに成功した。

両者は1347年、教皇クレメンス6世の仲裁によって1355年までの休戦協定が結ぶが、その年に黒死病(ペスト)が流行し始めたため、恒久的な和平条約の締結が模索された。

1350年、フランス王フィリップ6世が死去、ジャン2世がフランス王に即位した。1354年アヴィニョンで和平会議が開かれ、エドワード3世はジャン2世に対し、フランス王位を断念する代わりにアキテーヌ領の保持、ポワトゥートゥーレーヌアンジューメーヌの割譲を求めた。しかし、ジャン2世はこれを一蹴、このためイングランド王軍は1355年9月に騎行を再開した。

1356年エドワード黒太子率いるイングランド王軍は、アキテーヌ領ボルドーを出立し、ブルターニュからの出陣する友軍と合流して南部から騎行を行う予定であったが、フランス王軍の展開に脅かされ、急遽トゥールからボルドーへの撤退を試みた。しかし、ポワティエ近郊でフランス王軍の追撃に捉えられたため、黒太子エドワードはこれに応戦する決意を固めた。このポワティエの戦いは、イングランド王軍が明らかに劣勢だったが、フランス王軍はクレシーの戦いと同じ轍を踏み、またも大敗北を喫した。この敗戦でジャン2世はイングランド王軍の捕虜となり、ロンドンに連行された。

賢王シャルル5世による国家内政の転換[編集]

ジャン2世の捕囚と全国三部会の開催[編集]

国王ジャン2世を捕縛されたフランス王国では、王太子シャルルが軍資金と身代金の枯渇、王不在の事態に対処するために1356年10月17日、パリで全国三部会を開いた。しかし、敗戦によって三部会の議事進行は平民議員に支配され、特にパリの商人頭エティエンヌ・マルセルの台頭により、国政の運営を国王から剥奪する案も提出された。

平民議員との交渉は1年以上にもわたって続けられたが平行線をたどり、このためシャルルはパリでの三部会の利用を諦め、国王代理から摂政を自任して、1358年4月から5月にかけてプロヴァンスコンピエーニュでパリとは別の三部会を開催した。これらの三部会で軍資金を得、またジャックリーの乱を鎮圧すると、シャルルはパリ包囲に着手し、パリ内紛を誘引して7月31日にはエティエンヌ・マルセル殺害に成功した。

ファイル:Traité de Bretigny.svg
ブレティニィ条約、赤がイングランド支配地域、ピンクが条約で割譲された領土

この間、ロンドンにて1358年1月に1回目の、1359年3月24日に2回目の和平交渉が行われており、ジャン2世は帰国を条件に、アキテーヌ全土、ノルマンディ、トゥーレーヌ、アンジュー、メーヌの割譲を承諾した。しかし、王太子シャルルが三部会においてその条約を否決、これを受けて1359年10月28日、イングランド王軍はカレーに上陸して騎行を始めた。

王太子シャルルはこの挑発には応じず、イングランド王軍の資金枯渇による撤退を待ち、1360年5月8日、教皇インノケンティウス6世の仲介による、ブレティニィ仮和平条約の締結を行った。これは10月24日にカレー条約として本締結され、アキテーヌ、カレー周辺、ポンティユーギーヌの割譲と、ジャン2世の身代金が決定された。

ジャン2世は、身代金全額支払い前に解放されたが、その代わりとなった人質の一人が逃亡したため、自らがその責任をとって1364年1月3日、ロンドンに再渡航した。4月8日、ジャン2世はそのままロンドンで死去し、5月19日、王太子シャルルはシャルル5世として即位した。

シャルル5世による税制改革と戦略転換[編集]

シャルル5世は敗戦による慢性的な財政難に対処すべく、国王の主要歳入をそれまでの直轄領からのみ年貢にたよる方式から国王課税収入へと転換した。彼は 1355年に規定された税制役人を整備し、国王の身代金代替という臨時徴税を1363年には諸国防衛のためという恒久課税として通常税収とした。このため、シャルル5世は税金の父とも呼ばれる。税の徴収によって、フランス王家の財力は他の諸公に比べて飛躍的に伸び、権力基盤を直轄領から全国的なものにすることとなった。

シャルルは外交による勢力削除にも力を入れる。フランドルはルイ・ド・マールによって平定されていたが、ルイ自身がイングランド寄りの姿勢を見せ、1363年には娘マルグリットとケンブリッジ伯エドマンド(後のヨーク公)の婚姻を認めた。シャルル5世は教皇ウルバヌス5世に働きかけ、両者が親戚関係にあることを盾に破談を宣言させた。1369年には弟フィリップとマルグリットを(両者も親戚関係にあるが教皇の特免状を得て)結婚させて、フランドルの叛旗を封じた。

また、1364年にはブルターニュ継承戦争が再燃し、オーレの戦いでイングランド王軍が勝利を収めたが、シャルル5世はこれを機会に継承戦争から手を引き、第一次ゲランド条約を結んでブルターニュ公ジャン・ド・モンフォール(ジャン4世)を認めた。しかし、ジャン4世に臣下の礼をとらせたことで反乱は封じられ、イングランドはブルターニュからの侵攻路を遮断された。

カスティーリャ王国遠征[編集]

1366年、シャルル5世はカスティーリャ王国の「残酷王」ペドロ1世の弾圧によって亡命したエンリケ・デ・トラスタマラを国王に推すために、ベルトラン・デュ・ゲクランを総大将とするフランス王軍を遠征させた。これはエンリケ・デ・トラスタマラをエンリケ2世として戴冠させることのほかに、国内で盗賊化している傭兵隊の徴収と、彼らを国外に追放する意味もあり、ゲクランはこれを見事に成功させた。

フランス王の介入によって王位を追われたペドロ1世は、アキテーヌの黒太子エドワードの元に亡命し、復位を求めた。1366年9月23日、黒太子エドワードとペドロ1世の間でリブルヌ条約が交わされ、イングランド王軍はカスティーリャ王国に侵攻した。

1367年ナヘラの戦いに勝利した黒太子エドワードは、総大将デュ・ゲクランを捕え、ペドロ1世の復権を果たしたが、この継承戦争によって赤痢の流行と多額の戦費の負債を抱えることとなった。戦費はペドロ1世の負担だったはずだが、彼は資金不足を理由にこれを果たさず、遠征の負債はアキテーヌ領での課税によって担われた。しかし、これはアキテーヌ南部のガスコーニュに領地を持つ諸侯の怒りを買い、パリ高等法院において黒太子エドワードに対する不服申し立てが行われた。

1369年1月、黒太子エドワードにパリへの出頭命令が出されたが、これが無視されたため、シャルル5世は彼を告発した。エドワード3世は、アキテーヌの宗主権はイングランドにあるとして異議を唱え、フランス王位を再要求したため、1369年11月30日、シャルル5世は黒太子エドワードに領地の没収を宣言した。

再征服戦争[編集]

ファイル:Du Guesclin Dinan.jpg
ベルトラン・デュ・ゲクラン

1370年3月14日、モンティエルの戦いでカスティーリャ王ペドロ1世を下したデュ・ゲクランはパリに凱旋し、フランス王軍司令官に抜擢される。シャルル5世は会戦を避け、敵の疲労を待って着実に都市を奪回して行く戦法取った。1370年12月4日、ポンヴァヤンの戦いでブルターニュに撤退中のイングランド王軍に勝利し、1372年には、ポワトゥー、オニスサントンジュを占拠、7月7日にはポワティエを、7月22日のラ・ロシェルの海戦でイングランド海軍を破った後、9月8日にはラ・ロシェルを陥落させ、イングランド王軍の前線を後退させた。これに対して、イングランドは1372年にブルターニュ公ジャン4世と軍事同盟を結び、1373年にはイングランド王軍がブルターニュに上陸したが、デュ・ゲクランはこれを放逐し、逆にブルターニュのほとんどを勢力下においた。

1375年7月1日、フランス優位の戦況を受けて、エドワード3世とシャルル5世はブルッヘで2年間の休戦協定が設けられるに至った。しかし、両陣営は互いに主張を譲らず、また1376年には黒太子エドワードが、1377年にはエドワード3世が死去するに及んで両陣営は正式な平和条約を締結することがなかった。

両陣営の動きが膠着する中、1378年12月18日、シャルル5世はすでに征服したブルターニュを王領に併合することを宣言した。しかし、これは独立心の強いブルターニュの諸侯の反感を買い、激しい抵抗にあった。また、国内ではラングドックモンペリエで重税に対する一揆が勃発したため、シャルル5世はやむなく徴税の減額を決定し、1380年9月16日に死去した。1381年4月4日、第二次ゲランド条約が結ばれ、ブルターニュ公領はジャン4世の主権が確約され、公領の国庫没収(併合)はさけられた。

休戦[編集]

ランカスター朝の成立[編集]

1375年に休戦が合意された後、両国は和平条約締結にむけての交渉がはじまった。1381年5月には、ルーランジャンで新王リチャード2世シャルル6世の和平交渉がはじめられる。話し合いはまとまらなかったが、この間、休戦の合意はずるずると延長された。

イングランドでは、年少のリチャード2世即位にあたってランカスター公ジョン・オブ・ゴーントを筆頭とする評議会が設置されていたが、1380年に戦費調達のための人頭税課税に端を発するワット・タイラーの乱が勃発、この乱を鎮めたリチャード2世は評議会を廃して親政を宣言した。しかし、彼が寵臣政治を行い、かつ親フランス寄りの立場を採ったため、主戦派の諸侯とイングランド議会は王に閣僚の解任を求めた。

1387年12月20日、議会派諸侯はラドコット・ブリッジの戦いで国王派を破り、1388年2月3日にはいわゆる無慈悲議会において王の寵臣8人を反逆罪で告発した。これに対して、1392年のアミアン会議や1393年のルーランジャン交渉、1396年のアルドル会議などでフランス王との交渉に忙殺されていたリチャード2世は、交渉が一段落した1397年7月10日、対フランス和平案にも反発した議会派の要人グロスター公トマス・オブ・ウッドストック、アランデル伯らを処刑した。

これらの政情不安の最中、ランカスター公ジョンの息子ヘリフォード公ヘンリー・オブ・ボリングブロクがリチャード2世に狙われているという陰謀を議会で告訴、リチャード2世がその報復としてヘリフォード公を追放刑に処したことにより、王と議会派諸侯はさらに激しく対立することになった。

ヘリフォード公からランカスター公領を剥奪したことにより、議会派は再び軍事蜂起してリチャード2世を逮捕、1399年9月29日には退位を迫られ、ロンドン塔に幽閉された。翌日、ヘリフォード伯ヘンリーがイングランド王ヘンリー4世として即位し、ランカスター朝が成立した。

オルレアン派とブルゴーニュ派の対立[編集]

イングランドの一連の内紛によって、フランスとイングランドとの和平交渉は早急にまとめられつつあった。1392年のリチャード2世、シャルル6世の直接会談(アミアン会議)の後、1396年3月11日にはパリにおいて、1426年までの全面休戦協定が結ばれた。

しかし、和平交渉はイングランドの内紛だけでなく、フランス国内の混乱によるためでもあった。幼少のシャルル6世の後見人となったアンジュー伯ルイ、ベリー公ジャン、ブルボン公ルイらは、国王課税を復活させて財政を私物化し、特に反乱を起こしたフランドル諸都市を平定したブルゴーニュ公フィリップは、フランドル伯を兼任して力を持ち、摂政として国政の濫用を行った。これに対して、1388年、シャルル6世による親政が宣言され、オルレアン公ルイや、マルムゼと呼ばれる官僚集団がこれに同調して後見人一派を排斥するようになった。しかし、1392年、突如シャルル6世に精神錯乱が発生し、国王の意志を失ったフランス王国の事態は混迷する。

国王狂乱によって、ブルゴーニュ派とオルレアン派の対立は壮絶な泥試合となった。当初、王妃イザボー・ド・バヴィエールの愛人であったオルレアン公が財務長官、アキテーヌ総指令となり国政をにぎったが、ブルゴーニュ派はフィリップの後を継いだブルゴーニュ公ジャンによって1405年にパリの軍事制圧を行い、1407年11月23日にはオルレアン公ルイを暗殺して政権を掌握した。しかし、ルイの跡目を継いだオルレアン公シャルルの一派は、アルマニャック伯ベルナールを頼ってジアン同盟を結び、ブルゴーニュ派と対立した。両派の対立はついに内乱に派生し、ともにイングランド王軍に援軍を求めるなど、フランス王国の内政は混乱を極めた。

イングランド・フランス統一王国[編集]

ヘンリー5世の攻勢[編集]

アルマニャック派と公式に同盟を結んだイングランド王軍は、1412年8月10日、ノルマンディに上陸、ボルドーまでの騎行を行った。1413年3月21日、ヘンリー4世の死去によってヘンリー5世が即位する。ヘンリー5世は1414年5月23日にブルゴーニュ公と同盟を結び、12月にはフランス王国にアキテーヌ全土、ノルマンディ、アンジューの返還とフランス王位の要求を宣言した。

内紛によって動きのとれないフランス宮廷を尻目に、イングランド王軍は1415年8月12日にノルマンディ北岸シェフ・ド・コーに再上陸した。フランス王家は内乱によって全く有効な手立てを打ち出せなかったが、パリを制圧して国政を握っていたアルマニャック派は、進撃を続けるイングランド王軍に対して軍を派遣した。1415年10月25日、アジャンクールの戦いでフランス王軍は勢力差4倍以上の軍勢を揃えたが、全く足並みが揃わず大敗を喫した。オルレアン公シャルルは捕らえられ、アルマニャック派は弱体化したが、これに乗じてパリを掌握したブルゴーニュ派も対イングランドに対しては無力であった。1417年、フランス王軍を破って再上陸したイングランド王軍は、 ルーアンを陥落させてノルマンディ一帯を掌握した。

アングロ・ブルギーニョン同盟[編集]

ファイル:Traité de Troyes.svg
トロワ条約時の勢力範囲、フランス(青)、イングランド(赤)、ブルゴーニュ(紫)、及び主要な戦場、アジャンクール(Azincourt)、オルレアン(Orleans)、パテー(Patay)、フォルミニー(Formigny)、カスティオン(Castillon)

この間、フランス王家はブルゴーニュ公ジャンがシャルル6世の王妃イザボー・ド・バヴィエール(「淫乱王妃」と呼ばれ、王太子はシャルル6世の子ではないと発言して王太子シャルルの王位継承を否定しようとした)に接近して王太子シャルルを追放した。ブルゴーニュ公ジャンは親イングランドの姿勢を見せていたが、イングランド王軍にブルゴーニュのポントワーズが略奪されるにおよんで王太子との和解を試みた。しかし、1419年9月10日にモントローで行われた会談において、王太子シャルルがブルゴーニュ公を惨殺したため、跡を継いだブルゴーニュ公フィリップ3世はイングランド王家と結託し、1419年12月2日、アングロ・ブルギーニョン同盟を結んだ。

両陣営は度重なる折衝の末、1420年5月21日、トロワ条約を締結した。これはシャルル6世の王位をその終生まで認めることとし、シャルル6世の娘カトリーヌとヘンリー5世の婚姻によって、ヘンリー5世をフランス王の継承者とするものである。事実上、イングランド・フランス連合王国を実現するものであった。

国王代理である王太子シャルルとアルマニャック派はこの決定を不服とし、イングランド連合軍に抵抗するが、王太子シャルルの廃嫡を認めるトロワ条約は三部会の承認を受け、このためイングランドは着実に勢力を拡大した。

しかし、1422年8月31日、ヘンリー5世がヴァンセンヌにて急死し、10月21日にはシャルル6世が死去したため、事態は再び混迷しはじめた。イングランド王国はヘンリー6世を王位に就けるが、ヘンリー6世は前年の1421年に生まれたばかりの赤子であり、また、王太子シャルルは10月30日にシャルル7世を名乗り、ブールジュでなおも抵抗を続けた。

フランスの逆襲[編集]

ジャンヌ・ダルクの出現[編集]

ファイル:Ingres coronation charles vii.jpg
シャルル7世の戴冠式におけるジャンヌ・ダルク ドミニク・アングル

イングランド摂政ベッドフォード公ジョンは、アングロ・ブルギーニョン同盟にブルターニュ公ジャン5世を加え、ノルマンディ三部会を定期的に開催することによって財政の立て直しを計った。また、シャルル7世は、反イングランド勢力との同盟を結び、ブールジュでの再起を狙っていたが、イングランド側は、ロワール河沿いのオルレアンを陥落させ、勢力を一気にブールジュにまで展開する作戦を立てた。

これに対して、1429年4月29日、イングランド連合軍に包囲されたオルレアンを救うべく、ジャンヌ・ダルクを含めたフランス軍が市街に入城した。フランス軍はオルレアン防衛軍と合流し、5月4日から7日にかけて次々と包囲砦を陥落させ、8日にはイングランド連合軍を撤退させた。このオルレアン解放が、今日、ジャンヌ・ダルクを救世主、あるいは聖女と称える出来事となっている。

オルレアンの包囲網を突破したフランス軍は、ロワール川沿いを制圧しつつ、ランスに到達し、シャルル7世ノートルダム大聖堂で戴冠式を行った。ジャンヌ・ダルクは、1429年、シャルル7世によりパリの解放を指示されるが失敗、1430年にはコンピエーニュの戦いで負傷、捕虜として捕らえられ、翌年5月31日火刑に処された。

イングランドの撤退[編集]

ファイル:Hundred years war.gif
百年戦争の変遷、フランス(黄)、イングランド(グレー)、ブルゴーニュ(黒)

1431年リールにおいて、ブルゴーニュ公フィリップとシャルル7世の間に6年間の休戦が締結される。これを機にシャルル7世は、ブルゴーニュのアングロ・ブルギーニョン同盟破棄を画策し、1435年には、フランス、イングランド、ブルゴーニュの三者協議において、イングランドの主張を退け、フランス・ブルゴーニュの同盟を結ぶことに成功した。

ブルゴーニュとイングランドの同盟解消に成功したフランスは、徐々にイル=ド=フランスを制圧し、アキテーヌに対してはその周囲から圧力をかけ始めた。1439年、オルレアンで召集された三部会において、フランス王国は軍の編成と課税の決定を行い、1444年に行われたロレーヌ遠征の傭兵隊を再編成して、1445年には常設軍である「勅令隊」が設立された。貴族は予備軍として登録され、国民からは各教会区について一定の徴兵が行われ「国民弓兵隊」が組織されている。

これら一連の軍備編成を行うと、シャルル7世はノルマンディを支配するイングランド軍討伐の軍隊を派遣した。1449年、東部方面隊・中部方面隊・西部方面隊に別れたフランス軍は3方からノルマンディを攻撃し、12月4日にはルーアンを陥落させた。これに対し、シェルブールに上陸したイングランド軍は1450年4月15日アルチュール・ド・リッシュモン元帥が指揮を執るフランス軍と激突、フォルミニーの戦いにおいて、イングランド軍は大敗を喫し、8月には完全にノルマンディ地方を制圧されてしまった。

シャルル7世は、イングランド軍の立て直しを計る時間を与えまいと、すぐさまアキテーヌ占領に着手し、1451年6月19日、ボルドーを陥落させた。ボルドーは翌年10月にイングランド軍に奪還されるが、イングランド軍の劣勢はいかんともしがたく、1453年10月19日、再度ボルドーが陥落し、百年戦争は終息する。

戦争の影響[編集]

この戦争の後、イングランドでは、「薔薇戦争」が起こって諸侯は疲弊し没落したが、王権は著しく強化されテューダー朝による絶対君主制への道が開かれた。フランスでも宗教戦争が起こって内乱が発生したが、祖国が統一されたことで王権が伸張しブルボン朝の絶対君主制へと進んだ。

その他[編集]

ヘンリー6世以降のイングランド王は、百年戦争以降も「フランス王」の称号を用い続けた。これはステュアート朝まで続いており、ジェームズ1世以降はフランス、イングランド、スコットランドアイルランドの4ヶ国の王を称した。

参考文献[編集]

  • 佐藤 賢一『英仏百年戦争』集英社
  • Philippe Contamine(原著),坂巻 昭二(翻訳)『百年戦争』白水社
  • 堀越 孝一『ジャンヌ=ダルクの百年戦争』清水書院

百年戦争をモチーフにした作品[編集]

映画[編集]

ジャンヌ・ダルクヘンリー5世 (イングランド王)も参照。

ゲーム[編集]

  • BLADE STORM 百年戦争
  • ゲームジャーナル第8号 『竜虎激突 信玄謙信』 『甲越軍記』、『英仏百年戦争』 シミュレーションジャーナル

関連項目[編集]

外部リンク[編集]

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要望内容:フランスの逆襲