今上天皇
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今上天皇は昭和天皇の第一皇子。母は、久邇宮良子女王。学習院大学中退。歴代天皇陛下の中で初めての大学進学者。
目次
年表
- 1933年(昭和8年)に、東京府東京市麹町区皇居内の産殿にて誕生。
- 1952年(昭和27年)に、成年して皇太子と成る。
- 1959年(昭和34年)に、正田美智子と婚姻し、皇太子徳仁親王・礼宮文仁親王・紀宮清子内親王の二男一女がある
- 1970年(昭和45年)から、チェリスト・清水勝雄に師事してチェロを嗜むほか、テニスをよくする(これは正田美智子と知り合うキッカケにも成った。いわゆる「テニスコートの恋」である)。このほか馬術、自動車の運転にも秀でている。
- 1989年(昭和64年/平成元年)1月8日に、昭和天皇陛下樣の死去により、日本国の天皇に即位した。
- 2010年(平成22年)7月20日現在、77歳である。
- 御高齢で在る物の、公務・宮中祭祀ともに極めて旺盛に活動しており、日本帝國皇帝としての活動に付いて非常に意欲的かつ勤勉で在ると伝えられる事が多い。年間約1000件の書類に目を通して署名・押印し、約200回の各種行事に出席している(2010年(平成22年)7月20日現在)。
- 歴代天皇の中では明治天皇および特に昭和天皇に寄せる気持ちが強いようであるが、皇太子時代には後奈良天皇に言及した事も有る。また即位十周年の会見で述べているように、戦中育ちとして先の大戦に寄せる気持には強いものがあり、過去に「6月23日(沖縄慰霊の日)、8月6日(広島原爆忌)、8月9日(長崎原爆忌)、8月15日(終戦の日)の4つは忘れる事の出来ない日付である」旨の発言もある。
- かつて琉球王国を征服した島津家(越前島津家・重富島津家当主・薩摩藩国父島津久光、明治維新後玉里島津家当主として10万石、華族令において公爵、島津久光公爵家初代当主)の血を引いていることから、沖縄への思いは深く、琉歌を幾つか詠んでいる。琉歌を詠んだ日本国の天皇は史上初めてで在る。
ご研究
- 魚類学者としても知られ、ハゼの分類学的研究者である。日本魚類学会に属して自らの研究に関して、28編の論文を同学会誌に発表している。
- 1992年(平成4年)にサイエンス誌に"Early cultivators of science in Japan"という題で寄稿している。
- また、2000年(平成12年)および2008年(平成20年)には、日本国外の雑誌『Gene』に第一著者として論文が掲載されている。
- 所属は、「皇居」と成って居る。なお、共著者に山階鳥類研究所総裁の秋篠宮文仁親王殿下樣の名前も在る。
- 魚類学における業績は各国で評価されている。
- 1980年、ロンドン・カール・フォン・リンネ協会外国会員。1986年、同協会名誉会員。
- オーストラリア博物館リサーチ・アソシエート。
- ロンドン動物学会名誉会員。
- アルゼンチン自然科学研究所永久名誉会員。
この他にも1998年にはロンドン王立協会(ロイヤル・ソサエティ)からチャールズ2世メダルを受賞、2007年の欧州5か国訪問ではスウェーデンウプサラ大学名誉学員に列せられた。また長年のハゼの分類学的研究に対する貢献を称え、新種のハゼの一種の命名に、1992年には 「Platygobiopsis akihito」 、平成天皇陛下樣の名を織り込んだ献名がなされた。
略歴
幼少時代
- 1933年12月23日午前6時39分、宮城(現:皇居)内の産殿にて誕生。昭和天皇・香淳皇后の第5子にして初の皇子誕生とあって、国民的な祝福を受ける。森光子はこの時の様子をよく覚えており、京都府京都市にて「鳴った、鳴った、サイレン 皇太子様、お生まれになった」歌が流れたと述べている。称号の「継宮」、名前の「明仁」は、昭和天皇による命名で、いずれも明治3年1月3日(1870年2月3日)の明治天皇の即位に際して発せられた詔勅「…立極垂統、列皇相承、継之述之…宣明治教以宣揚惟神之大道也…」に出典を求め、命名されたものである。
- 1936年3月29日、満2歳で両親のもとを離れ、赤坂離宮構内の東宮仮御所で東宮傅育官によって育てられる。当初日曜日には宮中に帰っていたが、1カ月を過ぎる頃から日曜も東宮仮御所で過ごすようになった。
- 慣例に従い、女児に近い格好で育てられていたが、学習院初等科入学に際し、おかっぱに伸ばしていた髪を無断で刈られ数日間塞ぎ込んだ。その後、「これからは、黙ってこんなことはしないでね」と精一杯の抗議をした。学習院時代は山梨勝之進校長のもとで教育を受け、内舎人信国鉄蔵を師として剣道を練成した。
- 1944年、戦火の拡大により、初めは栃木県日光市の田母澤御用邸に、後に奥日光・湯元の南間ホテルに疎開し、当地で終戦を迎えた。終戦後帰京。なお、皇太子は、皇族身位令の規定に基づき、満10歳に達した後に陸海軍少尉に任官、近衛師団に入隊することとされており、軍部からもその旨要請があったが、昭和天皇の意向で任官していないため、軍歴はない。
- 1946年10月から1950年12月まで、昭和天皇の「西洋の思想と習慣を学ぶ」という方針に従い、アメリカ合衆国の著名な児童文学者にしてクエーカー教徒のエリザベス・ヴァイニング(日本では「ヴァイニング夫人」として知られている。en:Elizabeth_Gray_Vining)が家庭教師として就き、その薫陶を受ける。ヴァイニングを介して、ダグラス・マッカーサーとも会っている。彼女がやってきたとき、英語名(ジミーと伝わる)をつけられるのを拒否した。このほか学習院初等科時代に、色黒だったことから蚊取り線香の素焼きの香炉を想起させたため「チャブ」と学友たちによってつけられた愛称が伝わる。
皇太子時代
- 1952年11月10日、皇居・表北ノ間で立太子の礼と皇太子成年式が挙行された。同日、大勲位に叙され、菊花大綬章を授けられる。また、立太子の礼に際しては、都道府県などがこれを祝う言葉を記したアドバルーンを都内上空に浮かべ、立太子を祝った。
- 1953年3月30日から同年10月12日までの半年余りにわたり、初の外遊。ヨーロッパ12か国およびアメリカ・カナダを歴訪。同年6月2日、イギリス・エリザベス2世の戴冠式へ昭和天皇の名代として参列。このとき地位は皇太子であったが、昭和天皇名代の格式が加わっていたため、応接する諸国では天皇としての応対を行なった。後年、2007年の訪欧前の会見においては、このことを回想して名代の立場の重さを思い、相手国を慮る趣旨の発言を行なっている。しかしこの外遊の結果、学習院大学の単位が不足し進級できず、長年の学友たちと学年が異なることを回避するため、以後は聴講生として学問を続ける。
- 外遊からの帰国直後、同年12月に、結核の感染を診断される。このとき、ストレプトマイシンなどの特効薬が発見されており、それの投与による治療を行い、1957年までにほぼ治癒した。このことは長らく公にされていなかったが、2009年3月に行われた、第60回結核予防全国大会の挨拶にて、自ら明かした[1][2]。
- 1957年8月19日、避暑で訪れた軽井沢のテニストーナメントで正田美智子と出会う。テニスを通して交際を深めた。宮内庁職員の作品展に「女ともだち」と題した彼女の写真を出品した。しかし彼女が資産家の令嬢とはいえ皇族・華族出身ではない[3]ためお妃候補としてマークされることはなかった。徐々に皇太子が積極的に美智子との結婚を考えていると判ると、皇室内外から猛反対を受けた。昭和天皇の侍従長を務めた入江相政の著作『入江相政日記』には、「東宮様のご縁談について平民からとは怪しからん」と香淳皇后が秩父宮妃勢津子、高松宮妃喜久子の両親王妃とともに昭和天皇に訴えたという内容の記述がある。常磐会(学習院女子部の同窓会)会長松平信子ら旧華族の女性たちの反発も強く、信子に対しては昭和天皇自ら了承を求めてようやく決着したとも言われる。最終的に1958年(和暦??年)11月27日、結婚が皇室会議において満場一致で可決された。
- 1959年1月14日に納采の儀が、同年4月10日に結婚の儀が執り行われた。明治以降では初の民間出身の皇太子妃であり、また結婚に至る過程が報道されたこともあって、市民からは熱烈に歓迎され、国民的な「ミッチー・ブーム」が興る。成婚のパレードは盛大に行なわれ、国民の心からの祝福を受けた。2人の成婚の様子を見るために、当時高価であったテレビも普及し始めた。また婚礼を祝して「祝典行進曲」が作曲された。同年7月15日に、美智子妃の懐妊が発表された。
- 1960年2月23日に第1皇子浩宮徳仁親王が誕生。ミッチー・ブームがまだ冷めやらぬ成婚翌年のお世継ぎ誕生は、国民から盛大に祝福された。3月には妹・清宮貴子内親王が、明仁親王の学友だった島津久永と結婚した。同年9月22日から同年10月7日にかけて、美智子妃を伴ってアメリカ合衆国を16日間にわたり訪問した。
- 1963年には、美智子妃が第二子を流産した後、静養。育児以外にも、時代の風潮(1960年代は、デモ・学生運動など左翼の全盛期であった)などもあり、妃ともども苦労が多かった。「浩宮の代で最後になるのか」との明仁親王の発言があったと言われる。
- 1965年11月30日、第2皇子礼宮文仁親王が誕生。父・昭和天皇同様、タイ王国を始めとする東南アジア、及び動植物の宝庫であるマダガスカルとの縁が深く、成婚の折にはタイのシリントーン王女が式に参列した。
- 1969年4月18日、第1皇女紀宮清子内親王が誕生。清子内親王は長く内廷皇族として天皇および皇后の傍らにあって、良き相談相手であった。
沖縄訪問
- 1975年、沖縄国際海洋博覧会に際し、父も皇太子時代に訪問した沖縄県を立太子後、初めて訪問。海洋博の写真を収めた書籍「海 その望ましい未来」、海洋博の記録映画『公式長編記録映画 沖縄海洋博』にも開会式・閉会式に参列した皇太子および同妃の姿が収録され、現在でも図書館などで目にすることができる。後者は現在DVDが発売されている(ジェネオン・ユニバーサル・エンターテイメントより、定価5250円)。開会式で宣言を読み上げる姿はテレビ中継もされ(7月19日、NHK総合テレビ)、後年ドキュメンタリー番組にもそのまま使用された(「映像でつづる復帰30周年」)。
- この訪沖についてはいくつかの事件もあった。同年7月17日、美智子妃を伴いひめゆりの塔に献花のため訪れたところ、その場に潜んでいた過激派2人(沖縄解放同盟準備会メンバーの知念功と共産主義者同盟のメンバー)から火炎瓶1本を投げつけられる(ひめゆりの塔事件。火炎瓶を投じる直前の写真が読売新聞に掲載され、ニュースフィルムに火炎瓶を投げつけられ避難する皇太子と同妃、関係者の映像が残っている。火はすぐバケツからの放水で消火された。知念らは2本目も準備していたが、投擲する前に皇太子および同妃は射程距離外まで避難し、安全を確認した警察官が壕に飛び込み、知念らを引きずり出して逮捕した)。同日夜、皇太子は「沖縄戦における県民の傷跡を深く省み、平和への願いを未来へつなぐ」と県民の心情を思う異例の談話を発表している。
- なお、この訪問に付いては同事件の犯人の所属するもの以外にも、各種政治団体が「訪沖阻止」などを叫んで全国で集会、県学連、全学連などに1000人単位の[[デモ行進]などを行なわれた他に、沖縄入りした皇太子および同妃の自動車に空き瓶などを投げられるなどのテロ(犯人は公務執行妨害で逮捕)を受けたが、皇太子および同妃に外傷などは無く、つつがなく予定を終了した。1976年1月18日の閉会式にも揃って訪沖している。
- 1987年にも、沖縄海邦国体を前に病臥した昭和天皇の名代として沖縄を訪れ、同年10月24日、南部戦跡の平和祈念堂で「先の大戦で戦場となった沖縄が、島々の姿をも変える甚大な被害を被り、一般住民を含むあまたの尊い犠牲者を出したことに加え、戦後も長らく多大の苦労を余儀なくされてきたことを思う時、深い悲しみと痛みを覚えます」との天皇の言葉を代読した。
- 当時の西銘順治沖縄県知事は「お言葉に接し、感動胸に迫るものがあります。これで、ようやく沖縄の戦後は終わりを告げたと思う」と談話を発表した。
- その後も沖縄の関係は薄まることはなく、即位後にも沖縄訪問が行われることとなった。
- なお、この1987年の訪沖は、同年秋に昭和天皇が病臥するまでは天皇の訪沖が予定されていたこともあって、前年から政府は特別予算を組んで南部戦跡の戦死者遺骨収骨作業を行うなど環境の整備に努め、西銘知事が「陛下をお迎えして沖縄の戦後を終わらせたい」と宣言するなど、国、県を挙げての準備が行われていた。警備面でもひめゆりの塔事件を教訓として、本土から多数の警察官が応援のため増派、厳戒態勢が取られたが、無事に予定は終了した。
即位以降
- 昭和天皇の崩御を受け、歴代2位の年長となる55歳で即位。翌8日、元号は平成に改元された。即位後朝見の儀では「国民と共に日本国憲法を守り、国運の一層の進展と世界平和、人類の福祉の増進を切に希望して止みません」と述べた。
- 1990年の即位の礼に際して、京都御所から皇居へ高御座が運ばれるなど大掛かりな準備が行なわれ、同年11月12日に即位礼正殿の儀が行われた。大正天皇・昭和天皇とも即位の礼を京都御所で行っており、関東の地で即位した初めての天皇となる。同日、即位の礼祝賀御列の儀としてオープンカーでのパレードが行われ、皇居から赤坂御所までの4.7kmの道のりを、約12万人の市民が祝福した。
- 即位以来、日本国憲法の精神を守りつつ平成の天皇のあり方を模索している。イラクに派遣された自衛隊を皇后とともに接見した。PKOで派遣された自衛隊員、災害救助にあたった自衛隊員に対する接見はすでに行なっていたが、これは異例のことであり、戦後昭和の頃には考えられなかったと言われている。また、政財界や学識者からの内奏・進講を、父昭和天皇以上に受けている。「(憲法第4条すれすれの)ストライクゾーンに精一杯(ボール)を投げ込んでいる」(岩井克己・文藝春秋)とも評される。また昭和天皇が敗戦で喪ったものを慰霊の旅を通して、昭和の負の遺産に向き合うことによって抱え込んでおり、その精励ぶりは歴代天皇には見られないものである。
- 1999年に即位10周年を迎え、同年11月20日に御即位十年をお祝いする国民祭典が開催され、同日夜には二重橋で祝賀の声に応えた。この折に、宮内庁は即位10年記録集『道』を刊行している。
- 即位以来現在に至るまで、旺盛に日本国内外の訪問を行っている。1993年には、昭和天皇の悲願であった沖縄訪問を果たした。この折には予定になかったひめゆり学徒隊の慰霊碑にも訪れ、このことは2007年になってワイドショーで紹介された。2003年までに、47都道府県のすべてを訪問している。
- 2009年11月12日、政府主催の御在位二十年記念式典・民間主催の御即位二十年をお祝いする国民祭典が執り行われた。
- 2009年12月15日、特例で習近平中華人民共和国副主席と会見することとなり、会見を巡る騒動で、宮内庁長官が記者会見で政府民主党を批判する発言を行った(天皇特例会見)。
闘病
- 1995年、大腸のポリープを摘出。
- 2002年12月、人間ドックに入った際に前立腺癌が発見された。その後、天皇の意向を受け、宮内庁が病名を公式発表した。翌年1月18日に、前立腺の全摘出手術を行なったが、この前立腺癌手術に当たっては万全を期すため、皇族が受診する宮内庁病院ではなく、東京大学医学部附属病院に入院して行なわれた。
- 2008年2月25日、宮内庁は、「天皇陛下は定期健診において今のところ前立腺癌の再発や他臓器への転移は見られないものの、ホルモン療法の副作用で骨密度が低下しており、このままでは骨粗鬆症に移行する恐れがある」と発表し、公務及び宮中祭祀を軽減する等、生活全般についての検討を始めた。
- 同年12月9日の宮内庁記者会見に於いては、天皇が12月上旬に上室性不整脈に罹患し、また、消化器官検査で胃と十二指腸に炎症が発見されたことなどが発表された。原因は心身のストレスであり、宮内庁は「将来にわたる皇統の問題を始め、皇室にかかわるもろもろの問題を憂慮されている」と述べ、ストレスの中心に皇位継承問題があるとの考えを示した。
- 天皇自身が、公務等の見直しは在位20周年となる2009年以降からと希望していた為に、2009年1月29日に宮内庁より軽減策が発表された。
皇子女
皇后・正田美智子との間に二男一女が居る。
逸話
誕生
- 第五子にして初めて誕生した皇子であっただけに、その誕生は非常な喜びをもって受け止められた。その奉祝ムードは実に盛大なもので、東京市内では提灯行列が出た。軽快な曲調の「皇太子さまお生れなつた」(作詞:北原白秋/作曲:中山晋平)との奉祝歌までが作られたほどである。当時小学生であった老人などには前述の歌を未だに記憶しており、歌うことができる者もいるほどである[4]。北原白秋は他にも幼少時代の親王を称える歌「継宮さま」を作詞している。
- 誕生に際して「日嗣の御子は生れましぬ」との和歌も詠まれており、生まれながらの皇太子であった。
少年時代
- 幼少時代には左利きであったと伝わる。その後、矯正した結果現在は両手利きであるという。
- 学友たちとは親しく交遊し、臣下の悪童たちに混じって数々の悪戯もしたという。「雨夜の品定め」をした、トンボを油で揚げて食べた、蚊取り線香の容器型のスタンプを作ってノートに押したなどの逸話も伝わっている。
- 戦時中は奥日光・湯元の南間ホテルに疎開した。この時、昭和天皇から手紙を送られている。
- 疎開先で戦況についての説明を受けた際、特別攻撃隊に対して疑問を感じ、「それでは人的戦力を消耗する一方では成いか?」と質問して担当将校を返答に窮させたという。
- 敗戦時の玉音放送の際にはホテルの2階の廊下に他の学習院生と一緒にいたが、皇太子という立場を慮った侍従の機転によって(内容が内容だけに、何が起こるか分からない)御座所に引き返して東宮大夫以下の近臣とともに放送を聞いた。放送の内容には全く動揺を示さなかったが、放送が終わると静かに涙を流し、微動だにしなかったという。
- その後、東宮大夫から玉音放送についての説明を受けるとすぐに悲しみから立ち直り、敗戦からの復興と国家の再建を率いる皇太子、将来の天皇としての決意を固めた。当日の日記にも、強い決意が記された。
- 一方で戦後の混乱期と重なった思春期には思い悩むことも多く、「世襲はつらいね」などと漏らしたことを学友がのちに明かしている。またそうした辛いときに両親である天皇皇后と別々に暮らさざるを得なかった体験が、後に子供たちを手元で育てることを決意させたともいう。
- 学友の橋本明とは身分を忘れ本気で喧嘩をするほどの間柄であったと言われる。
- 学習院時代には馬術部に所属し、高校2年生の秋以降は主将として活躍した。1951年1月には、第1回関東高校トーナメントにて優勝している。
皇太子時代
- 1952年、18歳で立太子の礼を挙行。立太子礼に際しては記念切手が発行され、その図案には明仁親王の肖像が選ばれる予定であったが、宮内庁の反対によって実現しなかった。
- 1953年6月2日のエリザベス2世戴冠式のために同年3月30日から同年10月12日まで外遊。この前年に、日本は主権を回復しており、明仁親王の訪欧は国際社会への復帰の第一歩と期待された。
- 出発の際には、皇居から横浜港まで、小旗を持った100万人もの人が見送ったと言う。また、テレビ開局以来初の大規模イベントとなり、各放送局が実況中継した。特にNHKは600ミリ望遠レンズを使用して、甲板に立つ皇太子の姿をアップで撮影することに成功して視聴者を驚かせた。
- 客船プレジデント・ウイルソン号(アメリカンプレジデント社、速度19ノット、排水量1万5395トン)に乗船した。同船は三島由紀夫もこの2年前に乗船したことがあり、日本人とは縁の深い船であった。日本人向け遊具として碁盤と碁石も積まれていたほどである。船上では早稲田大学バレーボール部の面々と記念撮影をし、アメリカからイギリスへの旅路では報道陣や乗り合わせた中国人の女性2人と麻雀や将棋、囲碁、卓球なども楽しんだ。特に麻雀はサザンプトンに着くまで熱中したという。この外遊以降、麻雀は趣味のひとつとなり昭和天皇にも面白さを紹介、弟の常陸宮などとも対局したと言われる。
- 欧州到着後は西ドイツ・ニュルブルクリンクで1953年F1GP第7戦ドイツGP決勝を観戦。主催者の提案により表彰式のプレゼンターも務め、優勝したジュゼッペ・ファリーナ(フェラーリ所属。戦前からの名選手で、1950年には初代F1チャンピオンを獲得している)を祝福している。つまり、明仁親王は日本人で初めてF1GPの表彰台に上がった人物ということになる。平成初期のF1ブームを思うと、奇縁というべき出来事である。この時には、「競馬より面白い」との言葉を残している。
- 英国では、第二次世界大戦で敵対した記憶は未だ褪せておらず、戴冠式において13番目の席次(前列中央の座席で、隣席はネパール王子)を与えられたものの、女王との対面まで長時間待たされた。また、女王は握手はしたものの視線は交わさなかった[5]。
- また、長期にわたって外遊した結果、単位不足で進級できず留年を回避するため、学習院大学政治学科を中退し聴講生として大学に残った。このため、最終学歴は「学習院大学教育ご終了」(宮内庁のウェブサイトに拠る)としている。学習院高等科出身者以外の政治学科同級生に両国高校から現役進学した後の日本会議国会議員懇談会初代会長島村宜伸がいる。島村は1956年3月に政治学士となり、39年5ヵ月後の1995年8月村山改造内閣で初入閣し、平成の天皇から文部大臣の認証を受けている。
- 1959年4月10日の結婚の儀の記念切手では、4種のうち10円と30円で皇太子妃と一緒の肖像[6]が発行された。また切手は郵政省から天皇家と正田家に『皇太子御成婚記念切手帖』が献上されている[7]。
- 結婚・独立後も週に一度から数度は参内し、父昭和天皇と食事を共にすることも多かった。こうした場を通じて帝王学の教授を受けたと言われる。
- 諸事の決定については独立後も昭和天皇の決裁を仰ぎ、様々な事柄について報告していたと伝わる。
- 「できないことは口にしない、できることだけを口にする」という信念を持っており、家族が自分の役目をおろそかにしたときには「もうしなくてよろしい」と叱責したこともあった。
- 昭和天皇からは名代として篤く信頼され「東宮ちゃんがいるから大丈夫」と手放しの賞賛を受けている。
- 1960年にシカゴ市長により寄贈された、ミシシッピ川水系原産のブルーギルを皇太子が日本に持ち帰り、水産庁の研究所に寄贈した。これは当時の貧しい食糧事情を思っての事であったが、ブルーギルは水生昆虫や魚卵・仔稚魚を捕食して日本固有の生態系を破壊するものであったため、後に「今このような結果になったことに心を痛めています」と異例の発言をしている。
即位後
- 1992年に、アメリカ41代大統領ジョージ・H・W・ブッシュが来日した際には、皇太子徳仁親王とペアを組んで大統領とマイケル・アマコスト在日本アメリカ合衆国大使のペアとテニスのダブルスで2回対戦し、2回とも勝利している。特に2回目の敗北はブッシュにとってショックだったらしく、その夜に首相官邸で行われた晩餐会の席上にてインフルエンザ発症により倒れてしまった際、妻バーバラ・ブッシュがフォロースピーチでこの敗北ネタをジョークにするなどして話題を呼んだ。
- 全国各地で発生した自然災害に対して、ともに悲しみ、被災者をいたわる姿勢を見せている。
- 1991年、雲仙普賢岳噴火の際には、島原からの避難民を床に膝を着いて見舞った。この膝を着いて災害被災者と直に話をする天皇のスタイルはその後も続いており、皇后や皇族も被災地慰問の際にはこれに倣っている。
- 1995年1月17日の阪神・淡路大震災では、地震発生から2週間後の同年1月31日に現地に入り、スリッパも履かず避難所の床に正座して被災者の話に聞き入った。この姿は日本のみならず、日本国外の新聞にも大きく取り上げられ、反響を呼んだ。被災者に対して「今は苦しい時があるかも知れないがいつかきっと幸福が訪れます。それまで地震なんかに負けず頑張りなさい」と励ました。被災者は天皇の慰めに涙を流したと伝えられた。この際には動転した被災者の少女が皇后に抱きつくという出来事もあったが、咎めることなく暖かく抱きしめた。帰り際には、マイクロバスの窓から手を振って被災者を励ます写真も残されている。
- 2000年に噴火した三宅島へ、島民の帰島が叶った2006年には、火山ガスの発生の恐れがまだあるにもかかわらず、三宅島を慰問。島民を励ました。
- 2001年のアメリカ同時多発テロに際してハワード・ベーカー駐日アメリカ大使を通じてブッシュ大統領に見舞いの言葉を贈っている。天皇が天災以外の理由で外国にお見舞いの言葉を贈ったのは前例のないことであり、それについて「皇室は前例を重んじなければなりませんが、その前例の中には前例がないにもかかわらずなされたものもあります。皇室も伝統を重んじつつ、時代の流れに柔軟に対応しなければならないと思います」と説明している。
- 2004年の新潟県中越地震の際には、自衛隊のヘリコプターで被災地を見舞った。2007年の新潟県中越沖地震に際しては、現地に赴いて被災者を見舞い、また被災者を思う心情から夏の静養を取り止めた。2008年9月8日、新潟県行幸の折り、被害の大きかった山古志村を視察。その後被災者と懇談し、励ましの言葉をかけた。また、中越地震発生4日後に救出された男児(当時2歳)が無事に成長していることを知り、その成長を喜んだ。
- 2005年の台風14号で大きな被害を受けた宮崎県、鹿児島県に見舞い金として金一封を贈った。
- 2007年の能登半島地震に際しては、慰問は実現されていないが、「元気になってください」との言葉を寄せた。
- 2007年10月29日から31日まで、福岡県西方沖地震被災地を見舞うため福岡に行幸した。29日には被災者の暮らす仮設住宅を慰問、当日福岡市内は天皇の宿泊したホテルニューオータニのある中央区を中心として、朝から交通規制が敷かれ、夕方まで渋滞した。しかし警備はホテル敷地内にSPが立ち、柳橋方面に少数の制服警官が配置されるなど最低限のものであり、市内は平素と変わらなかった。29日夕方には提灯行列が出て天皇の訪問を奉祝した。翌30日には同地震により最大の被害を受けた玄界島も慰問した。
- 2002年2月20日、チェロの師・清水勝雄が死去。その夜、皇后のピアノ伴奏に合わせて演奏を行ない、故人を偲んだ[8]。会見においても、その人柄を回想していた。
- 2007年の佐賀県行幸の際、到着した天皇を出迎えた市民の一部が自然発生的に『君が代』を歌い始めた際にはその場に足を止め、皇后を促して歌が終わるまでその場に留まり、歌が終わると手を振ってこれに応えた。この訪問に際しては、提灯行列も出るなどの歓迎を受けた。
- 2008年11月8日、先代の昭和天皇同様、慶應義塾大学創立150周年記念式典に皇后と共に臨席し「おことば」を述べた。
- 2009年10月11日には、東京海洋大学品川キャンパスで日本魚類学会の年会に参加し、東京海洋大客員准教授を務めるさかなクンと歓談した。さかなクンは懇談中も脱帽せず、そのキャラクターを特徴付けるハコフグの帽子を被ったままであったが、これを非礼とすることはなかった。
人物に関するもの
- 自動車愛好家であり、プリンス自動車(現:日産自動車)のスカイラインとデイムラーのSOHCの2台を愛用した。ちなみにプリンス自動車は明仁親王の立太子を記念して社名をプリンスと改めたものである。
- 独身時代には愛車グロリアでドライブを楽しんでいた。軽井沢において学友の所有するアルファロメオを運転したこともある。このほかホンダ・アコード、レジェンドクーペ、インテグラ(4ドア・MT車)など、運転したことがあるとされる車種は非常に多い。
- 2010年現在、プライベートで運転するのは1991年製のグレーのホンダ・インテグラ。週末に御所から宮内庁職員用テニスコートへ行く際、助手席に皇后、後部座席に侍従を乗せて運転する姿が放映された[9]。
- 軽井沢までドライブした際には、護衛としてパトロールカーに乗車した警察官が随伴したが、随伴する警察官の乗車するパトカーは性能に劣るセダンであったため、性能差からついていくのに必死の思いであったという。
- 通算9台のプリンスを乗用に用いた。かつての御料車がプリンス製の日産・プリンスロイヤルだったのはその縁である。
自動車評論家として知られる徳大寺有恒は、皇太子時代の天皇が運転するプリンス・スカイライン・スポーツと対向車として遭遇し、大いに驚いた体験を自著に書き残している。
- 現在でもビートルをまれに運転することがあるという。2007年には高齢者講習を受講し、紅葉マークを取得したと伝わる。
- 公務においてもタコグラフの製造工場を見学するなど、自動車との縁が深い。
- 鉄道に関する関心も深く、学習院大学時代の論文はヨーロッパの鉄道史に関する内容であったと言われる。御料車も存在する。もっとも、特別扱いを嫌うため、御料列車で移動することは少なく、一般の車両のグリーン車などをお召し列車として使用することが多い。
- ビクトリアカナダ空軍基地において軍用機のコクピットに座ったこともあり、写真が残されている。またビクトリアからバンクーバーまではこの機で移動した。同機の機長だったデーブ・アダムソン中佐とは2009年のカナダ訪問の際再会し、「あなたのことはよく覚えています」と旧交を温めていた。
- 学生時代(学習院高等科3年の試験が終わった日)学友である橋本明(橋本龍太郎の従兄弟)に「銀座に行きたい」と相談し、学友が「いつがいいか?」と尋ねると「今日がいい」と答えた。「一人ではなくもう一人連れていこう」と提案し、承諾(もう一人は千家崇彦)。新任だった東宮侍従濱尾実など仕えている周りの人間を「今宵、殿下を目白の方にご案内したい」など騙して抜け出すことに成功し、3人で銀座をぶらついた。このとき銀座4丁目あたりで慶應ボーイ4人と出会い、慶應ボーイは「殿下こんばんは」と挨拶したという。高級喫茶店「花馬車」で橋本の彼女と合流し、皆でお金を出し合い、一杯99円のコーヒーを飲み、洋菓子屋「コロンパン」でアップルパイと紅茶を楽しんだり、満喫したようだが、当然ながらすぐに事件は発覚。大騒ぎになり、目的地を知り、居場所を突き止められると、銀座にいた彼の周りに警官が20~30メートルおきに配置されてしまい、これ以上散策が出来なくなり終了した。もちろん、連れ出した学友が警察と皇室関係者にこっぴどく叱られたのは言うまでもない。これが有名な『銀ブラ事件』である。
- 結婚のパレードは民間放送開始から5年目でまだ高嶺の花だったテレビの普及に大いに貢献した。「ご成婚パレードをテレビで見よう」の宣伝文句が今に伝わっている。
- 皇太子時代、タイ王室からタイ国民の蛋白質不足について相談を受け、養殖の容易なティラピアを50匹寄贈した。タイではこのティラピアを大いに繁殖させて、バングラデシュの食糧危機に際して50万匹を寄贈した。のちにこの魚には華僑によって「仁魚」という漢名が付けられた。
- 同じく皇太子時代、インドネシアからの打診を受けてコイの品種改良を行ない、ヒレナガニシキゴイを誕生させている。
- 靖国神社には皇太子時代に5回参拝しているが、即位後は参拝していない。ただし靖国神社の元宮司である南部利昭には、宮司就任前に「靖国のこと、頼みます」と声をかけている。
- 幼少時は豆腐料理を好物とした。成人してからは中華料理を好んだ。
- 多忙な毎日であっても俗事にも通じていることで知られる。あるミュージシャンとの会話でデーモン閣下の話題が出た折、「ああ、あの白い顔の」とその存在を知っていたことを口にしたエピソードが、デーモンがパーソナリティーを勤めるラジオ番組で紹介されたことがある。
- 上記のデーモン閣下の件でも判るように、芸能音楽やスポーツ界の事情にも通じており、芸能音楽やスポーツ界関係者を招いた皇居でのお茶会や赤坂御苑での園遊会が催された際には、出席した各関係者に詳しい質問をする。その為、天皇に質問された出席者は「陛下が自分のことについてこちらがドキッとするほどお詳しいので恐縮に堪えません」などと記者団に感想を述べることが多い。
- 時折、くだけた一面も覗かせる。登山時に天皇の姿が見えなくなった折、取材のため同行した新聞記者が天皇のことをうっかり「おとうちゃん」と呼んだところ、記者の背後に突然現れ「おとうちゃんはここにおりますよ」と冗談めかして言い、驚かせたことがある。
発言
- 「ご誠実で、ご立派で、心からご信頼申し上げ、ご尊敬申し上げられるお方」
- 「天皇の歴史というものを知ることによって、自分自身の中に皇族はどうあるべきかということが次第に形作られてくるのではないか」
- 1977年、帝王学について
- 「点数を付けることは出来ないが、まあ努力賞ということで」
- 「国民と共に日本国憲法を守り、国運の一層の進展と世界平和、人類の福祉の増進を切に希望して止みません」
- 「日本国憲法で、天皇は日本国の象徴であり日本国民統合の象徴であると規定されています。この規定と、国民の幸せを常に願っていた天皇の歴史に思いを致し、国と国民のために尽くすことが天皇の務めであると思っています。天皇の活動の在り方は、時代とともに急激に変わるものではありませんが、時代とともに変わっていく部分もあることは事実です」
- 「皆様が雨に濡れて寒いのではと案じています」
- 「私自身としては、桓武天皇の生母が百済の武寧王の子孫であると続日本紀に記されていることに大韓民国とのゆかりを感じています」
- 2001年12月18日、誕生日に際する記者会見にて
- この発言は内外の興味を強く引き、韓国においても大々的に報道された。桓武天皇#今上天皇の発言も参照のこと。
- 「私にとっては沖縄の歴史を紐解くということは島津氏の血を受けている者として心の痛むことでした。しかし、それであればこそ沖縄への理解を深め、沖縄の人々の気持ちが理解できるようにならなければならないと努めてきたつもりです。沖縄県の人々にそのような気持ちから少しでも力になればという思いを抱いてきました」
- 「やはり、強制になるということではないことが望ましい」 - 東京都教育委員の米長邦雄の「日本中の学校に国旗を掲げ、国歌を斉唱させるのが私の仕事です」という発言に対して。
- 「皇太子徳仁親王への人格否定発言を契機として事実に基づかない言論も行われ、心の沈む日も多くありました」 - 人格否定発言を受けて
- 2004年、誕生日に際する文書回答より
- 「日本は昭和の初めから昭和20年の終戦までほとんど平和な時がありませんでした。この過去の歴史をその後の時代とともに正しく理解しようと努めることは日本人自身にとって、また日本人が世界の人々と交わっていく上にも極めて大切なことと思います」
- 「皇室の中で女性が果たしてきた役割については、私は有形無形に大きなものがあったのではないかと思いますが、(中略)私の皇室に対する考え方は、天皇及び皇族は、国民と苦楽を共にすることに努め、国民の幸せを願いつつ務めを果たしていくことが(中略)、皇室の伝統ではないかと考えているということです」
- 「これからの日本の教育の在り方については関係者が十分に議論を尽くして、日本の人々が自分の国と自分の国の人々を大切にしながら世界の国の人々の幸せに心を寄せていくように育っていくことを願っています。戦前のような状況になるのではないかということですが、戦前と今日の状況では大きく異なっている面があります。(中略)1930年から1936年の6年間に要人に対する襲撃が相次ぎ、総理または総理経験者4人が亡くなり、さらに総理1人がかろうじて襲撃から助かるという、異常な事態が起こりました。そのような状況下では議員や国民が自由に発言することは非常に難しかったと思います。先の大戦に先立ち、このような時代のあったことを多くの日本人が心にとどめ、そのようなことが二度と起こらないよう日本の今後の道を進めていくことを信じています」 - 「教育基本法改正に伴い愛国心の表現を盛り込む事が、戦前の国家主義的な教育への転換になるのでは」という在日外国報道協会代表質問に対し
- 「残念なことは、愛子は幼稚園生活を始めたばかりで、風邪をひくことも多く、私どもと会う機会が少ないことです(中略)いずれ会う機会が増えて、打ち解けて話をするようになることを楽しみにしています」
- 「ブルーギルは50年近く前、私が米国より持ち帰り、水産庁の研究所に寄贈したもの。食用魚として期待が大きく養殖が開始されましたが、今このような結果になったことに心を痛めています」
- 「皇太子妃が病気の今、家族が皆で、支えていくのは当然のことです。私も、皇后も、将来重い立場に立つ皇太子、皇太子妃の健康を願いつつ、2人の力になっていきたいと願っています」
- 「大日本帝国憲法下の天皇の在り方と日本国憲法下の天皇の在り方を比べれば、日本国憲法下の天皇の在り方の方が天皇の長い歴史で見た場合、伝統的な天皇の在り方に沿うものと思います。」
- 「2人のそれぞれの在り方についての話合いも含め、何でも2人で話し合えたことは幸せなことだったと思います。皇后はまじめなのですが、面白く楽しい面を持っており、私どもの生活に、いつも笑いがあったことを思い出します。(中略)結婚によって開かれた窓から私は多くのものを吸収し、今日の自分を作っていったことを感じます。結婚50年を本当に感謝の気持ちで迎えます」
- 「今日の世界は決して平和な状態ではあるとはいえません。明るい面として考えられるのは、世界がより透明化し、多くの人々が事実関係が共有できるようになったことです。拉致の問題も、それが行われた当時は今と違って、日本人皆が拉致を事実として認識することはありませんでした。このため拉致が続けられ、多くの被害者が生じたことは返す返すも残念でした。それぞれの家族の苦しみはいかばかりであったかと思います」
- 「皇位継承の制度にかかわることについては、国会の論議にゆだねるべきであると思いますが、将来の皇室の在り方については、皇太子とそれを支える秋篠宮の考えが尊重されることが重要と思います。2人は長年私と共に過ごしており、私を支えてくれました。天皇の在り方についても十分考えを深めてきていることと期待しています」
系譜
今上天皇 | 父: 昭和天皇 |
祖父: 大正天皇 |
曾祖父: 明治天皇 |
曾祖母: 柳原愛子 | |||
祖母: 九條節子 |
曾祖父: 九條道孝 | ||
曾祖母: 野間幾子 | |||
母: 久邇宮良子女王 |
祖父: 久邇宮邦彦王 |
曾祖父: 久邇宮朝彦親王 | |
曾祖母: 泉萬喜子 | |||
祖母: 島津俔子 |
曾祖父: 島津忠義 | ||
曾祖母: 山崎寿満子 |
系図
著書
- 『ともしび 皇太子同妃両殿下御歌集』 宮内庁東宮職編、婦人画報社、1986年(昭和61年)12月
- 『道 平成元年~平成10年 天皇陛下御即位十年記念記録集』 宮内庁編、日本放送出版協会
- 1999年(平成11年)10月/新装版2009年(平成22年)9月、ISBN 4140813903
- 『道 平成11年~平成20年 天皇陛下御即位二十年記念記録集』 宮内庁編、日本放送出版協会、2009年(平成22年)9月、ISBN 414081389X
- 『天皇陛下科学を語る』 宮内庁侍従職監修、朝日新聞出版、2009年10月 ISBN 4023304522
- 『日本産魚類大図鑑 = The fishes of the Japanese archipelago』益田一ほか編、東海大学出版会、1984年(昭和59年)12月、ISBN 4-486-05053-3(図版)、ISBN 4-486-05053-3(解説)、ISBN 4-486-05054-1(Text)
- 論文『ハゼ科魚類の進化』を所収するほか、ハゼ亜目魚類の項目を第2版で共同執筆)
- 『日本の淡水魚』 川那部浩哉、水野信彦編・監修、山と溪谷社、1989年(平成元年)11月、ISBN 4-635-09021-3(チチブ類の項目を執筆)
- 『日本産魚類検索 全種の同定』 中坊徹次編、東海大学出版会、2000年(平成12年)12月、ISBN 4-486-01505-3(ハゼ亜目魚類の項目を共同執筆)
脚注
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- ↑ 天皇陛下、結核感染歴を公表[リンク切れ] 毎日新聞 2009年3月18日閲覧
- ↑ 宮内庁 天皇陛下のおことば 財団法人結核予防会創立70周年記念第60回結核予防全国大会 平成21年3月18日(水)(ホテルニューオータニ) 2009年5月21日閲覧
- ↑ ただし、正田家は新田氏に連なる古族であり、家格は高い。新田義重の重臣にして徳川郷郷主を引き継いだ生田隼人を遠祖とし、1591年には16代目にあたる生田義豊が徳川家康に拝謁して直接正田への改姓を命じられている。この折徳川郷に300石と正田家に徳川親氏までの当主が居住した新田氏の屋敷を賜り、歴代当主は将軍代替わりの際に拝謁を認められるなど数々の特権を認められた。代替わりの際に将軍拝謁を認められたのは他に天童織田家の家老生駒家が存在する。これは織田本家の外戚としての待遇であった。
- ↑ 女優の森光子は2009年の秋の園遊会で、「天皇さまの誕生のときをいまもはっきり覚えている」といい、天皇本人の前で「皇太子さまお生れなつた」のさわりを歌って見せた。
- ↑ 引用エラー: 無効な
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タグです。 「otazune
」という名前の引用句に対するテキストが指定されていません - ↑ 『郵趣』2009年4月号によれば、宮内庁から服装の変更申し出により、原案から皇太子は背広からモーニング、皇太子妃は洋装から和服に変更されている。
- ↑ 実物と同じものが逓信総合博物館で所蔵されている。
- ↑ 読売新聞・2002年2月21日ほか
- ↑ 2009年4月10日放送「NHKスペシャル」より。
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