岡田有希子
岡田 有希子(おかだ ゆきこ、本名は佐藤 佳代(さとう かよ)、1967年8月22日 - 1986年4月8日)は日本の80年代のアイドル歌手の一人。愛知県名古屋市熱田区出身(出生は同県一宮市)。名古屋市立向陽高等学校→堀越高校卒業。所属事務所はサンミュージック。当時キャッチフレーズは「ステキの国からやってきたリトル・プリンセス」。その後「いつまでも、一緒にいてね」と変わった。
目次
略歴
中学3年生の時にオーディション番組『スター誕生!』の第85代チャンピオンになり、芸能界入りする。1984年4月21日に『ファースト・デイト』でアイドル歌手としてデビュー。同年、日本レコード大賞最優秀新人賞を受賞。ポスト松田聖子と評された典型的な「清純派アイドル」の一人であり、その「ユッコスマイル」と呼ばれる愛らしい笑顔と控えめなキャラクター、笑顔とアンバランスなグラビア映えするスタイルで人気を博し、テレビ、ラジオ、CMと引っ張り凧になる。1986年1月、カネボウのキャンペーン・ソング『くちびるNetwork』が大ヒット。しかし、人気絶頂の中、所属事務所ビルから投身自殺。人気アイドルの突然の死は18歳という若さとともに、ファンや芸能界のほか、社会にも大きな衝撃を与えた。
没後10年以上経過してもなお、収録曲をファン投票で選んだベストアルバムが2002年に発売されたり、同年リリースのアルバムBOXが3万枚以上を売り上げるなど人気は根強く、活動期間がわずか3年であったにも関わらず、“永遠のアイドル”として今なお多くの人々に慕われ、その夭折を惜しまれている。
生涯
デビューする以前の出来事
1967年(8月22日~12月)
1969年
- 2歳で、名古屋市熱田区に引越す。
1972年
1974年
- 4月に名古屋市立高蔵小学校に入学する。
1975年
1977年
- 4年生になり、絵画教室に通う。
1979年
1980年
- 3月に同小学校を卒業をする。
- 4月 名古屋市立沢上中学校に入学する。一年から油絵を習い始める。[2]河合奈保子のファンになる。[3]
1982年
- 中学2年生の頃、『ホリプロタレントスカウトキャラバン』など様々なオーディションに応募するようになる。ニコンの「フレッシュギャルコンテスト」で準グランプリに選ばれる。
- 中学2年生の終わり頃、芸能界入りを両親に大反対される。
- 中学3年生の時に両親より芸能界入りをあきらめさせるために、クリアできないと思われる条件(学校のテストで成績が学年で1番になること、中部統一テストで5位以内に入ること、第一志望の高校の試験に合格すること)を提示されるが、寸暇を惜しんで猛勉強し、その3つの条件を見事クリアし、『スター誕生!』のオーディションを受けることを許される。(当時、アイドル雑誌『Dunk』に昔の成績表を公開する企画があったが、岡田の成績は5段階評価でほとんどが5であった。)
- 10月 『スター誕生!』の名古屋地区予選で北原佐和子の『マイボーイフレンド』を唄い「合格」。
1983年(1月~9月)
- 3月30日 学校を早退してオーディションに出るなら内申書は書けないと担任から釘を刺されていたが、当日、学校を無断欠席して、名古屋から姉の付き添いで東京へ向かい、後楽園ホールで開催されていた『スター誕生!』の決勝大会に出場。中森明菜の『スローモーション』を歌い優勝。第46代チャンピオンとなる。[2]
- 4月 進学校の名古屋市立向陽高等学校に入学する。同級生には東進ハイスクールの講師である河本敏浩がいたが面識があったかは不明。
- 向陽高等学校でサッカー部のマネージャーを務める。
- 4月某日 「プロダクション二社とレコード会社二社からの指名があった」との連絡が入る。(サンミュージック、キャニオン、研音、VAP)の四社から指名された)
- 福田専務のスカウトで、プロダクションのサンミュージックに入りを決め(同じ『スター誕生!』出身の桜田淳子が長く所属しているなどの理由で、家族はサンミュージックを選ぶことにしたという)、レコード会社はキャニオンに決めた。
- 5月15日 サンミュージックとの正式契約のため、母と上京。相澤秀禎社長(現在は会長)のリクエストに答え、薬師丸ひろ子の『セーラー服と機関銃』と松田聖子の『秘密の花園』を歌う。[2]
- 7月 一学期の終業式の日に、クラス全員で送別会をしてもらう。お別れに『セーラー服と機関銃』を唄う。[2]
- 8月25日 両親と姉と高校の仲間たちに見送られ、新幹線で東京へ旅立つ。
- 8月、芸能界にデビューするために実家がある名古屋から東京の成城にあるプロダクションの 相澤社長宅に引越する。二階の寮の同室には同年3月にデビューした桑田靖子とデビュー前の滝里美がいた。[2]
- 9月、堀越高等学校に転校。芸能コースD組で学ぶ。クラスメイトには「本田美奈子」、「南野陽子」、「長山洋子」、「倉沢淳美」、「高部知子」、「桑田靖子」、「石野陽子」、「宮崎ますみ」、「永瀬正敏」などがいた。
芸能活動開始 1983年10月~1984年2月
歌手デビュー以降 1984年3月~1986年3月
1984年(3月~12月)
- ○月○日 同行取材ツアーという事務所の企画で、スポーツ新聞の芸能担当記者たちとサイパンへ行く。[2]
- 3月25日 『NHKヒットステージ』で初めてのテレビ出演。
- 4月、東海ラジオの『奈美子・有希子・小緒里のドキドキラジオ』でレギュラーDJを務める。
- 4月21日 キャニオン・レコード(現:ポニーキャニオン)から『ファースト・デイト』で歌手デビュー。(レコーディングには作曲者の竹内まりやが激励に現れた)10万6千枚を売り上げ、まずまずのヒットとなる。
- その後竹内まりやと尾崎亜美がシングル曲をプロデュースした。
- 7月18日 デビュー曲から3か月で第2弾シングル『リトルプリンセス』をリリース。9万4千枚を記録。
- 9月21日 第三弾の『恋はじめまして』をリリース。12万9千枚を記録。
- 9月30日 ファーストコンサートを行う。
- 12月31日 「日本レコード大賞」で「新人賞」を授賞。
- 当時は、1980年デビュー組の松田聖子・田原俊彦・河合奈保子・岩崎良美・柏原芳恵、翌1981年デビューの近藤真彦、さらに「花の82年組」と呼ばれた中森明菜・小泉今日子・シブがき隊・堀ちえみ・早見優・松本伊代・石川秀美等の人気アイドル達が第一線で活躍していて、また同期には菊池桃子・吉川晃司・荻野目洋子・長山洋子などが登場していたため、有希子がデビューしたこの当時はアイドルの激戦期であった。活発なイメージのある女性アイドルが多かった中で、有希子は控えめで優等生のイメージがあった。この年にいくつかの音楽最優秀新人賞をとったが、1985年の終わりまでは大きなヒットには恵まれなかった。理由もまた前者達(松田聖子・堀ちえみ・早見優・石川秀美など)を意識してしまったせいか、有希子の個性キャラが生み出せなず地味な歌であった。しかし、新人賞レースにおいては、最有力候補であった菊池桃子がすべての賞を辞退し、同じく最有力候補であった吉川晃司も選ばれず、結果として有希子がFNS歌謡祭の最優秀新人賞に選ばれた。有希子は会場内にいた納得の行かない女性の吉川晃司ファン達からバッシングを受けた。
1985年
- 1月16日 第四弾シングル『二人だけのセレモニー』をリリース。これまで最高の14万5千枚を記録。
- 4月17日 第五弾シングル『SUMMER BEACH』をリリース。12万1千枚を記録。
- 4月 『スプリング・コンサート』を開催。
- 7月 フジテレビ)「月曜ドラマランド」単発ドラマかぐや姫・とんで初体験!?に主演。好評を得る。
- 8月 東京・池袋のメトロポリタンホテルで誕生パーティーが催される。500人を超えるマスコミ、音楽関係者が集まる。
- NHKの『真田太平記』に出演。
- 11月29日 12月2日まで過労で入院。
1986年(1月~3月)
- 1月29日 カネボウ化粧品の春のカネボウのキャンペーンソング『くちびるNetwork』をリリース。作詞が松田聖子、作曲・編曲が坂本龍一ということでも話題となり、23万枚(オリコン調べ)を記録する初の大ヒットとなり、チャート誌で初の1位も記録する。
- 3月 堀越高等学校を卒業する。
- 3月25日 サンミュージックで高校卒業を祝うパーテイ―が開かれる。桑田靖子、酒井法子らが参加。
自殺する1週間前以内での出来事 1986年(4月1日~4月7日)
4月2日
- 「HEART JACK」コンサートに向けてのレッスン中でのインタビューを受ける。「春ですし、みんなで楽しい気分になれたらいいなと思います」と意気込みを語る。
4月4日
- 「自分の城が欲しい」という本人の希望で、デビュー当時から住んでいた成城の相沢社長宅から南青山のマンションの一室(2DK)に引越し、一人暮らしを始める。
- プロダクション社内で、歌と振り付けのレッスンをする(この模様が自殺後にテレビ放映される)。
- 結果的に最後の番組収録となったテレビ朝日の『歌謡ドッキリ大放送』(司会者は関口宏)の収録で『くちびるNetwork』を歌う。(この番組は自殺後の4月13日に放送され、歌の後に訃報を伝えるテロップが出た)。
4月5日
- 友人であり当時アイドル歌手であった南野陽子と都内某所で映画『女優フランシス』を鑑賞する。[4]
- この日に渋谷公会堂での昼夜二回の『スプリング・コンサート』を行う。超満員の中、20曲を熱唱する。この内の17曲は自分の歌を歌い、後の3曲はビートルズの『Tell Me Why』、杏里の『悲しみがとまらない』、早見優の『PASSION』をカバーした。
- コンサート終了後、相沢社長の宅に引っ越しのあいさつに行く。
4月6日
- 14時30分開始の名古屋市民会館でのコンサートのために新幹線で東京から名古屋へ向かう。同じ車両に、当時は無名であり落語家修行時代の伊集院光が乗っており、有希子を目撃していたと言う(伊集院は「有希子さんの歌はたやすく聞くことが出来ない」と語った。)[4]コンサート終了後、『国際ホテル』のロビーで高校時代の友人やクラブの先輩たち五人と会食。東京へ帰る前に名古屋にある実家に立ち寄る。これが家族との人生最後の対面となる。父親にマイカーで名古屋駅まで送ってもらい、20時53分の名古屋発新幹線で東京へ戻る。
4月7日
- スケジュールが「OFF」のこの日の19時に渋谷の東急文化会館内にある「渋谷パンテオン」での『ロッキー4』の試写会に以前にドラマで共演した女性と共に出席。この試写会がマスコミ前での人生最後の姿となる(翌日命を絶った時の服装はこの時のままであった)。22時ごろ自宅マンションへ帰宅。溝口チーフマネージャーから電話で、翌日から収録開始予定だった主演ドラマ『家出令嬢の課外授業』(テレビ朝日)の収録が局側の都合で中止になったと知らされる。これにより翌8日も急遽OFFとなった。
自殺直前の出来事 1986年4月8日 (~12時15分)
- 4月8日 午前5時20分頃、成城でタクシーを拾い、東京駅を目前にした東京都庁わきの工事現場前で降りる。[4]
- 早朝、南青山にある自宅マンションの室内でガス自殺に加えリストカットによる自殺を図る。マンションの住人がガス臭に気づき、管理人が有希子の部屋を訪ね、声をかけるが、反応がないため、警視庁指令センターに110番通報し、同センターより東京消防庁災害救急情報センターに連絡、これを受けて赤坂消防署の消防隊と救急隊が急行した。有希子は押し入れの下段でうずくまり、シクシク泣いていた。このガス自殺は未遂に終わったものの、救急車で港区の北青山病院に搬送され左手首を4針縫う等治療を受けた。所属事務所の福田時雄専務と、女性付き人の山崎結美が病院へ駆けつけたが、有希子は一言も話さず、激しく泣き続けていた。チーフマネージャー溝口伸郎は子供が入学式だったため休暇で、相澤社長は事務所近所の歯科にて歯の治療を受けていたため、病院に駆けつける事が出来なかった。担当医師が、ガス中毒反応も、後遺症もないため、入院の必要なしとしたため、所属事務所へ向かう。タクシー車内では運転手も居た事などから3人とも終始無言、有希子はすすり泣きを続けていた。12時頃にサンミュージック本社がある東京四谷の「大木戸ビル」に到着、3人は6階の社長室へ。「自殺」のことについては何も触れずにいた。福田専務の「まあ、いろいろ人生あるから、皆がついているんだから頑張ってやれよ」との励ましにうなづく。[2]そこに事務所へ急行途中の溝口チーフマネ(相澤社長からだった説も[2])から電話が入ったため福田専務が隣室に移り、有希子と山崎の二人きりとなった。有希子は山崎に「ちょっとティッシュを・・・」と言ったので、山崎がティッシュを探すために有希子から目を離したわずかの隙に部屋を飛び出し、ビル内の階段で7階の上の屋上へ上がり、12時15分頃に飛び降り自殺を図る。享年18。
死後の出来事
自殺直後の出来事 1986年4月8日 (12時15分~)
- 遺体は警察の手で12時40分、四谷警察署に運ばれた。事件を報じた週刊平凡は警察の回答として「検視の結果、自殺と確認された為、司法解剖は行わない」。
- 午後1時30分、「大木戸ビル」六階の会議室で相沢秀禎社長、福田時雄専務、溝口伸郎マネージャーの三人が記者会見。
- 夜、四谷斎場でファン達のための密葬お通夜が行われた。
自殺の原因
岡田有希子の自殺原因については複数存在するが、いずれも噂であり、正確な原因は現在も不明である。
- この件について自殺当日夜、仕事先のTBS別館にて峰岸が記者に囲まれ急遽会見。「正直ものすごいショックです」「僕はアニキのつもりだったが、彼女にはそれ以上のプラスアルファがあったのかも知れない」とコメント。
- 報道陣から、"愛されているという事に対して男として責任はお持ちでしたか?"との問いに「もしそういうこと(有希子が峰岸に対して愛情があった)だったとしたら責任は有ると思います」と神妙な面持ちでコメントしたが、それ以上の詳しいことは現在に至るまで明確には答えていない。1984年に離婚し、当時は独身であったが、この年四月に結婚予定の婚約者がいたとされる。[2]
- 2005年に相澤秀禎元社長(現在は会長)が、1986年4月7日深夜から4月8日夜明け頃、成城付近でタクシーを拾った有希子の行動の一部を『日刊ゲンダイ』にてコメント。成城にある"その男性"の自宅を見つめて夜明けまで過ごしたとしている。
- また、週刊誌やパソコン通信上などで、俳優の神田正輝との恋の噂も出ていたため、当時中堅俳優に過ぎなかった峰岸が神田の身代わりになったとも言われた。
- 恋仲であると一部で噂された神田正輝の子を妊娠していた説
- 前日の4月7日にサーキットで事故死したレーシングドライバー・萩原光の後を追った説。二人の間に面識が有ったかは不明。
- 有希子の自殺の10日前に、『スケバン刑事』で女優としても活動し、1986年5月にアイドル歌手としてデビューする予定だった遠藤康子(当時17歳)がビルから投身自殺したことに影響された説。(遠藤が所属プロダクションから、付き合っていた男性との交際を止めるように言われたとの説がある(当時の『週刊平凡』に男性のインタビュー記事あり)。訃報を聞いた有希子は胸を痛めていたという。自殺後のプロダクションの記者会見で、遠藤の事件の影響があったかとの記者の質問に、福田専務は「立場が違うと思いますね」と関連性を否定した。[2]
有希子の表情の変化・兆候
事務所スタッフら、身近にいた人間の多くは「特に変わった様子は無かった」と発言。前日夜に電話で会話した溝口マネージャーも「声は明るかった」。2日前に会った家族らは「後から考えてみると…」と思う程度の変化しか表面上には出ていなかった。
しかし出演していたテレビの録画を後日よく観察して見た人々からは、1985年最後のシングルだった『LoveFair』を歌っているテレビ出演時までと違い、1986年1月以降『くちびるNetwork』を歌っているテレビ出演時になると、表情はにこやかにしているものの、振り付けを殆んどしないで耳に手を当てたまま歌っている事があったり、有希子本人がデビュー時から出たいと発言していた『ザ・ベストテン』への出演時ですら、歌っている時の目のまばたきが異様に少なく、表情が動かないなど、それまでの自然な明るい表情から比較すると異変が現れていたのではないかとする向きもある。
自殺後の世間の騒動
- 翌日朝の報道で、有るスポーツ紙が岡田有希子本人が、歩道に落下し頭部から出血した写真を最終面で掲載したため、報道側の倫理概念を批判する意見を提起する専門家・報道関係者が相次いだ。(当時は写真のデジタル加工などを行う習慣や、技術もなかったため、非常に露骨な報道として叱責の対象となった。)
- 青少年の連鎖的な後追い自殺が直後に発生した為、国内年間の自殺者数が前年度よりも急上昇、「有希子シンドローム」[5]と称され[6]、当時の国会[7][8]でも取り上げられる程の社会問題にまで発展した。また当時の総理府の「青少年の自殺問題に関する懇話会」が報道機関に対し「人命を尊重した理念で(報道は)行われるべきである」との声明を発表し、日本自殺予防学会では新聞、テレビ、雑誌各社に報道の自制を求める緊急の要望書が出される事態にまでなった。こうした事態を重く見た報道機関の中で自殺報道を自粛する動きが出た。当時テレビ朝日系で放送されていた「ニュースステーション」ではキャスターの久米宏が番組の終わりに、「連鎖反応を起こす心配があるので、今日は自殺の報道を控えました」と発言、また女優で冒険家の和泉雅子が「あなた自身の“北極点”を持って!」と、更には有希子の事務所先輩で“兄貴分”の森田健作が『おはようナイスデイ』で組まれた自殺防止特集「緊急特集 後追い自殺はやめて」で、早まらないようファンに呼びかけた事がこれを物語っている。
- 有希子の自殺から2日後の1986年4月10日、TBSテレビ系『ザ・ベストテン』(生放送)のエンディングでは、司会の黒柳徹子が落胆したファンや家族達を慰めながらコメント、そして「有希子さんのあの明るい笑顔と美しいお顔が、永久に皆さんの心に残る事を祈ってます。本当に有難う御座いました」と、涙声で締めくくっている。岡田と仲良しだった中森明菜と南野陽子、西村知美など同日出演の歌手仲間も、岡田の突然の訃報に沈痛な表情で俯いていた(中森はしきりに目頭を押さえていた)。この日の『ザ・ベストテン』はいつものエンディングの曲ではなく、『くちびるNetwork』をバックに、過去に出演した時の岡田有希子のコメント映像を放送しながら(岡田と同期デビューだった荻野目洋子が、岡田に対して「ひとつ年上とは思えない位しっかりしていて明るいです」とコメントに、思わず岡田がはにかんだシーンなど放映)、番組のエンドロールを流し、この日の『ザ・ベストテン』の放送は終了。
- それから6日後の4月13日に放送されたテレビ東京系『ヤンヤン歌うスタジオ』でも、司会のあのねのねがオープニングで有希子の夭折を惜しむコメントを述べ(通常の形式ではなく調整室で撮影)、デスクに立てられた遺影に献花した。
- 有希子が自殺した直後の写真映像が週刊誌『Emma』(1986年5月10日号)に公開され、その週刊誌の表紙にはドラマ『禁じられたマリコ』内での峰岸徹との2ショットが掲載され、中には有希子の人生を描いた写真や当時卒業したがばかりの堀越高等学校の卒業アルバム内の記念写真、そして有希子が描いた絵画などが掲載された。別のコーナーでは無名時代の山口智子・麻木久仁子・鈴木保奈美のグラビアが掲載されていた。
葬儀での出来事
告別式は、通夜の翌日4月10日に堀越高校近くにある中野区の宝仙寺で社葬として行われた。告別式が終わった後、遺体は新宿区の落合斎場で荼毘に付された。その翌日4月11日、遺骨は故郷の名古屋に戻り、名古屋市中区の東本願寺名古屋別院でも告別式が行われた。東京での告別式は、所属プロダクション社長、相澤秀禎が、「お金はいくらかかってもいい」と言った程の盛大なものであった。葬儀には、遺族をはじめ、所属プロダクション相澤秀禎社長、プロダクションの大先輩である森田健作、桜田淳子、その他芸能関係者や『ザ・ベストテン』で共演した黒柳徹子、中森明菜、竹内まりやに加え、プライベートでも親しかった南野陽子に荻野目洋子、さらに吉川晃司と舘ひろしらが参列した。このとき、吉川と舘はサングラスを掛けたまま参列したため、ダン池田は著書『これでいいのか芸能界』の中で、2人がサングラスを掛けていた事を批判した。
遺書
現在もサンミュージック本社内の金庫の中に保管されている。 内容はごく近い血縁関係の遺族しか見ていないと言われ、所属していたサンミュージックプロダクションの相澤秀禎社長ですら、見ていたか否かは定かではない。遺書の中には自殺のきっかけとなったといわれるMの名前が書かれていると言う説がある。
有希子の自殺で中止となった企画
有希子の自殺で幻となった公演・シングル発売・ドラマ出演は以下のとおり。
- 1986年4月○○日 愛知県豊橋市でのコンサート。サンミュージックは早見優を代わりに手配した。[2]
- 1986年4月13日:鶴岡市民文化会館での「Heart Jack」中止。
- 1986年5月2日:大阪厚生年金会館での「Heart Jack」中止。
- 1986年5月5日:よみうりランドでのコンサート中止。
- 「花のイマージュ」:有希子の幻のシングル曲(1986年5月14日発売予定であった。ラジオ番組「夜遊びしナイト!」で発売前紹介が行なわれたのみでお蔵入り状態だったが、約12年10ヵ月後の1999年3月17日に発売された『有希子』のアルバム『メモリアルBOX』内に収録された。)
- テレビ朝日系列『ママ母vsママ子! 家出令嬢の課外授業』:1986年8月4日放送。渡辺典子主演単発ドラマ。有希子の自殺で典子が代役になった作品である。
- 『素敵な休日』:堀ちえみのシングル曲(1986年10月21日発売)。有希子が歌う予定であったが、有希子の自殺でちえみが代わりに歌ったとされている。
幽霊騒動
岡田有希子の幽霊騒動の項目を参上
岡田有希子に捧げられた曲
- インディーズ時代のスピッツが1989年に『アイドル』と言う曲をアマチュアライブで披露(ボーカルの草野マサムネが「同じ年に生まれたけれど、もう歳を取らない岡田有希子さんにこの曲を捧げます」と当時のライブで語った)。
- 竹内まりやのアルバム『Quiet Life』(1992年発売)の歌詞カードでも、『ロンサム・シーズン』の部分に“Dedicade for memory of Yukiko Okada(岡田有希子さんの思い出に捧ぐ) ”の言葉が入れられている。
- パール兄弟のアルバム『パールトロン』(1997年発売)発表当時のインタビューで収録曲の『風にさようなら』についてヴォーカル兼作詞者のサエキけんぞうが複数回にわたり「岡田有希子の自殺について歌っている」と発言している。
- Rhymesterのアルバム『HEAT ISLAND』(2006年発売)の『LIFE GOES ON feat. Full Of Harmony』の中にある宇多丸のパートでは、全て岡田有希子について唄われており、そのパートの殆どが有希子を失った悲しみと怒りを具体的に表現した歌詞となっている。また命日の4月8日には大木戸ビル前広場に黙祷を捧げに行く。[1]
有希子の墓
- 成満寺の納骨堂には、数々の岡田有希子に関する品々が納められている。
- 納骨堂の他にも有希子の墓前にはファンたちによる有希子へのメッセージのメモ帳やファンからの品々が置いてあり有希子とは無関係の物は他のファンに取られたり寺関係の方たちに捨てられるケースがある。
- 有希子は星のイヤリングが好きであったためにファンの多くは星のイヤリングをお供えする。
- 有希子に関係する貴重な物(例えば遺品)は成満寺の倉庫に保管されている。
- 法名は「有楽院釈尼佳朋(ゆうぎょういんしゃくにかほう)」であるが、これは、有希子・音楽・佳代から一文字ずつ取り、“みんなに愛されたアイドル”を意味する朋の字を入れたものである。(「院釈尼」が浄土真宗における法名)
自殺後のその他の出来事
- 有希子の自殺後、プロダクションは今後、岡田有希子をテレビや雑誌に登場させることを禁止し、一部のワイドショーを除いて有希子のことをテレビでは伝えなくなった。有希子の自殺から約10年10ヶ月後の1997年2月9日放送のテレビ朝日系列の特別番組、ザ・スーパーサンデー「完全保存版・臨終の瞬間!栄光の最後のメッセージ」の中で岡田有希子を取り上げた。当日の各新聞のテレビ欄には往年の石原裕次郎・松田優作・夏目雅子・逸見政孝等といった大物たちを凌いで、トップで掲載された。さらに放送の数日前にワイドショーやスポーツ紙でも特集されるほど有希子についてテレビで放送することは珍しいことであった。この放送以降、有希子についていくつかのテレビ番組や雑誌でも特集された。
- 1998年に有希子の13回忌にちなみ、新宿文化センターで「岡田有希子展」が4月6日から4月8日までの3日間開催された。
- 2000年7月19日に有希子の元マネージャーで、取締役制作部長の溝口伸郎[9](当時54歳)がプロダクションがある大木戸ビルの5階のトイレ内で首吊り自殺をした。翌日のスポーツ紙・新聞の報道・テレビ欄では「酒井法子のマネージャーが自殺」と報じられた。仕事も家庭も順調だったこともあり、数年前から患っていた糖尿病を苦にしたのではないかと見られた。
- 2002年
評価
一般に対する評価
- 世間の有希子に対する一般的な第一印象は、「飛び降り自殺したアイドル」というものである。その為、世間ではあまり良い印象を与えない側面もある。
- 有希子の自殺直後、ファンによる後追い自殺が相次ぎ、社会問題にまで発展した。その為、マスコミが岡田有希子の存在自体をほとんど取り上げなくなった(事務所等の意向もあったと思われる)ため、1970年代半ば以前生まれの人達にはそれなりの知名度があるが、1970年代末以降生まれの人達の間での知名度は低い。
- 有希子をリアルタイムで観ていた人達(ファンもファン以外も含めて)は「全盛期にたどり着く前に死んでしまい、完成型ではない」と評する人と「生きていても限界で下り坂だろう」と批判する人とがいる。
- 有希子の活躍をリアルタイムで観ていない「没後ファン」の人達からは、なにかと過大評価・神格化される傾向がある。
著名人からの評価
- 消しゴム版画家でテレビ批評家のナンシー関が自書で同じく夭折した山田かまち・尾崎豊・hide・リバー・フェニックスよりも印象が強い人物と評した。
- 評論家の大塚英志は有希子の自殺についてこう述べている
- 「アイドルとは(シミュラークル)が生身の実体を持った不幸な存在」あると言う
岡田有希子のファン
ファンの主な活動
- 21世紀となった今でも、有希子のお墓参りで知り合ったファン同士で、全国各地の小会場で慰霊コンサート興行を行なったり、有希子をテーマにしたビデオを製作したりしている。
- 岡田有希子の死後、ファン達によって「岡田有希子記念館」を故郷の名古屋市中区内か有希子の墓(成満寺)がある愛知県愛西市内に建立をしようとしたが、「自殺した」という当時の報道があまりにも衝撃的であり、世間では有希子が「自殺したアイドル」という認識で定着してしまった為、地元の住民達に反対された。現在計画は全くというほど無い。
ファンが起こした出来事
岡田有希子ファンの著名人
- お笑い芸人:坂本ちゃん‐有希子の坂本ちゃんへのメッセージ入りのサインを持っていて生涯一番好きなアイドルだと言われている。[4]
- お笑い芸人:松村邦洋‐歌手の中森明菜の大ファンであり、その次にアイドルであった斉藤由貴や有希子のファンであったと有希子のファンから伝えられている。有希子の主演ドラマであった『禁じられたマリコ』を視聴していたとプライベート上で松村本人が言っていた。また日本テレビ系列の『速報!歌の大辞テン』(1999年11月24日放送)にゲストで出演し有希子の映像が流れる前に「有希子さんはねっ、僕と同い年なんですよっ、今生きていたら32歳(当時)なんですよっ。」と発言した。
- 漫画家・タレント:山咲トオル‐松田聖子の次に2番目に好きなアイドルだと言われている。命日に大木戸前広場へお参りに行ったともいわれている。
- ミュージシャン:村上てつや(ゴスペラーズ)‐ラジオ番組で有希子のお墓参りに行ったことを告白した。
命日の出来事(4月8日)
人物像
性格
- コンサートイベント時以外のプライベートな時間ですら、ファンと街で出会うと気軽にサインや写真撮影に応じるなど、気さくでサービス精神が豊富であった人物像が窺える。
- 一方、芸能界入りを母親に反対された時にはハンストを決行し、同時に難関高校合格という条件をもクリアしたことから意思の強さも垣間見れる。
- 好きな言葉として「私は私」というものがあり、これはデビュー後間も無くポスト松田聖子と見なされたことに対しての反発もあったと思われる。
- 今で言うドリーム小説に近い創作小説や詩、そしてマンガやイラストを中学生時代からずっと執筆しており、芸術的感性面も注目される。
- 8月生まれにも関わらず、春や桜、もしくは桜色・ピンクの衣装やアクセサリーに固執していた。余談ながら、有希子がこの世に生を受けたのは、尾張一宮市の『さくら助産院』であり、彼女が亡くなった日の東京が桜花爛漫であったことから、その命日はファンの間で佳桜忌(けいおうき)と呼ばれている。
夢
- 岡田有希子は生前雑誌でよく23歳(1990年)で結婚引退宣言をしていた。
- デビュー当時から「子供の頃はマンガ家になりたかった。」と公式プロフィールやインタビュー記事にも掲載されており、事実彼女のファンクラブ会報「YUKIKO」には、自身の執筆したマンガ「みるくちゃん」が掲載されていた。デビューシングルから継続して使われているいわゆる「ユッコスマイル」の自画像イラストも自身で手掛けていた点、他にもファンクラブイベントでは、初めて会ったばかりのファンの顔を見事な腕前でイラストにしてサインと共に渡すなどの逸話もあり、その絵画・美術的センスも生前から高く評価されていた。
愛読書
- 美内すずえ『ガラスの仮面』
- 渡辺淳一やフランソワーズ・サガンの小説に心惹かれるという。[12]
交流関係
- 有希子の交流関係には同時期にデビューしたアイドルで親友である田中久美や荻野目洋子・南野陽子・高部知子などがいた。
- 有希子が亡くなるすれ違えにデビューした事務所の後輩の酒井法子を「のりっぺ」と言う愛称で妹のように可愛がっていた。
- 有希子が最も尊敬していた歌手は、河合奈保子(芸映所属)である。奈保子は、有希子が所属していたサンミュージックの松田聖子のライバル的存在と見られていた為、注目に値する。レコードデビュー前から、事あるごとに「奈保子さんは本当に素晴らしい方だと思います。」と崇拝に近い賞賛ぶりだったのは有名であり、近代映画社から発行された『岡田有希子スペシャル』の誌上インタビューでは、「奈保子さんはあんなに有名になっても全然昔と(態度が)変わらないのに、それでいて歌はどんどん上手くなって行って…すごいなって思います。」とコメントしていた。
音楽
シングル
- ファースト・デイト(1984年4月21日) 「グリコ・カフェゼリー」CM曲
- リトル プリンセス(1984年7月18日)
- 作詞作曲:竹内まりや 編曲:大村雅朗
- -Dreaming Girl- 恋、はじめまして(1984年9月21日) 「グリコ・セシルチョコレート」CM曲
- 作詞作曲:竹内まりや 編曲:萩田光雄
- 二人だけのセレモニー(1985年1月16日) 「東芝・レッツチャット」CM曲
- Summer Beach(1985年4月17日) 「グリコ・カフェゼリー」CM曲
- 作詞作曲:尾崎亜美 編曲:松任谷正隆
- 哀しい予感(1985年7月17日)
- 作詞作曲:竹内まりや 編曲:松任谷正隆
- ※吉本ばななの同名小説は無関係(タイトルは本曲の方が早い)。
- Love Fair(1985年10月5日) 「グリコ・セシルチョコレート」CM曲
- 作詞作曲:かしぶち哲郎 編曲:松任谷正隆
- くちびるNetwork(1986年1月29日) 「カネボウ・春のキャンペーン」CM曲
- 花のイマージュ(1986年5月14日、発売中止)
- 作詞作曲編曲:かしぶち哲郎
- Believe In You(2002 Strings Version)(2002年12月4日)
アルバム
- シンデレラ(1984年9月5日)
- さよなら・夏休み
- 作曲作詞:竹内まりや 編曲:清水信之
- リトル プリンセス(シングル曲)
- 彼はハリケーン
- 作曲:EPO 作詞編曲:清水信之
- 丘の上のハイスクール
- 作曲:康珍化 作詞編曲:萩田光雄
- 潮風のラブ・レター
- 作曲:康珍化 作詞:白井良朗 編曲:清水信之
- 風の中のカフェテラス
- 憧れ
- 作曲作詞:竹内まりや 編曲:萩田光雄
- Plastic Girl
- 作曲作詞:山口美央子編曲: 萩田光雄
- ソネット
- 作曲:吉沢久美子 作詞:梅垣達志 編曲:萩田光雄
- ファースト・デイト(シングル曲)
- 贈りもの(1984年11月28日、ベストアルバム):レコード・カセット発売のみ。単独でのCD発売はされていない。
- ファースト・デイト(シングル曲)
- そよ風はペパーミント
- 作曲:大村雅朗 作詞:田口俊 編曲:大村雅朗
- リトル プリンセス(シングル曲)
- ―Dreaming Girl― 恋、はじめまして(シングル曲)
- 気まぐれTeenage Love
- 作曲作詞竹内まりや 編曲:萩田光雄
- 恋のダブルス
- 作曲:萩田光雄 作詞:康珍化 編曲:萩田光雄
- Believe In You※東芝「パソピアIQ」CM曲、ベストアルバム専用曲
- 作曲:吉沢久美子 作詞:梅垣達志 編曲:萩田光雄
- FAIRY(1985年3月21日)
- 風の魔法で
- 作曲:夏目純 作詞:尾崎亜美 編曲:松任谷正隆
- Walking In The Moonlight
- 作曲:尾崎亜美 作詞:堀川まゆみ 編曲:松任谷正隆
- 目をさまして、Darling
- 作曲:康珍化 作詞:馬飼野康二 編曲:松任谷正隆
- 二人だけのセレモニー(Album Version)
- 作曲:夏目純 作詞:尾崎亜美 編曲:松任谷正隆
- 森のフェアリー
- 作曲:かしぶち哲郎 作詞編曲:松任谷正隆
- おしゃれな雨音
- 作曲:吉沢久美子 作詞編曲:松任谷正隆
- ストライプのジェラシー
- 作曲:三浦徳子 作詞:馬飼野康二 編曲:松任谷正隆
- Lady Joker
- 作曲:吉沢久美子 作詞:堀川まゆみ 編曲:松任谷正隆
- あなたを忘れる魔法があれば
- 作曲:康珍化 作詞編曲:松任谷正隆
- ポップ・アップ・リセエンヌ
- 作曲:かしぶち哲郎 作詞編曲:松任谷正隆
- 十月の人魚(1985年9月18日)
- Sweet Planet
- 作曲:小室哲哉 作詞:三浦徳子 編曲:松任谷正隆
- みずうみ
- 作曲:財津和夫 作詞:三浦徳子 編曲:松任谷正隆
- 花鳥図
- 作曲:財津和夫 作詞:高橋修 編曲:松任谷正隆
- 哀しい予感(シングル曲)
- ロンサム・シーズン
- 作曲作詞:竹内まりや 編曲:松任谷正隆
- 流星の高原
- 作曲:松任谷正隆 作詞:高橋修 編曲:松任谷正隆
- Bien
- 作曲:馬飼野康二 作詞:三浦徳子 編曲:松任谷正隆
- ペナルティ
- 作曲:杉真理 作詞:竹内まりや 編曲:松任谷正隆
- 十月の人魚
- 作曲編曲:松任谷正隆 作詞:高橋修
- 水色プリンセス ―水の精―
- 作曲:小室哲哉、作詞:三浦徳子、編曲:松任谷正隆
- 贈りものII(1985年12月5日、ベストアルバム)
- 二人だけのセレモニー(シングル曲)
- Summer Beach(シングル曲)
- 哀しい予感(シングル曲)
- Love Fair(シングル曲)
- PRIVATE RED
- 星と夜と恋人たち
- 作曲:MAYUMI 作詞:吉沢久美子 編曲:松任谷正隆
- 恋人たちのカレンダー
- 作曲作詞:竹内まりや 編曲:松任谷正隆
- 二人のブルー・トレイン
- 作曲:杉真理 作詞:竹内まりや 編曲:松任谷正隆
- 子羊NOTE ※ベストアルバム専用曲
- 作曲:山川恵津子 作詞:康珍化 編曲:大村雅朗
- ヴィーナス誕生(1986年3月21日)
- WONDER TRIP LOVER
- 作曲:坂本龍一、作詞:EPO、編曲:かしぶち哲郎
- 愛…illusion
- 作曲:飛澤宏元 作詞:松田聖子 編曲:かしぶち哲郎
- ヴィーナス誕生
- Spring Accident
- 作曲:大貫妙子 作詞:EPO 編曲:かしぶち哲郎
- 銀河のバカンス
- 作曲:三井一正 作詞:高橋修 編曲:かしぶち哲郎
- ジュピター
- 作曲作詞編曲:かしぶち哲郎
- くちびるNetwork(シングル曲)
- 眠れぬ夜のAQUARIUS
- 作曲:坂本龍一 作詞:麻生圭子 編曲:かしぶち哲郎
- 水晶の家
- 作曲:かしぶち哲郎 作詞:高橋修 編曲:かしぶち哲郎
- 愛のコロニー
- 作曲作詞編曲:かしぶち哲郎
アルバム(BOX版・メモリアル版)
- メモリアルBOX(1999年3月17日)
- 贈りもの
- 贈りものII
- ヴィーナス誕生
- 花のイマージュ
- 作曲作詞編曲:かしぶち哲郎
- 秘密のシンフォニー
- ALL SONGS REQUEST(2002年5月15日、ベストアルバム)
- さよなら・夏休み
- 作曲作詞:竹内まりや 編曲:清水信之
- リトル プリンセス(シングル曲)
- 憧れ
- 作曲作詞:竹内まりや 編曲:萩田光雄
- ソネット
- 作曲:梅垣達志 作詞:吉沢久美子 編曲:萩田光雄
- ファースト・デイト(シングル曲)
- ―Dreaming Girl― 恋、はじめまして(シングル曲)
- 二人だけのセレモニー(シングル曲)
- あなたを忘れる魔法があれば
- 作曲編曲:松任谷正隆 作詞:康珍化
- Sweet Planet
- 作曲:小室哲哉 作詞:三浦徳子 編曲:松任谷正隆
- ロンサム・シーズン
- 作曲作詞:竹内まりや 編曲:松任谷正隆
- 水色プリンセス ―水の精―
- 作曲:小室哲哉 作詞:三浦徳子 編曲:松任谷正隆
- Summer Beach(シングル曲)
- Love Fair(シングル曲)
- くちびるNetwork(シングル曲)
- 花のイマージュ
- 作曲作詞編曲:かしぶち哲郎
- Believe In You
- 作曲:梅垣達志 作詞:吉沢久美子 編曲:萩田光雄
- 贈りものIII~岡田有希子CD/DVD-BOX(2002年12月18日)
- シンデレラ + α
- FAIRY + α
- 十月の人魚 + α
- ヴィーナス誕生 + α
- 「OTAKARA マキシシングル」Believe In You(2003 Strings Version)
- 作曲:梅垣達志 作詞:吉沢久美子 編曲:萩田光雄
- Fly Up! Angel
- 作曲作詞編曲:
- 二人だけのセレモニー(Single Version)
- Believe In You(2003 Present-Mix Version)
- 作曲:梅垣達志 作詞:吉沢久美子 編曲:萩田光雄
- 「All Songs Request オリジナルカラオケ」(+ 哀しい予感)
- 「YUKKO PV & CM COLLECTION」
カバーしたアーティスト
- 竹内まりや:「ロンサム・シーズン」
- 中嶋美智代:「ロンサム・シーズン」
- 尾崎亜美: 「Summer Beach」
- 酒井法子:「恋人たちのカレンダー」
- 中谷美紀:「WONDER TRIP LOVER」(中谷美紀版では曲名が「クロニック・ラヴ」となっており、曲は同じだが歌詞はまったく別である。)
- 坂本龍一:「WONDER TRIP LOVER」(坂本龍一版では曲名が「Ballet mecanique」となっており、曲は同じだが歌詞はまったく別である。)
ビデオ
- Yukiko in SWISS(1985年8月21日)
- Memories of Switzerland(1985年12月5日)
DVD
- Memories in Swiss(2002年12月18日―上記テープ2巻を1枚のDVDに収めた物)
出演
テレビドラマ
- 中学生日記 (NHK名古屋)
- 歌手としてデビューする前、エキストラではあったがレギュラー出演していた。
- マッチの青春スクランブル PART2 (1984年、テレビ東京)
- 歌手デビュー後初出演となる、『ヤンヤン歌うスタジオ』内の5分枠ドラマ。 近藤真彦やジャニーズJr.の石丸志門らと共演した。
- 真田太平記 (1985年、NHK、「NHK新大型時代劇」)
- かぐや姫・とんで初体験!? (1985年、フジテレビ)
- 禁じられたマリコ (1985年11月5日-1986年1月28日(全12話)、TBS)
ラジオ
- サトミ・ヒトミ・ユキコの何かいいことないか仔猫ちゃん(毎日放送)
- 奈美子・有希子・小緒里のドキドキラジオ(1984年4月~1985年10月7日、東海ラジオ他)
- ちょっとおあずけ(1984年10月8日~1985年10月7日、ニッポン放送)
- 夜遊びしナイト!(中途より最終回まで「有希子・章子・麻里の―」1985年10月13日~1986年4月6日、ニッポン放送系)
CM
- 江崎グリコ セシルチョコレート
- グリコ乳業 カフェゼリー
- 東芝 パソピアIQ、パーソナルテレビU-30、Let's Chat、つくばEXPO'85東芝館(名誉館長)
- 初代ヤングイメージキャラクター。(2代目は西村知美)
- 牛乳石鹸共進社 ラブジュ シャンプー&リンス
- 旺文社 中一時代、ハイトップ
- エスエス製薬 エスタック顆粒、ブロン液W
- 尾崎商事 カンコー学生服、カンコー女子通学服
- 月星化成 ベンチャートランザム、ベンチャーΣ
- 郵政省 電子郵便
ポスター
書籍
有希子をテーマにした書籍
- 『アイドルコミックス・実録まんが岡田有希子』(学研 1984年)
- 『瞳はヒミツ色』(ワニブックス 1985年、)
- 『岡田有希子はなぜ死んだか』(上之郷利昭 新森書房 1986年)
- 『愛をください』(遺稿集 朝日出版社 1987年)
- 『サクリファイス』(白倉由美 弓立社 1989年)
- 『イイナ ~Feel for Love~』(原作:S-nery Angel 作画:成瀬かおり 角川書店 1998年)
有希子について掲載されている書籍(又は参考文献)
- 死よりも遠くへ吉岡忍 1992年、新潮文庫)
- レコード・コレクターズ増刊 遺作 ―ミュージシャンの死とラスト・アルバム(1998年、ミュージック・マガジン社)
- 夭折の系譜 (2001年、 アートブックの森)
- 100万人が選ぶアイドルポップス(2002年、 宝島社)
- 歌謡曲という快楽 (宝泉薫 ファッシネイション 2002年、 彩流社)
- 音楽誌が書かないJポップの批評(尾崎豊) (2003年、 宝島社)
- 「おたく」の精神史―1980年代論 (大塚英志 2004年、講談社現代新書)
- 蘇る!夭折のスター達 (2005年、 セントラルSOG)
- 昭和・平成の「怪死」事件史 (2006年、 宝島社)
- 劇画 疑惑の最期!非業のカリスマ列伝(2006年、竹書房)
- 劇画 死の真相 (2007年、 ミリオン出版)
写真集
- 岡田有希子special(1984年、近代映画社)
- 岡田有希子写真集・あなたとふたりきり…(1985年、近代映画社)
- もっと逢いたい…有希子(1985年、講談社)
- SWEET LOVE DREAM(写真 武藤義 1985年、音楽専科社)
- ヴィーナス誕生(1986年、扶桑社)
- さよなら…有希子(1986年、シーズ)
- SWEET LOVE DREAM(2002年・復刻版、音楽専科社)
- ヴィーナス誕生(2002年・復刻版、扶桑社)
受賞歴
- 1984年:第3回メガロポリス歌謡祭最優秀新人ダイヤモンド賞
- 1984年:第17回日本歌謡大賞最優秀放送音楽新人賞
- 1984年:第17回新宿音楽祭金賞
- 1984年:第26回日本レコード大賞最優秀新人賞
- 1984年:第11回FNS歌謡祭最優秀新人賞
- 1984年:第17回日本テレビ音楽祭新人賞
- 1984年:あなたが選ぶ全日本音楽歌謡祭最優秀新人賞
- 1984年:第15回日本歌謡大賞新人賞
- 1985年:ゴールデン・アロー賞
- 1985年:あなたが選ぶ全日本音楽歌謡祭金賞
- 1985年:第12回FNS歌謡祭優秀歌唱音楽賞
- 1985年:第18回日本テレビ音楽祭金の鳩賞
その他
お宝関係
- デビュー前の1981年(中学2年生の時)に「ニコン・フレッシュギャルコンテスト」で優勝。写真家・立木義浩が撮影した雑誌広告がある(選出されたフレッシュギャル達のポートレートを月刊「太陽」で連載)。
- 写真集『ヴィ-ナス誕生』:有希子が自殺する4日前の1986年4月4日に発売された。有希子が自殺した次の日の4月9日に発売中止・絶版となってしまい、都合5日間しか発売されず「幻の写真集」と言われていて、その後は全国の各古本屋(特に神田神保町の本屋街)では2万~3万円台で売られていた。約16年8ヵ月後の2002年12月4日に復刻版で再販された。その後古本屋で売られていた旧写真集の値段が一気に下がり、再発売された復刻版・写真集の値段に降下した(3500円ぐらい)。復刻版には2003年のカレンダーが新たについていた。
- 写真集『SWEET LOVE DREAM』:1985年に旧版が発売。復刻版が2002年12月4日に写真集『ヴィーナス誕生』の復刻版と同年月日された。旧版と復刻版の違いは旧版はカバーなしで表紙の右上に「アイドルNo.1」と言うロゴが小さく書いており、復刻版はカバーつきで表紙に前文のロゴが書いていない。
- ポスターは全国のアイドルショップ(特に神田神保町の荒魂書店)では1万円~6万円の値段で売られている。
芸能関係
関連項目
関連スポット
関連用語
関連人物
サンミュージック関連
自殺関連
同期デビュー関連
堀越高校関連
音楽関連
芸能活動関連
応援関連
その他の関連
外部リンク
- 岡田有希子BETTY`Sチャンプル → 成満寺への行き方・画像掲示板・掲示板・チャット・データなど
- 岡田有希子情報基地
- 岡田有希子とかのんのページ
- アイドルリング集(岡田有希子)
- YUKIKO NO OHEYA → テレビ出演時の動画、事件に関連した雑誌・書籍の紹介等
- ファンサイト
- YukikoOkada
- 岡田有希子は誰が殺したか
- 成満寺
- 【永遠の】 岡田有希子板 【リトルプリンセス】 → 岡田有希子関係専用スレッド型趣旨別掲示板
- 【岡田有希子動画像板】 → 岡田有希子関係専用スレッド型動画像掲示板
(ファンサイトの懐かしのポスター内で:その年の自衛隊の紹介パンフレットの表紙に岡田有希子の写真が載っていたが、そのままでは配布ができない上、予算の関係のためか再度刷り直しもできなったため、別の写真のシールを上に貼って配っていた)
註
- ↑ 「辺縁性胎盤による異常出産」だったため、医者は「死産」やは「知恵未発達」の可能性もあるとしており、母親に「帝王切開」を勧めたが、母親は自然分娩の道を選んだ
- ↑ 2.00 2.01 2.02 2.03 2.04 2.05 2.06 2.07 2.08 2.09 2.10 2.11 2.12 2.13 『岡田有希子はなぜ死んだか』(上之郷利昭 新森書房 1986年)
- ↑ よい子の歌謡曲4月増刊号『ベスト・オブ・岡田有希子』1987年4月
- ↑ 4.0 4.1 4.2 4.3 『100万人が選ぶアイドルポップス 2002年』宝島社
- ↑ このように知名度や人気の高い人間が自殺すると、連鎖的に自殺が増えてしまう現象はウェルテル効果と呼ばれている。
- ↑ この1986年の1月から3月までの少年・少女の自殺者は過去2年間と変わりがないのに対して、岡田有希子の自殺があった4月は自殺者が急増し、年末に至るまで高水準で推移し、この年の少年・少女の自殺者数は前年から245人増加し、802人となった。また、飛び降り自殺した少年・少女の数は、前年よりも125%(151人)もの急激な増加となった。但し、実際に彼女の自殺に対する直接的な後追い自殺と判明したのは数件に過ぎないと言われる。
- ↑ 第104回国会 文教委員会 第10号 昭和61年(1986年)4月25日
- ↑ 第104回国会 補助金等に関する特別委員会 第7号 昭和61年(1986年)4月25日
- ↑ 溝口伸郎は以前はグループサンウズのバンドザ・クーガーズのボーカルであった。
- ↑ 『朝日新聞』1986年4月15日付(夕刊)
- ↑ 『読売新聞』、『毎日新聞』いずれも4月24日付の夕刊
- ↑ 『 non-no』「PEOPLE・NOW」