韓国起源説

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韓国起源説(かんこくきげんせつ)とは、韓国の個人・団体などが、他国の文化などの起源・伝播を朝鮮半島に求める、根拠不十分で非合理な言説群の俗称韓国起源論ともいう。研究者文化人が個人的に主張する説から、公的団体が正式に主張する説まで多岐にわたり、一時的にマスメディアで流布される場合から、継続的に国際的な広報活動が行われる場合まで様々である。特に、日本文化中国文化が対象とされる場合が多い。

概要[編集]

韓国起源説の主な対象は、日本文化と中国文化をはじめ、メソポタミア文明インカ文明西洋文明生態系まで多岐にわたり、有形・無形の文化だけではなく高名な歴史上の人物等のあらゆる分野が対象となっている。これらの主張の根拠は似非科学から語呂合わせ民間語源、一切根拠の無いものまで多岐にわたり、韓国内や海外で広く流布されている説から韓国内ですらほとんど受容されていない説まで様々である。ただし,、韓民族優越主義的な視点で主張される点では広く共通しており、特に日本文化に対する起源説の主張では、小中華思想公教育に基づいた強い対日蔑視の視点で主張される事が多く、様々な日本文化が剽窃され韓国文化として外国に宣伝されている。

このような起源主張は韓国以外にも存在するが、韓国起源説の特異な点は、他国の起源説とは比較にならないほど対象分野が広く、頻度も高い上、宣伝活動が国内のみならず世界を意識したものであるが故に組織的・大規模で、自民族優越主義的であり、文化の発現、革新、発展、継承を無視しており、著しく事実誤認、歴史歪曲、捏造が多いとされている。

例えば、朝鮮日報東亜日報中央日報のような大手マスコミや、学者や有名作家が韓国起源説を堂々と主張・報道したり、韓国起源説に基づいて映画が作られたりする。世界に向けては、2002年アジア競技大会組織委員会や大韓剣道協会のような公式国際団体が韓国起源説を主張したり、Japan Expoや韓国政府が後援するKorean Connectionのような国際的なイベントで韓国起源説に基づいた対外文化広報が行われたり、移民した在外韓国人が現地で積極的に韓国起源説を広めたりする。これらを鵜呑みにしたネット記事・投稿が氾濫し既成事実化が進み、ついには韓国の教科書に記載されるようになる。さらに、事実無根の起源説が別の起源説の根拠になるなど、仮説希望的観測に基づいた虚構が「歴史的事実」として流布されている。

韓国起源説がいつごろ始まったかは定かではないが、世界で有名になるとその文化に対する韓国起源説が主張され始める場合が多い。例えば韓国では日本刀は「野蛮な日帝の象徴」として長らく忌み嫌われていたが、や毎年春にタイダルベイスンで開かれる全米桜祭りソメイヨシノアメリカで人気を博していると認識すると大規模に韓国起源説を主張し始めた。

日本や中国や台湾で韓国起源説が広く認知されるようになったのはインターネットが普及し始めてからであり、日本では『マンガ 嫌韓流』などの出版物の影響も大きい。中国のネットアンケートで韓国が「嫌いな国」第1位に選ばれたが、その一因が韓国起源説にあるとされており、中国国内で膨張する嫌韓感情に対処するために、李明博大統領が辛正承在中韓国大使に指示して、一部誤報が含まれた韓国起源説に対する釈明を中国メディア上で大使にさせるほどの影響力を持つようになっている。日本のメディアでも、「マジンガーZ海賊版が韓国作品として韓国で放送されていた!? またお得意の韓国起源説ですか(苦笑)」などの記事が書かれるほど、広く知られるようになった。

日本のインターネットでは、このような起源主張を朝鮮語で「我々の」を意味する「ウリ」をかけて「ウリジナル」と呼ぶことがある。この「ウリジナル」という言葉は、雑誌などが取り上げたり、大学教授が用いたりするほど広まっている。似たような言葉に「コリエイト」(korea+create)「コリエイション」(creation×korea) がある。感じる→韓じるなど。

また人物に対する韓国起源説の一種として、韓民族優越主義の観点から日本の各界で活躍している人物を事実や根拠にもとづかず在日韓国・朝鮮人であると主張する在日認定がある。

情報の伝播構造としては陰謀論チェーンメール、ある種のデマと類似しており、ある種の権威主義を触媒として拡散される誤った情報の伝播速度に対して、正確な情報の説明や伝達に非対称で多大な情報や証拠の提示が必要となる構造があり(「起源説」の提示は高々断定調の数フレーズであるのに対して、その反証のための証明が膨大になる)、結果として流言の広がりが爆発的になるのに対して訂正情報の拡散速度は鈍いものとなる。

日本に対する韓国起源説の発生理由[編集]

事大主義・小中華思想・儒教・属国史[編集]

朝鮮半島の歴代王朝は長期間に渡って中国大陸の歴代王朝に服属・朝貢しており、例えば新羅北斉北朝)・南朝)・朝貢し、高麗契丹)・女真)・に朝貢、に服属し、更にの属国でもあった。李氏朝鮮は明・に朝貢していた(日清戦争まで)。これらの歴代王朝の多くは中国歴代王朝による冊封を受け(中国朝鮮関係史参照)、朝鮮半島では中華文化に対して卑屈なまでに尊ぶ事大主義と、自らを中華の一部と見做して「劣等な周辺諸国」に対して優越すると信じる小中華思想の時代が長く続いた。

その後、小中華思想の上では劣等でなければならない日本によって併合・近代化され、日本文化が大量に流入すると、日本に対する劣等感や反日感情が広がった。このため、第二次世界大戦後に独立したが、国民国家形成と国際的な認知を得るために必要な自民族の歴史と文化に基づいたアイデンティティーが不足することとなった。そこで、既に世界的に認知度の高い日本文化や中国文化などを韓国起源と剽窃することで、国家アイデンティティの形成、海外からの認知向上、自国を併合地化した上に、長年大国として君臨してきた日本・中国に対する劣等感の克服を同時に、容易に果たそうとしていると考えられている。

また、このような小中華思想に儒教思想や民族主義が加わることによって「優越な長男の中国と次男の韓国(朝鮮)、劣等な三男の日本」、「優越な母の韓国と劣等な捨て子の日本」という認識が発生し、さらには、

  • 「先進的で文化的で優秀な朝鮮が、未開で野蛮で劣等な日本に先進的な文明を授けてやった。」
  • 「日本は韓国の優れた文化を受け入れただけの文化劣等国」
  • 「(日本は)有史以来一枚見下げるべき文化的劣等者」「全ての日本文化は朝鮮に源流がある」
  • 「百済人が日本を建国した」

という歴史観が広く浸透し、日本文化に対する韓国起源説の温床となっている。

このような日本蔑視は、日本列島を指す「島国」という言葉が「劣等で未開」という意味で使われていることからも伺え、駐日韓国大使がテレビのインタビューで使うまでになっている。また、韓国マスコミも、「チョッパリ」「ウェノム」「イルボンノムドル」などの日本人を指す侮蔑語を日常的に使用し、

  • 「古代に韓民族の中の質の悪い犯罪者を「おぼれ死ね」と丸太に縛って海に流して島にたどり着いたのが国際的なならず者の低質日本民族の正体だ」
  • 「『日本猿』と『チョッパリ』、どちらが日本人の呼び名に相応しいか?」
  • 「裸で魚を獲っていた人に我々が文化を伝えてやったのに何を言ってるんだ」
  • 「『倭人』という言葉がある。とても小さくてみすぼらしいという意味の倭だ。人間の度量が小さくて狭い場合に私たちは『小さい奴』という言葉を使う。日本はそのような種族だ。」
  • 「『日本猿』という呼称がある。陰湿で凶悪で他人の真似はうまい人に、よく『猿のような奴』と非難する。日本はその猿のように卑怯な種族だ。」などと、極度に侮蔑的な対日論評を日常的に行っている。このように、韓国社会全般では「韓国人の優秀性」と「日本の劣等性・未開性・野蛮性」を扇動する傾向が強く、韓国起源説が発生しやすい環境が醸成されている。

また、自著の中で水野俊平(野平俊水のペンネームでも知られている)は韓国の「情」に言及している。朝鮮半島史は一貫して外敵との戦いの歴史(周辺の強国に侵略や占領され、事大する歴史)であり、「偉大なる民族史」に憧れる心情は「理解できないことでもない」としている。また、韓国大衆の間で、「朝鮮半島史が日帝親日派により不当に矮小化された」と信じられている為、「植民地史観から歴史を回復(復元)する」という名目で行われる起源説の主張が非常に受け入れられやすく、正統派の歴史学者偽史や起源説に異議を唱えにくい状況になってしまっていると分析している。また、日本人学者が起源説を否定した場合「歴史を歪曲する日本の右翼学者」とレッテルを張られ、深く議論されることはまずない。そのため、韓国の学会ですら全く認められていないか疑問視されているような起源説であっても、否定する言説が表れないため、韓国大衆に「事実」として認識され広まっていくケースが多いとしている。

公教育[編集]

国籍ある教育[編集]

韓国の建国当初の民族主義は「反日主義」一辺倒で、「日帝に対する闘争」を掲げることで民族の紐帯を醸成していった。

韓国の朴正煕大統領は自著『国家・民族・私』で、次のような言葉を遺している。

  • 「我が半万年の歴史は、一言で言って退嬰と粗雑と沈滞の連鎖史であった」
  • 「姑息、怠惰、安逸、日和見主義に示される小児病的な封建社会の一つの縮図に過ぎない」
  • 「わが民族史を考察してみると情けないというほかない」
  • 「われわれが真に一大民族の中興を期するなら、まずどんなことがあっても、この歴史を改新しなければならない。このあらゆる悪の倉庫のようなわが歴史は、むしろ燃やして然るべきである」

さらに自著『国家、民族、私』で、李氏朝鮮について次の言葉を遺している。

  • 「四色党争、事大主義、両班の安易な無事主義な生活態度によって、後世の子孫まで悪影響を及ぼした、民族的犯罪史である」
  • 「今日の我々の生活が辛く困難に満ちているのは、さながら李朝史(韓国史)の悪遺産そのものである」
  • 「今日の若い世代は、既成世代とともに先祖たちの足跡を恨めしい眼で振り返り、軽蔑と憤怒をあわせて感じるのである」

朴正煕は朝鮮史における事大主義属国性を自覚し、自著『韓民族の進むべき道』で韓国人の「自律精神の欠如」「民族愛の欠如」「開拓精神の欠如」「退廃した国民道徳」を批判し、「民族の悪い遺産」として次の問題を挙げている。

  • 事大主義
  • 怠惰と不労働所得観念
  • 開拓精神の欠如
  • 企業心の不足
  • 悪性利己主義
  • 名誉観念の欠如
  • 健全な批判精神の欠如

朴正煕は独裁体制(維新体制)を確立すると、上記のような朝鮮民族の問題点を払拭するために、「民族の中興の使命を達成するための主体的民族史観」に基づいた「国籍ある教育」を掲げた。

歴史教科書[編集]

上記のような「朝鮮民族の問題点」を払拭するために行われた「国籍ある教育」に基づいた韓民族優越史観で編纂された韓国の国定教科書が韓国起源説を加速させている側面がある。教科書では、「先進的な韓国が未開な日本に文明を授けてあげた」という歴史観が一貫して強調されており、日本に対して、日本の独自性の強い社会・文化や、日本が最も影響を受けた中国との東シナ海交易ルートや、日本から外国への文化伝播が存在しないかのような誤解を与えている。また、朝鮮半島が歴史上ほとんどの期間中国の従属国で政治・社会・文化の面で隷属していたことに殆ど触れられていないため、韓国人が「歴史的に朝鮮は文化先進国」という認識を一層強くする原因となっている。

例えば、小学校の社会科教科書の日本関連では、

「百済の文化を日本に伝えてあげた王仁
「(三国時代)わが先祖は発達したわが文化をとなりの日本にも教えてあげた」
高句麗の文化を日本に伝えてあげた」
「今も日本人は、王仁を日本文化の先生として崇めている」

等と朝鮮半島から日本への文物の「授与」が執拗に記述されている一方で、日本から朝鮮半島への影響については「残虐性」や「野蛮性」が誇張されて執拗に記述されており「日本人は文化的に劣等」という認識のもとで一貫して記述されている。小学校4年生2学期、道徳副読本89ページには、「韓民族は強靭な所があります。中国歴代王朝、日本など周辺の国々がしつこく侵略を試みましたが、結局はすべて失敗してしまいました。(中略)例えば韓半島に韓民族ではなく日本や他の民族がいたらすぐに亡びたはずです」と、ここでは「日本人が半島に住んでいたら滅んでいた」とまで明記されている。

また、高校の歴史教科書では、

「倭族は大概東北アジア系統の族属と南洋族そしてアイヌ族の雑種」
「優秀な朝鮮民族と劣等な日本民族」
「東アジアの文化的後進国であった日本」
「朝鮮半島の先進文化を未開な日本に教えてあげた」
「近代化以前の日本の文化はすべて偉大な先進文化を持つ朝鮮半島から由来したもの」
「野卑な日本はいつも朝鮮半島を侵略して財物を奪っていった」

と示唆するような記述で一貫されていて「東アジアで文化的に劣等だった日本」とまで明記されている。

ただし実際は王仁は日本ではほとんど知られておらず、儒教と漢字を伝えたとされるが、当時の朝鮮半島の「文化」を伝えたとは書かれていない。また、王仁は日本側の資料にのみに登場する人物であるが、韓国は『古事記』の「応神天皇の命令を受け百済が献上した人物」と言う記述や『日本書紀』等の日本の大国ぶりが伺える記述については「捏造」と激しく否定しており、資料の都合の良い部分だけ採用し(王仁に関する記述や、高野新笠が武寧王の子孫であると言う記述など)それ以外は無視するという「つまみ食い(チェリー・ピッキング)」をし、二重基準を見せている。なお、実際の王仁は高句麗に滅ぼされた楽浪郡漢人系の学者であるか、帰化した複数の帰化人学者が一人の存在にまとめられたのではないかと言われている。また、韓国の公教育で教えられている「先進的な朝鮮と未開な日本」という論説は、朝鮮通信使が書き残した日東壮遊歌での記述や、当時の日本の経済や社会や文化の有様から見ても決して史実とはいえない。

また、韓国の歴史教科書では檀君神話を史実として掲載し、「朝鮮半島の歴史は中国の歴史よりも長く、世界最古のひとつ」と教えて民族主義を扇動している面もある。この点について、日韓歴史共同研究委員会の日本側メンバーである井上直樹は、「韓国の教科書が朝鮮民族の始祖とされる檀君の神話をそのまま認めるような記述をしているのは、資料考証に基づく結論なのか疑問」と指摘している。

京仁教育大学校の朴チョルヒ教授は、「小学校教科書には民族文化の優秀性を強調するために他民族を貶す記述も多く、特に、日本人は文化的に我々よりも劣等だと一貫して記述されている」と批判し、小学校4年生2学期の道徳副読本66~67ページには、記者と外国人がキムチの味について話し合う場面があり、キムチの味を問う記者の質問に外国人は「はい、よく食べます。韓国のキムチはとてもおいしいです。日本のキムチは比較にもならないですね」と記述され、韓国のキムチの優秀性を紹介する為に、日本のキムチを見下すことは、他文化を無視すると同時に他文化に対する偏見を助長しやすいと批判している。また、教科書は、「先進的な韓国が未開な日本に文明を授けてあげた」という歴史観を強調するが、朝鮮が中国から受けた影響は殆ど触れられていない。たとえば、高麗時代前時期にかけて異民族が帰化した数字は23万8000人余りに達する。帰化した漢族は国際情勢に明るく、文芸にたけていて官僚にたくさん進出した。帰化した渤海人契丹との戦争に参加して大きい功績を立てた。崔茂宣に火薬製造技術を伝えた人物の李元も中国、江南地方出身帰化人である。帰化した女真族は北方情勢を情報提供したり城を築いたり、軍功をたてて高位官職になった者もいる。李氏朝鮮を建国した李成桂は東北面出身でこの地域の女真族を自身の支持基盤とした。開国功臣だった李之蘭はこの地域出身の女真族指導者として同北方面の女真族と朝鮮の関係を篤実にするのに重要な役割を担当した。李氏朝鮮時代、同北方面の領域で領土拡張が可能だったことは女真族包容政策に力づけられたことが大きい。朴チョルヒ教授は、韓国の社会教科書が過度に民族中心的に叙述され、これら帰化人の存在と文化的影響に対し教科書は沈黙していると批判している。また、小学校6年生1学期の社会教科書の「一つに団結した同胞」の部分「私たちの同胞は最初の国・古朝鮮を建てて、高句麗、百済新羅に続いて統一新羅へと発展して来た」との記述に、朴チョルヒ教授は、「教科書では、『古朝鮮が立てられる前の私たちの先祖の生活がどのようだったのか調べててみよう』と記し、旧石器、新石器、青銅器時代を説明し、まるで旧石器時代から古朝鮮に至るまで同じ血統の民族がこの地域に暮して来たかのように記述されている」と批判している。

韓国起源説を補完する説の存在[編集]

文化抹殺説[編集]

韓国起源説や「日本人の野蛮性」という認識を補完する主張として、「日本による韓国文化の抹殺・略奪説」がある。日韓併合時代や文禄・慶長の役の際、日本が朝鮮半島の文化・文化財をことごとく抹殺・略奪したというもので、「現代の朝鮮半島に存在しない文化も、日本に抹殺・略奪される前には存在したはずだ」との前提で、多くの韓国起源説が主張されている(例:折り紙)。

剣道柔道のように、日韓併合時代に日本が韓国に伝えた文化(日帝残滓)についても、「韓国に本来あったはずの伝統様式こそが日本様式の起源であったが、日帝によって抹殺され日本風に強制的に改変された」と主張し、呼称・服装・作法などを韓国風に改変し韓国起源説を主張する場合がある。

弓道のように韓国起源を主張していない文化についても、「韓国のものは日韓併合時代に日帝に抹殺されたが、本来は伝統的な様式があった」と主張し、自己文化の伝統・正当性の根拠とする場合もある。

韓国起源説の信奉者は「日本が朝鮮半島に存在した~の文化を抹殺した」という物証がない事すら、「それこそ日本による文化抹殺が周到に行われ、巧妙に隠蔽された証拠だ」という陰謀論を展開することが多い。つまり、「証拠がないことこそ証拠である」という論理で、文化抹殺説に反論する事は悪魔の証明となってしまうことが多い。

逆・韓国起源説[編集]

「先進的で文化的で優秀な朝鮮と、未開で野蛮で劣等な日本」という認識は、「高名な日本文化は、朝鮮半島起源」という韓国起源説とともに、韓国国内で見られる好ましくない文化は日本統治時代の朝鮮に導入された劣位文化(倭色)であるとする考えが浸透している。

例えば、韓国の警察関係者・大学教授が、「いじめ・集団強姦・援助交際などが韓国で流行るのは日本文化の影響、韓国人の精神が強奪されている」と主張したり、花札製造会社等が、「花札には日本の帝国主義者らが意図する民族精神の抹殺と皇民化の政策が染み込んでいる」などと主張している。

民族性・その他[編集]

韓国起源説の土壌として、韓国の民族性が挙げられることが多い(ただし、「民族性」概念は、社会事象の説明要因としては、「人種」等と同じく、定義の曖昧さ・理論の弱さ・統計的証拠の乏しさ等の理由から、近年の社会科学で使われることは少ない概念である点に注意が必要である)。

  • 元祖に執着する民族性。ソウルは「元祖」を主張する店の看板にあふれているという。
  • 正統性や系譜を極端に重視する儒教的影響。家系図にみられるように儒教的影響から、韓国社会は初代や元祖を重視する傾向がある。その結果、これらを名乗る事によるメリットも大きい。
  • 朝鮮民族特有の遺伝子疾患である火病に起因する詐称がある。現実を事実として許容できない場合、論理的でない方法(嘘等)を用いてでも、自らや他人を納得させようとする回避・強迫的行為。
  • 偽証が氾濫する社会。裁判における偽証は日本の671倍に及ぶ。
  • 民族主義。韓国の新聞には、「韓国の優秀性」に類する言葉が頻繁に出てくる。この「優秀な韓国文化」という意識があるため、他文化を認めず、「韓国=世界一」という歴史観が広く共有されている。
  • 反日思想。韓国を肯定するための方便として、日本を否定する言説が受け入れられやすい傾向にある。
  • 日鮮同祖論の遺産。日鮮同祖論が日本による韓国併合を正当化する理論として否定された後も、日本文化の起源が韓国にあるとする論理は韓国文化の優位性を示すものとして引用されている。
  • 近年の風潮では、韓国起源を主張することは愛国者であり反論するものは親日派だとして叩かれる事例も存在する。
  • 国際的知名度、認知度の低さ。日本や中国などに比べて韓国は国際的に知名度や認知度が低く、国家ブランドが弱い。その為、誇張した広報や、過度の主張を行って認知を上げようとする民族主義的な背景が生まれている。
  • 韓国起源であると発表した後、続々と証拠が現れるが、そのどれもが歴史的にありえない物や、証拠にならない者が多い。[1]

韓国起源説の実例[編集]

ここで取り上げる事例は次の基準による。

  • 「著名人が主張した説」または「メディアが報道した説」以上を対象とする。
  • 韓国国内外における、説の認知度・浸透度は問題としない。


日本の事物[編集]

武芸・武術[編集]

事例 主張 事実
剣道
剣術

武士道
恐らく最も有名な例が、韓国人が主張する、剣道、剣術、侍、武士道の韓国起源説であり、特に剣道韓国起源説は韓国起源説が日本のネット上で注目されるきっかけとなった。

剣道は日韓併合時代に日本から韓国に伝わった日本文化であり、韓国ではテコンドーと並ぶ人気武道である。日本の剣道との差は蹲踞(そんきょ)がないことやの色や形程度であるが、韓国最大の剣道団体である『大韓剣道會(Korean Kumdo Association)』や『世界剣道協会(World Kumdo Association)』が公式ホームページ等で、剣道の起源が韓国にあると主張しており、『国際剣道連盟(International Kendo Federation)』に参加していながらも、その正式名称は『剣道』ではなく剣道の朝鮮語音の『コムド(kumdo)』であると主張し、剣道の真の宗主国として当然であると主張している。『大韓剣道会』の広報理事の崔民秀は「『剣道は日本のもの』という誤った認識を正す」と述べている。また、『大韓剣道會』のソ・ビョンユン専務理事は「日本文化の多くが百済から流入し、刀も百済から日本に伝わったと日本人が話しているので、剣法も当然そのようなルートを通じた。刀の代表的なものが日本の神社に奉献されている七支刀で、百済王が日本国の君主に権威の象徴として下賜したというのが定説だ。日本王が『桓武天皇の生母が、百済の武寧王の子孫』だと表明したが、当時強大だった百済から武寧王の子孫の女性を送る際に、護衛の武士を同行させたのだろう。刀と武士が移動すれば、当然剣術も移動することになる」と剣道韓国起源説の根拠を述べている。また、「バレーボールゴルフ野球レスリング卓球などの種目がどの国のものなのかと、熱を上げながら宗主国ばかりを突き詰めていたら、周囲からは当然変に思われるでしょう」と、日本側の剣道の起源主張をけん制している。

また、韓国系移民が中心となり、米国を始めとした世界各国で『コムド』道場を開き、古代から伝わる韓国の武道として積極的に広報活動をしている。これらの道場では、日本の袴や日本刀を用いて、日本の剣術やそれを改変したものを「韓国古来の武術」(korean martial arts)として『コムド』と同時に教えている場合もあり、『剣道』と『コムド』の「他流試合」が行われることもある。

一方、『大韓剣道會』と対立する『世界海東コムド連盟(World Haidong Gumdo Federation)』や『統合世界海東コムド連盟(United World Haedong Kumdo Federation)』は、『海東コムド(Haidong Gumdo)』が剣道の起源であると主張している。彼らは、侍や武士道の起源は高句麗の「士武郎(サムラン)」にあると主張しているが、韓国内で裁判が行われた結果、士武郎起源説は捏造であったことが発覚している。このように本国では捏造扱いされている海東コムドだが、韓流ファンのフランスの若者が組織し、駐仏韓国文化院と韓国観光公社パリ支社と農水産物流通公社が後援して韓国文化を国際的に紹介する組織「Korean Connection」が、パリで開催した「Korean Connection 2011」で、韓国起源の古代武術として海東コムドの演舞を行っている。

また在米韓国系移民たちを中心とした別のグループが、「新羅の『花郎(ファラン・Hwarang)』は1800年前から存在した古代韓国の戦士であり、この戦士が使った武術を『花郎道・ファランド・Hwa Rang Do』である」と主張して、道場を開いて、日本の伝統武術を改変したものを「古来韓国武術」として教えている。彼らは「すべての日本の武術の起源は朝鮮半島にある」と主張をし、その主張に沿った武術の系譜を公開している。

2001年に日韓合作で、侍の起源を百済に求める映画『サウラビ』(朝鮮語で「ssaul-abi(戦う男)」を意味する)が製作され、韓国で公開された。朝鮮日報は映画『サウラビ』を「三国時代、百済人が日本を開拓して文物伝播した歴史的事実を土台に、サウラビの魂が日本の侍精神に発展したという前提が込められている」と、侍の韓国起源説を歴史的事実として紹介した。また、本作の制作発表会においてムン・ジョングム監督は「韓民族の魂と精神を再照明し、韓国人が忘れていた民族の優越性と民族意識を覚醒させることに焦点を合わせる」と発言をし、「侍」という日本文化を剽窃するばかりでなく、韓国文化の優越性にまで言及した。なお、日本ではそのあまりにでたらめな歴史描写のためにDVD化されたのみで劇場公開はされなかった。2009年6月17日には毎日新聞 (韓国)慶一大学総長の李南教(イ・ナムギョ)が、「侍の起源は、二言なく韓国のサウラビ(戦う親父)である」と主張した。

また、『釜山日報』のチョン・タルシク記者 は、「若光(高麗若光)は高句麗の最後の王だった宝蔵王の息子だ。彼は666年、日本に渡る。日本の埼玉県に定着した若光は高句麗滅亡の知らせを聞いて716年、日本武蔵国周辺一帯に散って生きた1千799人の高句麗遊民らを集めて高麗郡を建設する。1千799人の高句麗人らは細工、織物、鉄製など技術に長けた人々だった。彼らは鉄製農機具を導入、農作物収穫を極大化させた。高句麗人らは鉄器導入だけでなく、日本人たちに紙の製造技術まで伝播した。彼らは日本の関東地方を中心に武士集団も形成する。これが日本武士集団の始めだと言う。武士集団が形成された背景には高句麗人の鉄製技術と馬があった」と主張。

剣道の韓国起源論に対して竹嶋渉は「これは風が吹けば桶屋が儲かるの上を行く拡大解釈であるとしか言いようがない。言ってみればこれは日本の自衛隊の起源は種子島鉄砲を伝えたポルトガル人だと言っているようなものである」「大した根拠もなく『剣道の宗主国は韓国』などと放言しているソ・ビョンユン氏の姿勢も、われわれから見ると当然変なのである」と批判している(日本刀についての歴史は当該項目参照)。そして、ソ・ビョンユンは自説の中で『当時強大だった百済から武寧王の子孫の女性を送る際~』と述べているが百済は346年から660年まで存在した国家であり、光仁天皇が生まれた709年にはすでに滅びている。また、高野新笠は光仁天皇側妾になるためにわざわざ朝鮮半島から渡来したわけではなく日本に帰化してから200年近くたっている帰化氏族出身の人物であり、『百済から護衛の武士が同行したはずだ』と言う主張は現実的にありえない。その上、当事の百済に刀や武士が存在していたと言う事自体が立証されていないため、論点先取誤謬になってしまっている。高野新笠の祖先とされている人物は武寧王の子である純陁(淳陀)太子だが日本書紀には『日本で亡くなった』と言う記述はあるものの淳陀太子が何時どうやって日本に渡来したかは明らかになっていない。日本書紀などの記述によれば武寧王は若い頃日本に滞在していた事になっているため、淳陀はその時期日本で生まれてそのまま滞在し続け(人質として日本に残された、とする説もある)同地で亡くなったと言う説が有力視されている。ソ・ビョンユンの主張する「七支刀は百済王が日本国の君主に権威の象徴として下賜した」と言う説も実際は定説とは言えず、一般的には「高句麗の圧迫を受けていた百済が倭との同盟のために贈った」とされている。

侍というのは、律令制が崩壊した10世紀以降に、新式の武芸を身につけて領地経営者や軍事専門家として活躍し始めた軍事貴族下級役人等が発祥であり、12世紀以降に幕府という軍事政権を開いて封建制により日本を支配した戦士階級の「武士」のことであり、日本語の動詞「サブラフ」が語源である。一方、朝鮮半島には封建制は存在せず、律令官制の中で訓練を受けた常勤の役人の「武官」や「武人」はいても、侍のような「武士」は存在せず、侍は明確に日本社会でのみ発生したものである。「武術」は、この封建時代の侍の存在から誕生したものであり、剣道などの「武道」は近代になってから「武術」を心身教育のために一般化したものである。日本の武術や武道の発祥についてはほとんど記録が残っている一方で、侍や武術の韓国起源説の根拠となる歴史資料は一切存在せず、花郎が軍事組織だったという説も完全に否定されている。また現代の韓国の武道家が使用する衣服や刀や作法も、すべて日韓併合以降に日本の武道を模倣したものである。

そして、武士道に関しても古代朝鮮(百済、新羅、高句麗など)で完成された思想がそのまま日本に持ち込まれたとする説が多いが、今知られている「武士道」と言うものは武士や侍に比べると比較的新しい思想であり、それが侍の行動規範として一般化したのは太平の世になった江戸時代からである。日本における武士階層は武士道(韓国起源説を容れるのであれば「花郎道」等)と言う思想があったから生まれたものではなく、武士と言う階層が存在してその後に武士道が出来上がったのである。これは西洋における騎士道でも全く同じであり、騎士道があったから騎士が現れたわけではなく既に存在する騎士の行動を律するために騎士道が生み出されたのだがイ・ナムギョらの起源説では順序が逆になってしまっている。

高麗若光に関しては高句麗王家所縁の人物だとは推測されてはいるものの正確な出自は不明であり、チョン・タルシクの言うように実際に宝蔵王の息子だったと言う証拠は存在しない。また高句麗の遺民を集めて設立された高麗郡の大領に任命されたのは史実だが、朝廷から任ぜられたものであり記事のように高麗若光が勝手に「建設した」わけではない。鉄器に関しては日本ではすでに5世紀頃から製鉄が行われており(鉄利用の歴史参照)、製紙に関しても610年にすでに伝来していたと考えられており(和紙の歴史参照)『正倉院文書』によれば、737年には、美作、出雲、播磨、美濃、越などで紙漉が始まったとされているため、どちらも高麗若光(及びに高句麗遺民達が)が日本に持ち込み、武蔵国から広げた技術であるとは考えにくい。そして、日本における侍・武士団は上記のように律令制が崩壊した10世紀ごろから登場し始めた新たな階層であり、この高句麗遺民達が武士集団の祖となったと言う説も信憑性が薄い。

切腹 朝鮮日報が、映画『サウラビ』の紹介記事で『百済のサウラビ達の衝撃的な割腹と断頭意識は、後日の侍の割腹とも深い関連があることを示唆する。 (略) 日本側の関係者がこうした歴史的事実に驚き、今後の文化交流の尖兵になるであろうと自認した点も興味深い。』と主張。 百済において割腹・切腹の風習が存在したとする資料は存在せず、そして、朝鮮半島から日本に持ち込まれたと言う説を事を肯定する資料も存在しない。歴史上初めて「切腹」を行ったとされる人物は源為朝1139年1170年)だと言われており、しかも今知られているような「誉ある死に方」として認識されるようになったのはそれから400年近く後の安土桃山時代の末期頃からである。それ以前にも永延2年に盗賊の藤原保輔(生年不詳–988年)が自分の腹を切り裂き自殺した、と言う記録はあるがこれを切腹と見るか否かは見解が分かれている。

そして、映画の中で見られるような殉死(追腹)は華々しく戦死を遂げる機会が減り儒教が広がった江戸時代になってから「忠臣の証である」と持て囃されるようになったものであり、1663年寛文3年)に幕府が殉死を禁止するまでかなりの盛り上がりを見せたが当初から一般的だったものではない。

日本刀 韓国系移民が運営する世界各地の武術道場などで韓国古来の剣として使用している。また、刀剣職人のホン・ソッキョンらが、「日本刀はまさにこの技術を我が国から盗み出して伝承している」「我が国の刀剣技術は三国時代と朝鮮時代、日帝時代を経ながら、刀剣職人がほとんど日本に連行されてしまった」「元々、我が国の伝統刀剣製作技術は世界的なものであり、刀剣技術者を無差別に捕えて連れ行ったことはよく知られた事実だ」、「日本には我が国が使った正統技術がそのまま伝授されていて、今でも良い刀がたくさん出てきています」などと主張。「韓国刀の原型を取り戻すために日本に学びにいく」とまで主張している。 韓国で伝統的に使われた剣は、鉄鉱石から鋳造で作った、両刃の直剣か「環刀」と呼ばれる片刃の直刀で、製造方法や形状が日本刀とは違う。韓国で大々的に日本刀のような形をした刀が使われるようになったのは、17世紀以降のことであり、当初は日本刀を輸入して模倣したものを「倭刀」と呼んでいた。それ以降朝鮮半島で作られた刀もやはり日本刀とは製造方法が違う。

豊臣秀吉による朝鮮出兵時(文禄・慶長の役)に多数の陶工が日本に連行された記録はあるが、「朝鮮人刀工の無差別連行」を行った記録は時代を問わず存在しない。また、「日本刀」と呼称される物が作成されるようになったのは武家の活動が活発になった平安時代後期(1051年以降)である。仮にホン・ソッキョンが主張するように刀工が連行されていたとしても、平安時代後期より後の時代のことであれば、その刀工は日本刀の起源には関わっていない。

現在世界中で知られている「日本刀」は、砂鉄からたたら吹きにより取り出した玉鋼鍛造して作った、緩い湾曲の形状を持つものであり、10世紀の平安時代後期に「太刀」として出現したものである。なお刀工の各流派が出現し始めたのもこの頃である。そして、現在の剣術家が使用する刃を上に向けて納刀する「打刀」の形式は15世紀の室町時代後期になって普及し始めた。日本刀の持つ美的価値や武器としての価値は、11世紀の北宋の詩人の欧陽脩による『日本刀歌』でも歌われている。室町時代(1338年-1573年)に日本刀は中国に輸出もされている。

居合道
抜刀術
韓国古代の武術コハプト(Guhapdo)として世界各地で道場を開いて広報活動をしている。正統武芸道場 正気館のイム・ヒョンス(林鉉洙)が「我々はいままで多くの物を日本に奪われました。今は我々の物を取り戻すべき時だと思います。居合道も高麗時代日本に渡っていった我々の剣術に過ぎません 我が国には新羅時代の花郎徒以前にも居合道という武術がありました。日本が国宝にしている七支刀も実際は百済の刀です。」と主張している。 居合(抜刀術)は室町時代に本格的に体系化されたものであり、居合道は明治時代末期になってから「武術」を「武道」化したものである。七支刀は儀礼用のものであり剣術とは関係がない。また、イム・ヒョンスは何か誤解しているようだが日本側は別に七支刀が百済由来のものであると言うことを否定しておらず、むしろ百済由来だからこそ国宝に指定されている。
柔道 剣道と同じように日韓併合時代に日本から韓国に伝わった日本文化であるが、Yudo(「ユド」と発音。柔道の朝鮮語音)の名で海外で普及活動が行われており、全米ユド協会(United States Yudo Association)はその公式ホームページにおいて、柔道の起源を朝鮮半島にあるとし、「柔道は豊臣秀吉朝鮮出兵で日本に伝わりその後朝鮮半島では柔道は廃れ、20世紀になって日本から再輸入された」と主張している。また、韓国の釜山で開催された2002年アジア競技大会では、韓国人で構成される大会組織委員会が、公式サイトに韓・日・中・英の4ヶ国語で「柔道の起源は中国の春秋時代に生まれた柔術で、これが韓国に伝わり、豊臣秀吉の朝鮮出兵で日本に伝わった」と記述し、全日本柔道連盟が抗議し記述を削除させる事態が発生している。さらにアテネオリンピックの柔道73キロ級金メダリストである李元熹(イ・ウォンヒ)選手は韓国の京郷新聞のインタビューに答えて、「日本が柔道宗主国だと言いますが、本当は我が国の柔術(ユスル)を日本で細分化させてスポーツにしたんです。」と発言をし、韓国人有名柔道選手までもが韓国起源説を支持している。 日本の体術の伝統は、文献によれば『宮中行事秘事』に伝えられる聖武天皇の神亀3年(726年)に行われたとされる相撲節会に遡ることができ、組討や、人を捕らえるための捕手などと呼ばれた武技がすでに行われていたことが確認できる。柔術と確認できる最古の源流としては天文元年(1532年)に竹内久盛が開眼し、子竹内久勝が広めた竹内流武術がある。江戸期には多くの流派が存在しており、明治期に嘉納治五郎が合理的な近代体術として整理体系化し、人間修養の精神を取り入れ「柔道」と呼称したものである。民俗学は史料や文献を非常に慎重に検証したうえで合理的に説明できる範囲で記述すべきところであるが、「YUDO」韓国起源説は史料や文献の提示がなく、憶測を基礎として結論を断定しているものであり、そもそも検証することができない。柔道韓国起源説に対して全柔連教育普及委員長、講道館資料館部長は否定コメントを出している。
合気道
大東流合気柔術
新羅三郎
正統武芸道場 正気館が「合気道は日本に移民した新羅人であるウォン・ウイグァン、別名新羅三郎(源義光)が興した大東流柔術が始まり」と主張している。また、世界ハプキドー協会は「現代合気道(ハプキドー)のような武道技術はAD372年の高句麗への仏教の伝来と共に古代朝鮮に伝えられた。その証拠はその時期の古代壁画及び洞窟絵画、彫刻から見出すことができる」と主張し(韓国起源説では、古代壁画を持ち出して起源主張するものが多い)、これらの朝鮮武道で文禄・慶長の役の時に日本兵を撃退したと主張している。さらに、もともと朝鮮半島にあった合気道は日本の植民地統治時代に抹殺された等と主張している。また、米国などでがHwa Rang Do道場を運営している韓国系移民が、「日本へ移民した新羅人である新羅三郎(源義光)が創めた大東流柔術は、その末裔である武田惣角まで伝えられ、彼が日韓併合時代に崔龍述(チェ・ヨンス)に伝授したことにより、大東流柔術が復活をし、ファランド(Hwa Rang Do)等と混じってハプキドーに発展した。つまり合気道とハプキドーは兄弟の関係である。」と主張している。さらに、「合気道」という名称は崔またはその弟子の池漢載が創案したと主張している。また、韓国の『毎日新聞 (韓国)』1991年9月3日で、「日本の早稲田大学のトミキ(富木謙沼)教授は『合気道は、新羅のサムラン ウォンウイグァン(三郎源義光)をその始祖にして、幕府のミナモト家(源家)に伝えた後、続いてタケダ家(武田家)に残り、7代を過ぎたタケダ・ソウガク(武田惣角)に伝わった』と記録している」とし、合気道は、「日本に伝わって発展…『日本武芸』は誤った認識」「韓国から伝承された伝統合気道の新しい脈を下ろしたわけだ」と報じた。また、駐仏韓国文化院と韓国観光公社パリ支社と農水産物流通公社が後援して韓国文化を国際的に紹介する組織「Korean Connection」が、パリで開催した「Korean Connection 2011」で、韓国起源の古代武術としてハプキドーの演舞を行っている。 始祖とされている源義光は11世紀の日本の武士で、4世紀から7世紀に存在した新羅の人物ではない。新羅神社で元服したから「新羅三郎」を名乗ったのであって「ウォン・ウイグァン」は源義光の朝鮮読みであり、大東流合気柔術は明確に日本で発祥したものである。また、「合気道」の語源は、大東流の教授代理で合気道の創始者である植芝盛平出口王仁三郎の命名により1922年頃から自らの武術を「合気武道」と呼称し内外に教授し始めたのが始まりである。さらに、「合気道」は1942年に財団法人大日本武徳会が使い始めたものであり、植芝が「合気道」を使い始めたのは1948年である。また、富木教授は合気道韓国起源説を主張しているわけではない。この記者が「新羅三郎源義光」という日本人名の「新羅」と「三郎」の間に勝手に「の」を挿入して「新羅のサムラン」とし、源義光を韓国人名のごとく「ウォンウイグァン」と訳したのである。

ハプキドーは、戦前に日本で大東流を修行をしていた朝鮮人の崔龍述(チェ・ヨンス)が、戦後に大東流を朝鮮古来の武術であると主張して指導を開始したのが始まりであり、崔の弟子が大東流を韓国人の気質に合わせて改変して現在のハプキドーの形にさせたものである。これを裏付ける事実として、大東流関係者に対する各種インタビューなどで戦前の大東流の修行者に複数の朝鮮人青年がいたことが明らかにされている。

の精神 大韓柔道有段者会のヨ・サンファン会長が「柔道の発祥地は日本だが、『道』の精神は韓国から渡ったもの」と主張している。

そして、 韓国の全国弓道連合会はホームページに、「道という言葉は日本文化のほとんど全ての部分で使われている。これは外国の文物を受け入れる彼らの独特のやり方であるが、中国から我が国を経て日本に入っていった全ての文化には道という名前がくっ付く。書道茶道剣道のような言葉が全てそのようなのものである。我々が書芸、茶礼、剣術など、生活の必要によって名付けたものを日本人たちは精神、すなわち道の次元で受け入れたのだ」「日本は古代から最近に至るまで、朝鮮から全ての文化を学んでいった。日本という小さな島国には、朝鮮以外に知的欲求を満たすに値する国が周辺になかったのだ。壬辰倭乱時、彼らが略奪していった数多くの文化財がそれを証明している。彼らは朝鮮の物ならば何でもいそいそと持っていった。このように日本人たちは倭という蔑視を受けながらも、朝鮮を限りなく羨ましがっていた。朝鮮の学者たちが話していた哲学や思想を、彼らがどれほど羨ましく思っていたであろうかは、察するに難くない。だから、朝鮮の学者たちが口にしていた道という言葉がどれほど欲しかっただろうか? 欲しければ借りて使わなければならない。しかし、彼らにはそんな能力がない上に、社会的雰囲気がそれを許さない。それで、道という言葉の真の意味を理解する能力がなかった彼らは、その言葉を力の世界である刀に結び付けることで満足してしまう」と掲載している。

日本の「道」とは「芸道」のことであり、中国の「」(タオ)の哲学とは別物である。日本の「道」の精神とは、実演者の日常生活における立ち居振る舞いと、専門的な技術的修練を同一とみなし、双方の向上により、実演者の人格と技芸を相乗効果的に高めることを目指したものであり、日本独自に発展体系化したものである。日本の「道」の精神は、中世期の秘伝説と伝授思想の確立と、師系を重んじるの発想に影響を受けているともいわれている。剣道、柔道、合気道、茶道、華道、香道、書道のほか、「道」の文字の付かない能楽、歌舞伎、人形浄瑠璃、邦楽でも同じ観念が見られる。

ヨ・サンファンは日本の朝鮮出兵が朝鮮の文化を奪うためのものだったと主張しているが、実際は「唐入り」の名前が示すように最終目的地は中国(当事の)であり、別に「知的欲求を満たすため」や「朝鮮を限りなく羨ましがっていたから」朝鮮に攻め込んだわけではない。この起源説に限らないが、ヨ・サンファンの主張は中国の存在や影響を矮小化しており、朝鮮半島の役割を過大に評価している。

空手 韓国では、テコンドーの起源は三国時代以前から始まるテッキョンであると公式に認定されており、海外でも「韓国古来の武道」として普及に努めている。また、日韓併合時代にテッキョンが抹殺されたが、韓国がテコンドーとして復活させたとまで主張している。さらに韓国の一部には空手の起源をテッキョンに求める言説すらあり、韓国の釜山で開催された2002年アジア競技大会では、韓国人で構成される大会組織委員会が、公式サイトに韓・日・中・英の4ヶ国語で「空手の起源はインドの時代に中国と韓国に伝わり、その後韓国が日本に伝えた」と記述し日本側が抗議するという事態が発生した。日本側の抗議に対し同時に記述された「柔道韓国起源説」は削除されたが「空手韓国起源説」は結局削除されることはなかった。 空手は琉球から日本本土に伝わったもので、テコンドーは戦後に空手を参考にして新たに作られたものである。また、韓国が国技院副院長が明らかにしたところによると、「テコンドーの起源を三国時代以前とすることが一般的だが、 歴史的想像力を動員してもそれには無理がある。中国から日本へ入り、日本が改良して韓国へ入ってきた。テコンドーは空手の変形である。私も創始期にはテコンドーの起源をテッキョンとして本を執筆したことがあるが、海外に普及させる過程で昔からあった韓国の伝統武術だとすれば名分が立つからである。」と告白している。 更にこの記事では「空手から派生したテコンドーだが、蹴りを主眼に置いて競技化したことで、型や手動作に重きを置いた空手の陰から脱した」とも述べている。テコンドーの国際団体の一つである国際テコンドー連盟によると、テコンドーの由来は、崔泓熙によりテッキョン日本松涛館空手道の要素を取り入れ、1955年4月11日にテコンドーと正式に命名したものであるとしている。
相撲 中央日報が、日韓文化交流を紹介する中で、韓国シルム連盟関係幹部の「日本相撲協会は相撲の本流である韓国シルムへの待遇がなっていない」との心境を紹介し、相撲の起源をシルムとして紹介した。 日本における相撲の起源は古墳時代埴輪まで遡る事ができ、シルムの方も高句麗時代に描かれた壁画や後漢書にシルムに関する絵・記述がある事が確認できるためどちらかが起源と言うような関連性はなく、別々に似たような競技が発生しただけなのではないかと思われる。少なくとも日本の相撲の起源が間違いなく韓国のシルムだとするような資料は、現時点では存在しない。
忍者
忍術
伊賀流
服部氏
ツツジ
韓流ファンのフランスの若者が組織し、駐仏韓国文化院と韓国観光公社パリ支社と農水産物流通公社が後援して韓国文化を国際的に紹介する「Korean Connection 2011」が、「忍術は4世紀に朝鮮半島から日本に導入された韓国起源の武術」「多くのコリアンが忍者の里の甲賀や伊賀に移住した」と主張し、忍術をパリで公演している。

また、韓国系移民がイタリアで運営する「スルサ道場」が、新羅軍の「花郎」の中にある特殊部隊「スルサ」が忍者の起源であると主張している。この中で「幾人かのスルサ戦士が日本に亡命し、日本の忍者の理論にアイデアを提供した」「スルサドーを含むすべての韓国マーシャルアーツに見られる瞑想テクニックは、日本の忍術の秘技のなかに残っている。」「日本のマーシャルアーツは太平洋戦争でいち早く有名になっただけ」と主張している。また、ファッション評論家の金硝子が、人気アニメ『美少女戦士セーラームーン』の話題の中で、日本の創作話の中に「変身」が多く登場することに言及し、日本人が頻繁に「変身」を創作話の中でモチーフにするのは、11世紀から18世紀にかけて日本で盛んであった忍術に起源があると主張し、さらにその忍術は、7世紀に高句麗を通じて日本に伝わったものであり、日韓両国で『セーラームーン』が人気があるのは、この歴史的な背景によるものであると主張している。 さらに韓国日報が、特派員の日本の知人の話を紹介する形で、伊賀忍者の指導者だった服部氏は、新羅系の秦氏の末裔であり、日本に咲くツツジも朝鮮民族が日本に持ち込んだものであり、故郷の朝鮮半島を偲んだ服部氏が江戸のツツジの名所を作ったと主張している。さらに、伊賀地方の製鉄や陶磁器や酒造や祭祀の起源も韓国にあると主張している。

また、ハリウッド映画「ニンジャ・アサシン」に主演した韓国人俳優のピ(Rain)は、インタビューにおいて、「忍者は日本の文化ですが、韓国にも忍者はいますか?」という質問に対して、「韓国にも忍者はいる」と答えたうえで、劇中の忍者は日本人とは関係なく、「国際的なアジアの孤児」であるとし、忍者が日本固有の文化ではないことを主張した。

服部氏を秦氏の末裔とする説はひとつの仮説に過ぎず(『三国地誌』と『永閑記』で否定されている)、秦氏を新羅人とする説も仮説である。また、服部氏が傭兵として各地で活躍するのは戦国時代以降、表舞台に初めて登場したのは16世紀であり、秦氏が渡来してきたと考えられている時代との時間的隔たりを考えれば、秦氏を忍者の起源とするのは無理がある。そして、ツツジの主張も根拠不明である。

そして、これらの韓国起源説は、各種メディアに登場する、派手な武術を使ったり、忍法変身したりする、空想上の「忍者」を思い描いて自説を主張しており、実在した忍者に対する基本的な認識が間違っている。実在した忍者は派手な特殊部隊戦闘員というより極めて地味な諜報員傭兵であった(実際の忍者が行ったのは「変身」ではなく「変装」)。忍術も起源説で主張されている「武術」や「マーシャルアーツ」の側面よりも諜報活動を円滑に行うための技術の集大成というべきものであり、「忍術=戦闘技術」と言う認識にも問題がある。そして「花郎軍事組織説」自体が否定されているので朝鮮半島に「スルサ」という戦闘組織が実在した信憑性も薄い。

さらに、仮に新羅が滅亡してからスルサが日本に亡命したのが事実だったとしても、新羅が滅亡した時期(935年)から、日本で忍者の原型のような存在が確認されている平安末期(11世紀後期)までにかなりのタイムラグがあり、金硝子の高句麗(668年滅亡)由来説の方はさらにタイムラグが大きく、これも信憑性が薄い。

茶道</br>千利休 朝鮮新報』は「茶においては1千年前の新羅の時代の礼法がほとんどそのまま日本に取り入れられた」と主張している。

また、茶道の祖の千利休の祖父が千阿弥と名乗ったことからその名をとって千姓と名乗っていたことから千利休を朝鮮人と主張していた。

茶を飲む習慣は遣唐使により中国から伝えられたものという説が有力であり、茶を飲む行為を哲学や教養や総合芸術にまで高めた茶道という文化は室町時代に体系化した日本起源のものであり、韓国の「茶禮(タレ)」とは全く関係がない。

日本における茶を飲む(喫茶)の習慣は渡来した当時はそれほど普及せず、一度は廃れてしまったが鎌倉時代になって禅宗が広まったのをきっかけとして復活した。茶の栽培もその時期に普及し、茶を飲むと言う習慣は一気に広まった。室町時代に入ると為政者層の間では単に茶を飲むだけではなく茶の産地を当てる闘茶が流行ったり、唐物(中国由来)の茶器を珍重する風潮が生まれた。しかしそれと時を同じくして博打や華美を否定し、茶を通じての精神的交流の重要性を説く村田珠光(1422年または1423年~1502年)のような人物も登場する。村田珠光はわび茶の創始者だと考えられており、彼の主張する茶会の作法はその後安土桃山時代に完成されている。

現代も続く日本の茶道は当初から完成されていたものではなく時代を通じて変化し、洗練され今に至ったものなのだが、「新羅の礼法がそのまま取り入れた」と言う主張はそのプロセスを完全に無視している。また、その「新羅の礼法」が如何なるもので本当に実在したものかどうかも明らかではない。

千利休の祖父の千阿弥の阿弥号の出自はそもそも朝鮮半島とは無関係である。

華道 ヤフーコリアが「生け花」の項目で、朝鮮半島には土着文化の一形式として原始的生け花が存在し、仏教伝来と同時に生け花の一様式が百済に伝来し、それが日本に伝わり、その後朝鮮半島独自の生け花は日帝(日本による朝鮮半島支配)により抹殺されたと主張している。 花を愛でる行為は有史以前からある人類共有の行為であるが、生け花は室町時代に日本で本格的に体系化したものである。「朝鮮半島の原始的生け花」「日帝による抹殺」という主張も文献資料や考古学資料による裏づけが一切存在しなく根拠不明。韓国で約200の生け花団体を束ねる韓国生花協会の理事長は、日本統治下の女学校時代に毎週行われていた生け花の授業が、この道のプロになるきっかけをつくったという。自身のプロになるきっかけをつくり、韓国で生け花文化が一般大衆に普及していったのは1950年代末からであり、70年代までは日本の影響を受け、80年代以降は欧米の作風を取り入れるようになった、と韓国生け花の経緯を説明している。
盆栽 中央日報』が、2009年6月17日版において、イ・ギョンヒ記者が盆栽は日本で生まれたものではなく、14世紀に朝鮮半島にて生まれたもので、その証拠として『四季盆景図 4幅屏風』なる絵画を元に起源を主張している。 実際の盆栽の起源は6世紀に中国で生まれ、遣唐使によって盆景として持ち帰られたものが、平安末期からの武士文化の中で磨かれ、日本独自に発展したものである。『四季盆景図 4幅屏風』は14世紀に朝鮮に盆栽のようなものが存在したと言う証拠にはなりえるものの、何故それが即「日本の盆栽の起源」になるのかは根拠不明。記事内でも説明はない。
和歌 韓国で唯一の和歌詩人の孫戸妍が「和歌は新羅(シルラ)の郷歌が起源」と主張している。 主張を裏付ける文献資料も存在せず根拠不明。
演歌 演歌の起源が韓国のトロットであるという起源説がある。韓国のケーブルテレビのinetTVが2012年1月3日に放送した『韓国人の音楽 トロット』で、NPO法人日本艶歌歌謡協会理事長(演歌ではない)の高樹一郎のインタビューによるものとして、「古賀政男は韓国人で、演歌の起源はトロットである」と報じた。 古賀政男は福岡県生まれの日本人である事は間違いなく、7歳の時に日本統治時代の朝鮮に渡って少年時代の一時期をおくっただけである。なお日本艶歌歌謡協会は1997年に設立された組織であり日韓友好を大々的に掲げている。また、李奉来(元芸術文化団体総連合会会長)によると『演歌の起源を韓国とするのは、韓国人歌手の李成愛を日本で売り出す時、日本のレコード会社が考え付いたキャッチフレーズ』であるという。
折り紙 一部の在米韓国人の女性グループが「折り紙はもともと韓国(朝鮮)で作り出されたもので、日韓統治時代に日本人が自分たちの文化と偽って世界に広めた」と主張し、現地で折り紙教室を開いている。また、社団法人韓国折り紙協会は、起源については明確に言及しないものの、「日本の植民地時代に日本は韓国の文化を全面的に抹殺し、韓国の伝統的折り紙文化も排斥した。」と主張し、日本とは別の折り紙文化が朝鮮半島に存在したと主張している。また協会では検定制度により指導師を養成し、さらに、日本の折り紙を模倣したものを「韓国の伝統的折り紙」と称して世界各地で宣伝し普及活動をしている。 朝鮮半島には儒教祭祀で使われる折った紙の造形物は存在したが、日本のような多種多様な対象物を紙で折る「遊び」の折り紙文化は存在せず、祭祀で使われる造形物の様式も日本の伝統的折り紙とは全く異なるものであり、これらの主張は事実無根である。
歌舞伎 朝鮮日報が百済技楽の復元運動を紹介する記事の中で、歌舞伎の起源を百済技楽としている。百済伎楽伝承保存会は「百済伎楽は西紀612年(百済武王13年)百済人ミマジによって日本の聖徳太子に伝えられた後、日本の舞楽、歌舞伎等の母胎となった」、「アジア仮面劇の源流は日本と思っている大部分の在欧韓人と欧州人たちに仮面劇の母胎が百済時代に起因したものだということを知らせる。」「百済文化の優秀性を知らせる」と主張し、パリロンドンで百済伎楽を披露した。味摩之を「韓流の元祖」として祭り上げる等、その活動は2012年現在も続いているようである。 確かに日本書紀には推古天皇20年(612年)に「百済人の味摩之(みまし)が日本に伎楽を伝えた」と書いてあるが、この時伝えられたのは「百済伎楽」ではなく中国南部の発祥の伎楽だとされている。日本書紀には「百済伎楽」に関する記述は無く、これが本当に実在したものなのか、また存在したとすればオリジナルの伎楽とどの程度違うものだったか等は資料的には明らかになっていない。日本に伝わった後、伎楽は国家によって保護され飛鳥時代から奈良時代にかけて寺院の法会でさかんに上演されたが、次第に衰退し鎌倉期にはほぼ上演されなくなってしまった。

百済技楽の詳細は現在も全く不明であるため、百済伎楽伝承保存会がロンドンやパリで行った公演で上演された伎楽も現代の創作仮面劇である。歌舞伎は安土桃山時代に「かぶき踊り」で一世を風靡した出雲阿国が元祖だとされており、今日も続く男性だけで演じられる「野郎歌舞伎」に落ち着いたのは慶安5年(1652年)の事である。また、最初から様式が決まっていたわけではなく江戸時代を通して洗練され変化して行った物が現在の歌舞伎であるため、現在の歌舞伎と様式が似ていると言う理由で「起源」を主張するのは難しい。また、日本の伝統芸能で仮面を多用するのは歌舞伎ではなくである(歌舞伎にも仮面を用いた演目はあるが、主流とは言えない)。能は鎌倉時代後期から室町時代初期頃に完成されたもので、これも7世紀に滅びた百済との関連性は特に見当たらない。

花札 韓流ファンのフランスの若者が組織し、駐仏韓国文化院と韓国観光公社パリ支社と農水産物流通公社が後援して韓国文化を国際的に紹介する組織「Korean Connection」が、パリで開催した「Korean Connection 2011」で、花札を「韓国ドラマに良く出てくる韓国オリジナルのカードゲーム」と紹介している。 花札の原型となるカードゲームは安土桃山時代にポルトガルの宣教師が日本にもたらしたもので、花札の図柄やルールは日本独自のものである。韓国には日本統治時代に伝わっている。
日本庭園 2009年4月20日、『忠青トゥデー』紙社説にて、忠清南道扶余の薯童公園宮南池について「新羅の雁鴨池と日本庭園文化の源流という歴史的価値にもかかわらず宮南池が正しく評価されたことがないのは残念」と記載。その根拠を「新羅の雁鴨池より一世代以上先立って庭園を造成し、古代日本の飛鳥文化を誕生させる決定的要因として作用した」としている。 5世紀前半代の奈良県巣山古墳別区の葺石や、巣山古墳や同時代の湧泉遺跡である三重県城之越遺跡には、すでに日本独自の州浜型池などの苑地の要素が見られる。

食文化[編集]

事例 主張 事実
おかず
日本の大部分の食べ物
2008年6月9日に行われた映画『食客』の制作発表会において俳優チェ・ブラムが「日本の人々の食べるおかずは、大体が我が国に由来したものが多いのに、私たちが(食の世界化に対して)和食に後れをとる理由がない」、「21世紀は文化戦争の時代であり、日本は金を投入して日本食を世界に伝えている」等と発言をし、韓国起源説を主張した。また同席したクォン・オジュンも「我が国の韓食は薬になるほど優秀で、競争力がある。日本に(食の世界化)ができて我々にできない理由がない」と発言をした。

米国のカリフォルニア州ASU副総長の食生活文化研究者キム・ヨンボクも、『慶南道民日報』2010年6月22日で「日本の大部分の食べ物がその根元を韓半島に置いていて、今でも日本の食品学者、料理研究者、外食業者などは韓国に出入りして、韓国料理らを偵察しに通う」と主張。

主張を裏付ける資料も存在せず根拠不明。
豆腐
蕎麦
キム・ヨンボク慶南大学伝統食生活文化研究院長が「韓国のメミルククスを日本が模倣して蕎麦が誕生し、韓国のトゥブから日本の豆腐が生まれた。」と主張している。また『ウィークリー京郷』が「日本の豆腐は朝鮮から伝授を受けたもので、壬辰倭乱(文禄の役)の時に晋州城主の朴好仁が教えてあげたのが始まり」「朝鮮が豆腐作りに一番優れていて中国と日本から教えを請いに来た」「日本に豆腐が一番遅く400年前に日本に伝わったのに、日本豆腐が世界を支配するのが切ない現実だ」「朝鮮の豆腐の伝統は日帝36年の間に消えた」「韓国豆腐の優秀性が世界に認められ、豆腐文化宗主国の位相を再確立するチャンスが来た」と主張している。また、『国民日報』が「原産地は中国というが、韓半島で花開いて日本に伝わったトゥブ(豆腐)の場合もそうだ」と主張している。

キム・ヨンボクは、『慶南道民日報』2010年6月22日で、「そばの根元やはり朝鮮だ。日本の『本山荻舟』によれば『一説に江戸時代(江戸時代、1603~1867年)始めに、朝鮮の僧である元珍が南都東大寺に渡ってきて結着材として小麦粉をソバ粉と混ぜるニハチ(2:8)を教え、はじめて日本にザルソバが普及した』と記録されている。元珍僧侶が初めて日本に伝えた比率は2:8だったと伝えられるが、今でも日本のそば屋の中にはこのニハチ(2:8)を黄金比率と考える所が多い」「豆腐は辛い歴史を持って日本に伝えられた食べ物だ。日本、四国高知市県立図書館に所蔵された『皆山集』全10冊中、9冊の記録を見れば「豆腐に関してどんな本に伝えられている話を見ても、昔この国には豆腐がなかった。 1592~1595年に長宗我部元親が朝鮮の捕虜らを引っ張ってこちらに戻った時、その中に朴好仁という人がいた。その子孫もやはりこの国に住んだが、こちらの領主山内一豊が高知城を築く時、パク氏を今の唐人町に置いて働かせた。土佐郡鏡川の北側の土地で豆腐を製造し始めた』となっている」と主張。

豆腐は奈良時代に遣唐使により日本に伝えられたもので、韓国起源もしくは韓国を経由して日本に伝わったものではない。そして、日本人がよく知る現在のような豆腐は日本で発展したものである。さらにキム・ヨンボクは「日本は日本文化の形成に多くの影響を与えた国に中国を指し示したいだろうが、韓国が絶対的でその次が中国、ヨーロッパなどだ」と事実無根の主張をおこない、日本文化全般に対する韓国起源説までも主張している。

豆腐自体は紀元前164年頃に淮南王劉安が発明したとされているが、日本には遣唐使以前に伝わっていたと言う説もある。そして、鎌倉時代の古文書である「庭訓往来」には「豆腐羹(とうふこう、豆乳の意)」の記述があるため、長宗我部元親が連れて帰った朝鮮人捕虜が日本に豆腐を伝えたと言う説はまずあり得ない。そもそも記事に出てくる『皆山集』とは土佐の藩政史であり、なぜそれを根拠に日本にそれまで豆腐がなかったと言う結論に至ったか不明。

また、作物としての蕎麦は中国から日本に伝えられたと考えられているが、蕎麦粉を麺の形態に加工する「蕎麦切り」の起源は明確ではない。蕎麦切りの確認できる最古の資料は1574年に修復工事が完成した木曽定勝寺の寄進記録だとされており、初期の蕎麦切りの記録が信州周辺に多いことから、一般によく言われるとおり信州蕎麦がその起源であったのは間違いないと見られている。二八蕎麦の由来は諸説あり確定していないが、韓国の僧侶元珍が伝えたと言う確定的証拠もまた存在しない。

日本酒 日本酒の起源は韓国の清酒という説がある。日本人研究者が慶州の法酒は日本酒の先祖のようなものだと語った。また、古事記の記述の誤読で起源を主張している場合もある。

さらに、近年、日本酒のルーツがマッコリであると多くの在日朝鮮人系酒店及び韓国料理店がWebサイトにて主張して問題となっている。

この主張は誤りであり、日本酒の本来のルーツであるどぶろくは口噛みの酒などに遡る事ができ、その発展と共に発酵方法や歴史的な流れも異なる。

なお現代のような清酒は、室町時代に奈良県の正暦寺で作られた僧坊酒「菩提泉」がその発祥であると考えられている。

寿司
刺身
ロサンゼルスのコリアタウンで寿司屋を経営しているキム料理長が「スシとサシミは元来、中国と韓国に由来するもので、日本にはスシが自分たちの食文化だと主張する権利が無い」「日本は第二次大戦以後にスシを食べ始めたが、韓国と中国は数千年間、スシとサシミを作ってきた」と主張した。。また、キム・ヨンボク慶南大学伝統食生活文化研究院長は「韓国の食べ物パプシッケを模倣したのがスシ(壽司:すうし)だ。1700~1800年頃寿司が最初に開発されて日本の代表的食べ物であるハコスシ(箱すし:サンジャチョパプ)が創造された。」と主張している。 「日本は18世紀、もしくは第二次大戦以後に寿司を食べ始めた」というのは事実無根で、浮世絵など江戸風俗を取り扱った作品を見れば江戸時代後期には今と同じような握り寿司が食されていた事がすぐ分かる。世界で一般的に「スシ」として知られている握り寿司の初出は19世紀初頭の華屋與兵衛が創作した江戸前寿司とされる。握り寿司が登場する前は箱寿司(押し寿司)が主流だったが、握り寿司が江戸を席巻した後も上方(関西方面)では箱寿司が主流のままだったとされる。酢飯を使った寿司の起源は必ずしも明確ではないが、少なくとも17世紀には存在したことが確かめられており、刺身の起源は14世紀までさかのぼることができる。魚介類の生食については日本では古代から広く行われ、『日本書紀』で磐鹿六雁命景行天皇に鰹と蛤の膾を出したとの記述があり、これが日本料理の起源という伝説がある。
醤油 韓国の液体調味料の専門企業トンウンFCは、「しょう油は韓国が元祖」であるとし、「世界市場で韓国の伝統醗酵食品のしょう油が日本の製品のように認識されていることを正したい」と主張している。これについて、キッコーマンは「初耳です」とコメントした。 実際には第二次世界大戦後に朝鮮半島に残された(日本人が作った)醸造設備を利用して製造しており韓国内で製造されている醤油の技術は日本発祥である。

韓国にはカンジャンという醤油に似た調味料はあるが、醤油とは別物である。2006年10月に韓国農魚業芸術委員会によって開催された韓国骨董食品芸術展でも、日本の醤油や味噌は本来の製法や味でないとして、韓国のカンジャンやテンジャンとは違うことを強調している。

味噌 National Defense Journal が、言うまでもなく日本の味噌も、味噌玉麹を使った古代韓国人たちが日本に渡って広めた食文化だと主張。また、『国民日報』が「ミソが我が国の言葉、メジュ(味噌玉麹)に由来した名前であり、我が国が味噌文化の宗主国であることを強調し、テンジャン登録商標になっていればよかったという惜しさは残る。我が国の食べ物が世界の人々の味覚を捕らえれば、経済的、文化的波及効果は途方もなく大きいだけに、今後は食べ物の主権守りと食文化普及にもっと関心を持たなければならない」と主張している。 根拠不明。味噌に似た発酵調味料は東アジア各地に古くから分布したが、同一の起源を持つものかどうかは明らかではない。日本の味噌は、一般的には縄文時代に中国から伝わったか日本国内で作り出されたとされている。
味噌汁 朝鮮日報が、『薬師寺は大きなイベントがある度に韓国伝統の味噌汁を用意するなど、さまざまな面から韓国と深い関連があるものとみられる。天皇が自ら「韓国人の血を引いている」と明らかにしたように皇室の願寺だったためではないかと思われる。』と主張

根拠不明。薬師寺には味噌汁をふるまうようなイベントは存在しない。そして、今上天皇の発言は「桓武天皇の生母である高野新笠が百済の武寧王の子孫であると続日本紀に記されている」というもので、これは「日本に帰化した百済系移民の約10世後の子孫が天皇家に嫁いだ」という意味であり、当時の百済と現在の半島では民族構成も全く異なり、「韓国人の血を引いている」とは言えない。

高野新笠が帰化人の家系出身であった事は間違いないとされているものの、実際に武寧王の子孫であったかどうかは朝鮮側の資料から見ても不明瞭であるため疑問視する声もある(詳細は高野新笠を参照)。

納豆 National Defense Journal の主張によると、『納豆は韓国のダムブックジャンが起源である。「朝鮮出兵から帰った加藤清正が九州に納豆を広めた」という熊本の農業高校教師の菊池、平野の研究がある。一説には、7世紀中頃、朝鮮の僧侶が味噌玉麹豆を日本に持って行き、納豆を作ったという記録もある。』 塩辛納豆に関しては、奈良時代に中国から伝わった豉が起源であると考えられている(なお、糸引き納豆に似た食品は韓国には存在しない)。
沢庵漬け
沢庵宗彭
National Defense Journal が、「沢庵は江戸時代初期に朝鮮から日本に渡った僧侶テックアムが初めて作り方を教えてあげたものだ。沢庵とはテックアムの日本名だ。沢庵和尚が考案したから沢庵を呼ぶようになった」と主張。また、米国のカリフォルニア州ASU副総長の食生活文化研究者キム・ヨンボクも、『慶南道民日報』2010年6月22日で、「沢庵は壬辰倭乱直後、朝鮮から当時江戸時代初期の日本に渡っていって京都の地、大徳寺(京都市)周知にあった高僧の沢庵(タクアン・1573~1645年)僧侶が作った漬物(野菜を塩漬けする日本保存食物)だ」と主張。また、世界キムチ研究所の朴完洙初代所長は、「外国人にはキムチをコリアンピクルスと認識している人が多い。逆に言えば、ピクルスや沢庵など漬け物類がすべてキムチの一種ということだ」と主張。 沢庵宗麟は1573年12月24日に秋庭綱典の次男として但馬国出石に生まれたとされており、10歳に出家して僧侶になるまでの経歴に不明な点は特に存在しないためもし「韓国から日本に渡ってきた僧侶テックアム」と言う人物が実在の人物だとしても沢庵宗彭と同一人物である可能性は低い。

また、沢庵漬けも「沢庵が考案した」説以外に「沢庵が広めた」説、「『じゃくあん漬け』もしくは『貯え漬け』が『たくあん』に変化した」説など諸説ある。

奈良漬 National Defense Journal が、奈良漬は韓国の塩漬けの一種。出雲を征服した新羅人が、さらに南下し、奈良に国を作った。「ナラ」とは、新羅人によって名付けられたのだが、「国家」を意味する。「奈良漬け」とは「国キムチ」を意味すると主張。 新羅の入寇のように新羅出身の海賊や正規軍が日本を攻撃したという歴史的事実はあるが、征服を目的とした侵略と言うよりは日本の沿岸部で略奪行為を働いたと言う方が正しく、被害にあった地域は対馬や北九州沿岸部のような朝鮮半島と距離的に近い地域であり、出雲(今の島根県)が攻撃・征服されて新羅人による奈良征服の橋頭堡になったことを示す歴史資料は全くない。従って、そこから発展した「国キムチ」説に至っては完全に創作である。

そして、奈良漬室町時代の『山科家礼記』や『言継卿記』にその名前が初めて登場している。それより前の時代では「粕漬け」と呼ばれており、奈良時代の長屋王邸跡にて出土した木簡の「進物 加須津毛瓜 加須津韓奈須比」という記録が最古のものである。よって時系列においても、奈良漬という言葉を新羅と結びつけることはできず、韓国人による言葉遊びに過ぎない。

海苔
海苔巻き
韓国CBSノーカットニュースによると「我が国の海苔養殖が日本より先立って事実上世界初という事実を知っている人はあまり多くなく、海苔をキムチのように我が国の代表的な食べ物に育成しなければならない。」と主張している。

また、のり巻き専門店「鐘路のり巻き」は、ウェブサイトで「残念ながら現在までのり巻きの由来に対する正確な歴史が定立されていないのが実情です。そこで、のり巻きを名実共に韓国の代表的な食べ物の一つとして位置付けた自負心を持って、のり巻きの歴史とその特性に関して資料を掲載しようと思います。我が国ののり巻きの由来については多くの論争を持っていますが、その代表的なものが『韓国固有食べ物説』と『日本由来説』に分けることができます」「多くの人々は『日本由来説』に比重を持って主張していますが、結論から言えば、どんな文献を探しても韓国ののり巻きが日本の関東地方の海苔寿司が伝わって変形して発展したという直接的な証拠はありません」「日本の場合、1800年頃から海苔を取り扱ったという記録があって、我が国は遥かに以前の新羅時代から、または少なくとも朝鮮初期である1400年頃から取り扱ってきましたから、我が国が日本に比べて海苔メニュー文化は遥かに先んじているという結論を容易に断定できます。同時に海苔の特性の上、ご飯を包んで食べる形態で取り扱うしかありませんから、当然、のり巻きの歴史も我が国のほうが日本よりも先んじているはずだという結論もまた容易に類推できます」「このような理由で、今食べている我が国ののり巻きが日本食海苔寿司に由来したものと見るのは非常に難しいのです。むしろ、我が国ののり巻きが日本に伝わって、彼らの習性や食生活に合わせて海苔寿司として発展し、私たちよりも記録が好きで、歴史歪曲を飯を食うように行なう彼らによって、逆として知らされたのではないかという疑問さえ起こります」と主張している。

「海苔の特性の上、ご飯を包んで食べる形態で取り扱うしかありません」と主張しているが、ご飯を包む板海苔は、江戸時代に和紙技術が進歩してその派生技術として誕生したものであり、その起源が江戸期の日本であったことは各種資料と交易記録からも明白である。

そして、韓国ののり巻きは日本料理に使われる巻き簾を使用する料理法も同じであるし、名称も韓国ではのり巻きを表す言葉がなく日本語と同じ「ノリマキ」と発音してきたものが、近年になって朝鮮語の国語純化運動によって「ノリマキ」を「キムパブ」というオリジナルの用語をつくって置き換えたものである。この名称の経緯からも、のり巻きは名称とともに併合時代に日本から伝わったという定説でもある『日本由来説』のほうが信憑性が高い。

しゃぶしゃぶ 韓国の料理研究者らが、「しゃぶしゃぶは日本やモンゴルの食べ物ではない、高麗時代に韓国からモンゴルに伝わった料理である」と主張している。 根拠不明。定説としてはフビライ・ハーンの侍医である忽思慧の考案によるとされており、それが日本に持ち込まれた時点で羊肉から牛肉になったと考えられている。
和牛 韓国の『月刊外食経営』において弥生時代の中ごろに朝鮮半島から日本列島に持ち込まれた牛があることを論拠に起源を主張している。 和牛とは、明治時代に日本在来の牛と欧米の牛とを掛け合わされてできた、黒毛和種・褐毛和種・日本短角種・無角和種の食肉専門4品種の牛のことであり、公正競争規約上の定義では、上記の4品種間の交雑種及び4種の交雑種を含む5品種間内の交雑種が「和牛」と名乗ることを認められている。そして、南部牛のように、北方から日本列島に持ち込まれた牛の存在を無視しており、朝鮮島由来の牛の血統が混じっていることを拡大解釈し、日本列島で行われた品種改良を一切無視している。
うどん National Defense Journal が、 江戸時代の初期に朝鮮の学僧円陣が朝鮮通信使として日本に渡り、カルグクスの作り方を日本人に教えてあげたのがうどんの起源と主張。根拠として、現在の形態のうどんが食べられるようになったのが江戸時代以降であることを挙げている。 うどんの起源は明確になっていないが、麺料理は中国から伝来したものと考えられている。また、室町時代には現代とほぼ同じ製法で作られるようになっている。
長崎ちゃんぽん 釜山駅近くで中華料理店「中南海(チュンナンヘ)」を経営する衣が、中国のチャオマメンという麺料理が韓国華僑たちにより韓国に持ち込まれ「仁川地方の独特な食べ物」となり、日帝統治下に「ちゃんぽん」という日本語名が付いたと主張をしている。 定説では明治32年、長崎の中華料理店「四海楼」の中国人「陳平順」によって発明、となっている。
イカ徳利 韓国のヒュデム食品が、2007年5月18日に行われた第42回発明の日記念優秀発明品展示会で、イカ徳利を「韓国の優秀発明品」として展示した。 イカ徳利は、北海道三陸地方などのイカの産地ならではの土産物として、古くから販売されている。韓国で発明されたものではない。この件を問題視する声が青森県の公式サイトに寄せられている。青森県は、韓国の特許登録第10-0634290号「烏賊酒瓶の製造装置およびその方法」によって、 日本から韓国へのいか徳利の輸出・販売に影響が出る可能性があると回答している。
朝鮮飴 National Defense Journal が、飴は朝鮮通信使が日本に持って行き、直接作り方を教えてあげたのが起源。そのため日本では、飴のことを朝鮮飴とも言うと主張。 朝鮮飴とは、長生飴と呼ばれていた飴が、朝鮮出兵時の兵糧として用いられたため朝鮮飴と呼ばれるようになったものであり、朝鮮半島起源ではない。最古の飴の記録は『日本書紀』に書かれている。

言語[編集]

事例 主張 事実
日本」の語源 歴史学者の朴炳植(パク・ピョンシク)が韓国語の「イルボン」が日本語の「ニッポン」の起源であると主張しており、朝鮮半島に存在した部族国家「ウガヤ」の国号が「ヤマト」であり、彼らが日本に渡り新しい国家「ナラ」を建てたと主張している。 古代朝鮮語は全く解明されておらず、「日本」の現代韓国語読みの「イルボン」を「ニッポン」の起源とするのは無理がある。日本へ渡り「ナラ」を建てたとあるが、DNA調査で日本人は全くの別人種だと判明している。日本人は世界でも稀なY染色体DNAのD系統を高頻度で持つ人種。朝鮮半島や中国人は南方系O系統である。
日本語 言語学者のシミズキヨシと元オーストリアのウィーン大学教授と九州産業大学の韓国語講師パク・ミョンミが、「日本語の起源は韓国語」と主張している。

数学者金容雲・檀国大客員教授が、著書『天皇は百済語で話す』を紹介する記事の中で、『現代の韓国語は新羅語を中心に収斂され、日本語は百済語を中心に発展したものだ。韓国語と日本語は共通の祖語を持つが、数字の「3」「5」「7」は韓日で発音が全く異なることから、新羅語と百済語がそれぞれ韓国語と日本語に繋がったとが分かる。また日本語の語尾に百済語を見い出すことができ、全羅道の訛りに似ている」「第26代継体天皇は、百済第22代王の弟の『昆支』と同一人物。『日本書紀』に出てくる継体の別名『男大迹』『昆支』も共に『大きい人』を意味することから同一人物」「日本で百済を『クダラ』と読むのは 『大きい国』という意味で、日本は百済の分国だった」と主張。

また、36年間外交官として働いてきたキム・セテクは著書『日本に渡った韓国語』(キパラン)で、日本語の語源を探るのは、和語がなぜ、訓読されるようになったかを探ることだと考え、約3000の語彙を分析し、「日本語の源流は韓国語にある」としている。

韓国語と日本語は語順、助詞の存在等文法的に似ている点が認められ、日本国内でも日本語と韓国語の関連性の研究は古くからなされている。しかし、現在は一般的に日本語・韓国語いずれも孤立した言語とされており、少なくとも基礎語彙の関連性は極めて薄いとみなされている。比較言語学では、言語の比較にあたって、文法よりも基礎的な語彙の方が重視される。

例えば、シミズの記事で紹介されている研究は韓国語で顔を意味する「ナッ」と日本語の「なつく」を対応させているが、対応させている単語が恣意的で、本来対応させるべき「ナッ」と「カオ(顔)」の発音の違いを無視しており、学術的信憑性は薄い。

金容雲教授の主張は、日本語には音読み訓読みがある事を無視している。さらに、日韓言語比較論では、多くが「日本語と韓国語の違いは百済語と新羅語の差異から来ている」と言う前提条件のもとで研究されており、「百済語」や「新羅語」などの単語が登場するが、実際はそれらの古代朝鮮語はいずれも実態解明が全く進んでいないため、学問的な比較は事実上不可能である。金教授の主張は、現代日本語と現代韓国語の数字の数え方の差異を無理やり実態不明な新羅語と百済語の差に結び付けているだけであり典型的な偽言語比較論である。日本語で『男大迹』『昆支』『クダラ』が『大きい人』もしくは『大きい国』を意味するとの主張も、根拠不明。

金容雲の記事を閲覧した中国のネットユーザーからは、「韓国人は歴史をゆがめ、横取りする」「またか!」「太陽系も韓国人の発明」など韓国・韓国人への批判が相次いだ。

敬語  
万葉集
万葉仮名
李寧煕が、『もう一つの万葉集』(ISBN 4163435603)を出版し起源を主張している。

韓国の東亜日報においては、「7世紀頃の万葉仮名は元々古代韓国で使われたもので、韓半島から帰化した人々によって考案された。この仮名文字は後に韓国では消えた」と主張をしているが、その主張を裏付ける歴史的根拠は不明である。

韓国外国語大学校教養学部日本文化担当教授の文学博士洪潤基が出版した『百済は大きい国』では「万葉仮名」は古代百済人が作ったと主張。百済人の王仁が5世紀末頃、日本の王室に漢文の長詩「千字文」を持って渡り「万葉仮名」を創り、その後王仁と阿直岐の子孫が引き次いで作っていった文字が11世紀に47文字となり、現在の「平仮名」が完成したと述べている。

もし王仁が日本書紀などに書いてあるように応神天皇の求めに応じて日本に渡来した一人の学者だったとすれば、渡来した時期は応神天皇の在位期間、すなわち3世紀後半から4世紀前半(もしくは干支崩年に従った場合は4世紀後半まで)と言う事になる。しかし千字文は南朝武帝502年 - 549年)が周興嗣に命じて作らせたものであり、王仁が渡来した時期には存在していない。従って千字文を元に王仁ら帰化人が万葉仮名を作ったと言う可能性はとても低い。そして、5世紀後半に作られた稲荷山古墳から万葉仮名の原型とも言えるものが発掘されている事から、その時期までにはすでに漢字の音を借りて固有語を表記する方式が確立されていたのではないかと思われる。

万葉集は複数の編者によって編纂され、最終的に大伴家持(718年 - 785年)が完成させたものである。

多くの日本語の語源 nbsp;
片仮名 鄭ジェヨン(韓国技術教育大学教授)と小林芳規(広島大学名誉教授)の共同研究によると片仮名は新羅の口訣が起源であり、東大寺諷誦文稿にそれを見ることができるという。慶一大学総長の李南教毎日新聞 (韓国)上の連載コラム「イ・ナムギョの日本語源流散歩」で、次の語句の語源を古代韓国であると主張している。「邪馬台国」「大和」、「早良」、「木綿」「柳」、「本音」「建前」「楽しい」、「幸せ」、「恨み」「見舞」、「いらっしゃい」「ありがとう」、「ちちんぷいぷい」、「せーの」「甘い」「我孫子」「卵」、「鋤」「鎌」「肥」「鍬」「菜」「束」などのほとんどの農耕用語、「さらさら」などのほとんどの擬音語。

吳相鉉(オ・サンヒョン)延世大学講師は、「(韓国語の)『仮病(クェビョン)』を日本語では『ケビョオ(kebyo)』という。つまり『仮病』の『クェ』を韓国語の固有語と見なした場合、『クェ病』という合成語的発想をして『ケビョオ』を通用させたのではないか、という推定には無理がない」と主張している。また、日本語のトンボは韓国の慶尚道大邱を中心に使われる方言のトルボに由来し、日本語のトンボを韓国語の方言のトルボに求めれば、様々な情況的に合理的な妥当性を確保できる、と主張している。さらに、『釜山日報』2002年4月4日で、イ・ドンゴル論説委員は、「外来語や擬声語表記に使われる日本文字カタカナまでもやはり8世紀に韓半島から伝えられたという説が提起されて注目を集めている。先祖たちが行なった誇らしいことだ」としている。

これらは単なる言葉遊びで信憑性はきわめて薄い。言語を比較するにあたって類似している個別の単語を抜き出して「共通性がある」と主張する事自体に学術的な意味は無く、またその理由を実態不明の古代韓国(古代朝鮮語)に求める手法にも難がある。そもそも日本語と韓国語のルーツが両者とも本当に古代朝鮮語であったとしたらむしろ何故現代では特定の単語にしか類似性が見られないかの方が大きな問題点となるはずだが、それに対する言及はない。
」・「」の語源
君が代
李南教が、『「君」は、邪馬台国を建てた伽耶諸国の狗耶国国王の「金」(キム)氏が語源。「僕」は、狗奴国を建てた金官伽耶の弥烏耶馬国国王の「朴」(パク)氏が語源。「君が代」は、本来「金家の世の中」と言う意味』と主張。 君が代は平安時代に詠まれた和歌だとされており、現在の文面とはやや異なる。何故古墳時代の話になってしまうかは不明。また、実際は論争がまだ続いている邪馬台国の所在に関してもかなり断定的に「大阪周辺の邪馬台国」と「九州周辺の狗奴国」と述べるなど、日本の古代史をかなり都合よく解釈している側面が見受けられる。
天下り」の語源 李南教が、『「日本に渡った当時の百済人は非常に優遇され、百済の職位をそのまま認められて官僚や将軍などに任命されたが、日本政府はこれらを受け入れるために行政組織を16官位から20官位に拡大改編までした。当時、日本政府の要職の国防大臣や文部大臣など、すべて到来した百済人を任命したことで発生した言葉が「アマクダリ」(天下り)だ』と主張。 百済王家の一族で日本に人質として滞在していた余善光が百済滅亡後に持統天皇より百済王の氏姓を賜り、比較的優遇されていた事は分かっているが、百済から亡命してきた帰化人全般がそう言う扱いを受けたと言う記述はなく、またそれが「天下り」と言う言葉の語源になったと言う歴史資料は存在しない。
奈良」の語源 李南教が、『「ナラ」という言葉は「ウリナラ(我が国)」の略語として、当時日本の首都であった場所を百済遊民らは「ナラ」と呼び、後に漢字をあてて「奈良」になった。百済遊民らは消えた祖国百済を「大きな国(コンナラ)」といったが、この言葉が変わって「クンナラ→クダラ(百済)」になった。百済(ペクチェ)を「クダラ」と呼ぶのはこれに起因する』と主張。 古代の朝鮮半島の言語は今でも解明されていない上、百済が滅びる前後の日本の都は飛鳥と呼ばれる地方に在り、いわゆる「奈良」の地である平城京に遷都されたのは、百済滅亡から50年も後の事である。よって奈良という名の由来に百済を結びつけることは無理がある。そして、「奈良」の語源は「平らな、平坦な(土地)」を意味する「なら(す)」であるという説が有力であり、「平城山」と書いて「ならやま」と呼ぶ地名も奈良には残っている。自治体の領域名称として「奈良」が用いられたのは明治2年であり、県庁所在地のあった地名の名称に由来する。令制国の名称としては大和国(7世紀後半は「倭国」、遷都時は「大倭国」)と呼ばれていた。

ちなみに百済を「くだら」と呼ぶようになった由来は不明だとされているが、古代には「くだら」ではなく「くたら」と発音したとされている。そして、「ひゃくさい」と言う音読み表記も存在する。

「くだらない」の語源 韓国外国語大学校教養学部日本文化担当教授の洪潤基(ホン・ユンギ)が「くだらない」の語源は「百済ない」で、「優秀な百済の文物がないことはみすぼらしいこと=百済・ない」が「くだらない」の起源であると主張している。

李南教が、「『クダラナイ』という言葉は直訳すれば『百済にない』になる。言葉の意味は『つまらない』だ。『良くて立派なものはみな百済にあるのに、これは百済にない。だから、つまらない』という言葉だ。」と主張。

当時の否定形は「ない」ではなく「ぬ」であり、否定形は「動詞未然形+ぬ」で表記されるものであり、名詞の「百済」に直接打消しの「ない」や「ぬ」が付くはずもないのは言語学の常識である。「下る」という動詞が未然形に変化して「くだら」+「ぬ(ない)」となって「くだらない」となる。「下らぬ」とは公家言葉で下には行かないという意味も含む。さらに当時の一般大衆が「百済」という言葉の存在を知っているとは考えられず、ホン・ユンギの主張の信憑性は極めて薄い。また、江戸時代に酒の名所の伏見などの「上方」で造られて江戸に「下ってきた」酒が「下り酒」と呼ばれていたように、「上方から下ってこない地元で作られたつまらないもの=下らぬもの」が「くだらない」の起源であるという説があるが、「下り物」という言葉が出来る以前より「くだらぬ」という言葉は使われていたため、この説にも信憑性はない。

野平俊水は自著『日本人はビックリ!韓国人の日本偽史』でもしこの説が事実であれば、百済滅亡後から「くだらない」と言う言葉が存在したはずだとしているが、「くだらない」と言う表現が使われ始めたのは遥かに後の時代である。そもそも文献を見る限り日本語の語彙として「つまらない」と言う意味で「くだらぬ」と言う表現が登場したのは17世紀に入ってからであり、それが「くだらない」に変化したのが江戸末期~明治初期の頃だとされている。江戸末期に入ってからいきなり「百済にない=くだらない」と言う表現が突如出現したとは考えにくくいため、この表現の語源が「百済」である可能性は低い。

竹島」の語源 韓国地名学会が、「竹島」という名前が竹島の韓国名「独島」(トクド)に由来するという主張している。 ここで説明されている1900年10月25日大韓帝国勅令第41号の「石島」が今の「独島」であるという説の根拠は方言の発音という一点しかなく根拠に乏しい。日本の研究者には「石島」は現在の「観音島」を指すとするものもいる。少なくとも日本が現在の竹島を「竹島」と呼ぶようになったとき(1905年。それまでは「松島」と呼んでいた)には、朝鮮半島においても「独島」という語は一般化しておらず、また、「竹島」の呼称は自然発生したものではなく政府によって命名されているため、「独島」が訛って「竹島」になったという主張には無理がある。
釜石」の語源 韓国の製鉄メーカー・POSCOの人材開発院の教授で、児童文学者でもある李寧煕(イヨンヒ)が、地名の「釜石」は古代韓国語で「黒い上質の鉄」という意味の「ガマウッシ」が転訛したとの説を主張している。製鉄をした渡来人の存在と関連付け、「ガマ」は古代韓国語で「黒」「釜」、「ウッシ」は「上質(ウ)の鉄(シ)」を指し、 同市西部の「甲子」も「ガッシ」のことで、「ガ(磨く・製鉄する・鍛冶をする)シ(鉄)」に由来すると主張している。 古代朝鮮語はその存在からして全く解明されていない。日本の古い地名の多くがそうであるのと同様、釜石という地名の語源ははっきりしないが、公式には『釜石市史』で、アイヌ語の「カマ・ウシ・イ(kama・us・i)」→「カマ・ウシ(kama・usi)」の転訛で、その意味は「平盤岩が・ある・所」を語源としている。 またほかの説としてアイヌ語で「クマ・ウシ・イ(kuma・us・i)」→「クマ・ウシ(kuma・usi)」の転訛で、意味は「サケ干し竿の干し場が・多くある・所」というのも一般的である。
飛鳥地方」の語源 鄭永鎬(チョン・ヨンホ)檀国大碩座教授いわく「飛鳥の漢字表示は“飛鳥”だったのではなく、元は百済人が渡来して心安らかに定着したという意味の“安宿”(発音はアンスク)だったが、後に変わった」と主張。 実際は外来語由来説を否定してはいないものの、地形名称由来説など他の有力な説もあり飛鳥の語源は今でも解明されていない。また何度も述べられている通り古代の朝鮮半島の言語は今でも解明されていない。そもそも、「アンスク」という言葉は単に「安宿」という漢字を音読みしただけであり、朝鮮半島固有の言葉かどうかも疑わしい。
祭り
神輿
「わっしょい」
葦原中国
「至る」
の語源
慶一大学総長の李南教(イ・ナムギョ)が、日本の祭りの起源は、渡来人が死を覚悟した航海の後に日本の大阪近辺に無事たどり着いた喜びを皆で共有するために行った儀式の「団地里」が始まりであると主張している。また、日本の祭りの掛け声の「わっしょい」の起源は、無事にたどり着いたという歓喜の声を表した「来た」という意味の韓国語「ワッソ」であり、神輿の起源も「死の航海を超えやってきた」ことから韓国で棺として使った「喪輿」であり、これが無事にたどり着いた喜びの「神輿」に変化したものであると主張している。さらに古代日本を指す葦原中国(あしばらのなかつくに)という呼称の語源も古代韓国語であると主張しており、葦(あし)は、日本語の始まりの音である「あ」と古代韓国語の「セ」(新しい)を組み合わせたあとにあセ⇒あシと変化したもので、原(ばら)は韓国語の「ポル」(原野)から変化したもので「葦原」とは渡来人が到達した「新しい原野」の意味であると主張している。さらに「死を覚悟して到着すること」を純粋な韓国語では「イルダ」というが古代語では「イダル」であり、これが日本語の「至る」となったと主張している。

また、金達寿や金思燁(キムサヨプ)らの複数の在日韓国・朝鮮人や韓国人が、祭りのかけ声の「わっしょい」や「祭り」の語源が、百済との交流によりもたらされた古代韓国語の「来た」という意味の「ワッソ」や「マトゥリ」であると主張している。これに関連して、在日韓国人らが「古代に先進文物を授けた朝鮮民族とそれを受けた倭人」という図式で、「四天王寺ワッソ」という祭りや「ハナ・マトゥリ」というイベントを開催している。

日本の祭りはあらゆる自然に対する畏敬の念を表し豊穣を祈願したアニミズムシャーマニズム的要素を持つ神道が起源であり、これに神仏習合の影響を受けて派生して現在知られるような多様な形になったものである。また神輿についても狩猟採集物を備えた祭壇が起源であり、これが農耕の発展により固定化し神社となったとする説が一般的である。

また「ワッソ」は「オダ(来る)」という動詞の語幹「オ‐」に、過去を表す先語末語尾「‐アッ‐」と終結語尾「‐ソ」が連結された形態であり、過去を表す先語末語尾「‐アッ‐‐オッ‐」が現れたのは16世紀頃であることから、古代韓国語説の信憑性は皆無である。「我背負う」「和を背負う」が転じて「わっしょい」になったという説がある。「だんじり」も「屋台」や祭壇を意味する「壇」を引きずることから「台ずり」「台にじり」「壇ずり」から変化したという説や、山車(だし)が一部方言化したという説、「台尻討った」が起源であるという説などがあり古代韓国語が起源であるという信憑性は皆無である。

古代韓国語は全く解明されていないため、李南教や金達寿の主張は単なる言葉遊びに等しく科学的根拠は全くない。"So"という英語の単語には「つまり」の他にも「そう」という意味もあるが(そう思うよ:I think so)関連は無いのと同じである。

宗教・祭り[編集]

事例 主張 事実
神社 世界日報中央日報が、「日本の神社が古代朝鮮半島の直接的影響を受けて作られ、日本人は今も韓国の神を祭っている」「日本の神社の多くが韓国起源」と主張。高麗神社飛鳥戸神社といった渡来人を祭っている神社を根拠に神社そのものが朝鮮半島起源であると拡大解釈している。 実際に朝鮮半島で日本の神社に該当するのは棒の先端に木で作った鳥を突き刺した「ソッテ」とトーテムポールのような「チャンスン(ジャンスン)」であり日本の神社とは別物である。
祇園祭
牛頭天王
スサノオ
韓日文化交流研究所長のイ・ユンオクと青い松同胞文化研究所長のキム・ヨンジョが、文化ジャーナル21で洪潤基(ホン・ユンギ)の『日本の歴史歪曲』(学友社)を根拠に、牛頭天王は古代朝鮮半島の神のスサノオと同一であり、それを祭る祇園祭は韓国が起源である主張している。彼らは日本の各地にあるこのような祭りを「包装されている」と批評をし、「日帝によって奪われた多くの韓民族の祭りを再発掘し再現しなければならない」と主張している。 牛頭天王はインドの起源の仏教祇園精舎の守護神であり、スサノオは日本神話の神である。これらを同一視する考え方は日本独特の神仏習合における本地垂迹によるものであり、祇園祭は祇園信仰によるものである。
八百万の神
神奈備」の語源
」の語源
慶一大学総長の李南教(イ・ナムギョ)が、日本の神社の神々の全ての家系図を辿ると全ての故郷が伽揶、新羅、百済、高句麗等の古代韓国に行き着くと主張し、「どうして日本人たちは韓国人の先祖を自分たちの神として祭っておいて、祭祀を行って担ぐのだろうか?」と主張している。また、「スサノオノミコト」(素盞鳴尊)は新羅から大王神であると主張している。さらに、「神奈備」の語源は古代韓国語の「カムナム(神木)」であり、「神」の語源は韓国語の「熊(コム)」であり「コム→カム→カミ」と変化したと主張している。 古代韓国語の発声方法や読み方は全く解明されておらず、現代韓国語の音感を根拠とするのは信憑性が薄く、科学的考察も全くされていない。
ねぶた 韓国政府が、新羅の時代から続くと主張する「燃燈会」と称した祭りを無形文化遺産に申請した。 青森で行われた国際交流の際にねぶた関係者が作り方などを指導した。

人物[編集]

事例 主張 事実
東洲斎写楽
十返舎一九
作家の李寧煕が、『もうひとりの写楽―海を渡ってきた李朝絵師』(ISBN 4309902774)を出版し、写楽は朝鮮通信使だった。また、十返舎一九の父親もまた李朝の高官だった、などと主張している。また、韓国では檀園・金弘道と写楽が同一人物であるという説もある。映画化の話も持ち上がっている。ちなみに事の是非に関しては言及していないものの、李寧煕の主張は民団のホームページでも紹介されている。 源義経がチンギス・ハーンだというのと同じ程度の主張。複数の文献の調査や写楽の肉筆画の発見により現在では写楽の正体は阿波蜂須賀家お抱えの能役者斎藤十郎兵衛であった事がほぼ確実視されている。

十返舎一九が李朝高官のおとし子だと言う説は、第11回通信使の一人が「日本人下女を孕ませた」と言う理由で対馬藩の通詞・鈴木伝蔵に殺害された事を根拠にしているが、この事件は日本人下女を孕ませたからではなく朝鮮の役人が鏡を紛失したのを聞いた崔天崇が「日本人は盗みが上手い」と言ったのを鈴木伝蔵が聞きとがめたのが発端とされている。そして、十返舎一九は駿河国府中生まれで父親は駿府町奉行所で同心を勤めていた重田家八代与八郎鞭助だとされており、母親が李朝高官に孕まされた下女だったとする資料は存在しない。

事件が発生したのが大阪である事からも、十返舎一九の生い立ちと関係が有った可能性は低い。

蘇我氏 公州大学校のイ・ナムソク教授が「石舞台古墳は7世紀ごろ百済系の蘇我氏が作った大規模な墓として推定されている」と主張している。 蘇我氏の出自については、河内の石川(現在の大阪府石川流域、人によっては詳細に南河内郡河南町一須賀あたり)、あるいは葛城県蘇我里(現在の奈良県橿原市曽我町あたり)を本拠にした土着の豪族であった、などの説があるがいずれも定かではなく、応神天皇の代に渡来した、百済の高官、木満致(もくまち)と蘇我満智(まち)が同一人物とする蘇我氏渡来人説はそれら諸説ある一つの仮説に過ぎず、史料上の問題点が非常に多い。

問題点は整理すると以下の通りであり、木満致と蘇我満智を同一人物であると実証することは不可能である。

  1. 「木満致」の名が見える『日本書紀』の応神天皇25年(西暦294年、史料解釈上は414年)と「木刕満致」の名が見える『三国史記』百済本紀の蓋鹵王21年(西暦475年)とでは時代が異なる
  2. 百済の名門氏族である木満致が、自らの姓を捨て蘇我氏を名乗ったことの不自然さ
  3. 渡来系豪族が自らの出自を改変するのは8世紀以降であること
  4. 木刕満致が「南行」したとの『三国史記』の記述がそのまま倭国へ渡来したことを意味しないこと
  5. 百済の名門氏族出身でありながら、孫の名前が高句麗を意味する高麗であること

満智の子は韓子(からこ)で、その子(稲目の父にあたる)は高麗(こま)という異国風の名前であることも渡来人説を生み出す要因となっているが、水谷千秋は「蘇我氏渡来人説」が広く受け入れられた背景を蘇我氏を逆賊とする史観と適合していたからではないかと述べている。

天照大神
卑弥呼
チェ・ユギョンが「日本の800万の神様のうち最高位である天照大神、つまり卑弥呼は韓国女性だった」と主張する『天照大神』という本を出版している。チェ・ユギョンはその根拠として「インカマヤのような高度文明を持った国で発達するといわれる太陽神が、当時韓半島よりも水準の低い邪馬台国で生じた事や、しかも女性であるということも変で、これが根拠だ」と主張をしている。 「八百万の神」は「非常に多くの神」を意味した多神教を意味する呼び名であり数を表したものではなく基本的な知識がかけている。また卑弥呼が天照大神であるという主張も全く学問的裏づけのあるものではなく、文明の発達段階と太陽神信仰の関連付けをするのも非科学的である。日本でも白鳥庫吉和辻哲郎が「卑弥呼=天照大神」説を唱えていたが根拠が薄弱であったため現在ではほぼ完全に否定されている。
天皇
応神天皇
舒明天皇
396年に沸流百済最後の応神が日本に渡り15代日王(天皇の韓国での呼称)となったという。なお、根拠は広開土大王碑から出てきたとしている。また、舒明天皇は641年百済宮で死去し、賓所を百済大賓とした点から見て百済系なのが明らかだとしている。なお、根拠は日本書紀としている。

また、経済学者の洪元卓(ホン・ウォンタク)ソウル大学経済学科教授は、日本初の古代国家である大和国は、4世紀後半の百済人たちが日本列島に渡って建国した国であり、天皇族の根源は百済王族であると主張している。洪教授は「日本の15代王である応神天皇が大和政権の実際の設立者であり、彼は百済王族の子孫と推定される」と主張している。

李成市早稲田大学教授は「近代韓国の民族意識を古代に投影している」「韓国人による韓日関係史研究は日本民族に対する韓民族の優越性を古代史の中から追い求めることが疑問の余地もなく試図されてきた」などと批判している。また、日本古代史学者の金鉉球高麗大学教授は『朝鮮日報』2001年12月25日において、「日本の天皇家の百済起源説を主張する本も出ているが、史料の恣意的解釈など歴史研究者の立場からみるとき学問的成果として受け入れられない」と批判している。

『三国史記』によれば「沸流百済」は一応存在した事にはなっているが(正確に言えば百済になる前の段階に存在した沸流の国であり、百済と名乗ってはいなかった)弟の国ほど自分の国が繁栄していないのを恥に思った兄沸流が自決したため、弟温祚の国(当時は十済と号したとされる)に早い時期に併合された事になっている。温祚は兄の国を併合し、百姓を受け入れたので「百済」を名乗るようになったとされているが、346年頃以前、もしくは建国神話に従うのであれば紀元前18年以前の事になるため、いずれも主張されている沸流百済の歴史と符合しない。そもそもこの説に登場するような繁栄を極めた「沸流百済」と言う存在は大朝鮮帝国史などのトンデモ系の歴史書にしか登場しない(現在の遼寧省山東省・日本にまたがる大帝国だったとされている)ため、信憑性のある説とは言えない。

応神天皇
倭王武
ヤマトタケル
八幡神
大国主命
スサノオ
朝鮮新報』が、林順治の著作『応神=ヤマトタケルは朝鮮人だった』を紹介する記事で、応神陵に埋葬されているのは百済王の蓋鹵王の弟の昆支であり、仁徳天皇陵に埋葬されているのはその弟である余紀で、応神天皇と倭王武とヤマトタケルと八幡神と大国主命とスサノヲが全て同一人物の百済人昆支であると主張している。朝鮮新報は本書について「秘密を解き明かした本書」「驚くべき史実を明らかにする」と紹介し、この主張に同調している。 日本ではそもそもヤマトタケルが実在した人物であるか否かの議論の決着すらついておらず(2世紀に実在したとする説や、複数の英雄をまとめて一人の人物に仕立て上げた、と言う説などが存在する)応神天皇(201年~310年、もしくは393年)も応神・仁徳同一説が存在するなど今なお決着を見ていない。また、昆支の兄である蓋鹵王(生年不詳、在位455年 - 475年)の在位期間や息子である東城王(生年不詳、在位479年 - 501年)の在位期間などを考えると、昆支・応神天皇同一説を唱える場合、関係する人々の生没年等を相当曲解しないと計算が合わない。
応神天皇 大朝鮮帝国史の作家金珊湖は画集『韓国105代天皇尊影集』で、高句麗による侵攻のために百済から日本列島に逃げた応神天皇が、奈良百済=倭国を建国し、そこから大百済帝国を支配していた主張。日本に千字文を伝えた王仁博士の「王仁」と応神天皇の「応神」は、どちらも日本語で「オージン」と読めるから同一人物と主張。 そもそも上記のように「大朝鮮帝国史」に資料的価値は存在せず、それに登場する「大百済帝国」や「奈良百済」も歴史上実在した国家ではない。また既に指摘されているよう「王仁」とは日本側の資料にしか登場しない人物だが、この説ではその王仁の存在は認めているものの応神天皇の存在は否定すると言う二重基準を見せている。
日延 円光大学校韓国文化学科の梁銀容教授は、李氏朝鮮第14代王宣祖の孫が、文禄の役のあった1593年に日本に人質として連れて行かれ、宣祖の長男である臨海君の息子太雄が日蓮宗の代表的な高僧に挙げられる日延だと主張。  
菅原道真
スサノオ
天照大神
洪潤基(ホン・ユンギ)韓国外国語大学校教養学部日本文化担当教授は、菅原道真新羅人の子孫であり、素盞鳴尊天照大神も新羅人であると主張している。 スサノオに関しては日本書紀に新羅に関する記述が登場するため新羅との関連性を疑う理由は一応あるものの天照大神に関してはそう言う記述は存在しない。そもそもスサノウの記述についても、スサノウが高天原(倭国)を一時的に追放されたと考えるのが通常である。天照大神はスサノオの姉であるためスサノオが新羅人なら天照大神も新羅人に違いない、と言う解釈のようだがそもそもこれは神話であり、実在した人をベースにしたものではないかもしれないという視点が完全に欠落している。上記の歴史教科書の項目に書いてあるような、日本書紀の都合の悪い部分は無視して都合の良い部分のみ取り出して拡大解釈する「つまみ食い」の典型例と言える。

菅原道真に関しては渡来人とする説もある土師氏の子孫だと言う事は明らかになっているものの、それとて土師氏が渡来人だという証拠は存在せず、あまつさえ新羅系の渡来人だったと断定できるような資料は存在しない。上記の「奈良漬」の項目に書いてあるような「新羅による出雲征服説」をかなり真に受けて自説を主張しており、説としての信憑性はほとんどない。

乃木希典 在日韓国人向けの新聞『統一日報』の元記者で、現在は民団兵庫県地方本部事務局長を務めている在日韓国人2世の尹達世(ユンダルセ)が、日露戦争で活躍した陸軍大将の乃木希典の祖先は、16世紀末の豊臣秀吉朝鮮出兵で連れて来られ、城崎郡城崎町野木谷に住んだ朝鮮人捕虜だったと主張。 この主張に対して中宮崇は、「大国ロシアを打ち破った名将が、日本人であるはずはない、朝鮮人であるに違いないという、哀しいコンプレックスゆえのことであろう。まぁ、勝手に妄想して勝手に笑い者になってください」と批判している。

乃木希典は長府藩(現在の山口県)の武士の家系出身だが、この説で主張されている朝鮮人捕虜の連行先は城崎郡(当時は豊岡藩、現在の兵庫県北部)である。人の動きがかなり厳しく制限され、身分制度がかなり固定された江戸時代にどうやって日本に連行された朝鮮人捕虜の子孫が長府藩の士分になれたのかなど、不明点がかなり多い。記事では朝鮮人捕虜が各地に移動したのは関ヶ原の戦いで敗れた大名が各地に離散したからだとしているが、豊岡藩の藩主だった杉原長房は西軍についたものの妻が浅野長政の娘であったため旧領を安堵されており、転封されていない。そもそも長府藩(主に当時の長門国周防国)は大内氏を滅ぼして以来毛利氏が支配しており、関ヶ原以後もこれらの旧領は安堵されていたため長府藩に外から転封された大名は存在しない。

そして、杉原長房と長房以前に豊岡を領有していた宮部継潤は両者とも朝鮮出兵に参加してはいたものの、渡海はせず肥前名護屋城に在陣していたためどう言った経緯で朝鮮人の捕虜が豊岡藩の預かりになったか不明である。

佐藤栄作
岸信介
安倍晋三
安倍晋太郎
金忠植東亜日報論説委員は著書『悲しい列島―永遠の異邦人四百年の記録』(ヒョヒョン出版)で、壬辰の乱直後の1598年日本に連れて来られた陶工の沈寿官家門の14代子孫をインタビューする過程で、佐藤栄作、岸信介、安倍晋三は韓国系と明らかになったとし、「安倍晋三官房長官が壬辰の乱以後、朝鮮から日本に渡った韓国人の子孫であることが明らかになって注目されている」「岸総理と佐藤総理はもちろん安倍長官にも韓国人の血統が混じっているわけだ。これと共に安倍長官の父親で同時に80年代4期連続日本外相を引き受けた安倍晋太郎にも韓国系が多い山口県出身という事実は、安倍に韓国人の血が濃く流れていることを傍証する。『対韓半島タカ派の先頭走者が韓民族後裔だなんて』金委員は本で『日本総理の靖国神社参拜を積極支持するナショナリストに韓半島血統が伝えられているということはまことに皮肉だ』」と言った」と報道した。

また、『中央日報』も、岸と安倍の家門家政婦として40年を過ごした久保ウメによる証言として、「パパ(安倍元外相)は誰にも言えないことを私には言ってくれた」「(安倍元外相死去直後)入棺のとき、この人の骨格を見ながら本当に日本人の物ではないと思った」「頭からつま先までまっすぐに横になっていたが、完全に韓国人の体形だ。(安倍元外相)自らも『私は朝鮮人だ。朝鮮』と言っていたが、この人は朝鮮人だと思った」と報道した。また、安倍元外相は生前に安倍家の起源は10世紀くらいまで韓半島北で中国大陸にかけて存在した渤海に始まったという考えを持っていたが、日本での安倍家の起源は明らかではないとし、安倍家の起源については「安倍家の本流は青森県だ。安倍元外相が朝鮮だと言ったが、これは今の北朝鮮ではなく、その北と吉林省の下側にあった渤海」と「11世紀平安時代の武将だった安倍が今の安倍家の祖先と一致する」と報道した。

沈壽官のホームページにはこの逸話に関する言及もなければ、金忠植の著作に関する言及もない。この説では佐藤栄作の祖先は「壬辰の乱以後(1598~)」日本に渡ったとしているが、これの主張にはかなり無理がある。山口県史学会の調査によると確認できる佐藤家の初代は市郎右衛門信久で、寛文2年(1662年)頃から萩藩の士分になったとされるため「祖先が韓国人」と言う条件を満たすためには日本に来た時期は1598年以後で1662年以前である必要がある。しかし文禄・慶長の役の後、日本と朝鮮はしばらく断交しており、対馬藩等の尽力により江戸時代になってから初めての朝鮮通信使が派遣されて関係が回復したのは1607年の事である。しかも1616年からは鎖国体制が実施されはじめ、外国船の長門平戸以外の来航は禁止された。貿易も外国との民間貿易は完全に禁止されており、李氏朝鮮の場合は対馬藩経由の管理貿易のみ許可されていた。

そもそもこの説は「佐藤元総理から聞いたと言っている人に私が聞いた」と言う根拠薄弱極まりない説だがその点を無視しても、全く現実的ではない。

継体天皇
詳細は 日本語 を参照
 
オヤケアカハチ 洪吉童八重山諸島に逃れ、オヤケアカハチになり、尊敬される指導者として活動し、民を苦しめる日本政府に対抗して戦い、このような事実が日本の歴史の本にも記されているという「同一人物説」をソル・ソンギョン延世大学教授と梁潅承が唱えている。 「同一人物説」そのものについては、時期的な一致やフルスト原遺跡から韓国の陶磁器や古銭が出土した等が根拠として提示されているのみであり、日本では「韓国側の思い込み」として否定されている。

歴史[編集]

事例 主張 事実
勾玉 韓国MBC放送の「勾玉の秘密」(2006/9/20)において、「燦爛たる黄金文化を成した新羅人たちは金冠だけではなくすべての装身具に黄金で飾った勾玉を採用し、長い間日本国にまで伝えながら勾玉文化を形成して来たと見られる。青銅鏡、刀と共に日本天皇が持つ三種の神器に属する勾玉は、韓半島から伝来されて日本建国神話にまで影響を及ぼしたと思われる。」と主張。 勾玉は縄文時代の日本が起源で、朝鮮半島に伝わったものと考えられている。朝鮮半島で発見される翡翠製の勾玉については日本の糸魚川で産した物が発見されており日本から朝鮮半島に渡った物であり、朝鮮半島において遺跡より翡翠の生産跡地は発見されていない。(ヒスイ製勾玉を参照)


倭の五王 百済の棄民が日本で国を建国し倭の五王を名乗ったとするものから、新羅王族が実際の倭の五王であったする説など、韓国内でも幾つかの説が唱えられた。根底には、安東大将軍が中華世界における朝鮮半島南部の支配者とされたことによる影響と、日本の皇族批判(倭の五王を朝鮮人とすることで天皇を朝鮮系として貶める)の二重の意味合いを持つ。 倭の五王(わのごおう)とは、5世紀に、南朝の東晋や宋で各時代の天皇に対し用いられた名称、、すなわち讃、珍、済、興、武をいう。「使持節都督倭・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓六国諸軍事安東大将軍倭王」(安東大将軍)と言う名称のもと、日本と半島南部の支配権を天皇が保持することが確認された。

朝貢の主な目的は、いずれも朝鮮半島での倭国の軍事行動権や経済的利益の国際的承認にあったとされる[1]

熊本城 2007年10月、朝鮮日報は「400年ぶりに和解した蔚山市熊本市」と題して、熊本城の竹の丸特設ステージで開催された「友情コンサート」の模様を伝えた。この中で、約400年前に加藤清正が朝鮮に出兵した際、蔚山市に駐屯し、その後敗走する際に築城技術者など1000人を熊本へ連行、彼らの技術によって熊本城が築かれたとした。 熊本城が朝鮮式の築城方式から影響を受けたという記録や痕跡は存在せず、蔚山市で明・朝鮮軍と戦った蔚山城の戦いでは日本軍が勝利しており、この点で朝鮮日報の報道には事実と異なる。蔚山市に城跡が残る蔚山倭城は加藤清正が縄張をして毛利秀元浅野幸長らにより築城された日本式の城であるため、蔚山倭城の存在も朝鮮日報の説を裏付けるものではない。
日本(国家) 日本の倭国は4世紀後半から百済の侯国であり、日王(天皇の韓国での呼称)はこれら侯国の君主のうちの一人であったとしている。根拠は漆器としている。カン・ドンミン韓民族文化研究院理事長が「日本の歴史は、古代に遡るほど、すべての部分で我が民族の歴史が現れる。その理由は我が民族が日本を作ったからで、日本のすべての文化が我が方から伝授されたものだからだ。」と主張し日本という国家を作ったのは韓国人であると主張している。

経済学者の洪元卓(ホン・ウォンタク)ソウル大学経済学科教授は、日本初の古代国家である大和国は、4世紀後半の百済人たちが日本列島に渡って建国した国であり、天皇族の根源は百済王族であると主張している。洪教授は「日本の15代王である応神天皇が大和政権の実際の設立者であり、彼は百済王族の子孫と推定される」と主張している。

玄ギョンビンの『韓国人は偉大な韓国を望む』(1992年)は、日本の古代から近世までの歴史を次のように説明する。「日本は7世紀未から国家形成期に入った。それ以前の日本は三韓・伽耶・百済などが自分の領土の一部として統治してきた。しかし660年、百済が滅亡し、その後裔らが続けて行った百済復興運動が失敗するや日本列島は自らの歴史期に入ったのだ。扶余氏家門が日王家を形成し、新羅系・百済系・高句麗系が武力で王族や貴族集団を構築した。彼らは新しい文化や伝統を普及させる一方で、土着原住民を制圧し、列島全域へと勢力を広げ、支配力を確保して日本を建設した」

李成市早稲田大学教授は「近代韓国の民族意識を古代に投影している」「韓国人による韓日関係史研究は日本民族に対する韓民族の優越性を古代史の中から追い求めることが疑問の余地もなく試図されてきた」などと批判している。また、日本古代史学者の金鉉球高麗大学教授は『朝鮮日報』2001年12月25日において、「日本の天皇家の百済起源説を主張する本も出ているが、史料の恣意的解釈など歴史研究者の立場からみるとき学問的成果として受け入れられない」と批判している。

水野俊平は自著の中で日本が4世紀後半から百済の侯国になっていたとしたら、その時期に百済が新羅と同盟して高句麗に対抗していたのにもかかわらず同時期に日本が新羅に侵攻を繰り返していたのはおかしい、とこの主張の矛盾を指摘している。もし日本が実際百済の属国だったとしたら、勝手に宗主国の同盟国に侵攻する事などありえないはずだからである。それ以外にもこの時期百済は高句麗に圧迫されて北方の領土を次々と失っており(王弟が捕虜になると言うような事まであった)、とても日本に影響を拡大する余裕などなかったのではないかと思われる。また、広開土王陵碑に記載されている「倭が辛卯年(391年)に海を渡り百残・加羅・新羅を破り、臣民となしてしまった」や「百済は先年(398年)の誓いを破って倭と和通した。そこで王は百済を討つため平譲に出向いた」等の記述と完全に矛盾してしまう。

この主張では遣隋使遣唐使や、日本仏教の歴史に大きくかかわった鑑真空海最澄が東シナ海を往来した歴代中国王朝との直接海上ルートの存在を無視し、日本列島で独自に発祥・発展したあらゆる文化の存在も一切無視している。

日本の国号 貿易会社サムエ社の朴定和(パク・ジョンファ)代表理事が、「日本」という国号を創案したのは7世紀の高句麗僧・道顕であり、それ以前の日本の通称である「倭」は伽倻の別称であった。つまり古墳時代はもちろん、奈良時代まで古代日本の支配階層および主流階級は大和民族でなく、韓半島からの渡来人だったと主張した。また、朴定和は、著書『The Historic Long、Deep Korean Roots In Japan(歴史的に深くて永い日本の中にある韓国の根)』(ビンテージプレス刊 )で、日本の建国神話に出てくる大己貴尊と少彦名命は、奈良市の神社に韓国の神として祭られている、などと記述している。 「日本」と言う国号が7世紀~8世紀頃から使われ始めたのは史実だが、一般的には天武天皇の治世(672年 - 686年)に「天皇」号と同時に成立したと言う説か701年の大宝律令の制定に伴って成立したと言う2説が有力視されている。道顕は日本書紀の原資料となった「日本世記」を執筆した事で知られている人物だが、「日本」の国号成立にかかわったと言う説は有力視されていない。

「倭国」から「日本」への国号変更は当時の国際情勢(唐の隆盛)を理由とした律令国家への脱皮の一環として行われたものだと考えられており、なぜ国号を変更したことが大和政権内の支配者層が大和民族ではなく渡来人であったと言う理由になるかは不明。

琉球王国
(今沖縄県
韓国・成均館大学の博士学位である鮮于栄俊・首都圏大気環境庁長が、「沖縄の旧称である『琉球国』が『古代の鬱陵島住民の移住によって建国された』」と主張している。 真偽は不明であるものの、琉球の正史では沖縄の地に逃れた源為朝(鎮西八郎)の子が琉球王家の始祖舜天になったとされている(しかし源為朝は上記のように歴史上はじめて切腹した人物としても知られている)。ただし最近の研究で沖縄県の住民と九州以北の本土住民とは、同じ祖先を持つことが明らかになっているため源為朝の説はともかくとしても、鬱陵島からの移民が建国したと言う可能性は低い。
島根
九州
対馬
大和政権
古事記
小説家のピョ・マヌンが、韓国中央日報に寄稿して、韓国で捨てたゴミが日本の海岸に漂着することを根拠に、慶尚道に住んでいた伽耶人が船に乗って島根に漂着し支配者になり、出雲大社はこれら伽耶人を祭ったものであると主張している。さらにピョは、古代九州も伽耶人が統治した土地で、大和政権を立てたのは百済人であると主張し、「伽耶と百済が征服した日本の地は韓国のものだ」と主張している。また百済人が書いた『古事記』に任那の日本統治説がでるのも伽耶が九州を統治したことを裏付けるものであり、慶尚北道と島根県や、扶余市と熊本市が姉妹提携しているのもこれらの脈絡からくるものであると主張している。さらに対馬は昔から伽耶人や百済人が往来した拠点だったから韓国の地であると主張している(文中で日本人を「原住民」と表現)。 国を建てるに足る人数が意図的に慶尚南道から島根を目指したと言うのは、慶尚南道と島根は決して近くはないことからも古代では相当な難事であり、偶然漂着した少数の伽耶人が支配者までに上り詰めという信憑性も薄い。そして、「伽耶が九州を支配していた」や「大和政権を建てたのは百済人である」という歴史資料は存在せず、主張には根拠すら提示されていない。さらに、仮に伽耶と百済が日本を征服して支配していたとしても、現在の韓国は、伽耶や百済の継承国というより百済や伽耶を滅ぼして朝鮮半島を統一した新羅の方がまだしも継承国といえる。

慶尚北道と島根県が提携していたのは事実だが、島根県はその理由の一つに古代における新羅との結び付きをあげており伽耶ではない。また、熊本市が扶余市と提携していると言うのはピョの誤認である(熊本県が扶余郡の所在地である忠清南道と提携している)。何らかの縁があって姉妹提携しているとは言え、それが古代に伽耶と百済が日本を征服していたからだと主張するのは曲解である。

動植物[編集]

事例 主張 事実
錦鯉 金方園水族館が、池を作る技術が百済から日本に伝わったことと朝鮮半島の故事に鯉に関わるものがあることから、錦鯉のルーツを日本ではなく韓国にあるものとしている。 しかし、4世紀の中国の書物にすでに様々な色のコイについての言及があり、この主張は韓国発祥や日本に伝わった説の証拠にはならない(コイ自体は西アジア原産)。錦鯉と呼ばれる種類が出来上がったのは19世紀の新潟。
生態系 韓尚勳・野生動物連合常任議長が、「日本の生態系の根は韓国」「韓国の優秀な生態系が日本に伝わった。日本の生態系の“根”が韓国であるということを日本人に知らせる」と主張している。 この説は朝鮮半島と日本列島の地理的・気候的な差異を一切無視しており、主張の根拠となる資料・考察も明示していない。さらに、日本で最も一般的な潜在植生は中国南西部から日本列島にかけて広がる照葉樹林帯であり韓国では南部の一部にしかなく、日本と朝鮮半島では植物の生態系が根本的に異なる。そして、日本の針葉樹の中で最も一般的であり、歴史的にも木材として重宝されてきたCryptomeria japonica)は日本の固有種であり、庭園木や木棺に重宝される高野槙Sciadopitys verticillata)も日本の固有種である。杉と同じく木材として重宝されてきたヒノキは日本と台湾のみに見られる種であり、日本の生態系は韓国より台湾や中国南部に近い。
ソメイヨシノ
(桜全般)
韓国では官民一体となって強力に推し進めている起源説。毎年桜の季節になると韓国三大紙や聯合ニュースといった主要メディアも取り上げる。政府系の韓国文化庁や韓国国立山林科学院もソメイヨシノは済州島が起源であると主張している。また全米桜祭りとからめてアメリカワシントンD.C.ポトマック川川辺の桜も済州島原産であると主張している。2009年以降、ソメイヨシノ済州島起源説の主な根拠となっているのは、2009年4月6日に聯合ニュースが記事にした韓国国立山林科学院暖帯山林研究所のキム・チャンス博士の研究である。記事によるとキム・チャンスは2009年にワシントンD.Cを2度訪問し、ポトマック川川辺の桜の標本を採取して遺伝子(DNA)分析を数回行ったところ、ポトマック川の桜と王桜が同じであると確認されたという。キム・チャンスは、日帝強制支配期に日本人が済州島の王桜を改良、のちに大量増殖し、それを3000株アメリカに贈ったものがポトマック川川辺のサクラだと主張している。

なおこの件に関し韓国では「日本は歴史教科書まで改竄している」という主張もあった。大田西区文化院事務局長は「桜花が日本に渡ったのは、韓国仏教が日本に布教された6世紀頃である」とし、その根拠として「日本桜の総本山と呼ばれる吉野山の所在地が538年から百済聖王が日本に仏教を布教した地である奈良県にあるから」と主張をしている。。チェ・ソンウク農協中央会教育院教授は、「日本には地元日本桜の自生群落地がないのに対し韓国には20ヶ所も自生地がある」「桜が日本の花ではないもう一つの証拠だ」と主張している。2009年4月10日、中央日報英語版が「多くの韓国人学者が、桜の木は日本ではなく、韓国から発したと主張します」と桜の韓国起源を主張する記事を掲載した。

はヒマラヤ地域が原産とされ、北半球の温帯に広範に分布している。日本では少なくとも数百万年前から自生しているとされ、鮮新世の地層とされる三朝層群からムカシヤマザクラの葉の化石が見つかっている。ソメイヨシノの片親とされるオオシマザクラは小笠原諸島付近を原産地とする日本固有種である。米国農務省は2007年にワシントンD.C.ポトマック川川辺のソメイヨシノのDNA鑑定を行ったが、済州島の王桜と別種であると結論づけている。キム・チャンスが行ったDNA鑑定はその2年後(2009年)だが、2011年改訂のアメリカ農務省の調査結果は引き続きソメイヨシノと済州島の王桜は別種であると結論づけている。そもそも済州島の王桜が発見されたのは1908年4月15日である。済州島西帰浦に住んでいたフランス人神父タケ(Taquet)がこの日、漢拏山北側の観音寺裏手の山、海抜600メートルの地点で採集した。採集された標本は1912年になって当時バラ科の権威だったドイツベルリン大学ケーネ(Koehne)博士によって最初に同定された。ところが東京市市長だった尾崎行雄が東京の桜の名所だった荒川堤の桜を穂木にしてアメリカのワシントンD.Cに12種類計3020本の桜を贈ったのは、1912年3月のことである(サクラの植樹式は3月27日) 。王桜がはじめて採集されたのが1908年4月で新種と同定されたのが1912年であるにもかかわらず、その1912年3月には日本がアメリカにサクラを贈呈している。日本が品種改良をして云々というキム・チャンスの主張はデタラメと言わざるをえない。なお尾崎がアメリカワシントンD.Cに贈ったサクラ12種類の内訳は、ソメイヨシノ(1,800本)、有明(100本)、フゲンゾウ(120本)、福禄寿(50本)、ギョイコウ(20本)、イチヨウ (160本)、ジョウニオイ(80本)、カンザン(350本)、ミクルマガエシ(20本)、シラユキ(130本)、スルガダイニオイ(50本)、タキニオイ(140本)で合計3020本だった。この時、ニューヨークにもほぼ同数のサクラが贈呈された。

王桜起源説の起源は1932年に小泉源一がソメイヨシノの王桜起源説を唱えたことによるものであるが、搾葉標本が残されておらず当時から疑問視されており、現在ではDNA鑑定により王桜とソメイヨシノの遺伝的形質が一致しないことから済州島起源はほぼ否定されている。ソメイヨシノの起源は、江戸時代の染井村(現・東京都豊島区駒込)で開発された「吉野桜」であり、父をオオシマザクラとし、母をエドヒガンの園芸品種のひとつであるコマツオトメとする、交配で生み出された人工作出の可能性が以前から提起されており、最新の研究では父をオオシマザクラ、母をコマツオトメではないエドヒガンとする交配種の可能性が高いことが判明している。ソメイヨシノの名称は「吉野桜」から1900年に学術的に正式に命名されたものであり、またこの品種は奈良県吉野地方に古代より自生している桜(ヤマザクラ)とは異なる品種であり、名称の「吉野」は古来よりの桜の名所の地名にあやかったものである。またソメイヨシノは交配雑種にしばしば見られるように実成が非常に不良であり、接木などにより枝分けしなければならない。ソメイヨシノは他の品種の桜と交配することは可能でこのばあい結実するが遺伝子特性が変化してしまい別種となってしまう。

日本各地に見られる現代のソメイヨシノは基本的に明治あるいは第二次世界大戦後に、人間の手により枝分けされたものである。古今集など古代より歌われ愛されたサクラはソメイヨシノではない。自生するにしてもソメイヨシノからソメイヨシノの種が取れることは無いためオオシマザクラとエドヒガン系の混成自生地である必要がある。済州島にはヤマザクラとエドヒガン系の自生混生地があり、この雑種であるとされる1908年に発見された王桜がソメイヨシノと仮寓されたものと考えられるが、遺伝的形質や1720-1735年ごろ作出されたとする江戸時代の文献史料に一致しない。

秋田犬 韓国動物保護研究会のユン・シングン会長が「秋田犬」を 珍島犬全羅南道珍島産の犬)が現地化したものと主張している。 一方、秋田県の公式サイトによれば、「秋田犬はヨーロッパからソビエトを経て北海道を経由して秋田に土着したもの」とのこと。
田沢湖 韓国の音楽家であるユン・ソフィによると、日本に連れて来られた韓国徴用兵が掘った人口湖であり、作成の過程で多くの事故や犠牲者が出ていると、韓国のメディアであるニューシスの「ユン・ソフイの音楽と旅行」で主張している。

同主張は、朝鮮人労働者も動員し1940年に完成した田沢湖導水路工事を誤認したものと思われる。田沢湖自体は1940年より遥か以前から存在している。

技術[編集]

事例 主張 事実
カメラ付き携帯電話 朝鮮日報の趙義俊(チョ・ウィジュン)記者が、カメラ搭載携帯電話を韓国がはじめて製品化したと主張。 実際は1999年9月にDDIポケット(現ウィルコム)より発売された、京セラ製端末のVP-210が世界初のカメラ付き携帯電話(PHS)である。
WiMAX モバイルWiMAX(韓国内でのサービス名はWibro)は韓国が開発した技術であり、ロシアや東欧、日米等世界で急速に普及している。 モバイルWiMAXはIEEEと業界団体WiMAX Forumが策定を進めているものであり、韓国が開発した技術ではない。「Wibro」は韓国独自のサービスであるが、(固定回線の)WiMAXをモバイル向けにアレンジしたサブセットであり、独自技術とは言い難い。さらに言うと、Wibroはあくまでも固定WiMAXの規格(をモバイル向けにアレンジしたもの)であり、正式な「モバイルWiMAX」とは別規格である。

中国(満州を含む)の事物[編集]

事例 主張 反論
黄河文明 大朝鮮帝国史にて、黄河文明が韓民族により成り立ったとされている。この説に基づいた放送が韓国ヒストリーチャンネルでなされた 朝鮮民族は日本から中国にまたがる広大な土地を支配していた民族だと言う偽史を扱っているトンデモ本であり、韓国の学者の間でもほとんど相手にされていない。
古代東アジア文明 アメリカの Huntigton Career College(Career Collegeとは日本の専門学校の一種にあたる)の学長イ・ホンボム博士が、著書『アジア理想主義』において、「古代東アジア歴史文明の発源地は韓民族である」と主張している。さらに「古代の中国と日本の王国の政治権力基盤とパワーエリートたちの根は韓国人(古朝鮮人)である」と主張している。この著書について、韓国の毎日経済新聞は「この著書は、韓民族1万年の歴史の根を引き出すことで、古代中国と日本を支配・指導しアジアと人類文明の発展に貢献した韓民族の偉大性を世界中に知らしめる貢献をするだろう」と論評している。 古代東アジア歴史文明の発祥地は韓民族である、という主張には大きな矛盾がある。そもそも朝鮮の文化は確認できる限り紀元前8000年から6000年頃からの発祥(隆起文土器)であり、玉蟾岩遺跡に代表される紀元前12000年頃には存在したとされる長江文明とは数千年もの隔たりがある。また、日本の縄文土器も紀元前13000年頃には存在していた。このことから韓民族の歴史は東アジアでは比較的新しく、韓民族が歴史文明の発祥とは言えない。

そして、古代の中国と日本の王国の政治権力基盤とパワーエリートたちの根は韓国人(古朝鮮人)であると言う主張についての回答であるが、まず韓国人の遺伝子は中国人とは違い、日本人とは更に大きな違いがあり(Y染色体ハプログループの主な配分が大和民族はD2・O2b1であり、朝鮮民族はO3・O2b*である)、 古来より韓国人がそこまで強大な権限を持てるほど中国や日本列島に存在したという証拠が無い上に、古代の中国は多数の国家があり国家によって統治する民族系統も様々であった為、中国のすべての国家に遍かなければならない。

偉大性については、「韓民族の偉大性」という定義そのものがあいまいであり、その上中国文化・日本文化を色濃く受け継ぎ、また内戦と中国文明の隷属関係に長く存在した朝鮮民族には歴史上、世界的な目立った功績が見当たらない。

紅山文化 韓国航空大の禹實夏(ウ・シルハ)教授らが、蚩尤率いる東夷族、すなわち朝鮮民族が新石器時代遼河流域に発生した紅山文化を起こしたと主張しており、紅山文化は古朝鮮であると主張している。  
蚩尤 韓国の複数の学者、歴史小説漫画、インターネットサイトが、中国神話に登場する蚩尤は、東夷族すなわち朝鮮民族であり、檀君神話に登場する古朝鮮に存在したとされる「倍達国」の天皇であると主張している。蚩尤は、2002年日韓ワールドカップサッカーで、韓国サポーターグループ「レッドデビル」のトレードマークとしても使われ、韓国で一般的に良く知られている。

根拠は『桓檀古記』であり、倍達国の第十四代天皇である慈烏支桓雄が紀元前2707年に即位して109年間国を治めたが、この慈烏支桓雄が蚩尤だという。ゆえに蚩尤は韓国人であり、その図案は、レッドデビルのトレードマークになり得るという。しかし、『桓檀古記』にも「慈烏支桓雄は蚩尤である」とはっきり書かれているわけではなく、原文の新たな解釈が必要であり、その役割を果たしたのは、コ・ジュナン京畿大学校教授の2002年の著書「赤い悪魔の元祖-蚩尤天皇」であり、その中で、蚩尤は倍達国の王・慈烏支桓雄にほかならないと主張する。

中国が反発している。

約4000年前に現在の湖北省湖南省江西省あたりの地を苗族が占めており、「九麗」を建て、君主は「蚩尤」と称していた。また、蚩尤は古代中国では軍神として崇められており、劉邦が尊崇の対称にしていた。

水野俊平は、コ・ジュナン京畿大学校教授の主張を、おそらく年代と名称がなんとなく似ている(蚩尤〔チウ〕→慈烏支〔チャオジ〕)からだろうとし、資料的価値が全く認められていない『桓檀古記』を根拠に、そのなかにすら書かれていない結論を導き出す逞しい想像力には感服するほかないとし、要するに、サッカーの応援、ひいては民族主義発揚という大目的の為には、学問的信憑性など、二の次、三の次である充分眉唾な話、と批判している。

三皇五帝

「中国の上古史に登場する三皇五帝は皆我らの同胞である東夷族で、は東夷族が立てた国」と主張。 東夷族を同胞と定義づけている根拠が不明。なお夏と殷が漢民族以外の民族が王として君臨した国家であることは考古学的にある程度支持されている。
易学
八卦
河図洛書
科学
数学
現代文明
東方大学院大学の盧ジェファン教授が、「檀君神話に登場する桓雄の息子のテウが、河図と八卦を初めて描いて易学を創始し、一弱小国に過ぎなかった古代中国は、強大国である我が国の文明を受け入れるしかない状態だった」、「三皇五帝の一人の洛書魔方陣を初めて描いて、これらの易学が西洋に伝わって数学科学の元となり、西洋文明の大発展の原動力になった」、「現代文明のルーツは東洋易学である」と主張している。  
漢字 ソウル大学教授の朴正秀が漢字は韓国起源だと主張していると、人民日報が報道した。

また、歴史評論家の李ドクイルが「殷が東夷族の国家という事実を信じたくなかった漢族たちが、意図的に殷墟の存在を意識から消してしまった」、「漢字は東夷族の国家だったで作られたものである」と主張している。韓国の少なくない歴史学者や知識人の間で「東夷族は朝鮮民族だった」という認識があるために、李ドクイルは「朝鮮民族が漢字を発明した」と暗に主張している。また、韓民族史観定立意識改革会のポール・キム代表とキム・ムンチョ助言委員が、「檀君朝鮮はBC2333から2096年間実在した国家であり、漢字と漢文は朝鮮民族が作った文字であり、朝鮮民族の思想哲学が反映されている」と主張してニューヨークで講演している。さらにポール・キムは檀君王権が三神五帝教(三皇五帝)を祭る「蘇塗教」を作って堯王舜王、夏、殷、商信仰を中国大陸に広めたと主張している。

韓国における言語学の権威であり、国際漢字会議のメンバーでもある陳泰夏仁済大学碩座教授・漢字教育総聨合会理事長は、「漢字は韓国人の祖先が創造した文字。中国の学界も承認している」「漢字は中国の文字でない。われわれの祖先である東夷族が創造したもので、われわれのものだ。中国の学界も、この歴史的事実を認めている。韓国だけが知らない」と主張している。

KBSによれば、ソウル大学教授の朴正秀という人物は存在しておらず、また、朝鮮日報はそのような報道をしておらず、人民日報の誤報だという。

韓国では一般的に漢字は中国起源だとされているという意見もある。

なお、中華民国総統馬英九は、繁体字世界文化遺産申請と関連して、「韓国に繁体字の世界文化遺産登載申請を奪われるかもしれない」と憂慮を示した。

陳泰夏教授の主張に対して、中国人有識者の高巍氏は「歴史事実を無視して自分の想像を美化し、わい曲するのは、不健全な心理状態だ。結果としておかしな主張が作り出されていく」「起源説の主張は、後ろ向きな考えで、応用方法を開拓することが前向きな考え方であり、この視点の違いが民族の将来を決定づける」と反論した。そして、韓国の漢字起源説の主張から教訓を学びとるべきとし、「他人の気持ちを顧みず、自分をひけらかすことは、国のイメージを損ない、人にマイナスイメージを与え、こうしたイメージを変化させるには大きな代価を払わねばならないことだ」と述べ、起源説の主張は、自信のなさや、気力不足の表れであり、大国の示す態度ではないと述べた。

漢方
施術
韓国固有の医術として世界文化遺産登録しようという動きがあり、中国医学会と論争を起こしている。

2008年6月18日、大韓韓方医協会は「WHOの“鍼灸経穴部位の国際標準”に韓国の鍼術方法が採択された」と発表した。

この発表は国際問題化し、WHOと中国が反発した。また、WHOが非公式ルートで中国側に謝罪し韓国に対する抗議内容を伝えた。
阿骨打

韓国の古代史を研究している高句麗研究会(理事長ソ・ギルス西京大学校教授)所属学者たちが、学術セミナーで「女真族の金と満州族の清を広い意味で韓国史の一部に編入し、中国の悪意的な歴史歪曲に積極的に対処しなければならない」と主張している。キム・ウィヒョン明智大学教授は「宋史には金の太祖阿骨打の8代祖が統一新羅王族出身の金函普という記録がある」とし「統一新羅と渤海南北国と記述するように高麗時代を南北朝に分類することができる」と述べている。  
泰山府君
十王
京都市左京区にある赤山禅院では、泰山府君(十二天の一人焔摩天に従う眷属の一人)が赤山大明神として祀られているが、中央日報は泰山府君は新羅人張保皐(790年頃–846年?)のことであると主張。  
朱元璋 韓国のMBSテレビの番組『神秘な歴史サプライズ』が「明朝の初代皇帝である朱元璋は高麗人である可能性が高い」と主張し、中央日報をはじめとする他の韓国メディアも続々と追随し、韓国内では朱元璋が自国出身だったとして、歴史を書き直すべきだとの主張が相次いだ。

「朱元璋高麗人説」の根拠は韓国に残る民間伝承という。

これを報じた中国のニュースサイト環球網には、異例の多さのコメントが寄せられほとんどのコメントが、韓国に対する怒りやあざけりで、恥知らずと罵倒したり、秦の始皇帝オバマアメリカ大統領も韓国人と皮肉るコメントや、韓国がかつては中国の属国だったため、再統一すれば問題は解決とのコメントがなされた。

史実では朱元璋は安徽省鳳陽県の貧しい農家出身とされている。

李白
李商隠
李賀
李渉
中国新聞網の報道によると、ソウル大学歴史学教授の金秉徳は李白を朝鮮民族の末裔であると主張した。さらに姓が「李」である詩人(李商隠、李賀、李渉など)はみな、朝鮮民族の末裔であるとし、「中国が歴史事実をわい曲し、韓国文化を剽窃した」と主張している。 中央日報の報道によると、ソウル大学に金秉徳という教授は存在せず、完全な小説と評した。李は中国人にも多い姓である。
満州
愛新覚羅氏
完顔阿骨打
韓国KBSの番組『満州大探査』において、「満州はもともと韓民族の土地。清朝を樹立した愛新覚羅氏も、祖先は韓国人」と主張。

また大朝鮮帝国史の作家金珊湖は画集『韓国105代天皇尊影集』で、満州は元々韓民族の領土であり、「愛新覚羅」は「新羅を愛し、新羅を思え」という意味だから、新羅からの亡命者の子孫と主張。また、「金」の完顔阿骨打をキム・アグタという名で韓民族と主張。

高句麗渤海など半島を領土とした王朝が歴史的に満州地域の一部を領有していたのは事実だが(広い意味では扶余も入るのではないかと思われる)満州全域を支配していた事はない。また満州族のルーツである女真族と高句麗や百済のルーツは同じツングース系だとされているが、ルーツが同じだからと言って「愛新覚羅氏の祖先は韓国人」とはならない。

『韓国105代天皇尊影集』は『大朝鮮帝国史』と同じ著者による作品であり、こちらも実際の歴史ではなく空想歴史を扱っている図書なのでその信憑性はとても低い。

広西チワン族自治区
上海
また、韓国の圓光大学校教授が広西チワン族自治区の百済郷を調査し、「この地はかつて、百済の植民地だった」と発表。根拠は類似した民具があるほか、広西方言に韓国語に近い部分があるからという。また、大田大学校哲学科の林均澤元教授が2002年12月に韓国書鎮出版社から出版した「韓国史」において、の時代に、高句麗、新羅、百済が中国の大半を有しており、唐の版図は雲南省四川省などのわずかな部分に過ぎず、高句麗、百済を滅ぼしたあとの新羅の版図は、現在の東シベリアモンゴル華北地域など中国北部全体、華中地域、チベット自治区新疆ウイグル自治区など広大なものとなり、唐は華中地域や華南地域をおさえるにとどまったと主張。また、2007年大韓民国大統領選挙に立候補した許京寧経済共和党総裁は、「中国諸国と連邦をしてアジア連邦を作り、失われた高句麗領土を取り戻したい」「失われた渤海の旧領と、三国時代にヨーロッパまで伸ばした韓半島の故土を取り戻すのが私の夢だ」としている。 これに対して、上海大学の歴史研究者は「朝鮮半島南部の古代王朝の版図が朝鮮半島を越えて広がったことはなく、上海を統治したという事実もない」と批判している。
中秋節 『all that news』のカン・ソヒョン記者が、「中秋節は新羅の僧が唐に伝えたものなのに、中国が文化の源泉である韓国に、中秋節に行われる里帰りなどでの人口移動の人数を強調して、秋夕の文化が中国の文化だと圧力を加えている」と主張した。  
三足烏 三足烏が高句麗固有のの代表的な象徴物ということが学界の共通した見解と主張。韓国古代史専攻のユン・ミョンチョル東国大学教授は「これまで我々が無関心だったあまり、先祖たちのものを日本に奪われた格好」と述べている。 金烏あるいは三足烏は考古学的には長江文明に古く発見されており、同様の神話的モチーフは世界各地で発見されている。
豆乳 韓国の豆乳メーカー・サンユク物産が「韓国は数百年前から家庭で豆乳を作っていた。韓国が豆乳の発源地」と主張。 中国が反発している。
太極図 陰陽魚と呼ばれる現在の太極図は西暦1070年に中国で発行された『太極図説』より388年も前の682年に建立された新羅の感恩寺の礎石に刻まれているという。

さらに全南羅州伏岩里古墳群隣近の竪穴遺構から出土した百済の泗比時期(538~660年)の木製品1組から太極文様が確認されたとしている。

 
羅針盤 新羅が世界で最も早く羅針盤を作った」と主張。根拠は主に『三国史記』の記述の中で「唐の僧侶法案が新羅で磁石を貰った」と書いてある事と、「羅針盤」の名称は元々新羅にちなんで「新羅針盤」だったからだとしている。 羅針盤は中国発祥だと考えられており、11世紀の中国で沈括が書いた『夢渓筆談』にその記述が現れるのが最初だとされている。また羅針盤の本来の名前が新羅針盤だったと言う明確な証拠は存在せず、また『唐の僧侶が新羅で磁石をもらった』と言う記述を羅針盤を貰ったのだ、と決め付けるのも相当な曲解である。
囲碁 仁済(インジェ)大碩座の陳泰夏(チン・テハ)教授が論文「文字学から考えた囲碁のえん源」で「囲碁の発祥地は韓国」であると主張。 囲碁の発祥地は中国説が有力。囲碁の歴史参照。
シャンチー
(象棋・中国将棋)
韓国チャンギ(韓国将棋)協会のサイトにおいて、昌原大学シン・ソクファン教授が、「韓国のチャンギは中国から伝わったものではない。チャンギの宗主国は韓国。中国のシャンチーは韓国のチャンギの模倣。」と主張。 韓国のチャンギは、中国のシャンチーが朝鮮半島に伝わったものと考えられている。「王将」に当たる駒が、「漢」・「楚」と中国の古代の国名となっている。
印刷 韓国はドイツで『印刷術の起源国―韓国』という展示会を開いた。印刷に金属板を使った世界最古の活字本は朝鮮の『直指心体要説』とされる。 ただしより以前に中国で木版印刷が確認されている。よって印刷術の起源が韓国というのは曲解といえる。
ロケット 北朝鮮の朝鮮中央通信は、我が民族はかつて火薬を利用したロケット兵器製造に優れた才能を見せ、「早くも高句麗時代に既にロケット武器が製作されて使われた」と主張。また韓国の朝鮮日報は、「朝鮮王朝時代には世界で初めて2段式ロケットを開発した。」と主張している。 確かに当時から、矢を火薬で飛ばす火槍という武器があったが、開発したのは中国()である。
趙法鍾ウソク大社会教育科教授によると、紙の起源は高句麗技術であったという。 紙の起源は古代中国であるとされており、世界最古の紙は中国甘粛省放馬灘から出土した紀元前150年頃に書かれた前漢時代の地図だとされている。高句麗の歴史が紀元前37年頃から668年までである事を考えると、紙の起源が高句麗であった可能性は低い。  

その他の地域の事物[編集]

事例 主張 反論
人類 北朝鮮が主張している。黒い山葡萄原人参照。 (北朝鮮以外では全く支持されていない)
唐辛子 韓国政府傘下の組織(韓国学中央研究院および韓国食品研究院)が2009年2月18日に発刊した季刊誌『韓国の味・ハンオル』において、南米原産の唐辛子が、コロンブスがアメリカ大陸を発見する以前から朝鮮半島に存在していたと主張をはじめた。その後、2010年5月9日に「数千年前から朝鮮半島に自生していた植物だ」と主張し出した。 唐辛子はアメリカ大陸からクリストファー・コロンブスが1493年にスペインへ最初の唐辛子を持ち帰った後に世界に広まったという事が定説。
世界文明の始源
シュメール
桓檀古記三聖紀によれば桓仁が建てた桓国は12ヶ国で構成され、領土は南北5万里、東西2万里(朝鮮にして南北2万キロメートル、東西8000キロメートル)の連邦国家であり、7人の桓仁が在位する間、最長6万3182年間(通常は3301年間)持続したとする。世界文明の始源が韓民族にあると思われるほどである。桓国を構成した12ヶ国のうちの一つ、須密爾国を世界最古の文明を生んだシュメールとする人々もいる。 そもそも桓檀古記は日韓ともにまともな歴史学者の間では偽書であると認識されており、資料的価値はない。
世界言語 世界のあらゆる言語の元が朝鮮語であると主張している。

また、東方文字は韓半島で製作されて、放射線状に中国及び日本列島に広まったと力説している。

根拠は不明。
アステカ文明
インカ文明
培材(ペジェ)大学の孫成泰(ソン・ソンテ)スペイン語・中南米学科教授が、朝鮮民族が紀元前にベーリング海を渡って中南米のアステカ文明とインカ文明を建設したと主張。

根拠としては文章構造や個別単語などの色々な側面から言語を比較して、文章構造が似ていたり韓国語がそのまま残っている事を発見したからだとしている。

上記の「日本語」の項目と同じような問題を抱えており、これも学術的信憑性は薄い。比較対象として対応させている単語が恣意的であり、そもそも現代韓国語と現在に伝わるナワトル語のような言語との類似点を指摘する事自体にあまり意味がない。それは程度の差はあるにせよ、現代のナワトル語はかなりスペイン語の影響を受けているためアステカ・インカ時代に話されていた古代ナワトル語からはかなり変容しているからである。そして、既に指摘されているように文章構造が似ている事は必ずしもそれらの言語が近しい関係にある、と言う証明にはならない。
メソポタミア文明 大朝鮮帝国史にて、メソポタミア文明が韓民族により成り立ったとされている。この説に基づいた放送が韓国ヒストリーチャンネルでなされた。 上記のように朝鮮民族は日本から中国にまたがる広大な土地を支配していた民族だと言う偽史を扱っているトンデモ本であり、韓国の学者の間でもほとんど相手にされていない。
イギリス人 イギリス人の先祖は韓国人であると言う、韓国の画家である辺光賢が展開している数多くある起源説の中でもかなり図抜けたトンデモ説である。

ハングルの文法がスコットランド(及びウェールズ)やアイルランドの古語(ケルト語?)と似ていると言う理由と巨石文明があったからと言う理由からイギリス人は韓国人の子孫であると断定、また韓国語で「ムェ」が今でも英語の「moor」として残っていると主張している。さらに「ムェ」の人々(「moors」、すなわちムーア人)とはウェールズ地方とイングランド西南のコーンウォール地方、そしてアイルランドに住んでいたアジア人たちの子孫の事だと主張している。また、それ以外にも古代にローマ帝国がアイルランドに侵攻しなかったのはギリシャとローマの前身が巨石文明を築いた韓半島の子孫たちであり、当時アイルランドも韓半島の子孫たちが国を治めてたから侵攻しなかったのだと主張している。

歴史的に言うのであれば、ケルト人は必ずしもイギリス人の祖先とは言えない(祖先の一部、だとは言える)。まずケルト人が住んでいたブリテン島ガリアを制覇したローマ人が侵入して島の南部に定着、ローマ帝国がブリタニアを放棄した後はアングロ・サクソン人がやって来てイングランドの大部分を支配した。彼等は元々ゲルマン系の民族であり、現代の英語がゲルマンルーツなのは彼等の影響によるところが大きい。また、その後はデーン人による侵略と支配を受け、アングロ・サクソン系の王朝がそれをなんとか退けたものの最終的にはノルマン・コンクエストによりノルマン人に征服され、今に至っている(王朝はその後も色々と変わっているものの、外部勢力による征服はこれが最後であったと言える)。このように現在の「イギリス人」は様々な民族の混血であり、ケルト人だけにルーツを求められるような民族ではない。

また、確かに英語に「moor」と言う単語は存在するが「moor」とは「荒地」の意味であり、英語で言う「ムーア人」とは14世紀頃から使われだした北西アフリカのイスラム教教徒の呼称である。古代にイスラム教は存在しないため(イスラム教は西暦610年頃に創始されたものである)その時代に「ムーア人」なる呼称が使われていた可能性は限りなく低い。

「ギリシャとローマの前身が韓半島の子孫達だった」と言う説もかなりのトンデモ説だが、そもそも当時のアイルランドに国と呼べる体裁のものは存在しなかった。また、古代ギリシャの国々やローマ共和国(及びにローマ帝国)が石材を使って色々と建設したのは事実だがそれらは「巨石」と言うより「建築」に近い存在であり、巨石文明と言うカテゴリーに入れるのは無理があると思われる(巨石文明とは本来やや原始的な文明が作った巨石建造物を指して使われる事が多い)。

漬け物
ピクルス
世界キムチ研究所の朴完洙初代所長は、「外国人にはキムチをコリアンピクルスと認識している人が多い。逆に言えば、ピクルスや沢庵など漬け物類がすべてキムチの一種ということだ」と主張。 「ピクルス」は英語で「漬物」と言う意味であり、キムチがコリアンピクルスと呼ばれているのは単にキムチが「韓国風漬物」だと認識されているからだと思われる(日本の漬物はどんな漬物であれ「ジャパニーズピクルス」で一緒くたにされている事が多い)。なぜここから「全ての漬物はキムチの一種」まで論理が飛躍するかは不明。
チンギス・ハン 韓民族史観定立意識改革会のポール・キム代表が、「モンゴル靺鞨なども朝鮮族の後裔で、このような意味でチンギス・ハーンも韓民族」と主張。この主張に基づいて、韓国のゲームメーカーが、「チンギス・ハン」というオンラインゲームを制作した。 中国メディアが「わが国の民族的英雄をおとしめるものだ」とかみつき、中国のゲーム専門サイト「多玩遊戯」は、「怒!韓国はオンラインゲームにチンギス・ハンを利用、中国の民族的英雄をおとしめた」「韓国のゲームはいつも、中国の人物や名所を利用している」「韓国の一部の人間は孔子も韓国人だなどと、大笑いの研究成果を発表した。このように幼稚な行為では大韓民族を美化できないばかりでなく下劣な心情が暴露されてしまうだけだ」という記事を掲載した。

韃靼と朝鮮民族のルーツが同じだと言うことは主張できるもののだからといって、韃靼のルーツが朝鮮民族だ、と言うことはできない。

騎射 朝鮮日報が、韓国発祥の「騎射」、騎射競技の「宗主国」は韓国、などと紹介。 騎射は紀元前8世紀頃、スキタイ人により始まったと考えられている。記事の中では「宗主国である」とだけ記してあり、その根拠は不明。


アッティラ 羅針盤新羅起源説を主張している人物(イ・ジョンホ)が自分の著書(「ローマ帝国の征服者アッティラは韓民族」)で展開している説。 そもそもアッティラ(フン族)がローマ帝国(当時はすでに西に分かれていた)を完全に征服したとは言いがたい上に、フン族自体の出自が現在でも分かっていないため何を根拠に韓民族だと主張しているのか不明。
サッカー 大韓サッカー協会が自身のウェブサイト上で「サッカーの起源は朝鮮半島」と書いており、多くの抗議を受け削除したとのこと。全く根拠不明。また、『東亜日報』は、「サッカーに関するもっとも古い国内記録としては、三国史記三国遺事に記されている『新羅29代太宗武烈王(在位654~661)が王位に就く前に、金庾信(キム・ユシン)将軍とともに蹴鞠をした』という記述が挙げられる」と報じた。 そもそも蹴鞠のように足だけでボールを扱う球技は世界各地にあり、イングランドが初めてスポーツとして体系化させたから「サッカーの母国」として認められているということを認識する必要がある。
複式簿記 韓国の老舗の朝興銀行はサイトで、松都四介治簿という言葉をたまに聞くことはあっただろうが、これが世界で最も先んじた複式簿記であることを知る人はあまり多くない。しばしば複式簿記は14世紀を前後してイタリアの商業都市であるベニスで生成されたと思われているが、松都四介治簿はこれより200年先んじて開城の商人たちによって創案されていた、と主張。これは金基浩編「開城旧京」(大韓公論社1972年)による主張であり「簿記学上、完全を期して人類が草案した最初の簿記」としている。松都四介治簿が貸借概念や損益概念を含めた高度な帳簿体系を含んでいたことは定説であるが、複式簿記の形態を獲得した時期については定説はなく少なくとも18世紀末には初期の形態が確認できるとするものである。 定説では、複式簿記は12世紀頃のアッバース朝イスラム商人によって発明された。リスク、チェック(小切手)などの言葉もアラビア語由来であり、起源はイスラム世界である。その後、複式簿記のしくみはヴェネツィアやジェノヴァの商人を経てヨーロッパにもたらされたとされる。


床暖房 「床暖房が韓国のオンドルが起源という事実はある程度の専門家ならみな知っている。」と説明しながらロンドンの富裕層の間で床暖房へのリフォームが増えていることを中央日報が報じる。 イギリスでは床暖房は紀元前80年にローマ人セルギウス・オラタが発明したとしている。
パク・ソンフィ祥明大学校教授が、論文「古代韓国鎧の源流と東アジアに及ぼした影響」において、武具が中国から伝わったのではなく、古朝鮮と高句麗が元祖で朝鮮から中国に伝わったと主張している。古朝鮮の領域にあった粛慎で骨鎧を作ったという記録があるという(陳寿東夷列伝粛慎氏族)。 詳細不明。東夷伝には粛慎伝はない。ユウ婁伝に「昔の粛慎国である」とあり、東夷伝の頃には粛慎はなかった。なお、ユウ婁伝には弓の記録はあるが、鎧の記録はない。
飛行機 世界初の飛行機はライト兄弟より300年先に作られた朝鮮時代の“飛車”であると主張。朝鮮後期実学者イ・ギュギョンが書いた「五洲衍文長箋散稿」によると、壬辰の乱の時に、城を倭軍に包囲された城主が飛車を使い、城から30里外まで脱出したという。 飛車が実際に空を飛んだことを証明する遺物や設計図がない。
捕鯨 釜山日報』が、「蔚山の代表的文化遺産は国宝285号盤亀台岩刻画。人類捕鯨の歴史の起源だというこの岩刻画に鯨と鯨を捕る絵が出る。3千年前の絵だ」と主張。
ビッグバン 地球が生まれる前に宇宙が存在した、そんな宇宙が生まれる前に起こったビッグバンによって宇宙ができたという実在する説があるが韓国はビッグバンが起こる前から存在し韓国がビッグバンを起こし宇宙を作り出した

その後に地球を作ったという主張

人類が誕生すらしていない地球が存在する前から国が存在しているわけがない、そもそも国とは何なのか  

韓国起源説とは言えないもの[編集]

上述のような起源説だけではなく、実際には単純に無知ゆえに勘違いしていたり類似文化を普及度で本家主張しているだけの場合もある。韓国起源説が日本でもよく知られるようになったことで、韓国が別に起源主張しているわけでないものまで韓国起源説として誤解されることがある。以下、例を挙げる。

『ドラえもん』
ユンソナが『ドラえもん』を韓国人が作ったキャラクターだと思っていたという事実を「ドラえもん韓国起源説」と認識した日本人もいるが、実際には現在韓国においてもドラえもんは日本のマンガとして扱われ、1994年から刊行が始まった正規出版の単行本では作者名Fujiko F Fujioと日本語名で書かれており、日本の作品であることが明記されている。ユンソナがドラえもんを日本のマンガと知らなかったのは個人の知識の問題である。
海賊版
しばしば『ドラえもん』『ONE PIECE』『らんま1/2』などの海賊版や、韓国で製作されたそれらの作品に酷似する作品が「韓国起源説」の一部として取り上げられることがあるが、それは起源主張をしているわけではなく、単に著作権の問題であって、すでに世界に知られている日本文化を韓国が起源であると世界にアピールする韓国起源説とは異なる。
シルクハット
李氏朝鮮時代の男性礼装帽子カッ(笠)」は、ヨーロッパの帽子「シルクハット」より起源が古いため、シルクハットの起源と主張する妄言。シルクハットの起源は、「それまでヨーロッパで用いられていた「ビーバーハット」が高価なため、その代替品として1800年代の初めに考案され、1820~50年にかけて、男子帽として流行した」というのが定説であるが、この説の支持者は、「カッ(笠)」が「シルクハット」の誕生に影響を与えたとするもの。
焼肉
日本の焼肉の発祥は韓国・朝鮮であるとすることが多いが、20世紀初頭の報知新聞においてタレにつけた薄切り肉を炭火で焼いて食べる調理法が紹介されており、この調理法の原点は明治期の書物と紹介されている。そもそも肉を焼いて調理する文化は普遍的なものであり、日本の焼肉店は戦後日本で形成された外食文化である。これは「日本における韓国起源説」の典型であり、戦後の焼肉店の名店とよばれる店のうち、多くが在日韓国・朝鮮人により創業・経営されてきたこと、あるいは精肉をタレに付け込んだのち焼く調理方法がたまたま李朝宮廷料理のレシピに類似することなどが影響していると見られる(壷漬けなど)。むろん下拵えとしてマリネした牛肉等を焼いて提供する調理方法は西欧やアメリカでは一般的であり、このことをもって朝鮮文化起源と呼べるわけではない。またキムチやビビンバなど、朝鮮料理を象徴するサイドメニューがしばしば豊富に提供されることが韓国起源説を補強するわけであるが、これらサイドメニューの起源と焼肉料理の起源の考察とはやはり分けて考える必要がある。在日韓国朝鮮人が日本の第二次世界大戦後に顕著に見られる焼肉料理店の発展に深く関係するようになったのは戦前戦中および戦後に彼らの社会(在日社会)が置かれていた状況に深く関わっており、また彼らのビジネスが戦後に、結果として非常に成功したことによるものであって、焼肉料理が朝鮮半島の食文化に深く根ざしていたからではない。実際の朝鮮半島では李氏朝鮮期に日本ほど獣肉食に対するタブーこそ存在していなかったものの、牛や豚などといった獣肉は庶民に手の届くものではなく、暖炉会などという特権階級の年季行事における特別な料理として発見できるような種類のものであった。第二次大戦後から1980年代ころまでの日本風の「焼肉店」は首都ソウルの近郊で日本人旅行者むけに営業している「韓定食」店であり、2010年代の現代でも日本のように臓物(ホルモン)なども食べさせる店は一般的ではない。韓国・朝鮮の食肉文化は日本と異なるものであり、韓国焼肉とされる暖炉会に見られる料理はプルコギないし日本で言うすき焼きに近い。日本の焼肉店は七輪ロースターなど独自の民具を利用した独特のものでより大衆的なものである。「焼肉の起源は韓国」なる表現の場合、曖昧性の誤謬を多分に含んでおり「韓国風焼肉の起源は韓国」と話者が熱心に主張しているにすぎない場合はエスニズムを目的とした自文化の誇張とは言えないだろう。

韓国起源説に対する反応・分析[編集]

  • 国際政治学者の大礒正美静岡県立大学教授は、「何でもかんでもこじつけてしまうわけです。特に日本を見下し、何を言ってもいい、という感覚がある。韓国国民が起源説を信じているというよりは、ワーワー言うのが楽しいという感じ。それにメディアが乗っかって話を大きくするわけです」と分析している。
  • 西尾幹二は、「韓国は日本のコピーである。だから、ほかでもない、韓国人は韓国のコピーを日本にさせたい。それは妄執に近い彼らの欲望となっている。日本海東海と呼ばせようとするのも、空手の一流派をテコンドーと名づけてオリンピック競技に仕立て、韓国起源を演出するのも、『竹島の日』が出たらただちに『対馬の日』と言い立てる荒唐無稽も、こういう子供っぽいことをしようとするのはすべてみな日本を意識しての話であって、世界地理学会が古くから日本海と名づけ、日本人が長い伝統を持って柔道を世界的に普及させてきた....等などの日本の真似をそっくり演じ、しかもそれを日本にも強制する。コピーのコピーをさせようとする」と分析している。
  • 中宮崇は、「朝鮮人は、自分たちこそ世界でもっとも優れた民族だと思い込んでいる。彼らが勝手に内輪で盛り上がっているだけなら、朝鮮民族ごときが何を考えていようがなんの影響も害もないのでどうでもよいのだが、まったく根拠のない噴飯ものの思い込みが高じて、世界中に赤っ恥をさらす事態にまで発展してしまうこともしばしばだ。(中略)もっとも有名なのは、1998年に韓国の各マスコミが『日本人サッカー選手の中田英寿は、実は在日3世である』と報じてしまい、中田本人から抗議を受けたという事件である。これは韓国マスコミの特殊なミスリードではない。実は同様の捏造報道は、気づかないところで数限りなくなされているのである。朝鮮人はよほど日本人にコンプレックスがあるのか、こうした在日認定の傾向は、マスコミだけに見られる特徴ではない。むしろ、朝鮮人全般にわたって広く一般的に見られる症状であると言える。なにしろアメリカ大リーグのホームページにまで、『野茂や松井は実は日本人ではなく朝鮮人なのだ』と怪しげな英語で投稿する朝鮮人が後を断たず、アメリカ人にやんわりと諭され、それに逆ギレして失笑を買うという黄金パターンは今も健在だ。歴史上の人物についても同様である。例えば、豊臣秀吉といえば、朝鮮半島に攻め込んだということもあって彼らにとっては悪魔のごとき人物なのだが、その豊臣政権を倒した徳川家康は、朝鮮人には意外とウケがよい。そして彼らにとって、悪魔を倒した英雄は、当然日本人ではあり得ず、朝鮮人でなければならないのである。そこで驚くべきことに、『徳川家康は実は朝鮮人である』という妄想を平気で口にする朝鮮人が出てくることになる。いや、信じられないだろうが、こういうおバカな朝鮮人はマジで多いのだ。(中略)日本人であるはずはない、朝鮮人であるに違いないという、哀しいコンプレックスゆえのことであろう。まぁ、勝手に妄想して勝手に笑い者になってください」と批判している。
  • 呉善花は「最近は韓流ブームですから、それに乗じるかたちで韓国ではルーツの話がかまびすしい。日本文化は着物から剣道に至るまで、すべて韓国ルーツだと、ネチズンあたりが中心になって盛んにいってます。しかも日本人には、日本文化は韓国ルーツだと思い込みたがる人がかなりいて、韓国人がそう言い張ると、ああ、あれもやっぱり朝鮮半島を経由して日本にもたらされた、と思ったりしてしまう」「(茶道韓国起源説に対して)そもそも朝鮮半島にはお茶を飲む習慣がありません。一部には、高麗時代まではあったようです。韓国ではご先祖さまに供え物をつくり、命日に親戚が集まってお辞儀をして迎える儀礼の事を茶礼と呼びます。なぜ茶礼という言い方をするのか。おそらくかつてはお寺で仏さまにお茶を捧げていたのではないか。しかし、儒教が地盤を拡大して仏教弾圧が行われ、仏教的な匂いのするものはすべて消されてしまったのではないか、という学問的な推測があるんです。世界中でお茶を飲む習慣がないのは朝鮮半島だけです。日本はいわずもがな、中国には烏龍茶があるしヨーロッパにもティーがある。ただし、十数年前から韓国人もお茶を飲みはじめました。当時、韓国の一流化粧品会社であるアモレの社長が世界各国を巡って、どの国にもお茶があるのにどうして朝鮮半島にはないのかと思い、日本にあるような緑茶済州島山麓で栽培したんです。そして、その後、自社から美容によいという触れ込みで売り出した。(中略)また、同じころに在日韓国人が韓国に行って、お茶を飲む習慣があったという歴史を捏造しました。驚くべき事に、家元までつくりあげてしまったんです。たかだか十数年前からの家元ですが、ルーツ好きな日本人は韓国でお茶の店に行くと、『そうか、ここが発祥なんだ』と感心してしまう。かなりお茶に長けた方でもそう思い込んでいる方がいます」「朝鮮半島が中心になる小中華思想では、中国を従属国とするわけにはいかない。つまり韓国にとっては、周辺国家といっても日本しかないわけです。しかもというのは蔑視しやすい。(中略)反日感情のある韓国人は、必ず日本人に対して威張った言い方をしますし、精神性や血統についても韓国のほうが優れている、と思っています。一流大学の歴史学者までがこのような主張をしていて、ある韓国の学者が日本へ行って奈良などを散策したあとに、自国で『日本は韓国だった』という内容の本を出版しました。(中略)色々な建造物を見て歩いたら、いかに日本が韓国であるかがわかった、と」「実際のところ、韓国オリジナルのものはあまりありません。仏教でも漢字でも、中国から韓国に入って日本に流れたものがほとんどです。いちおう韓国の学校でも、韓国にあるものの多くは中国発祥だと教えますが、その部分はほとんど強調されず、中国から入ったものを何百年もかけて朝鮮半島的なものに作り変え、それを何もない未開の地であった日本に伝えてあげた、ということだけがプレイアップされる。たとえば韓国人は中国仏教百済仏教アレンジして、それを日本に教えた、というわけです。そんな状況だから、高校まで歴史教育を受けてきた一般の韓国人は、中国のことなど頭から飛んでしまって、『すべては韓国発祥で、われわれはそれを日本に教えてあげた』となる。そして、それこそが韓国人の生きがいといっていい」と分析している。
  • 黄文雄は、「韓国人のナショナリズムが高揚するにつれて、日本に対する韓国起源説がどんどん強くなってきた。そして、神功皇后は新羅人皇女だ、素戔嗚尊は古朝鮮人で、日本を征服して出雲王朝の祖となった、天照大神は百済人で、近肖古王のふたりの王女のひとりであった、などといったさまざまな荒唐無稽な説が出てきた。そのためのこじつけとして、奈良は韓国語で国の意味だとか、そのナラに天神が降臨したという神話があるとか、珍説奇説やら屁理屈をまくしたてる。また、こういった日韓同祖・同種の話は、韓国人の著書にいやというほど出てくる」「応神天皇は韓国人だった説、允恭天皇天武天皇も、さらには卑弥呼も韓国人だった説まであります。これは韓国人の民族主義や自尊心を満足させるようです。しかしほとんどの天皇韓国人説は資料の厳密な検証の欠陥と支離滅裂な論証、そして恣意的な資料を引用したもので成り立っています」「韓国は武士道だけでなく、天皇神道相撲剣道茶道歌舞伎俳句和歌芸者忍者日本建築神代文字扇子折り紙寿司刺身納豆錦鯉秋田犬に至るまで、あらゆるものを韓国起源だと主張してきましたが、理論は飛躍していて牽強付会、話になりません。中国との間でも漢字石碑印刷技術針灸の起源をめぐった争いがあり、しまいには孔子秦の始皇帝まで韓国人だと言い出すので、中国人学者と韓国人学生の間で乱闘騒ぎまで起きたほどです」と韓国起源説を荒唐無稽だと評している。
  • ジャーナリスト竹嶋渉は、剣道茶道の韓国起源説について、「なぜ韓国人はこのような奇妙な主張を展開するのだろうか。剣道と茶道ではその背景がかなり違う。茶道の場合には単純に『日本には高尚な文化があるはずはない』という偏見と『日本は野蛮国なのだから、日本に高尚な文化があるとすればそれは韓国が伝えたものである』という鼻持ちならない高慢な優越意識が背景にある。剣道の場合はこれとはやや異なっている。現在、韓国で公式競技として行われている剣道は日本の剣道とほぼ同じものである。日本に対して高慢な優越意識を持っている韓国人にとっては、野蛮人である日本人の武道を学んでいること自体が心理的負い目として作用する。そこで『剣道の起源は実は韓国だった』ということにしておけば、こうした心理的負い目をきれいさっぱり払拭してくれるばかりか、国内向けに愛国者面をすることもできて、一石二鳥というわけなのである。故に韓国において、日本の剣道や茶道の起源は学究的な問題ではない。日本に対する優越感を満足させ、劣等感を克服するという精神次元の問題なのである」と分析している。
  • 桜井誠は、「韓国人の日本文化朝鮮起源説は、対日劣等感の裏返しであり、言い換えれば朝鮮にはまともな文化がなかったと認めているのに等しい。常に歴代中華帝国の徹底的な蹂躙を受けてきた朝鮮半島では、自分たちを小中華と呼んで中華の正統な後継者と勝手に位置づけ、また中華文化圏からいち早く抜け出した日本などを東夷と呼んで蔑むことで、かろうじて崩壊寸前の精神の均衡を保ってきたのである。(中略)現在に到るまでの朝鮮に共通しているのは『日本のような東夷に立派な文化などあるはずがない、あるならそれはきっと朝鮮半島から渡来したはずだ。世界が日本の文化を賞賛するのは間違っている。賞賛するなら宗主国たる朝鮮を賞賛するべきだ』と多くの人が本気で思っている事であろうか。だからこそ、今後も世界で賞賛されるような日本の文化が表に出てくれば、必ず『それは朝鮮起源だ』と主張してくるであろう。日本文化朝鮮起源説とは、まともな文化を何一つ持つ事が出来なった朝鮮民族の悲しい叫びなのである」「韓国では、あらゆるものが韓国起源であると本気で信じている輩が大勢いる。さすがにトンデモ話として韓国でも受け止められているだろうが、『10万年ほど前に存在した韓国語が世界の宗主言語だ』という主張をのたまう韓国人も少なくない。(中略)韓国にまともな歴史や文化が存在しない事は、少しでもかの半島の歴史を勉強した方なら納得いくことだろうが、だからこそ屈辱にまみれた朝鮮の歴史を認める事が出来ない韓国人たちは、たとえ捏造してでも、自分たちがいかに誇らしき民族であるかを世界に示したいのである。韓国人の歴史や文化に対する劣等感は、日本人には想像できないほど凄まじいのである」「空手相撲だけではなく、韓国人は日本のあらゆる文化を盗もうとしているんだ。『誇るべき文化がない』→『世界的に有名な日本の文化を韓国起源ということにしよう』→『文化を手に入れると同時に日本の足を引っ張れて一石二鳥』というわけさ。しかも韓国人はインターネットを通じて、捏造起源情報を世界中に宣伝しているんだ」と分析している。
  • 週刊大衆』は2008年11月3日号で、「ここ数年、主に都市部で激増した中国のネット利用者を中心に、韓国への怒りが蓄積されていたことがあります。その理由となったのは、いま韓国で流行している韓国起源説なんです。韓国起源説とは他国の文化や事物などを、すべて『韓国発祥だ』とする学説。『日本の剣道柔道寿司うどん歌舞伎日本語などは韓国発祥』というものから、『世界の古代文明もすべて韓国が発祥で、イギリス人の祖先も韓国人』などという、もはや笑うしかないものまであるのだが、韓国では、大学教授やマスメディアを含め、ごく一部ながら、こうした説が大マジメに議論されている。いつ頃から存在したかは不明ですが、日本や中国で知られるようになったのは、インターネットが普及してからです。歴史的に中国や日本の圧迫を受けてきた国だけに、韓国人(朝鮮民族)が世界一だと思いたい心理が、こんな説を生んだんでしょう。そして、中国の文物に関しても韓国起源とする説はある。漢字や漢方、活版印刷などの事物、老子や孔子といった偉人についても、『韓国生まれだ』という主張がなされてきた」と韓国起源説を分析した。
  • 中国人ジャーナリスト戴世煜は『週刊プレイボーイ』で、「韓国は中国人の永住を拒絶したり、中国より古い5千年の歴史があるとか、漢字は朝鮮が起源だといった主張が嫌われる原因です。特に高齢者の間で反韓意識は高いですね。第二次世界大戦中、日本の手先として中国に攻め入ったのに戦勝国側に居座っている事が厚かましくみえるのでしょう。極めつけはベトナム戦争で米国側についた事。その後の韓国の経済発展も米国の援助のおかけだと見て米国の犬と考える人も多いからです」と韓国起源説が中国における嫌韓を助長していると指摘している。
  • 中国新聞網は、このような起源主張について「文化の強奪を通じて、文化の少なさを補おうとしている」「韓国が他国の文化を強奪するのは、文化に対するコンプレックスがあるからだ」と分析し、文化に固執する理由として「経済的・政治的に成長を遂げながらも、世界に対する影響に制約があるのは、自国の文化的影響力が足りないためと思っているからに違いない」と分析している。中国人はこのような主張に対して理解に苦しむという意見が大半だが、「韓国からの強奪にはもう慣れてしまった。孔子だけではなく、仏教の開祖・釈迦ですら韓国人なのだから」といった皮肉も見られる。
  • 勝谷誠彦は、朝日放送ムーブ!』で「散々日本もやられてますからね。病気なんですよ。自分が何でも発祥だって言うのは。柔道だって剣道だって韓国が発祥だって言ってるし。まともに相手しちゃだめだね」と発言している。

起源説の捏造[編集]

韓国メディアの反論[編集]

韓国起源説に対する、日本や中国、台湾の注目度が高まったため、韓国国内でもそのことが報道されるようになった。

2006年に人民日報のウェブサイトに、「お笑い!韓国人が漢字を発明したって?」というタイトルの記事が掲載された。記事は「漢字を韓国人の発明として世界遺産に申請すべし」という進言があるという話を紹介して、「韓国側は伝統文化の分野における様々な挑発を図っている」として、韓国が端午の節句を韓国発祥の世界無形文化遺産としてユネスコに申請して認められた事を、「我々中国人は反省せざるを得ない」としている。そして、「孔子の生地とされる場所が、韓国によると、以前は韓国領だったから」「朝鮮半島で最初に立てられたとされる『箕子朝鮮』の王と孔子が血縁関係にある」という「孔子は韓国人」や「漢方を『韓医』に改めて世界遺産に申請しようとしている」「韓国はドイツで『印刷術の起源国-韓国』という展示会を開いた」など中国起源のものが韓国発に書き換えられようとしているケースを紹介している。こうした中、韓国メディアは報道内容が事実でないとして、いくつかの韓国起源説の反論を行っている。

例えば、東亜日報が「製紙技術や印刷技術、羅針盤などはすべて、韓国のほうで発明されたもので、後日、中国の中原地域へと伝わった」というソウル大学の教授の説を掲載したとの報道が中国でなされたことについて、東亜日報は事実関係を否定しており、そのような主張をした朴ヒョブプン教授という人物は実在しないという。また、同社は、朝鮮日報が「成均館大学歴史学部の朴ブンギョン教授は、中華民国を建国した孫文は韓国系の人物だという論文を発表した」という記事を掲載したという中国での報道に関しても、事実関係を否定し、またそのような教授は実在せず、中国が嫌韓感情を助長させるためにおこなった捏造であるとしている。

また、KBS聯合ニュースは、人民日報が「ソウル大学の朴正秀教授が、漢字を韓国の文化として世界遺産に申請しようとしている」というニュースを報道したことについて、人民日報の誤報だと伝えた。さらに、台湾で報道された、孔子、老子釈迦、孫文、万里の長城の韓国起源説について、事実関係を完全否定し、「荒唐無稽な台湾メディア」「台湾メディアは最近1-2年でこんなとんでもない報道を相次いで行っている」と伝えた。また、別の記事では「でっちあげ」「事実歪曲」という言葉を用いて台湾メディアを批判した。

中央日報は李白朝鮮民族説も、説を唱えたとされるソウル大教授が実在しないとして、中国メディアを非難している。また同社は、韓国が綱引きをユネスコに申請予定であるという中国紙の報道に対しても、事実でないと反論している。

また、中国での報道によると、韓国のテレビで60歳ほどの韓国人男性が中国の若手作家・韓寒は28年前に失踪した息子であると語り、1982年に妊娠した夫人と上海を訪れたが、パスポートを紛失してしまい帰国できず、上海で出産を迎えた。夫人は男の子を出産したものの、買い物のために訪れたスーパーで男の子とはぐれてしまい、そのまま生き別れとなったという。韓国人男性は中国を訪れたうえでDNA検査を行い、韓寒に真相を伝えたいと語った、とされる。この報道に対し、東亜日報は、騒ぎの元になった中国のポータルサイト「騰迅」が、そのようなテレビ報道はそもそも存在しなかったと認めた、と伝えている。

悪戯による起源説の流布[編集]

インターネット上では、わざと冗談目的で新たな韓国起源説が創造され、それがあたかも本当の報道であるかのように誤解され、流布されることもある。

YouTubeでは、続出する韓国起源説を受けて、韓国の歴史と文化は周辺国を盗作したものと主張する動画が出回っている。「All Your Culture Are Belong To Us(お前らのすべての文化は私たちのもの)」という動画では、対象に照射すれば全てのものをそのままコピーできる「文化盗作光線」を発明した韓国人が「世界のすべての国の文化は韓国のもの」と主張する内容で、韓国人は儒教漢字歌舞伎など周辺国の文化遺産を盗作して自分のものだと言い張り、韓国人が自動車を発明し、忍者も韓国が元祖という内容が出てくる。「Korean history - Cultural Plagiarism(韓国歴史-盗作の文化)」では、「韓国人の盗作に対してノーと言おう」という内容で、韓国人でない人物を韓国人と言ったり、他の国を韓国の土地だと紹介したり、盗作を日常的に行う韓国人が他の文化圏の遺産を盗作していると皮肉るものである。「Korean Created the World`s Civilization(韓国人が世界文明を創造した)」というタイトルの動画では、古代中央アジアで突然現れた韓国人が黄河インダスシュメールエジプトなど世界主要文明を建設したという内容が出てくる。「All Japanese Culture Are Belong to Us(すべての日本の文化は私達のもの)」という動画は、韓国人がキムチと亀甲船とともに宇宙空間に現れるシーンから始まり、自らを「世界で最も知的な民族」と自称し「すべての日本文化は韓国から来た」と主張し、韓国人のような外見をした人物が「韓国の歴史書にそのように書かれていて、すべて証明されている」と主張する。動画は、これに「信ずるに足らない。日本は独自の文化を自分で作ってきた」と答え、日本の文化は韓国ではなく、中国をはじめとする他の国から広まったと言い、「柔道剣道合気道盆栽寿司などのすべての優秀な日本文化と韓国文化には関連がない」とし「韓国人よ、嘘はいけない」とアドバイスする。この他にも「日本は韓国の土地だった」「ジンギスカンは韓国人だった」「韓国人が飛行機を発明した」「韓国人は現代科学技術の起源」「イエスは韓国人だった」等のタイトルをつけた動画が存在する。

脚注[編集]

  1. 日本海を東海であると主張した後、証拠が続々と出現、その後、韓国海であると主張すると、それよりも古い証拠が続々と発見されている。

関連項目[編集]